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原典講読『啓示された黙示録』 839訳文[7]〜おわり

 [7] なおまた、私たちは彼らをみことばから教えた、主が、ご自分の人間性を栄化するために、天界の天使と教会の人間が父なる神にその方を通して、またその方の中で結合されるようにとの目的のために.世にやって来たこと。なぜなら、〔主は〕主を信じる者はその方の中に、またその方は彼らの中にいることを教えられたからである。教会が教えるように、そのことは、キリストの身体の中にいることである。

 最後に、私たちは彼らに知らせた、今日、「黙示録」の中の「新しいエルサレム」によって意味される新しい教会が主により設立されていること、その中では天界の中にあるように、主おひとりの礼拝があること。また、このように、主の祈り中に始めから終わりまで含まれているすべてのものが完成されるであろうこと。

私たちは前に私たちが言ったすべてのものを、福音書記者のものとみことばから、また預言者のもとのみことばから、聞くことにうんざりさせられるようにもそれほど豊富に確認した。

 [8] 「最初に、私たちは、「天界の中に私たちの父」が主イエス・キリストであることを、これらの箇所から確認した――

 

 「少年が私たちに生まれた、子が私たちに与えられた、また、その方の名前は、不思議な者、助言者、神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(イザヤ9:6)

 「エホバよ、あなたは私たちの父、あなたの名前は永遠からのあがない主」(イザヤ63:16)

 イエスは言われた、「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見る」(ヨハネ12:45)

 「もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、あなたがたは父も知っていた、また今からあなたがたはその方を知り、その方を見る」(ヨハネ14:7)

 ピリポは言った、主よ、私たちに父を示せ。彼にイエスは言われた、わたしを見た者は、父を見た。それゆえ、どのようにあなたは言うのか、私たちに父を示せと」(ヨハネ14:8, 9)

 イエスは言われた、「父とわたしは一つである」(ヨハネ10:30)

 「どんなものでも父が持つすべてのものは、わたしのものである」(ヨハネ16:1517:10)

 「父はわたしの中に、わたしは父の中にいる」(ヨハネ10:3814:10, 11, 20)

 父のふところにいる子おひとりでないなら、だれも父を見ていないこと(ヨハネ1:185:376:46)

 

 それゆえ、さらにまた言われた、

 

 だれも父へ、その方を通してでないならやって来ない(ヨハネ14;6)

 また、その方を通して、その方から、またその方の中で父へやって来ること(ヨハネ6:5614:2015:4-617:19, 23)

 (しかし、父なる神、子、聖霊の単一性について、多くのものが、メモラビリア962番の中に見られる)。

 [9] 「第二に、「あなたの名前が聖なものとされますように」は、主に近づくこと、その方を礼拝することであることを、私たちはこれらによって確認した――

 

 「だれがあなたの名前を栄化(賛美)しないか、〔あなた=その方〕おひとりが聖なる方であるからである」(黙示録15:4)

 

 これらは主についてである。

 

 イエスは言われた、「父よ、あなたの名前を賛美します。また、天から声が出た、わたしは栄化した、また栄化しよう」(ヨハネ12:28)

 

 父の「名前」は神的人間性であり、それが栄化された。

 イエスは言われた、「わたしはわたしの父の名前の中にやって来る」(ヨハネ5:43)

 イエスは言われた、この少年をわたしの名前の中で受け入れる者は、わたしを受け入れる。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れる」(ルカ9:48)

 「あなたがたが、イエスがキリスト、神の子であることを信じるために、そのようにまた、信じる者(あなたがた)その方の名前の中でいのちを持つように、これらが書かれた、」(ヨハネ20:31)

 「その方を受け入れたと同数の者に、その方の名前を信じている者に、彼らに神の子となるような力を与えた」(ヨハネ1:12)

 「あなたがたがわたしの名前の中で求めるどんなものでも、父が子の中で栄化されるために、わたしは行なう」(ヨハネ14:13, 14)

` 「信じなかった者はすでにさばかれている、神のひとり子の名前を信じなかったからである」(ヨハネ3:16, 16, 18)

 「ふたりまたは三人がわたしの名前の中で集められているところに、そこにその真ん中にわたしはいる」(マタイ18:19, 20)

 イエスは弟子たちに、その方〔ご自分〕の名前の中で宣べ伝えられるように言われた(ルカ24:47)

 (「主の名前」が言われているほかの他の箇所に、それによって、ご自分の人間性に関するその方が意味される、例えば、マタイ7:2210:2218:519:2924:9, 10、マルコ11:1013:1316:17、ルカ10:1719:3821:12, 17、ヨハネ2:23)

 

 それらから、父はこの中で、また天使と人間により子を通して神聖なものとされること、またこのことが「あなたの名前が聖別される(神聖なものとされる)ように〕」であることが明らかである(「ヨハネ福音書」に、さらに明らかなように、17:19, 21, 22, 23, 26)

 [10] 「第三に、「あなたの王国がやって来る〔ように〕」は主が支配されることであることを、私たちはこれらによって確信した――

 

 「律法と預言者はヨハネまでである。この時から、神の王国〔の福音〕が宣べ伝えられている」(ルカ16:16)

 ヨハネは、「王国の福音を宣べて、言った、時は満ちた、神の王国は近づいた」(マルコ1:14, 15、マタイ3:2)

 イエスご自身が福音を、神の王国が近づいたことを宣べ伝えられた(マタイ4:17, 239:35)

 イエスは弟子たちに、神の王国を宣べ伝え、福音をもたらすよう命じられた(マルコ16:15、ルカ8:19:60)

