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ヘブル語は「動詞が中心となっている」言語
 つい近ごろ連載し始めた原典講読「信仰について」。そこでヘブル語を話題とした(6番)。そこで解説したように、聖書ヘブル語には「信仰」を意味する言葉が存在しない、このことはそうとうな驚きではなかったろうか。
 真理(アーメーンAMN)は動詞(アーマンAMN)から派生した語である。このように、ヘブル語ではほとんどの語は動詞から派生している。もう少し別の例を言おう。マラーク(MLK)は「支配する」という意味である。この読みを少し変えてメレク(MLK)は「王」である、マムラーカー(MMLKH)は「王国」である。すなわち「支配する」という動詞から、このような言葉が派生したのである。もう一つ、有名なヘブル語「シャーローム」を例にとってみる。語根はシャーラム(ShLM)で「完全にする・終える」その他の意味がある。これをシャーレーム(ShLM)と読んで「平和」意味が派生してくる。創世記14:18の地名「シャレム」であり、これがついには「エルーシャーレームYRWShLM」すなわち「エルサレム」となる。シャーローム(ShLWM)はShLMが語源で「完全・健全」それから「平和」となる。
 このようにほとんどの語は「動詞」から派生する。すなわち古代へブル人にとって、この世は「動詞の世界」だった。この世を「動詞」として見ていた(私たちはこの世を「名詞」として見ていませんか?)。
 この世は「動詞からでき上がっていた」。このことは私にとって驚くべきことだった。なお、うすうす感ずいているかもしれないが、動詞は基本的に3文字からできている。AMN、MLK、ShLMのように。Sh(シュ)は一文字である、もう一つの文字S(ス)と区別するためShとローマ字表記した(といって点が一つ付け足してあるだけの違い)。このことも衝撃的だった。
 そしてヘブル語はこの幹の3文字の読みを変化させ、前後にいろいろなもの付け足して(膠着語)、動詞を変化させ、分詞や派生語をつくったりする。ヘブル語は動詞中心の言語だった。

author:yasubee, category:ヘブル語など, 22:28
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原語・原文に向かう(続き)
 前日、翻訳物の限界を「訳語」だけに絞って2点紹介した。(1)「life」の例のように、原語では同じ言葉が別の訳語となる場合。(2)「愛する」のように、原語では別の言葉も同一の訳語となる場合。

 原語がどのような概念を反映する言葉なのか、厳密に知るため、その言葉が聖書の他の箇所でどのような文脈の中で使われているか調べようとするとき(そのために「コンコーダンス」(用語索引)というものがある、下記参照)、上記の二つとも非常な障害となる、というよりも日本語の意味に埋没してしまう。
 それよりも、研究の意味をなさない。たとえば「愛する」とはどういうものか知ろうとして、聖書の「愛する」のいろいろな部分を調べて、「キリスト教でいう、愛とはこんなものかな」と概念を形成しようにも、その「愛する」に2種類ある(それ以上かもしれない)と知らなくては、砂上の楼閣となってしまう。

 聖書をより深く、厳密に読もうとすれば、それで、どうしても原語の知識を必要と感じたが、目標は極めて限定的であった。)殘する必要はない(翻訳すでに存在する、英訳には『欽定訳聖書』というすばらしい訳もある)。△靴燭って文法知識もいらない。
 私が獲得したかった知識は「原文ではどんな単語が使われているか、その同じ単語が他の個所のどこに使われているか」であり、これがわかればよかった。(目標設定のコツは〔棲里吻⊃閥瓩覆發痢


 すなわち、辞書が引けて、コンコーダンスが活用できればよかった。しかし、これがむずかしい。ラテン語でもそうだが、辞書を引くには、ほぼ初級程度の知識は終えていないといけない。すなわち、格変化と活用、それと不規則動詞のおもなものが頭に入っていないと、苦労する。
 ヘブル語、ギリシア語はラテン語の比ではなかった。特にヘブル語。少し学んだだけでは辞書はとうてい引けるようにならない。そうした話はまた次に。

