RSS | ATOM | SEARCH
「信仰について」no.1の訳文変更
 現在、『天界と地獄』を翻訳しながらも『レキシコン』にも取り組んでいます。こちらは全仕事量から見れば8割ぐらい終わっていますが、ややペースが落ちています。今は項目「I」です。今月中に「I」を終えたいと願っています。そうした中、たった今、形容詞ignotus「知られていない」の用例を訳したところです。そこの例文として『信仰について』の1番「hodierna fides est fides ignoti」が出てきました。この『天界と地獄』の始まる前、一ヶ月ほど『信仰について』を連載しました。なのでこれは三ヶ月前のことです。そのとき「今日の信仰は知らないことの信仰である」と訳しました。覚えているでしょうか?
 さて、ignotiは形容詞ignotusの男性または中性の属格です。中性と見なせば、知らない「こと」であり、男性と見なせば、知らない「者」です。前者として訳したわけです。
 しかし、後者とすれば「今日の信仰は知らない者の信仰である」となり、文脈からみて、このほう優っていると思えます。すなわち、直前に「信じなくてはいけない」と言われ、直後に「盲目の信仰」と呼ばれるからです。長島訳「無知な人の信仰」の解釈がすぐれているとわかります。さすが長島さんでした(私は長島さんのラテン語の実力は相当なものと尊敬しています。その翻訳姿勢が私と異なるのです)。
 このようにたった三か月前の訳文を変更しなければならないほど私のラテン語は「発展途上国」です。この「天界と地獄」にしても皆様に「完成品」をお見せしているとは毛頭思っておりません。私が現在勉強がてらに訳しているものをそのままさらけ出している状態です。
 「完成してから世に発表する」というやり方もあるでしょう、しかし私の場合、自分がいつまでも完成しないような気がします(よい見方をすれば、いつまでも成長する)。不完全ながらも製品として世に出すしかありません。世にあるいろいろな製品は次々と改良を重ねてよい品になってきました。

author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 01:37
comments(0), trackbacks(0), pookmark
原典講読『信仰』を終えて
 5月14日の初掲載以来、ともかく少しだけでも、とやっていたら、約1ヶ月で終了。「毎日やる」というのは大きいと(改めて)実感しました。小冊子でも1ヶ月で訳すことはなかなかできることではありません。いずれ、整理して、「あおい出版」サイトに掲載します。本の形になるのは何年後でしょうか? その日は来るでしょうか?

 このブログのアクセス数が毎日平均200あるのが大いに励みとなりました。これだけの方々から読まれていると、休むわけにはいきません。熱心な読者の方々に感謝いたします。ありがとうございます。

 話をちょっと変えます。翻訳する上でこれまでの和訳書、柳瀬訳と長島訳を参考にしました。だいたい意味はつかめても、勘違いしているかもしれませんから、この二書から確認する意味と、文字通りどのように訳したか「参考」にするためです。すると、特に長島訳ですが、「ずいぶん原意とかけ離れているな」と感じるところが見つかりました。この二書の訳の修正が目的ではありませんから、いちいち疑問を感じるところを指摘しませんでしたが、何回か取り上げたところもあります。読者の方々にはぜひ見比べてみるようお勧めいたします。いろいろな意見を聞くことが、正しい判断を助けます。その意味でも、訳書を見比べることは、それだけ勉強になるはずです。

 原典講読は少し休憩して、6月19日(新教会の日、『真のキリスト教』791参照)から『天界と地獄』を掲載し始めます。やや大著なので毎日掲載して10ヶ月ほどのロングランとなるでしょう。
author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 15:51
comments(0), trackbacks(0), pookmark
原典講読『信仰』70,71,72 最終回
(1) 原文
70. Audivi hircos et oves aliquoties de eo collocutos, num illis, qui se confirmaverunt in fide separata a charitate, ulla veritas sit; et quia dixerunt, quod multa sit, lis illa in examen missa est. Et tunc interrogati sunt, num sciant quid amor, quid charitas, et quid bonum; et quia haec erant quae separaverunt, non potuerunt aliter respondere, quam quod non scirent. Interrogati sunt, quid peccatum, quid paenitentia, et quid remissio peccatorum; et quia responderunt quod qui justificati sunt per fidem, illis remissa peccata sint, ut non amplius appareant, dictum est illis, "Haec non veritas sunt." Interrogati quid regeneratio, responderunt quod vel sit baptismus, vel quod sit remissio peccatorum per fidem: dictum illis quod id non veritas sit. Interrogati quid spiritualis homo, responderunt quod sit qui justificatus est per fidem confessionis nostrae: sed dictum illis, quod haec non veritas sit. Interrogati de redemptione, de unione Patris et Domini, deque unitate Dei, et responderunt quae non veritates erant; praeter plura. Post interrogationes et responsa lis ad judicium venit; quod erat, quod illi qui confirmaverunt se in fide separata a charitate non habeant ullam veritatem.

(2) 直訳
Audivi hircos et oves aliquoties de eo collocutos, num illis, qui se confirmaverunt in fide separata a charitate, ulla veritas sit; 私は数回、雄山羊と羊のそのことについての話を聞いた、彼らに〔ある〕かどうか、仁愛から分離した信仰を確信した者〔に〕、何かの「真理」がある〔かどうか〕。
et quia dixerunt, quod multa sit, lis illa in examen missa est. 多くのものがあることが言われたので、その論争が公判(=審理)に送られた。
Et tunc interrogati sunt, num sciant quid amor, quid charitas, et quid bonum; そしてその時、質問された、知っているかどうか、愛とは何か、仁愛とは何か、善とは何か。
et quia haec erant quae separaverunt, non potuerunt aliter respondere, quam quod non scirent. これらは彼らが分離してしまったものなので、他に答えることができなかった、知らないこと〔である〕以外に。
Interrogati sunt, quid peccatum, quid paenitentia, et quid remissio peccatorum; 質問された、罪と何か、悔い改めとは何か、罪の赦しとは何か。
et quia responderunt quod qui justificati sunt per fidem, illis remissa peccata sint, ut non amplius appareant, dictum est illis, "Haec non veritas sunt." 信仰によって義とされた者は、彼に罪は許されており、それで、もはや〔そうしたことは〕現われないことを答えたので、彼らに、「それらは「真理」ではない」と言われた。
☆ここのutは結果を表わしますね。「その結果として、それで」。
Interrogati quid regeneratio, responderunt quod vel sit baptismus, vel quod sit remissio peccatorum per fidem: 再生とは何か質問され、洗礼であるかまたは信仰による罪の赦しであることを答えた。
dictum illis quod id non veritas sit. 彼らにそれは「真理」ではないことが言われた。
Interrogati quid spiritualis homo, responderunt quod sit qui justificatus est per fidem confessionis nostrae: 霊的な人間とは何かと質問され、私たちの告白の(=する)信仰によって義とされた者であることを答えた。
☆ここを柳瀬訳は「自分の信仰を告白することを通して義とされている〜」と訳している、ここの「自分たちが告白している信仰によって」が正しい。意味が違ってしまうことがわかると思います。
sed dictum illis, quod haec non veritas sit. しかし、彼らに、これは「真理」でないことが言われた。
Interrogati de redemptione, de unione Patris et Domini, deque unitate Dei, et responderunt quae non veritates erant; あがないについて、御父と主との結合について、また神の単一性について質問され、「真理」でなかったことを答えた。
praeter plura. 他に多くのこと〔の質疑応答があった〕。
Post interrogationes et responsa lis ad judicium venit; 質問と応答の後、論争は判決へやって来た。
quod erat, quod illi qui confirmaverunt se in fide separata a charitate non habeant ullam veritatem. そのことはあった、仁愛から分離した信仰を自分自身に確信した者は何も「真理」を持っていないこと。

