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原典講読『神の摂理』を終えて
 

 掲載開始が去年の2010724日、その前に『天界と地獄』の掲載がちょうど1年かかったので(それよりやや分量が少ない)10か月ぐらいかと予想していたが、そのようになった。詳しく言えば10か月と2週間であるが、去年の8月終わりから9月初めにかけて2週間入院していたので、それから計算すればやはり10か月。毎日続けていると、だいたいの進捗状況は一定してきて、予想が付く。

 

掲載の途中で、あまりの大作なのでジャングルに迷い込んでしまったような気がした。どういうことかと言えば、『神の摂理』と『天界と地獄』を比べると、後者はトピックの並列であり、一つの章も短くまとまっていて、いちおう「読みやすい」。しかし、前者は論理的叙述の連続であり、それが延々と長く続く。今、どのあたりを読んであるのか、周囲が見えず、めくらめっぽう歩き、迷い込んでいるようだったからである。そのような印象をもたれた読者の方もおられるのではないであろうか?

この意味ではスヴェーデンボリの著作の中で一番難解なもののひとつかもしれない。しっかりと構成された本であり、気楽に読みとおせるものではない(しかし、安直な読み物ばかり読んでしまうかもしれないとき、このような「お堅い」ものを読んで、気を引き締めるのもよい頭の訓練になるかもしれない)いすれにせよ、スヴェーデンボリの思想を把握するために、いつかはきちっと読んでおくべき本であろう。

 

本書の出版を期待している方がいる。頭を休め、多少間をとってから、来年に半年ぐらいの期間をかけて見直して、その後、出版できたら、と願っている。

 

さて、今後のこと。次から原典講読『宗教と生活』を連載する。これもある方の希望である。薄いので3カ月もしないで終えるであろう、そしてそのままこの秋に出版したいと思っている。

題名『宗教と生活』は聞いたことがないと思う。ジョン・チャドウィックが『黙示録講解』の第15章、第16章から抜粋して編集したものの題名(RELIGION AND LIFE)であり、前半が宗教全般(15)、後半が十戒(16)を扱っている。

author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 00:50
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原典講読「神の摂理』終了 340([6],[7])
 

* * * * *

(2) 直訳(以下は『結婚愛』461番で再び述べられています)

[6.] Ignoscatis quod haec adjiciantur, ut superfluum chartae impleatur. [6.] あなたがたが容赦する(接続)〔ことを願う〕、これらが付加されること、紙の余分を満たすために。

Ascenderunt quidam spiritus ex permissione ab inferno, et mihi dixerunt, "Scripsisti multa ex Domino, scribe etiam aliquid e nobis." ある霊たちが(神の)許しから(により)地獄からのぼった、また私に言った、「あなたは神から多くのことを書いた、私たちからもまた何らかのことを書け」。

Respondi, "Quid scribam?" 私は答えた、「何を私は書きましょうか?」

Dicebant "Scribe, quod unusquisque spiritus, sive bonus sive malus sit, in suo jucundo sit, bonus in sui boni jucundo, et malus in sui mali jucundo." 彼らは言った、「書け、それぞれの霊は、あるいは善い者、あるいは悪い者である、自分の快さの中にいること、善い者は自分の善の快さの中に、また悪い者は自分の悪の快さの中に」。

Quaesivi "Quid vestrum jucundum?" 私は質問した、「何があなたがたの快さ〔です〕か?」

Dixerunt quod esset jucundum adulterandi, furandi, defraudandi, mentiendi. 彼らは言った、姦淫する、盗む、だます、偽る(うそをつく)快さである(であった)こと。

Et iterum quaesivi, "Qualia sunt jucunda illa?" また再び私は質問した、「その快さはどのようなものですか?」

Dixerunt quod sentiantur ab aliis sicut fetores ex stercoribus, et sicut putores ex cadaveribus, et sicut nidores ex urinis stagnatis." 彼らは言った、他の者により糞からの悪臭(いやなにおい)ように感じられること、また死体からの腐臭のように、またよどんだ尿からの臭いのように。

Dixi, "Sunt illa vobis jucunda?" 私は言った、「それらがあなたがたに快いのですね?」

Dixerunt quod sint jucundissima. 彼らは言った、極めて快いものであること。

Dixi, "Tunc estis sicut immundae bestiae, quae in talibus degunt." 私は言った、「その時、あなたがたは不潔な獣です、それらはそのようなものの中で時を過ごす」。

Responderunt, "Si simus, sumus; 彼らは答えた、「もし私たちが〔そのようなもの〕である☆なら、私たちは〔そのようなもの〕である☆。

ラテン語にこのような表現法がること、すなわち、接続法と直接法を持っていることに、感心してしまいます。日本語で「そのようなもの爐任△覘瓩覆蕁△修里茲Δ覆發劉爐任△覘瓩もしれない」と言えば、これで意味が通じます、それでもこの二つの爐任△覘瓩隆屬棒楝核,板樟榾,使われていて、しかも意味を持っています。すなわち認識上の「である」(接続法)、「あなたはそう思うかもしれない」というニュアンスと、事実上の「である」(直接法)、「それでもこれが私たちの実態である」のニュアンスです。このニュアンスの違いを、接続法と直接法を並び立てて明確にしています。このような簡略で、また明快な表現をラテン語は持っています。これは日本語にはないでしょう、味わうべきラテン語の特徴です。

sed talia sunt deliciae narium nostrarum." しかし、このような(そのような)ものは私たちの鼻の歓喜(快感のもと)ある」。

[7.] Quaesivi, "Quid plura e vobis scribam?" [7.] 私は質問した、「何かあなたがたからのもっと多くのものを私は書きましょうか?」

Dixerunt, "Hoc, quod unicuivis liceat in suo jucundo esse, etiam immundissimo, ut illud vocant, modo non infestet bonos spiritus et angelos; 彼らは言った、「このことを、それぞれの者に自分の快さの中にいることが許されていること、最も不潔なもの〔快さ〕もまた、それを呼ぶように、善い霊や天使を悩まさないかぎり。

sed quia non aliter potuimus quam illos infestare, abacti sumus, et dejecti in infernum, ubi patimur dira." しかし、私たちは彼らを悩ますこと以外に異なってできないので、私たちは追い払われた、また地獄の中に投げ込まれた、私たちはそこ(の場所)恐ろしいことを受ける(苦しむ)