. 同様に、七十人を遣わされた(ルカ10:9, 10)(ほかに他の箇所に、例えば、マタイ11:516:27, 28、マルコ8:359:1, 4710:29, 3011:10、ルカ1:192:10, 114:437:2217:20, 2121:30, 3122:18)

 

「福音がもたらされる神の王国」は、主の王国、このように父の王国であった。そのようであることは、これらから明らかである――

 

 「父は、すべてのものを子の手の中に与えられた」(ヨハネ3:35)

 「父は子にすべての肉の力を与えられた」(ヨハネ17:2)

 「すべてのものが、わたしに父から渡された」(マタイ11:27)

 「わたしに天と地のすべての力が与えられている」(マタイ28:18)

 

 また、さらに、これらから――

 

 「その方の名前は万軍のエホバ、イスラエルの聖なるあがない主、全地の神と呼ばれる」(イザヤ54:5).

「私は見た、見よ、人の子のような〔方〕、その方に支配と栄光と王国が与えられ、すべての民と国がその方を礼拝する。その方の支配は永遠の支配、それは移らない、またその方の王国、それは滅びない」(ダニエル7:13, 14)

 「第七の天使がらっぱを吹き鳴らしたとき、天の中に大きな声が起こって、世の王国は私たちの主のもの、そのキリストのものになった、また永久に支配する、と言った」(黙示録11:1512:10)

 

 主のその王国について、「黙示録」の中で、始めから終わりまで扱われている。

in quod venturi sunt omnes qui e Nova Domini Ecclesia, quae est Nova Hierosolyma, erunt. その中にすべての者がやって来る(ことになる)、その者は〜なる、主の新しい教会からの、それは新しいエルサレム。

[11] 「第四に、「あなたの意志(みこころ)が、天界の中のように、地の中でもまた行なわれる〔ように〕」を私たちはこれらによって確認した――

 

 イエスは言われた、「子を見る、またその方を信じるすべての者が永遠のいのちを持つこと、これが父の意志(みこころ)ある」(ヨハネ6:40)

; 「神は、ご自分のひとり子を与えたようにこれほどに世を愛した、その方を信じたすべての者が、滅びないで、永遠のいのちを持つためにである」(ヨハネ3:15, 16)

 「子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。けれども、子を信じない者は、神の怒りが彼の上にとどまる」(ヨハネ3:36)

 (ほかに他の箇所に)

 

 「その方を信じること」は、その方に近づくこと、そして世の救い主であるので、その方が救うという信頼を持つことである。

 ほかに、主イエス・キリストが天界の中で支配していることは、教会の中でよく知られている。その方もまた、ご自分の王国がそこにあることを言われている。そこで、主が同様に教会の中で支配するとき、その時、父のみこころが、天界の中のように、地の中でもまた行なわれる」。

 [12] 「最後に、これらに私たちはこれらを加えて言った――

 「全キリスト教界の中で、教会に属す者が、キリストの身体をつくること、またその方の身体の中にいることが言われている。その時、教会の人間は、その方の身体の中にいるその方によってでないなら、どのように、父なる神に近づくことができるのか。もし、〔これと〕異なって〔近づくなら〕、まったく身体から出て、近づくことになろう」。

 [13] これらと多くのものを、みことばからさらに聞いて、ハルマゲドンの住民は、たびたび私たちの会話をさえぎり、主がご自分の父と、〔自分自身を〕空(から)にした状態の中で話した☆6ることを示すこと欲した。しかし、その時、みことばに反駁することが彼らに許されなかったので、舌が彼らの口蓋にくっついた。

 しかし、最後に猗爐蕕寮紊陵淦がゆるめられて瓠叫んだ、「あなたがたは私たちの教会の教え、父なる神は直接に近づき、その者を信じるべきである、に反して話した(☆・・・瓩硫媾蠅鯆礁から落してしまいました)。このようにあなたがたは、私たちの信仰の暴行の罪をつくっている。それゆえ、ここから出よ、またもし〔出〕ないなら、あなたがたを追い出そう」。また彼らのアニムス(心)は火をつけられて爐どし瓠から〔追い出す〕努力の中へやって来た(直訳で「小さいもの」としましたが、おどし(mimae)でした)

しかし、その時、私たちに与えられた力から、私たちは彼らを盲目で打った、そのことから、彼らは私たちを見ないで平野へと突発した、それは荒野であった。また、彼らが、あなたがたに、あたかも馬の上のサルのように見られた者であり、少年たちにより窓から像や偶像のように見られた、それらの前に残りの者たちがひざを曲げた者であった」。

 

1 ここの「ルークス」を後で再録した『真のキリスト教』113番では「ルーメン」に書き換えています。

2 「真理の」は後から出版された『真のキリスト教』113では「善の」に変えられています。

3 ここの言語は procere「指導者たち、貴族たち」ですが、後でアナク人に言及していることから proceros「背の高い人たち」のミスプリでしょう。

4 「申命記」9:2

5 「おそらくここにあなたがたの三つの気晴らし(遊び)からの」の部分は『真のキリスト教』113番で削除されています。「三つの気晴らし」が何か、(他の箇所で言及されていないので) 私にはわかりません。

☆6 主には「空にした状態(卑下の状態)」と「栄化の状態」がありました(『真のキリスト教』107番参照)

 

◎「黙示録」も残りあと三章です。三か月以内に終了するでしょう。次に何をしようかと思っていました。

『天界の秘義』も考えてみましたが、『霊界体験記』(霊界日記)にするとにしました。一つは残りの人生の時間を思ったこと。もう一つは(こっちのほうが重要か)、静思社版の柳瀬訳には訳出していない「・・・」の箇所が多すぎて、言葉悪く言えば「不良品」とも言えるものとなっていることです(誤訳のあります)