(3) 訳文
 私は何度か、仁愛から分離した信仰を確信した者に、何かの「真理」があるかどうか、そのことについて雄山羊と羊の会話を聞いた。多くのものがあることと言われたので、その論争が公判にまわされた。その時、彼らは、、愛とは何か、仁愛とは何か、善とは何か、知っているかどうか質問された。これらは彼らが分離してしまったものなので、知らないとしか他に答えることができなかった。罪と何か、悔い改めとは何か、罪の赦しとは何か、と質問された。信仰によって義とされた者は、彼に罪は許されており、それで、もはや現われることはないと答えたので、彼らに、「それらは「真理」ではない」と言われた。
 再生とは何か質問され、洗礼であるかまたは信仰による罪の赦しであることを答えた。彼らにそれは「真理」ではない、と言われた。霊的な人間とは何かと質問され、私たちの告白する信仰によって義とされた者であることを答えた。しかし、彼らに、それは「真理」でないと言われた。
 あがないについて、御父と主との結合について、また神の単一性について質問され、「真理」でなかったことを答えた。他に多くのことがあった。質問と応答の後、論争は裁決された。その裁決は、仁愛から分離した信仰を自分自身に確信した者には何の「真理」もない、であった。

(1) 原文
71. Quod ita sit, non credi potest ab illis in mundo; quoniam qui in falsis sunt, non vident aliter quam quod falsa sint vera, et quod plura scire quam quae fidei eorum sunt, tanti non sit; et fides illorum est separata ab intellectu, est enim fides caeca, et ideo non inquirunt; et hoc non aliter inquiri potest quam ex Verbo media illustratione intellectus; quare vera, quae ibi sunt, vertunt in falsa, cogitando fidem ubi vident amorem, paenitentiam, remissionem peccatorum, et plura quae facti erunt.

(2) 直訳
Quod ita sit, non credi potest ab illis in mundo; このようであることは、彼らにより世では信じられることができない。
quoniam qui in falsis sunt, non vident aliter quam quod falsa sint vera, et quod plura scire quam quae fidei eorum sunt, tanti non sit; 虚偽の中にいる者なので、虚偽が真理であること以外の他に見ない、彼らの信仰のものであること以上に多くのことを知ることは、それほどのものではない〔と思っている〕。
☆ここの後半部分の長島訳「そしてかれらは、そうではないにかかわらず、自分たちの信仰以上に自ら知っていると思っています」は誤訳というよりも、勝手に作り上げた意味不明の文に思えます。
et fides illorum est separata ab intellectu, est enim fides caeca, et ideo non inquirunt; 彼らの信仰は理解力から分離している、なぜなら、盲目の信仰であるから、それゆえ彼らは問わない。
et hoc non aliter inquiri potest quam ex Verbo media illustratione intellectus; このことは問われることができることと異ならない、理解力の照らしを手段にみことばから以外に。
quare vera, quae ibi sunt, vertunt in falsa, cogitando fidem ubi vident amorem, paenitentiam, remissionem peccatorum, et plura quae facti erunt. それゆえ真理を、それらはそこにある、虚偽に変える、そこに愛を、悔い改めを、罪の赦しを、行なわれなくてはならない多くのことを信仰と考えて。
☆faciti eruntは未来完了受動態です。それで(これから起こるであろうことが)「行なわれてならない」という意味になります。

(3) 訳文
 このようであることは、世では彼らにより信じられることができない。虚偽の中にいるので、虚偽が真理であるとしか知らないし、自分たちの信仰のものであること以外の多くのことを知ることは、それほどたいしたことではないと思っている。彼らの信仰は盲目の信仰なので理解力から分離しており、それゆえ彼らは問うことをしない。このことは、照らされた理解力から、みことばに基づいて問うことでしかできないことである。それゆえ、彼らは、愛、悔い改め、罪の赦し、行なわれなくてはならない多くのことを信仰と考えて、みことばある真理を虚偽に変えてしまう。

(1) 原文
72. Verum enim vero, tales sunt illi qui se in sola fide et doctrina et vita confirmaverunt; sed non illi, qui, tametsi audiverunt et crediderunt quod sola fides salvet, usque mala ut peccata fugerunt.

(2) 直訳
Verum enim vero, tales sunt illi qui se in sola fide et doctrina et vita confirmaverunt; しかしながら実に、信仰のみの中にいて、教えや生活で強化してしまった者、彼らはこのようである。
☆verum enim veroは文字通りの直訳なら「しかし、なぜなら、しかし」ですが、この三つをまとめて「しかしながら実に」と訳します。
sed non illi, qui, tametsi audiverunt et crediderunt quod sola fides salvet, usque mala ut peccata fugerunt. しかし、彼らはそうでない、たとえ信仰のみが救うことを聞き、信じもしても、それでも悪を罪として避けた者は。

(3) 訳文
 信仰のみの中にいて、教えや生活で強化してしまった者らは、実にこのようである。しかし、たとえ信仰のみが救うことを聞き、信じたにしても、それでも悪を罪として避けた者たちはそうではない。

(4) あとがき
 霊的な善と真理にもとづいた仁愛の実践に結びついた信仰が「真の信仰」であることがよくわかる内容だったかと思います。宗教というとどうしても仁愛を離れた真理だけの信仰になりがちです、そのことへの警鐘となっています。

author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 13:47
comments(0), trackbacks(0), pookmark
原典講読『信仰』69
     (X.)
   QUOD FIDES SEPARATA A CHARITATE ECCLESIA ET OMNIA EJUS DESTRUAT.
   仁愛から分離した信仰は教会とそのすべてのものを破壊すること

(1) 原文
69. Fides separata a charitate nulla est fides, quoniam charitas est vita fidei, est anima ejus, et est essentia ejus; et ubi nulla fides est quia nulla charitas, ibi nulla ecclesia est. Quare dicit Dominus,

"Filius hominis cum venerit, num inveniet fidem super terra?" (Luc. xviii. 8.)

(2) 直訳
Fides separata a charitate nulla est fides, quoniam charitas est vita fidei, est anima ejus, et est essentia ejus; 仁愛から分離した信仰は信仰ではない、仁愛は信仰のいのちであり、その霊魂であり、その本質であるので。
et ubi nulla fides est quia nulla charitas, ibi nulla ecclesia est. そして仁愛がないので信仰のないところに、そこに教会はない。
Quare dicit Dominus, それゆえ、主は言われた、
"Filius hominis cum venerit, num inveniet fidem super terra?" (Luc. xviii. 8.) 「人の子が来るとき、〔その方は〕地の上に信仰を見つけるであろうか?」(ルカ18:8)。

(3) 訳文
 仁愛は信仰のいのちであり、その霊魂であり、その本質であるので、仁愛から分離した信仰は信仰ではない。そして仁愛がないので信仰のないところに、そこに教会はない。それゆえ、主は言われた、

 「人の子が来るとき、〔その方は〕地の上に信仰を見つけるであろうか?」(ルカ18:8)。

author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 10:47
comments(0), trackbacks(0), pookmark
原典講読『信仰』68
(1) 原文
68. (iv.) Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, intelligantur per "hircos;" ex omissione charitatis eorum apud Matthaeum. Quod non alii per "hircos" ac per "oves" intelligantur apud Matthaeum (cap. xxv. 31-46) quam qui per "hircum" et per "arietem" apud Danielem, patet ex eo, quod ad oves enumerentur opera charitatis, et dicatur, quod illa fecerint; et quod ad hircos enumerentur eadem opera charitatis, et dicatur quod illa non fecerint, et quod hi ideo damnentur: est enim apud eos qui in fide separata a charitate sunt, omissio operum, ex negatione quod nihil salutis et ecclesiae in illis sit; et cum removetur ita charitas, quae consistit in operibus, cadit etiam fides, quoniam fides est ex charitate; et cum non charitas et fides, est damnatio. Si omnes mali per "hircos" ibi intellecti fuissent, non opera charitatis quae non fecerunt, sed mala quae fecerunt, enumerata fuissent. Similes per "hircos" etiam intelliguntur apud Sachariam,

"Super pastores exarsit ira mea, et super hircos visitabo" (x. 3).