Dixi, "Cur infestavistis bonos?" 私は言った、「なぜ、あなたがたは善い者たちを悩ませたのですか?」

Responderunt quod non potuerint aliter; 彼らは答えた、異なってできなかったこと。

est sicut furor invadat, cum vident aliquem angelum, et sentiunt sphaeram Divinam circum illum. 激怒が入り込むようである、彼らがある天使を見るとき、また彼らのまわりの神的なスフェアを感じる。

Tunc dixi, "Sic estis etiam sicut ferae." その時(とき)、私は言った、「このように、あなたがたもまた獣のようです」。

Quo audito supervenit furor, qui apparuit sicut ignis odii; それを聞くと、激怒が出てきた、それは憎悪の火のように見えた。

et ne damnum inferrent, in infernum retracti sunt. また危害を加えないように、地獄の中に引っ込められた。
De jucundis sensis ut odores ac ut nidores in mundo spirituali, videatur supra (n. 303-305, 324).
 快い感覚について、霊界の中で香りのような、そして臭いのような、上に見られる(303-305, 324)

 

(3) 訳文

340.  [6.] 紙の余分を満たすために、次のことが付加されることを、あなたがたが容赦するであろう。

 

 ある霊たちが(神の)許しにより地獄からのぼり、私に言った、「あなたは神から多くのことを書いた、私たちからもまた何らかのことを書け」。

 私は答えた、「何を書きましょうか?」

 彼らは言った、「書け、善い者であれ、は悪い者であれ、それぞれの霊は自分の快さの中に、善い者は自分の善の快さの中に、また悪い者は自分の悪の快さの中にいること」。

 私は質問した、「何があなたがたの快さですか?」

 彼らは、姦淫し、盗み、だまし、偽る快さであることを言った。

 また再び私は質問した、「その快さはどのようなものですか?」

 他の者からは、糞からの悪臭ように、死体からの腐臭のように、またよどんだ尿からの臭いのように感じられる、と彼らは言った。

 私は言った、「それらがあなたがたに快いのですね?」

 極めて快いものである、と彼らは言った。

 私は言った、「その時、あなたがたはそのようなものの中で時を過ごす不潔な獣です」。

 彼らは答えた、「もし私たちがそうであるなら、そうである。しかし、このようなものが私たちの鼻の快感のもとである」。

[7.] 私は質問した、「あなたがたから何かもっと書きましょうか?」

 彼らは言った、「このことを〔書け〕、善い霊や天使を悩まさないかぎり、それぞれの者に、最も不潔なものと呼ぶようなものでも、自分の快さの中にいることが許されていること。しかし、私たちは彼らを悩ますことしかできないので、追い払われ、地獄の中に投げ込まれ、そこ(の場所)恐ろしいことを受ける。

 私は言った、「なぜ、あなたがたは善い者たちを悩ませたのですか?」

 彼らは答えた、異なってできなかったこと。彼らがある天使を見、また彼らのまわりの神的なスフェアを感じるとき、激怒が入り込むようである。

 そのとき、私は言った、「このように、あなたがたもまた獣のようです」。それを聞くと、激怒が出てきた、それは憎悪の火のように見え、危害を加えないように地獄の中に引っ込められた。

 

 霊界の中での香り、臭いのような快い感覚については、前に見られる(303-305, 324)

 

〔終了です、別のところで感想を述べます〕

author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 23:56
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原典講読「神の摂理』 340([4],[5])
 

(2) 直訳

[4.] Secundum:  [4.] 第二:

Quod per fidem momentaneae salvationis ex pura et sola misericordia inducatur securitas vitae. 純粋なまた単に☆慈悲だけからの瞬間の救いの信仰から生活の信頼(油断)が引き起こされること。

ここはpura et solaとなっていますが、文脈からはmomentanea「直接の」がよいと思います。それまでpurus misericordiaは主からのもととしているからです。他では[2.]per idまた[5.]per illam fidemとしているのにここ[4.]だけこのようにわざわざ長く書いているのでしょうか?

Securitas vitae oritur vel ex fide impii quod non sit vita post mortem, vel ex fide separantis vitam a salvatione. 生活の信頼(油断)があるいは不信心な信仰から起こる、死後の生活はないこと、あるいは救いから切り離された生活の信仰から。

Hic tametsi crederet vitam aeternam, usque cogitat, "Sive bene vivam sive male vivam, salvari possum, quoniam salvatio est pura misericordia, et misericordia Dei est universalis, quia non vult alicujus mortem." この者は〔後者〕たとえ永遠の生活(いのち)を信じても、それでも考える、「あるいは私が善く生きる、あるかいは私が悪く生きる、救われることができる、救いは純粋な慈悲であるので、また神の慈悲は普遍的である、またある者の死を欲しない」。

Et si forte incidit cogitatio quod misericordia imploranda sit per voces fidei receptae, potest cogitare, quod hoc possit fieri, si non prius, usque ante mortem. またもしことによると考えがぶつかる(起こる)なら、慈悲を祈らなければならない、受け入れた信仰の言葉によって、考えることができる、このことは行なうことができる、もし前にでないなら、それでも死の後で。

Omnis homo qui in illa securitate est, nihili facit adulteria, defraudationes, injustitias, violentias, blasphemationes, vindictas; すべての人間は、その信頼(油断)の中にいる者、姦淫を何もないとする、欺瞞、不正、暴行(強姦)、冒涜、復讐。

sed carnem suam et spiritum suum ad omnia illa relaxat; しかし、自分の肉と自分の霊をそれらすべてのものにゆるめる(弛緩させる)

nec scit quid spirituale malum et ejus concupiscentia: 何が霊的な悪とその欲望かも知らない。

si audit aliquid de hoc ex Verbo, est comparative sicut id quod incidit in ebenum et resilit, vel sicut id quod incidit in scrobem et absorbetur. もし、みことばからこれについて何らかのものを聞くなら、比較によってそれのようなものである、黒檀〔の台〕にぶつかり、はずむ(はね返る)こと、あるいはそれのよう、穴にぶつかり、のみこまれること。