 ここで原典直訳を皆さまに提示することが、勉学の何らかの役に立つかと思います。

 ここ数日、その原文の用意をしていました。底本は新教会アカデミーの『EXPERIENTIAE SPIRITUALES』です(1983~1993、続いてその「索引」が出されています、限定200)。これ以前にJ.F.I.ターフェルが出版しており、これは二度目の原典出版となります(その間、研究は非常に進んでいます)

 題名は直訳なら『霊的な経験』ですが、これだと非常に広い意味なので、限定的な『霊界体験記』とした方が、内容をよく伝えているでしょう。本書をスヴェーデンボリ自身は『霊界日記』とは言っていません。

なぜこの題名となったかは、いずれ、紹介します。

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 00:58
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原典講読『啓示された黙示録』 839訳文[5],[6]

[5] 「集められた彼らは、私たちがそれらの家の中に入ったことを聞いたとき、自分たちの間で言った、「彼らは、それらの少年のもとで何を〔するのか〕? 私たちは私たちの集団から彼らを追い出す者を送ろう」。

さらにまた、彼らは送った、また〔その者が〕やって来たとき、私たちに言った、「なぜ、あなたがたはそれらの家にどこから入ったのか? 私たちは、統制から、なたがたが去るように命令する」。

 しかし、私たちは答えた、「あなたがたはそれを統制から命令することはできない。確かに、あなたがたはあなたがたの目の中でアナク人〔巨人族☆4〕のように、またここにいる者は、こびとのように見える、しかしそれでも、あなたがたは何もできない、おそらくここにあなたがたの三つの気晴らし(遊び)からの☆5欺瞞によってでないなら、これに権利を持たない、それはそれでも効力がない。それゆえ、あなたがたのもとに宗教があるかどうか、あるいはないか、視察するために、私たちが天界からここに送られたことを、あなたがたのもの〔仲間〕に報告せよ、また、もし、報告しないなら、この場所から、あなたがたを追い出す。

 それゆえ、彼らにこのことを提出させよ、その中に教会と宗教の本質的なものそのものがある――どのように主の祈りの中のこれらのことばを理解するか――「天の中にいる私たちの父よ、あなたの名前が聖なるものとされる〔ように〕、あなたの王国が来る〔ように〕、あなたのみこころが天界の中のように、地でもまた行なわれるように」。

 これらを聞いて、最初に彼らは、「これは何か」と言い、その後、「提出する〔=提出させよう〕」と言った。

 彼らは行った、それらを自分たち〔の仲間〕に言った、その者は答えた、「その述べたこと(主題)は何か、またどんなものか」。

 しかし、彼らは隠されたもの〔意図)を理解し、「それが父なる神への私たちの信仰への道を確信するものであるかどうか」知ることを欲した。

 それゆえ、彼らは言った、「明確なことばであり、父なる神へ祈るべきである。また、キリストは私たちの仲介者であるので、子のために父なる神へ祈るべきである」。

 またすぐに、彼らは憤りの中で、私たちに近づくこと、またそのことを面と向かって言うことを結論した――さらにまた、私たちの耳を引っ張ることを言った。

 さらにまた彼らはその場所から出て、それらの中に教師とともに少年がいた近くにある彼らの家の場所に入った。その真ん中に闘技場のような高くなった平地(舞台)があった。そして手で握り合って、その平地(舞台)の中に入った、そこに私たちがいて、私たちは待ち望んでいた。

 そこに塚のように土から〔盛り上がった〕芝生があった。それらの上に座った、なぜなら、自分たちの間で言ったから、「彼らの前で私たちは立つ、しかし、私たちは座る」。

その時、光の天使のように見られることができた彼らからのある者が、私たちに話すことを、他の者から押しつけられて、言った――

 「あなたがたは私たちに、主の祈りの中の最初のことばについて、どのようにそれらを私たちが理解しているか私たちの心を私たちが明らかにするように、と申し出た。そこで、私はあなたがたに言う、私たちがそれらをこのように理解していること――父なる神に祈らなければならない。またキリストは私たちの仲介者であり、その方の功績によって私たちは救われるので、その方の中の功績への信仰から父なる神に祈らなければならない」。

 [6] しかし、その時、私たちは彼らに言った、「私たちは天界のミカエルと呼ばれる社会から〔の者〕である。私たちは、その集まりの中のあなたがたに何らかの宗教があるか、あるいはないか。視察するために、また調べるために送られた。また、このことを私たちは、神についての質問によって以外に異なって知ることができない。というのは、神の観念が宗教のすべてのものの中に入っていて、それによって結合が生じ、また結合によって救いがあるからである。

 私たちは天界の中で、地上の人間のように、毎日、その祈りを唱えている。またその時、父なる神について、見えないので、考え(思わ)ない。しかし、ご自分の神的人間性の中のその方について、この中に見ることができるので考える(思う)。またその方はこのこと〔神的人間性〕の中であなたがたによりキリストと呼ばれる、しかし、私たちにより主と呼ばれる。このように私たちの主は天界の中の父である。

 主もまた教えられた、その方と父は一つであること。父はその方の中に、またその方は父の中にいること。また、その方を見る者は父を見ること。なおまた、その方によってでないなら。だれも父へやって来ないこと。そしてまた、その方を信じることが父のみこころであること。また、子を信じない者は、いのちを見ないこと、それどころか、神の怒りが彼の上にとどまること。それらから、その方によって、またその方の中で、神が近づけられることが明らかである。またそのようであるので、さらにまた、その方に天と地でのすべての力が与えられたことを〔主は〕教えられた。