Et apud Ezechielem,

"Ecce Ego judicans inter pecudem et pecudem, inter arietes et inter hircos: num parum vobis, pascuum bonum depascitis, etiam reliquum pascuorum conculcatis pedibus vestris?... cornibus vestris feritis omnes oves infirmas, donec disperseritis illas: ideo salvabo gregem meum, ut non sit amplius in praedam" (xxxiv. 17, 18, (21,) 22, seq.).

(2) 直訳
(iv.) Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, intelligantur per "hircos;" ex omissione charitatis eorum apud Matthaeum. (iv.) 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることは、「マタイ福音書」で、彼らの仁愛の無視から〔示される〕。
Quod non alii per "hircos" ac per "oves" intelligantur apud Matthaeum (cap. xxv. 31-46) quam qui per "hircum" et per "arietem" apud Danielem, patet ex eo, quod ad oves enumerentur opera charitatis, et dicatur, quod illa fecerint; 「マタイ福音書」(第25章31-46)に意味される「雄山羊」によってと「羊」によって、「ダニエル書」に「雄山羊」によってと「雄羊」によって〔意味される〕もの以外の他のものではないことは、それから明らかである、羊に仁愛の働きが列挙され(=数えられ)、それらを行なったと言われていること。
et quod ad hircos enumerentur eadem opera charitatis, et dicatur quod illa non fecerint, et quod hi ideo damnentur: そして、雄山羊に同じ仁愛の働きが列挙され、それらを行なわなかったと言われていること、そしてこのことそれゆえ〔地獄へと〕断罪されたこと。
est enim apud eos qui in fide separata a charitate sunt, omissio operum, ex negatione quod nihil salutis et ecclesiae in illis sit; なぜなら、仁愛から分離した信仰の中にいる者、その者に働きの無視〔があったから〕、その中には救いや教会のものは何もないこと〔とする〕否定からの。
et cum removetur ita charitas, quae consistit in operibus, cadit etiam fides, quoniam fides est ex charitate; そしてこのように仁愛が退けられるとき、それは働きの中にある、信仰もまた倒れる、信仰は仁愛からのものであるので。
et cum non charitas et fides, est damnatio. 仁愛と信仰がないとき、断罪がある。
Si omnes mali per "hircos" ibi intellecti fuissent, non opera charitatis quae non fecerunt, sed mala quae fecerunt, enumerata fuissent. もし、すべての悪人が「雄山羊」によってそこに意味されていたなら、行なわなかった仁愛の働きでなく、行なった悪が、列挙されていたであろう。
☆この部分について「(4) 長島訳を批評する」を参照してください。
Similes per "hircos" etiam intelliguntur apud Sachariam, 似たもの〔者〕が「雄山羊」によって、「ゼカリヤ書」に意味されている、
"Super pastores exarsit ira mea, et super hircos visitabo" (x. 3). 「羊飼いらの上にわたしの怒りが燃え上がる、雄山羊の上にわたしは罰する」(10:3)。
Et apud Ezechielem, 「エゼキエル書」に、
"Ecce Ego judicans inter pecudem et pecudem, inter arietes et inter hircos: 「見よ、わたしは家畜と家畜の間を、雄羊と雄山羊の間をさばく。
num parum vobis, pascuum bonum depascitis, etiam reliquum pascuorum conculcatis pedibus vestris? あなたがたに少ないか? よい牧場をあなたがたは牧草地とする、さらにまた牧草地の残りのものをあなたがたの足で踏みにじる。
... cornibus vestris feritis omnes oves infirmas, donec disperseritis illas: ・・・あなたがたの角ですべての羊の弱いものを突く、それらを追い散らしたまで。
ideo salvabo gregem meum, ut non sit amplius in praedam" (xxxiv. 17, 18, (21,) 22, seq.). それゆえ、わたしはわたしの群れを救う、もはや餌食でないように」(34:17, 18, 21,22)。

(3) 訳文
 (iv.) 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることは、「マタイ福音書」で、彼らの仁愛の無視から示される。「マタイ福音書」(第25章31-46)で「雄山羊」と「羊」によって意味されるものは、「ダニエル書」で「雄山羊」と「雄羊」によって意味されるものに他ならないことは、羊に対して仁愛の働きが列挙され、それらを行なった、と言われていること、そして、雄山羊に対して同じ仁愛の働きが列挙され、それらを行なわなかった、と言われ、このことゆえに断罪されたことから明らかである。なぜなら、仁愛から分離した信仰の中にいる者は、働きの中には救いや教会のものは何もないと否定して、働きを無視したからである。そしてこのように働きの中にある仁愛が退けられるとき、信仰は仁愛からのものであるので、信仰もまた崩れ去る。
 もし、すべての悪人が「雄山羊」によってそこに意味されていたなら、行なわなかった仁愛の働きでなく、行なった悪が、列挙されていたであろう。
 似た者が、「ゼカリヤ書」に「雄山羊」によって意味されている、

 「羊飼いらの上にわたしの怒りが燃え上がる、わたしは雄山羊を罰する」(10:3)。

 「エゼキエル書」に、

 「見よ、わたしは家畜と家畜の間を、雄羊と雄山羊の間をさばく。よい牧場をあなたがたは牧草地とする、それであなたがたに足りないのか? さらにまた牧草地の残りのものをあなたがたは足で踏みにじる。・・・あなたがたは角ですべての羊の弱いものを、追い散らすまで突いた。それゆえ、わたしはわたしの群れを救い、もはや餌食とならないようにする」(34:17, 18, 21,22)。

(4) 長島訳を批評する
Si omnes mali per "hircos" ibi intellecti fuissent, non opera charitatis quae non fecerunt, sed mala quae fecerunt, enumerata fuissent. の部分を私は「もし、すべての悪人が「雄山羊」によってそこに意味されていたなら、行なわなかった仁愛の働きでなく、行なった悪が、列挙されていたであろう」と訳しました。この意味は言うまでもないとは思いますが、「雄山羊」が意味するものは「悪人」でなく、「仁愛から分離した信仰の中にいる者」である、ということであり、これまで一貫した主張の説明の一部となっています。
 さて、長島訳は「もし山羊を表している人が、全部悪人のことなら、行わなかった仁愛ではなく、行った悪が問われるようになります」となっています。
 これでは何を言いたいのかわかりません、スヴェーデンボリはこんなわけのわからない文章は書きません。
 まず、 崛管悪人〜」というと、山羊の表象する「悪人でない者」もいるように思えてしまう、しかし文脈から、そんなことひとつも言っていない。
 次に◆屐舛覆蕁・・・となります」の文章構成からは文章がねじれている(仮定と結論が整合しない)。ここについても、スヴェーデンボリはこんな非論理的な文章は書かない。
 最後に「行なった悪が問われるようになる」とは何のことなのか? だれが、どのように、問われるのか、問われた結果どうなるのか、すべて疑問が生じてくる。このように新たな疑問が生じるような、そして疑問のままに残すような文章をスヴェーデンボリは書かない。
 以上、あまりに、スヴェーデンボリの原文とかけ離れた翻訳をしているので、ここに批評しました。

author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 10:27
comments(0), trackbacks(0), pookmark
原典講読『信仰』67
(1) 原文
67. Explicatio illorum haec est:− "Aries," cui duo cornua alta, quorum altius ascendit posterius, significat illos qui in fide ex charitate sunt: quod "cornu feriret versus occidentem, septentrionem et meridiem," significat dissipationem mali et falsi: quod "magnum se faceret," significat incrementum: "hircus veniens ab occidente super facies totius terrae," significat illos qui in fide separata a charitate sunt, ac invasionem ecclesiae ab illis; "occidens" est malum naturalis hominis; "cui cornu inter oculos," significat propriam intelligentiam: quod "cucurrerit ad arietem cum furore roboris," significat quod vehementer impugnaverit charitatem et ejus fidem: quod "fregerit duo cornua ejus, projecerit eum in terram, et conculcaverit eum," significat quod prorsus disperserit et charitatem et fidem, nam qui unam etiam alteram dispergit, unum enim faciunt: quod "fractum sit cornu magnum hirci," significat non apparentiam propriae intelligentiae: quod "loco ejus ascenderint quatuor cornua," significat applicationes sensus litterae Verbi ad confirmandum: quod "ex uno eorum exiret cornu exiguum," significat argumentationem, quod nemo possit implere legem, et facere bonum a se ipso: quod "id cornu creverit versus meridiem, versus ortum et versus decus," significat per id insurrectionem in omnia ecclesiae: "et usque ad exercitum caelorum, et dejecit de exercitu, et de stellis, et conculcavit illa," significat sic destructionem omnium cognitionum boni et veri, quae charitatis et fidei essent: quod "extulerit se ad Principem exercitus, et ab Eo sublatum est juge, et habitaculum sanctuarii Ejus," significat quod sic depopulatus sit omnia cultus Domini et ecclesiae Ipsius: quod "veritatem projecerit in terram," significat quod vera Verbi falsificaverit; per "vesperam mane, quando justificabitur sanctum," significatur finis ecclesiae istius, et principium novae."