[5.] Tertium: [5.] 第五:

Quod per illam fidem damnatio imputetur Domino. その信仰によって断罪が主に帰せられること。

Quis non potest concludere, quod non homo, sed Dominus in culpa sit, si non salvatur, dum unumquemvis potest salvare ex pura misericordia? だれが結論することができないか? 人間でなく、しかし主が責任(過失)中にあること、もし救われないなら、それぞれの者を純粋な慈悲から救うことができる時。

Si dicitur, quod medium salvationis sit fides; もし言われるなら、救いの手段が信仰であること。

sed quis homo est cui non dari potest illa fides, est enim illa solum cogitatio, quae potest infundi in omni statu spiritus abstracti a mundanis, etiam cum fiducia: しかし、だれが人間であるか、その者にその信仰が与えられることができない、というのは、それは単なる思考であるから、それは世俗的なことから切り離されたすべての霊の状態の中に注ぎ込まれることができる、さらにまた信頼とともに。

et ille quoque potest dicere, "Non possum illam sumere a me ipso;" また彼もまた言うことができる、「私はそれを私自身から持つ(得る)ことができない」。

si itaque non datur, et homo damnatur, quid damnatus aliud cogitare potest, quam quod Dominus in culpa sit, qui potuit et non voluit? そこでもし与えられないなら、また人間が断罪される〔なら〕、何らかの断罪(非難)の何を考えることができるか? 主が責任(過失)中にあること以外に、その者はできる、また欲しない。

Annon id foret Ipsum vocare immisericordem? それはその方を無慈悲〔な方〕と呼ぶことにならないか?

Ac insuper in excandescentia fidei suae potest dicere, "Cur tot damnatos potest videre in inferno, cum tamen momento potest salvare omnes ex pura misericordia?" そして加えて、自分の信仰(信念)憤りの中で、言うことができる、「なぜこのように多くの断罪された(地獄に落とされた)を地獄の中に見ることができるのか? そのときそれでも瞬間にすべての者を救うことができる、純粋な慈悲から」。

et plura similia, quae non aliter vocari possunt quam nefandae insimulationes contra Divinum. また多くの同様のこと、それは神性に対して恐るべき告(非難)外に異なって呼ばれることができない。

Ex his nunc constare potest, quod fides momentaneae salvationis ex pura misericordia, sit prester volans in ecclesia. これらから今や明らかにすることができる、純粋な☆慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であること。

ここも同じく「直接の」がよいと思うのですが? 

 

(3) 訳文

340.  [4.] 第二:「純粋なまた単に慈悲だけからの瞬間の救いの信仰から生活の信頼(油断)が引き起こされること」

 生活の信頼(油断)は、あるいは死後の生活はない、という不信心な信仰から、あるいは救いから切り離された生活の信仰から起こる。

 後者は、たとえ永遠の生活(いのち)を信じても、それでも、「私が善く生きるにしろ、あるかいは悪く生きるにしろ、救いは純粋な慈悲であり、神の慈悲は普遍的であるので救われることができる、またある者の死を欲されない」と考える。またことによると受け入れた信仰の言葉によって慈悲を祈らなければならないという考え起こるかもしれないが、このことは、もし死の前でないなら、それでも死の後に行なうことができる、と考えることができる。

 その信頼(油断)の中にいるすべての人間は、姦淫、欺瞞、不正、暴行、冒涜、復讐を何でもないとする。しかし、自分の肉と自分の霊をそれらすべてのものに向けて弛緩させ、何が霊的な悪とその欲望かも知らない。もし、みことばからこれについて何らかのものを聞くとき、たとえるなら、黒檀にぶつかって、はね返るようなもの、あるいは穴にぶつかり、のみこまれるようなものである

[5.] 第五:「その信仰によって断罪が主に帰せられること」

それぞれの者を純粋な慈悲から救うことができる時、もし救われないなら人間でなく、しかし主に責任(過失)ある、とだれが結論することができないか?

 もし、救いの手段が信仰である、と言われるなら、しかし、その信仰が与えられることができない人間はだれなのか、というのはそれは単なる思考であり、さらにまた信頼とともに、それは世俗的なことから切り離されたすべての霊の状態の中に注ぎ込まれることができるから。またその者は、「私はそれを私自身から持つ(得る)ことができない」と言うこともできる。そこでもし与えられず、人間が断罪されるなら、でき、また欲しない者である主に責任(過失)あること以外に、何らかの非難を考えることができるのか? それはその方を無慈悲〔な方〕と呼ぶことではないのか?

 そして加えて、自分の信念からの憤りの中で、「なぜこのように多くの断罪された者を地獄の中に見ることができるのか? そのときそれでも純粋な慈悲から瞬間にすべての者を救うことができるのに」と言うことができる。また多くの同様のことも、それは神性に対する恐るべき非難としか呼ばれることができない。

そこでこれらから、純粋な☆慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であることを明らかにすることができる。

☆訳注 ここは「直接の」がよいと思う。
author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 00:54
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原典講読「神の摂理』 340(~[3])
 

(1) 原文

340.  (iv.) Quod momentanea salvatio ex immediata misericordia sit prester volans in ecclesia.Per presterem volantem intelligitur malum ex igne infernali lucens, simile quod per "presterem volantem" apud Esaiam:

"Ne laeteris Philisthaea tota, quod fracta sit virga percutiens te; nam e radice serpentis exibit basiliscus, cujus fructus prester volans" (xiv. 29).