 その祈りの中で、「あなたの名前が聖なるものとされ、あなたの王国が来ますように」と言われている――私たちは、その方の神的人間性が父の名前であること、また主が直接に近づかれるとき、その時、父の王国が存在し、父なる神に間接的に〔近づく〕とき、まったく〔存在し〕ないことを。みことばから示した。それゆえ、主もまた弟子たちに、神の王国を宣べ伝えるように命じられた、またこれが神の王国である。

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 01:27
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原典講読『啓示された黙示録』 839訳文[4]まで

(3) 訳文

 839〔これらに私はこのメモラビリアをつけ加える――〕

 

 私は霊たちの世界☆の中を眺めた、赤色と黒色の馬の上に軍隊を見た。

 それらの上に座っている者は、顔と胸に関して馬の腰としっぽに、また後頭部と背後に関してそれらの首と頭に向きを変えているサルのように見え、端綱(はづな)は騎乗の首のまわりにぶら下がっていた。 

 また、彼らは、「私たちは白い馬の上の騎乗者に対して戦おう」と叫び、両方の手で自分の端綱(はづな)を動かした。このように馬を戦いから引き戻した。またこのことが絶えず続いた。

 その時、天界からふたりの天使たちが降り、私に近づき、「あなたは何を見ている〔のか?〕」と言った。

 私は、このようにばかばかしい騎乗を見たことを語り、「これは何か? 彼らはだれか?」と質問した。

 [2] 天使たちは答えた、「ハルマゲドンと呼ばれる(黙示録16:16)場所からである、新しいエルサレムと呼ばれる主の新しい教会から者に対して戦うために、その中に数千人も集められた。

 彼らはその場所の中で教会と宗教について話した。それでも、彼らのもとには、何らかの霊的な真理がないので教会の何らかのものがなく、何らかの霊的な善がないので宗教の何らかのものもなかった。

 彼らはそこに口と唇でこれとそれについて話した、しかし、その理由は、それらによって支配するためである。

 彼らは青春時代の中で信仰のみを、神の三一性を、またキリストの二元性を確信することを学んだ。かし、教会の中の高位の任務へ進められたとき、しばらくの間、それらを心に保存した。しかし、その時、神についてと天界についてさらに考えることがなく、自分自身と世について、このように永遠の幸福(祝福)と幸福について考えない、しかし、一時の高位(卓越)と富について考えることが始まったので、青春時代の中で引き寄せた教えの事柄を天界と交通する、またここから天界の光(ルークス)の中にある理性的な心の内的なものから、世と交通する、またここから世の光(ルークス)1の中にある理性的な心の外的なものの中へ退けた。また最後に、それらを自然的な感覚的なものの中へ押し下げた。そこから、彼らのもとの教会の教えの事柄は、もはや理性からの思考のものでなく、さらにまして愛からの情愛のものでない、口だけのものになった。

 また自分自身をこのようなものにしたので、教会のものである本物の真理を、宗教のものである本物の善を何も許容しない。

 彼らの心の内的なものは、硫黄のちりと鉄のくずの混合で満ちたびんのようにたとえられる、その中に、水が入れられるなら、最初に熱くなり、その後、炎が生じ、そのことからびんは粉々にされる。同様に、彼らは、みことばの純粋な真理である生ける水について何らかのものを聞き、これが耳を通して入るとき、激しく怒り、燃え上がり、またそれを彼らの頭を粉砕するもののように退けた。

 [3] 彼らは、あなたに、赤色と黒色の馬の上で身体を反対にし、首のまわりに端綱(はづな)をつけて騎乗しているサルのように見えた。彼らは、みことばからの教会の真理と善を愛さなかったので、馬の前の何ならかのものを見ること欲しない、しかし、その後ろのものを〔見ようと欲する〕。というのは、「馬」はみことばの理解力を、「赤い馬」は善に関して失われたみことばの理解力を、「黒い馬」は真理に関して失われたみことばの理解力を意味するからである。

 彼らが白い馬の上に乗っている者に対する戦いを叫んだことは、「白い馬」は善と真理に関するみことばの理解力を意味するからである。

 私が、〔彼らが〕その馬を首で引き戻すことを見た〔のは〕、みことばの真理が多くの者に、またこのように光(ルークス)の中にやって来ないように、その戦いを恐れたからであった。これらが解釈である」。

 [4] さらに天使たちは言った、「私たちは天界のミカエルと呼ばれる社会から〔の者〕である。主から、ハルマゲドンと言われる場所の中に降ることを命じられた、そこからあなたに見られた騎士の一団が突発した。

 天界の中の私たちのもとの「ハルマゲドン」によって、支配する、また卓越する愛から起こる虚偽化された真理から戦おうとする状態や心が意味される。

 私たちはあなたのもとに、その戦いについて知ろうとする願いを知覚するので、何らかのものを物語ろう」。

 私たちが天界から降った後、ハルマゲドンと言われるその場所へ近づき、そこに数千もの集まった者を見た。

 けれども、私たちはその集団の中に入らなかった、しかし、その場所の南の側に、そこに教師とともに少年たちがいた家々があった。そこへ私たちは入った。その者たちは私たちを親切に受け入れた。