(2) 直訳
Explicatio illorum haec est:− それらの解説はこれらである――
"Aries," cui duo cornua alta, quorum altius ascendit posterius, significat illos qui in fide ex charitate sunt: 二つの角をもった、その長いほうは後から生える「雄羊」は、仁愛から信仰の中にいる者たちを意味する。
quod "cornu feriret versus occidentem, septentrionem et meridiem," significat dissipationem mali et falsi: 「角で東へ、西へと南の方へ突いた」ことは、悪と虚偽の追い散らすことを意味する。
quod "magnum se faceret," significat incrementum: 「自分自身を大きくした」ことは、増大を意味する。
"hircus veniens ab occidente super facies totius terrae," significat illos qui in fide separata a charitate sunt, ac invasionem ecclesiae ab illis; 「雄山羊が西から全地の面の上を来る」は、仁愛から分離した信仰の中にいる者、それと彼らによる教会への侵入を意味する。
"occidens" est malum naturalis hominis; 「西」は自然的な人間の悪である。
"cui cornu inter oculos," significat propriam intelligentiam: 「目〔と目〕の間に角をもった」は、自己知性を意味する。
quod "cucurrerit ad arietem cum furore roboris," significat quod vehementer impugnaverit charitatem et ejus fidem: 「羊に力強い激怒をもって突進した」は、猛烈に仁愛とその信仰を襲撃したことを意味する。
quod "fregerit duo cornua ejus, projecerit eum in terram, et conculcaverit eum," significat quod prorsus disperserit et charitatem et fidem, nam qui unam etiam alteram dispergit, unum enim faciunt: 「二つの角を折り、それを地に投げ出し、それを踏みにじった」は、仁愛と信仰とを完全に消散させたことを意味する、なぜなら、一つを消散させる者はもう一つも〔消散させるから〕、なぜなら〔それらは〕一つをつくっているから。
quod "fractum sit cornu magnum hirci," significat non apparentiam propriae intelligentiae: 「雄山羊の大きな角は折れた」ことは、自己知性の外観がない〔こと〕を意味する。
quod "loco ejus ascenderint quatuor cornua," significat applicationes sensus litterae Verbi ad confirmandum: 「その場所に四つの角が生えた」は、確認することへと、みことばの文字通りの意味の適応を意味する。
quod "ex uno eorum exiret cornu exiguum," significat argumentationem, quod nemo possit implere legem, et facere bonum a se ipso: 「その一つから小さい角が出た」は、論証を意味する、だれも律法を成就すること、自分自身から善を行なうことができないこと(そのことの)。
quod "id cornu creverit versus meridiem, versus ortum et versus decus," significat per id insurrectionem in omnia ecclesiae: 「その角は、南に向かって、東に向かって、美観に向かって大きくなった」は、そのことによって教会のすべてのものに反乱〔すること〕を意味する。
"et usque ad exercitum caelorum, et dejecit de exercitu, et de stellis, et conculcavit illa," significat sic destructionem omnium cognitionum boni et veri, quae charitatis et fidei essent: 「天の軍勢にまでも〔向かって大きくなり〕、軍勢について、星について、それらを踏みにじった」は、このように善と真理のすべての知識を破壊〔したこと〕を意味する、それらは仁愛と信仰のものであった。
quod "extulerit se ad Principem exercitus, et ab Eo sublatum est juge, et habitaculum sanctuarii Ejus," significat quod sic depopulatus sit omnia cultus Domini et ecclesiae Ipsius: 「軍勢の「君主」にまでも自分を高めた、そして「その方」から常供のささげ物は取り去られた、「その方」の聖所の住まい〔は投げ捨てられた〕」ことは、このように主への礼拝とその方の教会のすべてのものが荒らされたことを意味する。
quod "veritatem projecerit in terram," significat quod vera Verbi falsificaverit; 「「真理」を地に投げ捨てた」ことは、みことばの真理を虚偽化したことを意味する。
per "vesperam mane, quando justificabitur sanctum," significatur finis ecclesiae istius, et principium novae." 「夕〔と〕朝、その時、聖所は義とされる」によって、その教会の終わりと新しい〔教会の〕始まりが意味される。

(3) 訳文
 それらの解説はこれらである――
 その長いほうの角が後から生えてくる二つの角をもった「雄羊」は、仁愛から信仰の中にいる者たちを意味する。「角で東へ、西へと南の方へ突いた」ことは、悪と虚偽を追い散らすことを意味する。「自分自身を大きくした」ことは、増大を意味する。「雄山羊が西から全地の面の上を来る」は、仁愛から分離した信仰の中にいる者と彼らによる教会への侵入を意味する。「西」は自然的な人間の悪である。「目と目の間に角をもった」は、自己知性を意味する。
 「羊に強い怒りをもって突進した」は、仁愛とその信仰を猛烈に襲撃したことを意味する。「二つの角を折り、それを地に投げ出し、それを踏みにじった」は、仁愛と信仰とを完全に消散させたことを意味する、なぜなら、一方を消散させる者はもう一方も消散させるから、それらは一つとなっているからである。
 「雄山羊の大きな角は折れた」ことは、自己知性の外観がないことを意味する。〔(4)私見参照〕「その代わりに四つの角が生えた」は、みことばの文字通りの意味を適応して、確認することを意味する。
 「その一つから小さい角が出た」は、だれも律法を成就することが、それと自分自身から善を行なうことができないことの論証を意味する。「その角は、南に向かって、東に向かって、美観に向かって大きくなった」は、そのことによって教会のすべてのものに造反することを意味する。
 「天の軍勢にまでも。軍勢を、星を、それらを踏みにじった」は、仁愛と信仰のものであった善と真理のすべての知識を、このように破壊したことを意味する。
 「軍勢の「君」にまでも自分を高めた、それで「その方」から常供のささげ物は取り去られ、「その方」の聖所の住まいは投げ捨てられた」ことは、主への礼拝とその方の教会のすべてのものがこのように荒らされたことを意味する。
 「「真理」を地に投げ捨てた」ことは、みことばの真理を虚偽化したことを意味する。
 「夕と朝、その時、聖所は義とされる」によって、その教会の終わりと新しい教会の始まりが意味される。

(4) 私見:「外観がない」について
 8:8「(雄山羊の)大きな角が折れた」の意味を「外観がない」と説明しています。これではよくわからないので、スヴェーデンボリが他の「著作」ではどのように説明しているかな? と調べたのですが、『黙示録講解』418:6には、「大きな角」は信仰のみが救うという虚偽を、「折れた」は分かれてそこから多くの虚偽が生まれることを意味する、と別の説明がありました。他にこの個所を解説したものはなく、どうやらこの説明が、もっとも納得いくように思えます。
 すると「外観がない」とは何なのか? 疑問がそのまま残ります。ここは各自で解釈するしかないようです。私は、雄山羊が「自己知性を誇るようには見えなかった、見せなかった」と(素直に)解釈します。
 ついでに8:9「造反」のことばについて。
 意味は「組織や体制の中からそのあり方に対して批判・抵抗を行なうこと」であり、中国の文化大革命以来使われるようになったことばです。当時のカトリック教会に対して、プロテスタントは批判して立ち上がったのですから、「造反」のことばがここにちょうど適しているかと思い、用いました。

author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 02:03
comments(0), trackbacks(0), pookmark
原典講読『信仰』65,66
(1) 原文
65. (iii.) Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, intelligantur in Verbo per "hircos;" ex descriptione pugnae inter arietem et hircum apud Danielem. Omnia quae in Daniele sunt, in spirituali sensu agunt de rebus caeli et ecclesiae, sicut omnia in universa Scriptura Sacra; ut in Doctrina Novae Hierosolymae de illa (n. 5-26) ostensum est: ita quoque illa in Daniele, quae de pugna arietis et hirci ibi (cap. viii.) dicuntur; quae talia sunt:−