 

Tale malum volat in ecclesia, quando momentanea salvatio ex immediata misericordia creditur; nam per id, (1.) aboletur religio. (2.) Inducitur securitas. (3.) Et damnatio imputatur Domino. [2.] Quod concernit Primum: Quod per id aboleatur religio. Sunt duo essentialia et simul universalia religionis, agnitio Dei et paenitentia. Haec duo vana sunt illis, qui credunt salvari ex sola misericordia, utcunque vivunt, nam quid opus pluribus, quam dicere, "Miserere mei, Deus?" De omnibus reliquis, quae religionis sunt, in caligine sunt, immo caliginem amant. De primo essentiali ecclesiae, quod est agnitio Dei, non aliud cogitant, quam "Quid Deus? quis vidit Illum?" Si dicitur quod sit et quod sit unus, dicunt quod sit unus; si dicitur quod sint tres, etiam dicunt quod sint, sed quod tres nominandi sint unus: haec est agnitio Dei apud illos. [3.] De altero essentiali ecclesiae, quod est paenitentia, nihil cogitant, consequenter nec de aliquo peccato, et tandem non sciunt quod aliquod peccatum sit. Et tunc audiunt et hauriunt cum voluptate, quod lex non damnet, "quia Christianus sub ejus jugo non est, si dicas modo, Miserere mei Deus propter Filium, et salvaberis." Haec est paenitentia vitae apud illos. Sed remove paenitentiam, seu quod idem est, separa vitam a religione, quid superest nisi quam vox, "Miserere mei?" Inde est, quod nec aliud potuerint dicere, quam quod salvatio sit momentanea per illas voces, et si non prius, usque circa mortis horam. Quid tunc Verbum illis, nisi quam vox obscura et aenignatica ex tripode in antro emissa; aut sicut responsum non intellectum ex oraculo idoli? Verbo, si removes paenitentiam, hoc est, separas vitam a religione, quid homo tunc aliud quam malum ex igne infernali lucens, seu prester volans in ecclesia? nam absque paenitentia est homo in malo, et malum est infernum. [4.] Secundum: Quod per fidem momentaneae salvationis ex pura et sola misericordia inducatur securitas vitae. Securitas vitae oritur vel ex fide impii quod non sit vita post mortem, vel ex fide separantis vitam a salvatione. Hic tametsi crederet vitam aeternam, usque cogitat, "Sive bene vivam sive male vivam, salvari possum, quoniam salvatio est pura misericordia, et misericordia Dei est universalis, quia non vult alicujus mortem." Et si forte incidit cogitatio quod misericordia imploranda sit per voces fidei receptae, potest cogitare, quod hoc possit fieri, si non prius, usque ante mortem. Omnis homo qui in illa securitate est, nihili facit adulteria, defraudationes, injustitias, violentias, blasphemationes, vindictas; sed carnem suam et spiritum suum ad omnia illa relaxat; nec scit quid spirituale malum et ejus concupiscentia: si audit aliquid de hoc ex Verbo, est comparative sicut id quod incidit in ebenum et resilit, vel sicut id quod incidit in scrobem et absorbetur. [5.] Tertium: Quod per illam fidem damnatio imputetur Domino. Quis non potest concludere, quod non homo, sed Dominus in culpa sit, si non salvatur, dum unumquemvis potest salvare ex pura misericordia? Si dicitur, quod medium salvationis sit fides; sed quis homo est cui non dari potest illa fides, est enim illa solum cogitatio, quae potest infundi in omni statu spiritus abstracti a mundanis, etiam cum fiducia: et ille quoque potest dicere, "Non possum illam sumere a me ipso;" si itaque non datur, et homo damnatur, quid damnatus aliud cogitare potest, quam quod Dominus in culpa sit, qui potuit et non voluit? Annon id foret Ipsum vocare immisericordem? Ac insuper in excandescentia fidei suae potest dicere, "Cur tot damnatos potest videre in inferno, cum tamen momento potest salvare omnes ex pura misericordia?" et plura similia, quae non aliter vocari possunt quam nefandae insimulationes contra Divinum. Ex his nunc constare potest, quod fides momentaneae salvationis ex pura misericordia, sit prester volans in ecclesia.

 

* * * * *

 

[6.] Ignoscatis quod haec adjiciantur, ut superfluum chartae impleatur.

 

Ascenderunt quidam spiritus ex permissione ab inferno, et mihi dixerunt, "Scripsisti multa ex Domino, scribe etiam aliquid e nobis."

Respondi, "Quid scribam?"

Dicebant "Scribe, quod unusquisque spiritus, sive bonus sive malus sit, in suo jucundo sit, bonus in sui boni jucundo, et malus in sui mali jucundo."

Quaesivi "Quid vestrum jucundum?"

Dixerunt quod esset jucundum adulterandi, furandi, defraudandi, mentiendi.

Et iterum quaesivi, "Qualia sunt jucunda illa?"

Dixerunt quod sentiantur ab aliis sicut fetores ex stercoribus, et sicut putores ex cadaveribus, et sicut nidores ex urinis stagnatis."

Dixi, "Sunt illa vobis jucunda?"

Dixerunt quod sint jucundissima.

Dixi, "Tunc estis sicut immundae bestiae, quae in talibus degunt."

Responderunt, "Si simus, sumus; sed talia sunt deliciae narium nostrarum."

[7.] Quaesivi, "Quid plura e vobis scribam?"

Dixerunt, "Hoc, quod unicuivis liceat in suo jucundo esse, etiam immundissimo, ut illud vocant, modo non infestet bonos spiritus et angelos; sed quia non aliter potuimus quam illos infestare, abacti sumus, et dejecti in infernum, ubi patimur dira."

Dixi, "Cur infestavistis bonos?"

Responderunt quod non potuerint aliter; est sicut furor invadat, cum vident aliquem angelum, et sentiunt sphaeram Divinam circum illum.

Tunc dixi, "Sic estis etiam sicut ferae."

Quo audito supervenit furor, qui apparuit sicut ignis odii; et ne damnum inferrent, in infernum retracti sunt.

De jucundis sensis ut odores ac ut nidores in mundo spirituali, videatur supra (n. 303-305, 324).