★「コンコーダンス」について。
 聖書にはコンコーダンスというものがあります。ある言葉(単語)が聖書のどの箇所に登場するか、全部調べ上げ、その場所とその語を含む一行ほどの短文を羅列した本です。英語のコンコーダンスでいえば最初の項目は「アロン(モーセの兄ですね)」であり、出エジプト記4:14が初出で、ズラッーと続きます。するとandなどという接続詞は? これも載っています! さすがに文は載せません、出てくる個所がとんでもない量ですが、載っています。私が利用したのはおもにヘブル語のコンコーダンスです。スヴェーデンボリの著作についてはJohn Faulkner Potts師が六巻ものの大部を完成しています(各巻900ページほど。どうしてこのように大部となるかは、著作の分量に加え、該当する単語を含む掲載の文が長いからです)。これはスヴェーデンボリ研究者には必須の図書です。

author:yasubee, category:ヘブル語など, 11:38
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原語・原文に向かう
 聖書を読み始めた頃、またそれ以前から、聖書がヘブル語(旧約部分)とギリシア語(新約部分)で書かれていることは一般的知識として知っていた。また、ギリシア語の文字は全部、ヘブル語の文字についても一つ(アーレフ)は知っていた。数学で使うからである(ヘブル語の最初の文字アーレフは「集合論」で第一種の無限の数を表わす)。普通の人でもα、βやπ(円周率)は知っている。
 時は流れ、37歳のときから『天界の秘義』を読み始めた。「内意」があることを知った。聖書が「対応の言語」で書かれている。霊的な事柄と天的な事柄を述べるとき、「霊的と天的で、原語では言葉を使い分けている」と知った。「すごい! 深い!」と感じた。

 私は何でも自分でやってみないと気がすまない性質(たち)である。そのすごさ、深さを味わうには、実感するには原語の知識が必要だと感じた。たとえば、音楽を鑑賞するにも、すこしでも楽器をやれば(私がそうである)、より深く味わえる。そしてバッハが好きになる(これは余計な話か?)。
 この際、雑談しよう。バッハはとっつきづらい(?)かもしれない。通俗音楽とはやはりかけ離れている気もする(なおスヴェーデンボリはオルガンでバッハを演奏したらしい)。しかし、楽器をやる人間はたいてい好きになる。やってこそ初めてその味がわかるのかもしれない。
 バッハの曲を一つだけ紹介します、無伴奏バイオリン独奏曲の「シャコンヌ」です。聴いたことのある人は「ああ、あれか」。聴いたことのない人はぜひ私のお勧め「名曲中の名曲」を味わってみてください。

 それ以外にも「翻訳物の限界」を感じていた。
 最初にここで最近話題となった「森−川内」を例に上げよう。川内にとって「おふくろさん」は「無償の愛」の代名詞であった。ところが森はアドリブ「いつも心配かけてばかり いけない息子の僕でした・・・」を頭につけた。これでは「おふくろ」が単なる母親になってしまう。作詞者の思いとはかけ離れる。同じ「おふくろ」という言葉が、個人の間で意味合いが異なる。

 さて、同じことは他言語の間でいえる。二つの言語の間で同じ概念を共通する言葉が存在するとはとうてい思えない。その言語を使用する民族の歴史、文化さまざまなものが異なるのだから。
 日本語の「蛙」は英語の「fog」だろう。と、ことはそんな単純なものではない。日本人が蛙にもつ概念は「古池やかわず飛び込む水の音」「あれは蛙の銀の笛(でしたっけ?)」というように不潔な動物のイメージはない。歌に詠まれ、コロコロとその鳴き声は称賛される。
 ところが西洋では湖沼に住む不潔な動物であり、ゲロゲロとその鳴き声は耳障りな雑音でしかない。このことを知らないと「出エジプト記」第8章の「かえるの出現」が、なぜ「わざわい」なのかわからない。ここからは「fog」を「蛙」と訳して「事足れり」とならないことがわかる。その象徴的意味を暗に意図して「fog」を持ち出したかもしれないからである。

 ましてや相手は「聖書」である。どんな意味が込められているか想像もつかない。(汲めど尽くせない)真意にすこしでも迫るにはその書かれた原語を知るしかない。

 そうでなくとも「訳語」そのものにも問題を感じていた。このように言語の間で、ある言葉の内容を表わすのとまったく同一の内容を表わす言葉が存在しないとき、訳語は一つにしぼれない。life という言葉でいえば、場合によっては「生活」であり、「いのち」でもあり、「生涯」でもある。
 また、同じ「愛する」と訳されていても原語が異なることがある。そのよい例が「ヨハネ福音書」最終章のイエスが語られた「愛する」である。イエスはペテロに3度「わたしを愛するか」と尋ねられたが、最初の2度と3度目は異なる言葉を使われた(新改訳聖書の脚注を見られたい)。「何だこれは!」。私にとって見過ごすことができない。それやこれやで原語に向かった。

author:yasubee, category:ヘブル語など, 12:23
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