 私たちは彼らの交わりから楽しんだ。

 すべての者は顔に関して目の中にいのちから美しく見えるものが、また会話の中に熱意からのものがあった。真理の知覚から目の中にいのちが、また会話の中に真理の☆2情愛からの熱意が彼らにあった。それゆえ、さらにまた天界から彼らに帽子が与えられた、その縁は真珠で編み込まれた金糸からのひもで飾られていた、そしてまた白色と青色から色とりどりの衣服が与えられた。

 私たちは彼らにハルマゲドンと呼ばれる近くの場所を見た質問した。

彼らは、家の屋根の下にある窓を通してであること、集団をそこに見たことを言った。また、しかし、いろいろな外観の下に、時には指導者たち☆3の人間のように、時には人間でないように、しかし、彫像や刻まれた偶像のように、またそれらのまわりに集団がひざまずいていた。これらの者もまた、いろいろな形の下に、私たちに見られた、時には人間のように、時にはヒョウのように、また雄ヤギのように。これらの者は下方へ伸ばした角で土を掘り出していた。

私たちはそれらの変形(変態)で、だれが表象されるか、何を意味するか説明した。

 しかし、(問題の)事柄へ〔戻ろう〕――

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 00:11
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原典講読『啓示された黙示録』 839直訳[10]〜終わりまで

[10]"Tertium, Quod `VENIAT REGNUM TUUM,' sit quod regnet Dominus, confirmavimus per haec: [10] 「第三に、「あなたの王国がやって来る〔ように〕」は主が支配することであること、私たちはこれらによって確信した――

`Lex et Prophetae usque ad Johannem; 「律法と預言者はヨハネまでである。

abhinc Regnum Dei evangelizatur' (Luc. xvi. 16); この時から、神の王国〔の福音〕が宣べ伝えられている」(ルカ16:16)

Johannes{5} `praedicans Evangelium Regni, dixit, Completum est tempus, appropinquavit Regnum Dei' (Marc. i. 14, 15; Matth. iii. 2); ヨハネは、「王国の福音を宣べて、言った、時は満ちた(完成した)、神の王国は近づいた」(マルコ1:14, 15、マタイ3:2)

Ipse Jesus praedicavit Evangelium et quod appropinquaverit Regnum Dei (Matth. iv. 17, 23; cap. ix. 35); イエスご自身が福音を宣べ伝えた、また神の王国が近づいたことを(マタイ4:17, 23、第935)

Jesus mandavit Discipulis, ut praedicarent et evangelizarent Regnum Dei (Marc. xvi. 15; Luc. viii. 1; cap. ix. 60); イエスは弟子たちに命令した、神の王国を宣べ伝える、また福音をもたらすように(マルコ16:15、ルカ8:1、第960)

Similiter ad Septuaginta quos emisit (Luc. x. 9, 11). 同様に、70人に、その者を遣わした(ルカ10:9, 10)

(Praeter alibi, ut Matth. xi. 5; cap. xvi. 27, 28; Marc. viii. 35; cap. ix. 1,47{6}; cap. x. 29, 30: cap. xi. 10; Luc. i. 19; cap. ii. 10, 11; cap. iv. 43; cap. vii. 22; cap. xvii. 20, 21; cap. xxi. 30, 31; cap. xxii. 18.) (ほかに他の箇所に、例えば、マタイ11:5、第1627, 28、マルコ8:35、第91, 47、第1029, 30、第1110、ルカ1:19、第210, 11、第443、第722、第1720, 21、第2130, 31、第2218)

`Regnum Dei' quod `evangelizabatur' erat Regnum Domini, et sic Regnum Patris; 「神の王国」は、それは「福音がもたらされる」、主の王国であった、またこのように父の王国。

quod ita sit, patet ex his: そのようであることは、これらから明らかである――

`Pater dedit omnia in manum Filii' (Joh. iii. 35); 「父は、すべてのものを子の手の中に与えた」(ヨハネ3:35)

`Pater dedit Filio potestatem omnis carnis' (Joh. xvii. 2); 「父は子にすべての肉の力を与えた」(ヨハネ17:2)

`Omnia Mihi tradita sunt a Patre' (Matth. xi. 27); 「すべてのものが、わたしに父から渡された」(マタイ11:27)

`Data est Mihi omnis potestas in Caelo et in Terra' (Matth. xxviii. 18{7}). 「わたしに天の中と地の中のすべての力が与えられている」(マタイ28:18)

Et porro ex his: また、さらに、これらから――

`Jehovah Zebaoth Nomen Ipsius, et Redemptor Sanctus Israelis, Deus totius Terrae vocabitur' (Esaj. liv. 5); 「その方の名前は万軍のエホバ、またイスラエルの聖なるあがない主、全地の神と呼ばれる」(イザヤ54:5).

`Vidi, et ecce sicut Filius Hominis, Cui datum est Dominium et Gloria et Regnum, et omnes populi et gentes Ipsum colent; 「私は見た、すると見よ、人の子のような〔方〕、その方に支配と栄光と王国が与えられた、またすべての民と国がその方を礼拝する。

Dominium Ipsius dominium saeculi quod non transibit, et Regnum Ipsius quod non peribit' (Dan. vii. 13, 14); その方の支配は永遠の支配、それは移らない、またその方の王国、それは滅びない」(ダニエル7:13, 14)

`Cum Septimus Angelus clanxit, factae sunt voces magnae in Caelo, dicentes, Facta sunt Regna mundi Domini nostri et Christi Ipsius, et regnabit in saecula saeculorum' (Apoc. xi. 15; cap. xii. 10); 「第七の天使がらっぱを吹き鳴らしたとき、天の中に大きな声が起こった、言って、世の王国は私たちの主のものになった、またそのキリストのもの、また永久に支配する」(黙示録11:15、第1210)

de quo Regno Domini agitur in Apocalypsi a principio ad finem; 主のその王国が「黙示録」の中で扱われている、始めから終わりまで。

in quod venturi sunt omnes qui e Nova Domini Ecclesia, quae est Nova Hierosolyma, erunt. その中にすべての者がやって来る(ことになる)、その者は〜なる、主の新しい教会からの、それは新しいエルサレム。