 

(2) 直訳

(iv.) Quod momentanea salvatio ex immediata misericordia sit prester volans in ecclesia.― (iv.) 直接の慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であること―

Per presterem volantem intelligitur malum ex igne infernali lucens, simile quod per "presterem volantem" apud Esaiam: 飛びかける火蛇によって地獄の火から輝く悪が意味される、同様のものが「イザヤ書」の「飛びかける火蛇」によって。
"Ne laeteris Philisthaea tota, quod fracta sit virga percutiens te;
 「あなたは喜ぶな、全ペリシテよ、あなたを打っている杖が折られたこと。

nam e radice serpentis exibit basiliscus, cujus fructus prester volans" (xiv. 29). なぜなら、蛇の根☆からバジリスク(有毒な蛇)が出たから、その果実☆は飛びかける火蛇」(14:29)

ここの「根」と「果実」を新改訳聖書は「子孫」と「子」と意訳していますが、うなずけません。この部分は協会訳聖書がへブル原典に一致します。ただ協会訳は「ペリシテの全地よ」と「地」を余計につけています。

Tale malum volat in ecclesia, quando momentanea salvatio ex immediata misericordia creditur; このような悪が教会の中を飛ぶ、直接の慈悲からの瞬間の救いが信じられる時。

nam per id, なぜなら、それによって

(1.) aboletur religio. (1.) 宗教が破壊される。

(2.) Inducitur securitas. (2.) 信頼☆が引き起こされる。

英語セキュリティ(security)「安全・安心」(語源はsecuritas)には「過ぎた安心」すなわち「油断」の意味もあります。ここもその意味がよいでしょう。その油断とはこの後[4]に述べられています。

(3.) Et damnatio imputatur Domino. (3.) また、断罪が主に帰せられる。

[2.] Quod concernit Primum: [2.] 第一については☆:

quod concernitで「〜については、〜に関しては」という意味です。

Quod per id aboleatur religio. 「それによって宗教が破壊されること」

Sunt duo essentialia et simul universalia religionis, agnitio Dei et paenitentia. 宗教の二つの本質的なものと同時に普遍的なものがある、神の承認と悔い改め。

Haec duo vana sunt illis, qui credunt salvari ex sola misericordia, utcunque vivunt, nam quid opus pluribus, quam dicere, "Miserere mei, Deus?" これら二つのものは彼らにむだである(むなしい)、慈悲だけから救われることを信じる者、どんな方法で生きても、なぜなら、多くのもので(奪格)何が必要☆か? 言うこと以外に、「私に哀れみを示せ(情けをかけよ)、神よ」

opus estは奪格をともなって「必要とされる」という意味になります。ここのようにestなしで使われる場合もあります。

De omnibus reliquis, quae religionis sunt, in caligine sunt, immo caliginem amant. 残り(他の)すべてのものについて、それらは宗教のものである、暗黒の中にいる、それどころか暗黒を愛する。

De primo essentiali ecclesiae, quod est agnitio Dei, non aliud cogitant, quam "Quid Deus? quis vidit Illum?" 教会の最初の本質的なものについて、それは神の承認である、何らかのものを考えない、「何が神か? だれが彼を見るのか?」以外に。

Si dicitur quod sit et quod sit unus, dicunt quod sit unus; もし、言われるなら、存在することと一つであること、一つであることを言う。

si dicitur quod sint tres, etiam dicunt quod sint, sed quod tres nominandi sint unus: もし、三であることが言われるなら、さらにまた〔そう〕であることを言う、しかし三は一と呼ばれなければならないこと。

haec est agnitio Dei apud illos. これが彼らのもとの神の承認である。

[3.] De altero essentiali ecclesiae, quod est paenitentia, nihil cogitant, consequenter nec de aliquo peccato, et tandem non sciunt quod aliquod peccatum sit. [3.] 教会のもう一つの本質的なものについて、それは悔い改めである、何も考えない、したがって、何らかの罪についても、またついに何らかの罪があることを知らない。

Et tunc audiunt et hauriunt cum voluptate, quod lex non damnet, "quia Christianus sub ejus jugo non est, si dicas modo, Miserere mei Deus propter Filium, et salvaberis." またその時、快楽とともに聞き、吸収する、律法は断罪しないこと、「キリスト教徒はそのくびきの下にいないので、もし、あなたが言いさえすれば、私に哀れみを示せ(情けをかけよ)、神よ、御子のゆえに、するとあなたは救われる(未来)

Haec est paenitentia vitae apud illos. これが彼らのもとの生活の悔い改めである。

Sed remove paenitentiam, seu quod idem est, separa vitam a religione, quid superest nisi quam vox, "Miserere mei?" しかし、悔い改めを取り除け、すなわち(または)同じことであるが、宗教から生活を分離せよ、声以外でないなら何が残るのか? 「私に哀れみを示せ(情けをかけよ)

Inde est, quod nec aliud potuerint dicere, quam quod salvatio sit momentanea per illas voces, et si non prius, usque circa mortis horam. ここからである、何らかのことを言うこともできなかったこと、それらの言葉によって救いが瞬間のものであること以外に、またもし前でないなら、それでも死の時の近くに。

Quid tunc Verbum illis, nisi quam vox obscura et aenignatica ex tripode in antro emissa; その時、彼らに〔とって〕みことばとは何か、暗い(あいまいな)、なぞの言葉以外でないなら、洞穴の中の三脚の釜☆から出てくる。

☆三脚の釜:こうしたものが古代デルポイで神託が与えられるとき用いられた。『真のキリスト教』17:4参照。

aut sicut responsum non intellectum ex oraculo idoli? または偶像の託宣からの理解されない(意味のない)答えのようでない?