In visione vidi... arietem, cui duo cornua alta, sed altius ascendens posterius: et quod cornu feriret versus occidentem, septentrionem et meridiem; et magnum se faceret. Dein vidi hircum venientem ab occidente super facies totius terrae, cui esset cornu inter oculos; et quod cucurrerit ad arietem cum furore roboris sui, et fregerit duo cornua ejus, et projecerit eum in terram, et conculcaverit eum; at quod fractum sit cornu magnum hirci, et loco ejus ascenderint quatuor cornua: et quod ex uno eorum exiret cornu exiguum, quod crevit valde versus meridiem, versus ortum, et versus decus, et usque exercitum caelorum, et dejecit in terram de exercitu, et de stellis, et conculcavit ea: immo extulit se ad Principem exercitus, et ab Eo sublatum est juge, et projectum habitaculum sanctuarii Ejus; quia projecit veritatem in terram. Et audivi unum sanctum dicentem,... Quo usque visio haec, juge et praevaricatio vastans, ut detur sanctum et exercitus conculcatio? Et dixit, Usque ad vesperam mane;... tunc justificabitur sanctum (cap. viii, 2-14).

(2) 直訳
(iii.) Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, intelligantur in Verbo per "hircos;" ex descriptione pugnae inter arietem et hircum apud Danielem. (iii.) 「仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることは、「ダニエル書」にある雄羊と山羊との間の闘争の記述から〔示される〕」。
Omnia quae in Daniele sunt, in spirituali sensu agunt de rebus caeli et ecclesiae, sicut omnia in universa Scriptura Sacra; 「ダニエル書」の中にあるすべてのことは、霊的な意味で天界と教会の事柄について扱われている、聖書全体の中のすべてのように。
ut in Doctrina Novae Hierosolymae de illa (n. 5-26) ostensum est: 『新しいエルサレムの教え』の中に(第5-26番)示されているように。
ita quoque illa in Daniele, quae de pugna arietis et hirci ibi (cap. viii.) dicuntur; したがってまた、「ダニエル書」の中のそれらは、それらは雄羊と雄山羊の闘争について、そこに(第8章)言われている。
quae talia sunt:− それらはこのようである――
In visione vidi... arietem, cui duo cornua alta, sed altius ascendens posterius: 幻の中で私は見た・・・二つの角をもった雄羊を、しかしそびえ立つほう(=長いほう)は後で上る(=生える)。
et quod cornu feriret versus occidentem, septentrionem et meridiem; 角で東の方へ突いた、西へと南へ。
et magnum se faceret. 自分自身を大きくした(=高ぶった)。
Dein vidi hircum venientem ab occidente super facies totius terrae, cui esset cornu inter oculos; その後、私は雄山羊が西から来るのを見た、全地の面の上を、それには目〔と目〕の間に角があった。
et quod cucurrerit ad arietem cum furore roboris sui, et fregerit duo cornua ejus, et projecerit eum in terram, et conculcaverit eum; そして、羊にその力強い激怒をもって突進した、その二つの角を折った、それを地に投げ出した、それを踏みにじったこと。
at quod fractum sit cornu magnum hirci, et loco ejus ascenderint quatuor cornua: しかし、雄山羊の大きな角は折れた、そしてその場所に四つの角が上った(=生えた)。
et quod ex uno eorum exiret cornu exiguum, quod crevit valde versus meridiem, versus ortum, et versus decus, et usque exercitum caelorum, et dejecit in terram de exercitu, et de stellis, et conculcavit ea: そして、その一つから小さい角が出た、それは南に向かって非常に大きくなった、東に向かって、美観に向かって、天の軍勢にまでも、地に投げ落とした、軍勢について、星について、それらを踏みにじった。
immo extulit se ad Principem exercitus, et ab Eo sublatum est juge, et projectum habitaculum sanctuarii Ejus; 実に、軍勢の「君主」にまで自分を高めた、そして「その方」から常供のささげ物は取り去られた、「その方」の聖所の住まいは投げ捨てられた。
quia projecit veritatem in terram. なぜなら、「真理」を地に投げ捨てたから。
Et audivi unum sanctum dicentem,... 私は一人の聖なる者が言うのを聞いた、・・・。
Quo usque visio haec, juge et praevaricatio vastans, ut detur sanctum et exercitus conculcatio? この幻はいつまでか? 常供のささげ物や荒廃させるそむきの罪は、聖所と軍勢を踏みにじることが存在することは。
☆quo usqueと原著初版も現行ラテン語版も(分かち書きと)なっていますが次の66にあるようにquousqueと続けて綴るのが正しい。ここまま直訳すれば「どこまで?」となります。
Et dixit, Usque ad vesperam mane;... そして言った、夕〔と〕朝まで。・・・
☆vesperamとmaneの間にetが抜けています。『天界の秘義』7988番にはあります。
tunc justificabitur sanctum (cap. viii, 2-14). その時、聖所は義とされる(第8章2-14)。

(3) 訳文
(iii.) 「仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることは、「ダニエル書」にある雄羊と山羊との間の闘争の記述から示される」。「ダニエル書」の中にあるすべてのことは、聖書全体の中のすべてのように、霊的な意味では天界と教会の事柄について扱われている。このことは、たとえば『新しいエルサレムの教え』(第5-26番)に示されている。したがってまた、「ダニエル書」の中の雄羊と雄山羊の闘争(第8章)についても、そこにそれらのことが言われている。それらは次ぎのようである――

 幻の中で私は・・・二つの角をもった雄羊を見た、しかし長いほうは後から生えた。その角で東、西、南の方へ突いた。高ぶった。その後、私は雄山羊が、全地の面の上を、西から来るのを見た、それには目と目の間に角があった。そして、羊に強い怒りをもって突進し、その二つの角を折り、地に投げ出し、踏みにじった。しかし、雄山羊の大きな角は折れ、そしてその代わりに四つの角が生えた。そして、その一つの角から小さい角が出た。それは南に向かって、東に向かって、美観に向かって非常に大きくなった。天の軍勢にまでも向かい、軍勢を、星を、地に投げ落とし、それらを踏みにじった。実に、軍勢の「君主」にまで自分を高め、それで「その方」から常供のささげ物は取り去られ、「その方」の聖所の住まいは投げ捨てられた。なぜなら、「真理」を地に投げ捨てたから。私は一人の聖なる者が言うのを聞いた、・・・。常供のささげ物や荒廃させるそむきの罪、聖所と軍勢を踏みにじることが存在するという、この幻はいつまでか? すると言った、夕と朝まで。・・・その時、聖所は義とされる(第8章2-14)。

(1) 原文
66. Quod visio illa praedicat status ecclesiae futuros, patet manifeste; nam dicitur quod "a Principe exercitus sublatum sit juge," "projectum habitaculum sanctuarii Ejus," et quod "hircus projecerit veritatem in terram:" tum quod "Sanctus dixerit, Quousque visio haec, juge et praevaricatio vastans, ut detur sanctum et exercitus conculcatio?" et quod hoc esset "ad vesperam mane, quando justificabitur sanctum:" per "vesperam" enim intelligitur finis ecclesiae quando nova erit. Simile postea in eo capite per "reges Mediae et Persiae" intelligitur, quod per "arietem;" et simile per "regem Graeciae" quod per "hircum;" nam nomina regnorum, gentium et populorum, tum personarum et locorum, in Verbo significant res caeli, et ecclesiae.