[11] "Quartum, `FIAT VOLUNTAS TUA SICUT IN CAELO ETIAM IN TERRA,' confirmavimus per haec: [11] 「第四に、「あなたの意志(みこころ)が行なわれる〔ように〕、天界の中のように、地の中でもまた」を私たちはこれらによって確認した――

Jesus dixit, `Haec est Voluntas Patris, ut omnis qui videt Filium, et credit in Ipsum, habeat vitam aeternam' (Joh. vi. 40); イエスは言った、「これが父の意志(みこころ)ある、すべての者が、その者は子を見る、またその方を信じる、永遠のいのちを持つように」(ヨハネ6:40)

`Adeo amavit Deus mundum, ut Filium Suum Unigenitum dederit, ut omnis qui credit in Ipsum non pereat, sed habeat vitam aeternam' (Joh. iii. 15, 16); 「これほどに神は世を愛した、ご自分のひとり子を与えたように、すべての者は、その者はその方を信じた、滅びないように、しかし、永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:15, 16)

`Qui credit in Filium, habet vitam aeternam; 「子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。

qui vero non credit Filio non videbit vitam, sed ira Dei manet super illo' (Joh. iii. 36). けれども、子を信じない者は、しかし、神の怒りが彼の上にとどまる」(ヨハネ3:36)

(Praeter alibi.) (ほかに他の箇所に)

`Credere in Ipsum' est adire Ipsum, ac fiduciam habere quod Ipse salvet, quia est Salvator mundi. その方を信じること」はその方に近づくことである、そして信頼を持つこと、その方が救うこと、世の救い主であるので。

Praeterea notum est in Ecclesia quod Dominus Jesus Christus regnet in Caelo; ほかに、教会の中でよく知られている、主イエス・キリストが天界の中で支配していること。

dicit etiam Ipse quod Regnum Ipsius ibi sit; その方もまた言っているその方の王国がそこにあること。

cum itaque Dominus similiter regnat in Ecclesia, tunc fit `Voluntas Patris sicut in Caelo etiam in Terra.' そこで、主が同様に教会の中で支配するとき、その時、父の(みこころ)が行なわれる〔ように〕、天界の中のように、地の中でもまた」。

[12] "His demum addidimus haec: [12] 「最後に、これらに私たちはこれらを加えて言った――

`Dicitur in toto Christiano orbe quod illi qui ab Ecclesia sunt faciant Christi Corpus, et sint in Ipsius Corpore; 「全キリスト教界の中で言われている、彼らが、その者は教会からである、キリストの身体をつくること、またその方の身体の中にいること。

quomodo tunc potest homo Ecclesiae adire Deum Patrem, nisi per Ipsum in Cujus Corpore est; その時、どのように、教会の人間は父なる神に近づくことができるのか、その方によってでないなら、その方の身体の中にいる。

si aliter, omnino exibit e Corpore et adibit.' もし、異なって〔近づくなら〕、まったく身体から出る(未来)、また近づく(未来)」。

[13] "His et pluribus adhuc ex Verbo auditis, voluerunt Armageddoni passim interpolare sermonem nostrum, et adducere talia quae Dominus locutus est cum Patre Suo in statu exinanitionis; [13] これらと多くのもので、みことばからさらに聞いて、ハルマゲドンの住民はたびたび私たちの会話(説教)をさえぎる(中断させる)ことを欲した、またこのようなものを提示することを、それらは主がご自分の父と、〔自分自身を〕空(から)にした状態の中で話した☆。

主には「空にした状態(卑下の状態)」と「栄化の状態」がありました(『真のキリスト教』107番参照)

sed tunc linguae adhaeserunt palatis eorum, quoniam non licuit illis contradicere Verbo. しかし、その時、舌が彼らの口蓋にくっついた、彼らに許されなかったので、みことばに反駁すること。

Sed tandem laxatis frenis linguarum illorum, exclamaverunt, `Locuti estis contra doctrinam Ecclesiae nostrae, quae est quod Deus Pater immediate adeundus sit, et credendum sit in Illum; しかし、最後に   叫んだ、「あなたがたは私たちの教会の教えに反して話した、それは〜である、父なる神は直接に近づくべきであること、またその者を信じるべき〔である〕。

sic reos vos fecistis violationis fidei nostrae; このように罪を(reus)あなたがたはつくっている、私たちの信仰の暴行の。

quare exite ab hinc, et si non, ejiciemini.' それゆえ、ここから出よ、またもし〔出〕ないなら、あなたがたは追い出される(未来)」。

"Et animi illorum accensi a minis in conatum venerunt; また彼らのアニムス(心)は火をつけられて小さいものから努力の中へやって来た。

sed tunc ex potentia nobis data percussimus illos caecitate, ex qua non videntes nos eruperunt in planitiem, quae erat desertum; その時、私たちに与えられた力から、私たちは彼らを盲目で打った、そのことから私たちを見ないで彼らは平野へ突発した、それは荒野であった。

et ex illis, qui a pueris e fenestra visi sunt sicut statuae et idola, coram quibus reliqui inflexerunt genua, sunt qui tibi apparuerunt tanquam simiae super equis." また、彼らから、その者は少年たちにより窓から像や偶像のように見られた、それらの前に残りの者たちがひざを曲げた、その者はあなたがたに見られた〔者〕であった、あたかも馬の上のサルのように」。