Verbo, si removes paenitentiam, hoc est, separas vitam a religione, quid homo tunc aliud quam malum ex igne infernali lucens, seu prester volans in ecclesia? 一言でいえば、もし、あなたが悔い改めを取り除くなら、すなわち、宗教から生活を分離する、その時、人間は何か? 地獄の火から輝く悪以外の何らかのもの、すなわち飛びかける火蛇。

nam absque paenitentia est homo in malo, et malum est infernum. なぜなら、悔い改めなしに人間は悪の中にいるから、また悪は地獄である。

 

(3) 訳文

340.  (iv.) 「直接の慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇であること」

 飛びかける火蛇によって地獄の火から輝く悪が意味され、同様のものが「イザヤ書」の「飛びかける火蛇」によって意味される―

 

 「あなたは喜ぶな、全ペリシテよ、あなたを打っている杖が折られたこと。なぜなら、蛇の根からバジリスクが出て、その果実は飛びかける火蛇であるから」(14:29)

 

 このような悪が、直接の慈悲からの瞬間の救いが信じられる時、教会の中を飛ぶ。なぜなら、それによって、

 (1.) 宗教が破壊される。

 (2.) 油断が引き起こされる。

(3.) 断罪が主に帰せられる。

 

[2.] 第一について:「それによって宗教が破壊されること」

 宗教の二つの本質的と同時に普遍的なものに、神の承認と悔い改めがある。

 これら二つのものは、どんな生き方をしても慈悲だけから救われることを信じる者にむなしい、なぜなら、多くのもののうち、「私に哀れみを示せ、神よ」と言うこと以外に何が必要か? 宗教のものである残りすべてのものについて、暗黒の中にいる、それどころか暗黒を愛する。

 教会の最初の本質的なものである神の承認について、「何が神か? だれが彼を見るのか?」以外に何も考えない。もし、存在することと一つであることが言われるなら、一つである、と言う。もし、三つであることが言われるなら、そうであるが、しかし三つは一つと呼ばれなければならない、とも言う。これが彼らのもとの神の承認である。

[3.] 教会のもう一つの本質的なものである悔い改めについて、何も考えず、したがって、何らかの罪についても、またついに何らかの罪があることも知らない。またその時、律法は断罪しないこと、「キリスト教徒はそのくびきの下にいないので、もし、あなたが、犖羯劼里罎┐法∋笋飽イ譴澆鮗┐察⊃世茘瓩噺世い気┐垢譴弌△△覆燭狼澆錣譴襦廚海箸魏楽とともに聞き、吸収する。これが彼らのもとの生活の悔い改めである。

 しかし、悔い改めを取り除け、または同じことであるが、宗教から生活を分離せよ、「私に哀れみを示せ」の声以外でないなら何が残るのか? ここから、それらの言葉によって救いが瞬間のもの、またもし前でないなら、それでも死の時の近くのものであることしか言うこともできなかった。その時、彼らにとって、みことばとは、洞穴の中の三脚の釜から出てくる、あいまいな、なぞの言葉でないなら、または偶像の託宣からの理解されない答えのようなものでないなら、何なのか? 一言でいえば、もし、あなたが悔い改めを取り除く、すなわち、宗教から生活を分離するなら、その時、人間は地獄の火から輝く悪、すなわち、飛びかける火蛇以外の何なのか? なぜなら、悔い改めなしに人間は悪の中に、また悪は地獄であるので、地獄の中にいるから。

author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 01:32
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原典講読「神の摂理』 338([8]~[10]おわり), 339
 

(2) 直訳

[8.] Tertium: [8.] 第三:

Quod doctrinae ecclesiarum in Christiano orbe, interius spectatae, sint contra momentaneam salvationem ex immediata misericordia: キリスト教世界の中のすべての教会の教えは、内部で見られた、直接の慈悲からの瞬間の救いに反していること。

sed usque quod externi ecclesiae homines illam stabiliant.  しかし、それでも、教会の外なる人間はそれらを確かなものにしていること。

〔キリスト教世界の中のすべての教会の内部で見られる教えは、直接の慈悲からの瞬間の救いに反している、しかし、それでも、教会の外なる人間はそれらを確かなものにしていること。〕

Doctrinae omnium ecclesiarum interius spectatae docent vitam. 教会のすべての教えは、内部で見られた、生(いのち)を教えている。

Cujusnam ecclesiae doctrina est, quae non docet, quod homo se exploraturus sit, visurus et agniturus sua peccata; どの教会の教えがあるか? それは教えない、人間が自分自身を調べなければならないこと、自分の罪を見て、認めなければならない。

confessurus illa, paenitentiam acturus, et dein victurus vitam novam? それらを告発し、悔い改めを行なわなければならない、またその後、新しい生活(いのち)を生きなければならない。

Quis absque hoc monito et praecepto admittitur ad Sanctam Communionem? だれが、この警告と戒め(命令)なしに、聖餐に入ることを許されるのか?

Inquire et confirmaberis. 尋ねよ(調べよ)、するとあなたは確信させられる。

Cujus ecclesiae doctrina est, quae non fundatur super praeceptis decalogi? 何の教会の教えがあるか?それらは十戒の戒め(の上)に基づかない。

Ac praecepta decalogi sunt praecepta vitae. そして、十戒の戒めは生活の戒めである。

Quis homo ecclesiae, in quo aliquid ecclesiae est, qui non agnoscit, cum audit, quod salvetur qui bene vivit, et condemnetur qui male? だれが、教会の人間が、その者の中に教会の何らかのものがある、その者が認めないか? 聞くとき、善く生きる者が救われること、また悪く〔生きる〕者が断罪される。

Quare in Fide symbolica Athanasiana, quae etiam est Doctrina in toto Christiano orbe recepta, haec dicuntur: それゆえ、アタナシウス信条の信仰の中に、それもまた全キリスト教世界の中に受け入れられた教えである、これらが言われている―
"Quod Dominus venturus sit ad judicandum vivos et mortuos;
 「主は生きている者と死んでいる者を裁くために来られること。

et tunc illi qui bona fecerunt, intrabunt in vitam aeternam, et qui mala fecerunt, in ignem aeternum." またその時、彼らは、善を行なった者、永遠のいのちに入る、また悪を行なった者は、永遠の火の中に」