(2) 直訳
Quod visio illa praedicat status ecclesiae futuros, patet manifeste; この幻が教会の将来の状態を予言していることははっきりと明らかである。
nam dicitur quod "a Principe exercitus sublatum sit juge," "projectum habitaculum sanctuarii Ejus," et quod "hircus projecerit veritatem in terram:" なぜなら「君主から常供のささげ物が取り去られた」「その方の聖所の住まいが投げ捨てられた」こと、また「雄山羊が「真理」を地に投げ捨てた」ことが言われているから。
tum quod "Sanctus dixerit, Quousque visio haec, juge et praevaricatio vastans, ut detur sanctum et exercitus conculcatio?" さらに「聖なる者が言った、この幻はいつまでか? 常供のささげ物や荒廃させるそむきの罪は、聖所と軍勢を踏みにじることが存在することは」ということ。
et quod hoc esset "ad vesperam mane, quando justificabitur sanctum:" そしてこれがあったこと「夕〔と〕朝まで、その時、聖所は義とされる」。
per "vesperam" enim intelligitur finis ecclesiae quando nova erit. なぜなら「夕」によって、新しいものが存在する時の教会の終わりが意味されるから。
Simile postea in eo capite per "reges Mediae et Persiae" intelligitur, quod per "arietem;" その章の後ろの中の「メディアとペルシヤの王」によって、「雄羊」によってと似たことが意味される。
et simile per "regem Graeciae" quod per "hircum;" また「ギリシヤの王」によって似たことが、「雄山羊」によって。
nam nomina regnorum, gentium et populorum, tum personarum et locorum, in Verbo significant res caeli, et ecclesiae. なぜなら、みことばの中の王、国民や民衆、さらに人物や場所の名前は、天界と教会の物事を意味するから。

(3) 訳文
 この幻が教会の将来の状態を予言していることは極めて明らかである。なぜなら「君主から常供のささげ物が取り去られた」「その方の聖所の住まいが投げ捨てられた」こと、また「雄山羊が「真理」を地に投げ捨てた」ことが言われ、さらに「聖なる者が、常供のささげ物や荒廃させるそむきの罪、聖所と軍勢を踏みにじることが存在するという、この幻はいつまでか? と言った」、そしてこれに「夕と朝まで、その時、聖所は義とされる」という答えがあったことが言われているから。なぜなら「夕」によって、新しいものが存在する時の教会の終わりが意味されるから。
 その章の後ろにある「メディアとペルシヤの王」によって、「雄羊」似たことが、また「ギリシヤの王」によって「雄山羊」似たことが意味される。なぜなら、みことばの中の王、国民や民衆、さらに人物や場所の名前は、天界と教会の物事を意味するから。

author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 09:12
comments(0), trackbacks(0), pookmark
原典講読『信仰』64
(1) 原文
64. (ii.) Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, intelliguntur in Verbo per "hircos;" ex Ultimo Judicio, super quos peractum est. Ultimum judicium non super alios factum est, quam qui in externis fuerunt morales, ac in internis non spirituales, aut parum spirituales; illi autem qui tam in externis quam in internis fuerunt mali, longe ante ultimum judicium in infernum conjecti sunt; et illi qui in externis et simul in internis spirituales fuerunt, longe ante ultimum judicium in caelum elevati sunt; nam judicium non factum est super illos qui in caelo erant, nec super illos qui in inferno, sed super illos qui in medio inter caelum et infernum fuerunt, et ibi sibi fecerunt sicut caelos. [2] Quod ultimum judicium super illos et non super alios factum sit, videri potest in opusculo De Ultimo Judicio (n. 59 et 70); et videbitur ulterius in Continuatione de Ultimo Judicio, et ibi super Reformatos; ex quibus tunc illi qui in fide separata a charitate non modo doctrina sed etiam vita fuerunt, in infernum conjecti sunt; ac illi qui in eadem fide solum quoad doctrinam, sed usque in charitate quoad vitam fuerunt, in caelum elevati sunt: ex quibus patuit, quod non alii per "hircos" et per "oves" a Domino (apud Matthaeum, cap. xxv.), ubi loquitur de Ultimo Judicio, intellecti sint.

(2) 直訳
(ii.) Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, intelliguntur in Verbo per "hircos;" ex Ultimo Judicio, super quos peractum est. (ii.)「仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることは、最後の審判から、彼らの上に起こった〔ことから示される〕」
Ultimum judicium non super alios factum est, quam qui in externis fuerunt morales, ac in internis non spirituales, aut parum spirituales; 最後の審判は他の者の上に行なわれなかった、外部で道徳的であった、そして内部で霊的でない、またはほとんど霊的でない者以外の。
illi autem qui tam in externis quam in internis fuerunt mali, longe ante ultimum judicium in infernum conjecti sunt; しかし、外部と同様に内部も悪であった者は、最後の審判の長らく前に地獄に投げ込まれた。
☆tam…quam〜は「・・・と同様に〜、・・・と同じく〜」。
et illi qui in externis et simul in internis spirituales fuerunt, longe ante ultimum judicium in caelum elevati sunt; また、外部でと同時に内部で霊的であった者は、最後の審判の長らく前に天界に上げられた。
nam judicium non factum est super illos qui in caelo erant, nec super illos qui in inferno, sed super illos qui in medio inter caelum et infernum fuerunt, et ibi sibi fecerunt sicut caelos. なぜなら、審判は天界にいた者の上にも、地獄に〔いた〕者の上にも行なわれず、天界と地獄の間の中間にいて、そこで自分たちに天界のようなものをつくっていた者の上に〔行なわれた〕から。
[2] Quod ultimum judicium super illos et non super alios factum sit, videri potest in opusculo De Ultimo Judicio (n. 59 et 70); 最後の審判は彼らの上で、他の者の上に起こったのではないことは、小著『最後の審判』(59と70番)に見られることができる。
et videbitur ulterius in Continuatione de Ultimo Judicio, et ibi super Reformatos; またさらに進んで『続・最後の審判について』に見られる、そこに改革派の者らの上に〔起こったもの〕。
ex quibus tunc illi qui in fide separata a charitate non modo doctrina sed etiam vita fuerunt, in infernum conjecti sunt; そのとき、その者らの中の、教えだけでなく生活でもまた仁愛から分離した信仰の中にいた者は、地獄に投げ込まれた。
☆exは「所属」を示すこともあるので、「〜からの、〜の、〜の中の」の訳語もあります。
ac illi qui in eadem fide solum quoad doctrinam, sed usque in charitate quoad vitam fuerunt, in caelum elevati sunt: そして、教えについてだけその信仰の中に〔いて〕、しかしそれでも生活について仁愛の中にいた者は、天界に上げられた。
ex quibus patuit, quod non alii per "hircos" et per "oves" a Domino (apud Matthaeum, cap. xxv.), ubi loquitur de Ultimo Judicio, intellecti sint. そのことから明らかである、「雄山羊」よってまた「羊」によって主により(『マタイ福音書』第25章に)、そこで「最後の審判」について語られている、他のものが意味されていないこと。