@1 Sic, nisi legeris boni. (Cf. V.C.R. n. 113.)  1 このように〔原文にある〕、もし boni とあなたに読まれないなら(『真のキリスト教』113番参照)

@2 continetur pro "continentur" 注2continentur」の代わりに continetur

@3 46 pro "47" 注347」の代わりに 46

@4 Quodcunque pro "Quaecunque" 注4Quaecunque」の代わりに Quodcunque

@5 Marc. i. 14, 15 habet "Jesus;" Matth. iii. 2 habet "Johannes."  5「マルコ」1:14, 15に「イエス」とある。「マタイ」3:2には「ヨハネ」とある。

@6 47 pro "27" 注627」の代わりに 47

@7 18 pro "16" 注716」の代わりに 18

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 23:45
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原典講読『啓示された黙示録』 839直訳[7]~[9]

[7] "Insuper instruximus illos ex Verbo, quod Dominus in mundum venerit, ut glorificaret Humanum Suum, propter finem ut angeli Caeli et homines Ecclesiae unirentur Deo Patri per Ipsum et in Ipso; [7] なおまた、私たちは彼らをみことばから教えた、主が世にやって来たこと、ご自分の人間性を栄化するために、天界の天使と教会の人間が父なる神にその方を通して、またその方の中で結合されるようにとの目的のために。

nam docuit quod qui credunt in Ipsum, sint in Ipso et Ipse in illis; なぜなら、〔主は〕教えたからである、その方を信じる者はその方の中にいること、またその方は彼らの中に。

quod est sicut docet Ecclesia, quod sint in Corpore Christi. そのことである、教会が教えるように、キリストの身体の中にいること。

"Ultimo informavimus illos, quod hodie Nova Ecclesia a Domino instauretur, quae intelligitur per `Novam Hierosolymam' in Apocalypsi in qua cultus Solius Domini erit, sicut est in Caelo; 「最後に、私たちは彼らに知らせた、今日、新しい教会が主により設立されていること、それは「黙示録」の中の「新しいエルサレム」によって意味される、その中に主おひとりの礼拝がある(ことになる)、天界の中にあるように。

et quod sic omne complebitur quod in Oratione Dominica a principio ad finem continetur{2} また、このようにすべてのものが完成されるであろうこと、それは主の祈り中に始めから終わりまで含まれている。

"Confirmavimus omnia, quae supra diximus, ex Verbo apud Evangelistas, et ex Verbo apud Prophetas, in tanta copia ut defatigarentur audire. 「私たちはすべてのものを確認した、それらは上に私たちが言った、福音書記者のものとみことばから、また預言者のとのみことばから、それほど豊富なもの、聞くことにうんざりさせられるように。

[8] "Primum, Confirmavimus quod `PATER NOSTER IN CAELIS' sit Dominus Jesus Christus, ex his locis: [8] 「最初に、私たちは確認した、「天界の中に私たちの父」が主イエス・キリストであること、これらの箇所から――

 

`Puer natus est nobis, Filius datus est nobis, et vocabitur Nomen Ipsius, Mirabilis, Consiliarius, Deus, Pater Aeternitatis, Princeps Pacis' (Esaj. ix. 5); 「少年が私たちに生まれた、子が私たちに与えられた、また、その方の名前は、不思議な者、助言者、神、永遠の父、平和の君と呼ばれる(イザヤ9:6)

5 はミスプリ。

`Tu Jehovah Pater noster, Redemptor a saeculo Nomen Tuum' (Esaj. lxiii. 16); 「エホバよ、あなたは私たちの父、あなたの名前は永遠からのあがない主」(イザヤ63:16)

Jesus dixit, `Qui Me videt, videt Ipsum Qui misit Me' (Joh. xii. 45); イエスは言った、「わたしを見る者は、わたしを遣わした方、その方を見る」(ヨハネ12:45)

`Si cognovistis Me, etiam Patrem cognovistis, et abhinc cognovistis Illum, et vidistis Illum' (Joh. xiv.7); 「もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、あなたがたは父も知っていた、また今からあなたがたはその方を知る、またその方を見る」(ヨハネ14:7)

`Philippus dixit, Domine, monstra nobis Patrem; ピリポは言った、主よ、私たちに父を示せ。

dixit illi Jesus, Qui vidit Me, vidit Patrem; 彼にイエスは言った、わたしを見た者は、父を見た

quomodo ergo tu dicis, Monstra nobis Patrem' (Joh. xiv. 8, 9); それゆえ、どのようにあなたは言うのか、私たちに父を示せと」(ヨハネ14:8, 9)

Jesus dixit, `Pater et Ego unum sumus' (Joh. x. 30); イエスは言った、父とわたしは一つである」(ヨハネ10:30)

`Omnia quaecumque Pater habet Mea sunt' (Joh. xvi. 15; cap. xvii. 10); 「どんなものでも父が持つすべてのものは、わたしのものである」(ヨハネ16:15、第1710)

`Pater in Me est, et Ego in Patre' (Joh. x. 38; cap. xiv. 10, 11, 20): 「父はわたしの中に、まわたしは父の中にいる」(ヨハネ10:38、第1410, 11, 20)

Quod nemo viderit Patrem, nisi Solus Filius Qui in sinu Patris est (Joh. i. 18; cap. v. 37; cap. vi. 46{3}). だれも父を見ていないこと、子おひとりでないなら、その者は父のふところにいる(ヨハネ1:18、第537、第646)

 