[9.] Ex quibus patet, quod doctrinae omnium ecclesiarum interius spectatae doceant vitam; [9.] それらから明らかである、教会のすべての教えは、内部で見られた、生(いのち)を教えていること。

et quia docent vitam, doceant quod salvatio sit secundum vitam; また、生活を教えているので、救いは生活にしたがっていることを教えている。

ac vita hominis non momento inspiratur, sed formatur successive, et reformatur sicut homo fugit mala ut peccata; そして、人間の生活(いのち)は瞬間に吹き込まれない、しかし、継続的に形成される、また人間が悪を罪として避けるほど(かぎり)改心される。

proinde sicut novit quid peccatum, ac cognoscit et agnoscit id, et sicut non vult illud, et inde desistit ab illo; それゆえに、何が罪か知る(知った、気づく)ほど(かぎり)、そしてそれを認め(知り)、また認める、またそれを欲しないほど(かぎり)、またここからそれから離れる(やめる)

et sicut novit etiam illa media, quae se referunt ad cognitionem Dei. またその手段を知る(知った、気づく)ほど(かぎり)、それは神の知識に関係する。

Per haec et illa formatur et reformatur vita hominis, quae non uno memento possunt infundi; これやそれによって人間の生活(いのち)形作られ、改心させられる、それはある瞬間に注ぎ込まれる(導入される)ことができない。

removendum enim est malum hereditarium, quod in se est infernale, et loco ejus implantandum est bonum, quod in se erit caeleste. というのは、遺伝悪が遠ざけられなくてはならないから、それは本質的に地獄のものである、またそれに代わって善が植え付けられなくてはならない、それは本質的に天界のものである(となる)(未来)

Homo ex malo suo hereditario comparari potest buboni quoad intellectum, et serpenti quoad voluntatem; 人間は、自分の遺伝悪から、理解力に関してミミズクにたとえられることができる、また意志に関してヘビに。

et homo reformatus potest comparari columbae quoad intellectum, et ovi quoad voluntatem: また改心した後の人間は、理解力に関してキジバトにたとえられることができる、また意志に関して小羊に。

quare momentanea reformatio et inde salvatio foret comparative sicut momentanea conversio bubonis in columbam, ac serpentis in ovem. それゆえ、瞬間の改心とここからの救いは、比較によってなったであろう、瞬間の変化のようなものに、ミミズクをキジバトに、そしてヘビを小羊に。

Quis non videt, qui scit aliquid de vita hominis, quod hoc non detur, nisi bubonis et serpentis natura auferatur, et columbae et ovis natura implantetur? だれが見ないか? 人間の生活(いのち)について何らかのことを知っている者が、このことが存在しないこと、ミミズクやヘビの性質が取り除かれる、またキジバトや子羊の性質が植え付けられないなら。

[10.] Notum etiam est, quod omnis intelligens possit intelligentior fieri, et omnis sapiens sapientior, et quod intelligentia et sapientia apud hominem possit crescere, et apud quosdam crescat, ab infantia usque ad finem vitae ejus, et quod homo sic continue perficiatur. [10.] さらにまたよく知られている、知性のあるすべての者はさらに知的になることができること、また賢明であるすべての者はさらに賢明に、また知性(理解力)と知恵は人間のもとで成長することができること、またある者のもとで成長する、幼児期からその生涯の終わりまで、また人間はこのように絶えず完全に(完成)れること。

Quid non plus intelligentia et sapientia spiritualis? 何が(どのように☆)、もっと〔完全とされ〕ないか、霊的な知性と知恵は?

quidは、ほとんど「何? だれ?」ですが、「どのように?」の意味もどきどきあります。

Haec per duos gradus supra intelligentiam et sapientiam naturalem ascendit, et cum ascendit, fit angelica, quae est ineffabilis. これが自然的な知性と知恵の上の二つの段階によって上昇する、また上昇するとき、天使のものになる、それは言語に絶する。

Quod haec apud angelos crescat in aeternum, supra dictum est. これが天使たちのもとで永遠に成長することは、上に言われている。

Quis non comprehendere potest, si vult, quod impossibile sit, quod id, quod perficitur in aeternum, sit perfectum in instanti? だれが理解することができないか? もし欲するなら、不可能であること、そのこと、永遠に完全にされるものが、瞬く間に完全になること。

 

(3) 訳文

338.  [8.] 第三:「キリスト教世界の中のすべての教会の内部で見られる教えは、直接の慈悲からの瞬間の救いに反している、しかし、それでも、教会の外なる人間はそれらを確かなものにしていること」

 教会の内部で見られるすべての教えは、生活を教えている。

 どの教会の教えが、人間が自分自身を調べ、自分の罪を見て、認めなければならないこと、それらを告発し、悔い改めを行ない、またその後、新しい生活を生きなければならないことを教えないであろうか? だれが、この警告と戒めなしに、聖餐に与ることを許されるのか? 尋ねよ(調べよ)、するとあなたは確信するであろう。

 どの教会の教えが十戒の戒めに基づかないか? そして、十戒の戒めは生活の戒めである。

善く生きる者が救われ、また悪く生きる者が断罪されることを聞くとき、教会の何らかのものを持ってる教会の人間なら、だれがそのことを認めないか? それゆえ、アタナシウス信条の信仰の中に、それもまた全キリスト教世界の中に受け入れられた教えであり、次のことが言われている―

 「主は生きている者と死んでいる者を裁くために来られ、その時、善を行なった者は永遠のいのちに、また悪を行なった者は永遠の火の中に入る」

 

[9.] それらから、教会の内部で見られるすべての教えは、生活を教えているがこと明らかである。また、生活を教えているので、救いは生活にしたがっていることを教えている。そして、人間の生活(いのち)は瞬間に吹き込まれない、しかし、継続的に形成され、また人間が悪を罪として避けるほど改心する。それゆえ、何が罪か気づくほど、そしてそれを知り、また認める、またそれを欲しないほど、このことそれから離れる。また神の知識に関係するその手段に気づくほど、これやそれによって人間の生活形作られ、改心させられ、それはある瞬間に注ぎ込まれることができない。というのは、本質的に地獄のものである遺伝悪が遠ざけられ、またそれに代わって本質的に天界のものとなる善が植え付けられなくてはならないからである。

 人間は自分の遺伝悪から、理解力に関してミミズクに、また意志に関してヘビにたとえることができる。また改心した後の人間は、理解力に関してキジバトに、また意志に関して小羊にたとえることができる。それゆえ、瞬間の改心とここからの救いは、比較によって、ミミズクをキジバトに、そしてヘビを小羊に瞬間的に変化させるようなものになったであろう。

ミミズクやヘビの性質が取り除かれ、またキジバトや子羊の性質が植え付けられないならこのことが存在しないことを、人間の生活について何らかのことを知っている者のだれが見ないか?