(3) 訳文
(ii.)「仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることは、最後の審判から、彼らの上に起こったことから示される」。最後の審判は、外部で道徳的であり、内部で霊的でない者、またはほとんど霊的でない者以外の者には行なわれなかった。外部と同じく内部も悪であった者は、最後の審判のずっと以前に地獄に投げ込まれ、また外部と同時に内部で霊的であった者は、最後の審判のずっと以前に天界に上げられており、審判は天界にいた者にも、地獄にいた者にも行なわれず、天界と地獄の間の中間にいて、そこで自分たちに天界のようなものをつくっていた者に行なわれたからである。
[2] 最後の審判が他でもない彼らに起こったことは、小著『最後の審判』(59と70番)に見られる。またさらに『続・最後の審判について』では、改革派の者らに起こったものが見られる。そのとき、改革派の者らのうちで、教えだけでなく生活でもまた仁愛から分離した信仰の中にいた者は、地獄に投げ込まれた。そして、教えについてだけはその信仰の中にいたが、それでも生活については仁愛の中にいた者は天界に上げられた。「最後の審判」について主により語られているところから(『マタイ福音書』第25章に)、そこの「雄山羊」よってまた「羊」によって、他のものが意味されていないことが明らかである。
author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 09:03
comments(0), trackbacks(0), pookmark
原典講読『信仰』63
(1) 原文
63. (i.) Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, intelliguntur in Verbo per "hircos;" ab experientia in mundo spirituali. In mundo spirituali apparent omnia quae in mundo naturali; apparent domus et palatia, apparent paradisi et horti, et in illis arbores omnis generis; apparent agri et novalia, tum campi et vireta; et quoque armenta et greges; omnia in tali similitudine, in qua super nostra tellure; nec alia intercedit differentia, quam quod haec sint ex origine naturali, et illa ex origine spirituali. Quare angeli, quia spirituales sunt, vident illa quae ex origine spirituali sunt, similiter ut homines illa quae ex origine naturali sunt. [2] Omnia quae apparent in mundo spirituali, sunt correspondentiae, correspondent enim affectionibus angelorum et spirituum. Haec causa est, quod illi qui in affectione boni et veri sunt, et inde in sapientia et intelligentia, habitent in palatiis magnificis, circum quae sunt paradisi pleni arboribus, quae correspondent, et circum illos agri et campi, in quibus cubant greges, qui sunt apparentiae. Correspondentiae autem oppositae sunt apud illos qui in affectionibus malis sunt; hi vel sunt in infernis inclusi ergastulis, quae sunt absque fenestris, in quibus tamen est lumen sicut ex igne fatuo, vel sunt in desertis et habitant in mapalibus, circum quae omnia sterilia sunt, et ibi serpentes, dracones, ululae, et plura, quae malis illorum correspondent. [3] Inter caelum et infernum est locus medius, qui vocatur mundus spirituum: in hunc venit omnis homo statim post mortem; et ibi simile commercium est unius cum altero, sicut hominum inter se super tellure; ibi etiam omnia, quae apparent, correspondentiae sunt; apparent etiam ibi horti, luci, silvae cum arboribus et virgultis, ut et campi floridi et virides, et simul varii generis bestiae, mites et immites, omnia secundum correspondentiam affectionum illorum. Ibi saepius vidi oves et hircos; et quoque pugnas inter illos, similes illi pugnae quae describitur apud Danielem (cap. viii.); [4] vidi hircos cum cornibus antrorsum et retrorsum flexis, ac illos cum furore irruentes in oves; vidi hircos cum duobus cornibus, quibus cum vehementia ferierunt oves; et cum aspexi quid esset, vidi aliquos rixantes inter se de charitate et fide; ex quo patuit, quod fides separata a charitate esset quae appareret sicut hircus, et quod charitas ex qua fides esset quae appareret sicut ovis. Quia haec saepius vidi, datum est pro certo scire, quod illi qui in fide separata a charitate sunt, in Verbo per "hircos" intelligantur.

(2) 直訳
(i.) Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, intelliguntur in Verbo per "hircos;" ab experientia in mundo spirituali. (i.) 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることは、霊界での経験から〔示される〕。
In mundo spirituali apparent omnia quae in mundo naturali; 霊界では自然界の中のすべてのものが現われる。
apparent domus et palatia, apparent paradisi et horti, et in illis arbores omnis generis; 家や宮殿が現われる、楽園や庭園が現われる、それとその中のすべて種類の木。
apparent agri et novalia, tum campi et vireta; 畑や耕地が現われる、さらに平地や草地。
et quoque armenta et greges; 牛の群れや羊の群れもまた。
omnia in tali similitudine, in qua super nostra tellure; すべてのものはこのような似たものの中に、(私たちの)地球の上のものの中に〔現われる〕。
☆nostra tellus(私たちの惑星)で「地球」の意味になります。
nec alia intercedit differentia, quam quod haec sint ex origine naturali, et illa ex origine spirituali. 他の相違もない、後者は自然的な起源からであり、後者は霊的な起源からであること以外に。
Quare angeli, quia spirituales sunt, vident illa quae ex origine spirituali sunt, similiter ut homines illa quae ex origine naturali sunt. それゆえ、天使たちは、霊的であるので、霊的な起源からのものを見る、自然的な起源からのものを見る人間と同じように。
[2] Omnia quae apparent in mundo spirituali, sunt correspondentiae, correspondent enim affectionibus angelorum et spirituum. 霊界に現われるすべてのものは、対応物である、なぜなら、天使たちと霊たちの情愛に対応するから。
☆correspondentiaには「対応」以外に「対応する霊的な概念をもたらすのに役立つ対象物」の意味があります。
Haec causa est, quod illi qui in affectione boni et veri sunt, et inde in sapientia et intelligentia, habitent in palatiis magnificis, circum quae sunt paradisi pleni arboribus, quae correspondent, et circum illos agri et campi, in quibus cubant greges, qui sunt apparentiae. これは理由である、善と真理の情愛の中に、それゆえ知恵と知性の中にいる者は、壮大な宮殿に住むこと、その周囲には木に満ちた楽園、それは対応する、またその周囲には畑や平地、その中で(牛の)群れが伏せる、それらは外観である。
Correspondentiae autem oppositae sunt apud illos qui in affectionibus malis sunt; しかし、悪の情愛の中にいる者、その者に正反対の対応物がある。
hi vel sunt in infernis inclusi ergastulis, quae sunt absque fenestris, in quibus tamen est lumen sicut ex igne fatuo, これらの者は地獄の強制収容所に閉じ込められている、そこに窓はない、その中にはそれでも鬼火からのような光がある、(〜かまたは〜)
☆vel…vel…で「〜かまたは〜」。このergasutulumには激しい労働がともないます。☆鬼火は狐火とも訳せる、惑わしの光です。
vel sunt in desertis et habitant in mapalibus, circum quae omnia sterilia sunt, et ibi serpentes, dracones, ululae, et plura, quae malis illorum correspondent. (かまたは)荒地の中にいて、あばら屋に住んでいる、その周囲にはすべて不毛(の地)がある、そしてそこに、ヘビ、竜、フクロウ、多くのもの、それらは彼らの悪に対応する。
[3] Inter caelum et infernum est locus medius, qui vocatur mundus spirituum: 天界と地獄の間には中間の場所がある、それは霊たちの世界と呼ばれる。
in hunc venit omnis homo statim post mortem; この中へすべての人間は死後、直ちにやって来る。
et ibi simile commercium est unius cum altero, sicut hominum inter se super tellure; そこ〔の場所〕で、互いの交際がある、人間のような、地上の自分たちの間の。
ibi etiam omnia, quae apparent, correspondentiae sunt; そこ〔の場所〕で、すべてのものもまた、現われている、対応するものである。
apparent etiam ibi horti, luci, silvae cum arboribus et virgultis, ut et campi floridi et virides, et simul varii generis bestiae, mites et immites, omnia secundum correspondentiam affectionum illorum. そこにはまた現われている、庭園、木立ち、木と潅木の森、また花と緑の原のような、また同時にいろいろな種類の動物、おとなしいものと獰猛なもの、すべてのものは彼らの情愛の対応にしたがって。
[4] Ibi saepius vidi oves et hircos; そこ〔の場所〕で、しばしば私は羊と雄山羊を見た。
☆編集者のつけた[4]の位置をここにしました。分段の区切りは句読点の違いから、また内容から、このほうがよいと思います。
et quoque pugnas inter illos, similes illi pugnae quae describitur apud Danielem (cap. viii.); 彼らの間の闘争もまた、その闘争は「ダニエル書」(第8章)に記述されているものに似ている。
vidi hircos cum cornibus antrorsum et retrorsum flexis, ac illos cum furore irruentes in oves; 私は前方にまた後方に曲がっている角をもった雄山羊を見た、そして羊に激怒して突進するそれらを。
vidi hircos cum duobus cornibus, quibus cum vehementia ferierunt oves; 私は二つの角をもった雄山羊を見た、それ(角)をもって、激しさをもって羊を突くのを見た。
et cum aspexi quid esset, vidi aliquos rixantes inter se de charitate et fide; そして私が〔それらがいったい〕何であるか〔よく知ろうと〕見つめたとき、私は口論しているある者たちを見た、彼らの間で仁愛と信仰について。
ex quo patuit, quod fides separata a charitate esset quae appareret sicut hircus, et quod charitas ex qua fides esset quae appareret sicut ovis. このことから明らかになった、仁愛から分離した信仰が雄山羊のように現われたこと、仁愛が、それから信仰が存在する、羊のように現われたこと。
Quia haec saepius vidi, datum est pro certo scire, quod illi qui in fide separata a charitate sunt, in Verbo per "hircos" intelligantur. これらをしばしば私は見たので、確かに知ることとして与えられた、仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることが。