Quare etiam dicit, それゆえ、さらにまた言った、

 

Quod nemo veniat ad Patrem nisi per Ipsum (Joh. xiv. 6); だれも父へやって来ない、その方を通してでないなら(ヨハネ14;6)

Et quod venire ad Patrem sit per Ipsum, ex Ipso, et in Ipso (Joh. vi. 56; cap. xiv. 20; cap. xv. 4-6; cap. xvii. 19, 23)." また、その方を通して父へやって来ること、その方から、またその方の中で(ヨハネ6:56、第1420、第154-6、第1719, 23)

 

(Sed de Unitate Dei Patris, Filii, et Spiritus Sancti, videantur plura, in Memorabili, n. 962.) " (しかし、

父なる神、子、聖霊の単一性について、多くの者が見られる、メモラビリア962番の中に)。

[9] "Secundum, Quod `SANCTIFICETUR NOMEN TUUM,' sit adire Dominum et colere Ipsum, confirmavimus per haec: [9] 「第二に、「あなたの名前が聖別される(神聖なものとされる)〔ように〕」は、主に近づくこと、またその方を礼拝することであることを、私たちはこれらによって確認した――

 

`Quis non glorificet Nomen Tuum, quia Solus es Sanctus' (Apoc. xv. 4); 「だれがあなたの名前を栄化(賛美)しないか、〔あなた=その方〕おひとりが聖なる方であるからである」(黙示録15:4)

 

haec de Domino. これらは主について。

 

Jesus dixit, `Pater, glorifica Nomen Tuum; イエスは言った、「父よ、あなたの名前を賛美せよ。

et exiit vox e Caelo, Et glorificavi et glorificabo' (Joh. xii. 28); また、天から声が出た、また私は栄化した、また栄化しよう」(ヨハネ12:28)

 

"Nomen" Patris, quod glorificatum est, est Divinum Humanum. 父の「名前」は、それは栄化された、神的人間性である。

 

Jesus dixit, `Ego venio in Nomine Patris Mei' (Joh. v. 43); イエスは言った、「わたしはわたしの父の名前の中にやって来る」(ヨハネ5:43)

Jesus dixit, Qui suscipit hunc puerum in Nomine Meo, Me suscipit; イエスは言った、この少年をわたしの名前の中っで受け入れる者は、わたしを受け入れる。

et qui Me suscipit, suscipit Ipsum Qui misit Me' (Luc. ix. 48); また、わたしを受け入れる者は、その方を受け入れる、その者はわたしを遣わした」(ルカ9:48)

`Haec scripta sunt ut credatis quod Jesus sit Christus, Filius Dei, et ut credentes vitam habeatis in Nomine Ipsius' (Joh. xx. 31); 「これらが書かれた、あなたがたが信じるために、イエスがキリストであること、神の子、そのようにまた、信じる者が(あなたがたが)その方の名前の中でいのちを持つように」(ヨハネ20:31)

`Quotquot Ipsum receperunt, dedit illis potestatem ut Filii Dei essent, credentibus in Nomen Ipsius' (Joh. i. 12); 「その方を受け入れたと同数の者に、彼らに神の子となるような力を与えた、その方の名前を信じている者に」(ヨハネ1:12)

`Quodcunque{4} petieritis in Nomine Meo, hoc faciam, ut glorificetur Pater in Filio' (Joh. xiv. 13, 14); 「あなたがたがわたしの名前の中で求めるどんなものでも、わたしは行なう、父が子の中で栄化されるために」(ヨハネ14:13, 14)

`Qui non credit jam judicatus est, quia non credidit in Nomen Unigeniti Filii Dei' (Joh. iii. 15, 16, 18); 「信じなかった者はすでにさばかれている、神のひとり子の名前を信じなかったからである」(ヨハネ3:16, 16, 18)

`Ubi sunt duo aut tres congregati in Nomine Meo, ibi sum in medio eorum' (Matth. xviii. 19, 20); 「ふたりまたは三人がわたしの名前の中で集められているところに、そこにその真ん中の中にわたしはいる」(マタイ18:19, 20)

Jesus dixit Discipulis ut praedicarent in Nomine Ipsius (Luc. xxiv. 47). イエスは弟子たちに言った、その方の名前の中で宣べ伝えられるように(ルカ24:47)

(Praeter alibi, ubi dicitur `Nomen Domini,' per quod intelligitur Ipse quoad Humanum Suum, ut Matth. vii. 22; cap. x. 22; cap. xviii. 5; cap. xix. 29; cap. xxiv. 9, 10; Marc. xi. 10; cap. xiii. 13; cap. xvi. 17; Luc. x. 17; cap. xix. 38; cap. xxi, 12, 17; Joh. ii. 23.) (ほかに他の箇所に、そこに「主の名前」が言われている、それによって、ご自分の人間性に関するその方が意味される、例えば、マタイ7:22、第1022、第185、第1929、第249, 10、マルコ11:10、第1313、第1617、ルカ10:17、第1938、第2112, 17、ヨハネ2:23)

 

Ex quibus patet quod Pater sanctificetur in Filio, et ab angelis et hominibus per Filium, et quod hoc sit `Sanctificetur Nomen Tuum' それらから明らかである、父はこの中で神聖なものとされること、また天使と人間により子を通して、またこのことが「あなたの名前が聖別される(神聖なものとされる)ように〕」であること。

 

(Ut amplius constat apud Johannem, cap. xvii. 19, 21, 22, 23, 26). (さらに「ヨハネ(福音書)」のもとに明らかなように、第1719, 21, 22, 23, 26)

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 00:13
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