(3) 訳文
(i.) 「仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることは、霊界での経験から示される」。霊界では自然界の中のすべてのものが現われる。家や宮殿が現われ、楽園や庭園それとその中のすべて種類の木が現われる。畑や耕地、さらに平地や草地、牛の群れや羊の群れもまた現われる。すべてのものは、地球上〔にある〕のものに似たものの中に現われる。後者が自然的な起源から、後者が霊的な起源からであること以外に何の相違もない。それゆえ、霊的である(ので)天使たちは、自然的な起源からのものを見る人間と同じように、霊的な起源からのものを見る。
[2] 霊界に現われるすべてのものは対応物である。なぜなら、天使たちと霊たちの情愛に対応するから。このことが、善と真理の情愛の中に、それゆえ知恵と知性の中にいる者は、対応する壮大な宮殿に住み、その周囲には木に満ちた楽園であり、そのまた周囲には畑や(牛の)群れが伏せる平地があることの理由である、そしてそれらは外観である。しかし、悪の情愛の中にいる者には正反対の対応物がある。彼らは地獄の窓のない、それでもそこには鬼火からのような光がある強制労働所に閉じ込められている、かまたは、荒地の中にいて、あばら屋に住んでいる。その周囲はすべて不毛の地であり、そこには彼らの悪に対応する、ヘビ、竜、フクロウ、その他多くのものがいる。
[3] 天界と地獄の間には、霊たちの世界と呼ばれる中間の場所がある。ここへ死後、すべての人間は直ちにやって来る。そこには、地上の人間たちの間のような、互いの交際がある。そこには、対応するすべてのものもまた現われている。そこにはまた、庭園、木立ち、木と潅木の森、また花と緑の原、また同時に、おとなしいものや獰猛なものなどいろいろな種類の動物が、そのすべてのものが彼らの情愛の対応にしたがって、現われている。
[4] そこで、私はしばしば羊と雄山羊を見た。また彼らの間の闘争も見たが、その闘争は「ダニエル書」(第8章)に記述されているものに似ている。
 私は前方にまた後方に曲がっている角をもった雄山羊が羊に激怒して突進するのを見た。私は二つの角をもった雄山羊が、その角で激しく羊を突くのを見た。私がそれらはいったい何事かとよく見つめたとき、私は仁愛と信仰について彼らの間で口論している者たちを見た。このことから、仁愛から分離した信仰が雄山羊のように現われたこと、信仰が存在するもととなる仁愛が羊のように現われたことが明らかになった。これらのことを私はしばしば見たので、仁愛から分離した信仰の中にいる者が、みことばの中で「雄山羊」によって意味されることを確かに知るようになった。

author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 12:17
comments(0), trackbacks(0), pookmark
原典講読『信仰』61,62
     (IX.)
   QUOD ILLI QUI IN FIDE SEPARATA A CHARITATE SUNT, INTELLIGANTUR
   PER "HIRCOS" APUD DANIELEM ET MATTHAEUM.
   仁愛から分離した信仰の中にいる者は、
   「ダニエル書」と「マタイ福音書」で「雄山羊」によって意味されること。

(1) 原文
61. Quod Per "hircum" apud Danielem (cap. viii.), et per "hircos" apud Matthaeum (cap. xxv.), intelligantur illi qui in fide separata a charitate sunt, constare potest ex eo, quod opponantur "arieti" et "ovibus" ibi; et per "arietem" et per "oves" intelliguntur qui in charitate sunt: Dominus enim in Verbo vocatur Pastor; ecclesia ovile; et homines ecclesiae in genere vocantur grex, et in specie oves: et quia "oves" sunt illi qui in charitate sunt, ideo "hirci" sunt illi qui non in charitate.

(2) 直訳
Quod Per "hircum" apud Danielem (cap. viii.), et per "hircos" apud Matthaeum (cap. xxv.), intelligantur illi qui in fide separata a charitate sunt, constare potest ex eo, quod opponantur "arieti" et "ovibus" ibi; 「ダニエル書」(第8章)での「雄山羊」によって、「マタイ福音書」(第15章)での「山羊(複数)」によって、仁愛から分離した信仰の中にいる者が意味されることは、それから明らかにすることができる、そこの「雄羊」と「羊」に対立されること。
et per "arietem" et per "oves" intelliguntur qui in charitate sunt: 「雄羊」によって、また「羊」によって仁愛の中にいる者が意味される。
Dominus enim in Verbo vocatur Pastor; なぜなら、みことばの中で主は羊飼いと呼ばれるから。
ecclesia ovile; 教会は〔羊の〕囲い。
et homines ecclesiae in genere vocantur grex, et in specie oves: そして教会の人間は一般的に〔羊の〕群れと呼ばれる、特には羊と。
et quia "oves" sunt illi qui in charitate sunt, ideo "hirci" sunt illi qui non in charitate. そして「羊」は仁愛の中にいる者であるので、それゆえ、「雄山羊」は仁愛の中にいない者である。

(3) 訳文
 「ダニエル書」(第8章)での「雄山羊」によって、「マタイ福音書」(第15章)での「山羊」によって、仁愛から分離した信仰の中にいる者が意味されることは、そこの「雄羊」と「羊」に対置されていることから明らかにすることができる。「雄羊」によって、また「羊」によって、仁愛の中にいる者が意味される。なぜなら、みことばの中で主は羊飼い、教会は羊の囲い、教会の人間は一般的に羊の群れ、特には羊と呼ばれるからである。「羊」は仁愛の中にいる者であるので、それゆえ、「雄山羊」は仁愛の中にいない者である。

(1) 原文
62. Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, per "hircos" intelligantur, demonstrabitur,

(i.) Ab experientia in mundo spirituali ;
(ii.) Ad Ultimo Judicio, super quos peractum est ;
(iii.) Ex descriptione pugnae inter arietem et hircum apud Danielem ;
(iv.) Et demum ex omissione charitatis illorum, de quibus apud Matthaeum.

(2) 直訳
Quod illi qui in fide separata a charitate sunt, per "hircos" intelligantur, demonstrabitur, 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、「雄山羊」によって意味されることが、示される(未来形)。
(i.) Ab experientia in mundo spirituali ; (1) 霊界での経験から。
(ii.) Ad Ultimo Judicio, super quos peractum est ; (2) 最後の審判によって、彼らの上に起こった。
(iii.) Ex descriptione pugnae inter arietem et hircum apud Danielem ; (3) 「ダニエル書」での雄羊と山羊との間の闘争の記述から。
(iv.) Et demum ex omissione charitatis illorum, de quibus apud Matthaeum. (4) そして最後に、彼らの仁愛の無視から、そのことについて「マタイ福音書」に。

(3) 訳文
 仁愛から分離した信仰の中にいる者が、「雄山羊」によって意味されることを示めそう。
 (1) 霊界での経験から。
 (2) 彼らに起こった最後の審判によって。
 (3) 「ダニエル書」にある雄羊と山羊との間の闘争の記述から。
 (4) 最後に、彼らが仁愛を無視したこと、そのことについて「マタイ福音書」から。

author:yasubee, category:原典講読 『信仰』, 09:01
comments(0), trackbacks(0), pookmark