[10.] さらにまた、知性のあるすべての者はさらに知的に、また賢明であるすべての者はさらに賢明になることができること、また知性(理解力)と知恵は人間のもとで成長することができ、またある者のもとで、幼児期からその生涯の終わりまで成長し、また人間はこのように絶えず完全にれることがよく知られている。

霊的な知性と知恵は、どのようにもっと〔完全とされないか〕? これは自然的な知性と知恵の上の二つの段階によって上昇し、また上昇するとき、言語に絶する天使のものになる。これが天使たちのもとで永遠に成長することは、前に言われている。

永遠に完全にされるものが瞬く間に完全になることは不可能であることを、もし欲するなら、だれが理解することができないか?。

(1) 原文

339.  Ex his nunc patet, quod omnes qui cogitant ex vita de salvatione, non cogitent de aliqua salvatione momentanea ex immediata misericordia, sed de mediis salutis, in quae et per quae Dominus secundum leges Divinae suae Providentiae operatur, ita per quae homo a Domino ex pura misericordia ducitur. At illi, qui non cogitant ex vita de salute, ponunt momentaneum in salvatione, ac immediatum in misericordia; ut faciunt illi qui separant fidem a charitate, (charitas est vita,) et momentaneum fidei ponunt, et si non prius, circa ultimam mortis horam. Et hoc quoque faciunt illi, qui remissionem peccatorum absque paenitentia credunt esse absolutionem a peccatis, et sic salvationem, et obeunt Sanctam Cenam; tum qui fidunt indulgentiis monachorum; et qui precibus illorum pro defunctis; ac dispensationibus ex potestate sibi vindicata super animas hominum.

 

(2) 直訳

Ex his nunc patet, quod omnes qui cogitant ex vita de salvatione, non cogitent de aliqua salvatione momentanea ex immediata misericordia, sed de mediis salutis, in quae et per quae Dominus secundum leges Divinae suae Providentiae operatur, ita per quae homo a Domino ex pura misericordia ducitur. そこでこれらから明らかである、すべての者は、救いについて生活から考える者、直接の慈悲からの何らかの瞬間の救いを考えないこと、しかし、救いの手段について、その中に、またそれによって、主はご自分の神的な摂理にしたがって働かれる、そのように(したがって)それによって人間は主により純粋な慈悲によって導かれる。

At illi, qui non cogitant ex vita de salute, ponunt momentaneum in salvatione, ac immediatum in misericordia; しかし、彼らは、救いについて生活から考えない者、救いの中に瞬間のものを、慈悲の中に直接のものを置く(見いだす)

ut faciunt illi qui separant fidem a charitate, (charitas est vita,) et momentaneum fidei ponunt, et si non prius, circa ultimam mortis horam. 例えば、彼らは行なう、信仰を仁愛から分離する者、(仁愛は生活である)、また瞬間のものを信仰に置く、また前にでないなら、死の最期の時の近くに。

Et hoc quoque faciunt illi, qui remissionem peccatorum absque paenitentia credunt esse absolutionem a peccatis, et sic salvationem, et obeunt Sanctam Cenam; またこのこともまた彼らは行なう、悔い改めなしの罪の許しは罪からの赦免であることを信じる、またこのように救い、また聖餐に出席する。

tum qui fidunt indulgentiis monachorum; なおまた、その者は修道士の免償状☆に信頼する。

免償とはカトリック(神学)語です。いわゆる「罪と罰」のうち、罪ではなく、罪にともなう「罰」を軽減することです。一般的には「免罪符」などの言い方がされますが、それでは「罪を許す」ことになります。罰は「煉獄」で受けますが、それを軽減されることで、天界に行きやすくするわけです。

et qui precibus illorum pro defunctis; またその者は死んだ者のための彼らの祈りに〔信頼する〕。

ac dispensationibus ex potestate sibi vindicata super animas hominum. そして特免状に〔信頼する〕、人間の霊魂の上に、自分自身に要求した権限から。

 

(3) 訳文

339.  そこでこれらから、救いについて生活から考えるすべての者は、直接の慈悲からの何らかの瞬間の救いを考えず、しかし、救いの手段について、その中にまたそれによって、主はご自分の神的な摂理にしたがって働かれるが、それによって人間は主により純粋な慈悲によって導かれることが明らかである。しかし、救いについて生活から考えない者は、救いの中に瞬間的なものを、慈悲の中に直接的なものを置く。

 例えば、信仰を仁愛から分離する者は、(仁愛は生活であるが)、また信仰を瞬間的なものにし、また死の前にでないなら、最期の時の近くのものにする。また彼らは、悔い改めなしの罪の許しは罪からの赦免であり、またこのように救いであることを信じもし、聖餐に出席する。

 なおまた、その者は修道士の免償状に、死んだ者のための彼らの祈りに、そして人間の霊魂の上に、彼ら自身が要求した権限からの特免状に信頼する。

author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 04:10
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原典講読「神の摂理』 338([4]~[7])
 

(2) 直訳

[4.] Secundum: [4.] 第二:

Sed quod haec fides sit ex ignorantia status spiritualis, qui prorsus diversus est a statu naturali. しかし、この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態〔について〕の無知からであること。

De statu spirituali, qui est status hominis post mortem, supra multis in locis actum est; 霊的な状態について、それは人間の死後の状態である、上に多く、個所の中で扱われている。

et ostensum, quod unusquisque sit suus amor, et quod nemo possit vivere cum aliis quam cum illis qui in simili amore sunt, et quod si ad alios venit, non respirare possit suam vitam. また示されている、それぞれの者が自分の愛であること、まただれも生きることができこと、他の者と、彼らとでないなら、似た愛の中にいる者、また他の者のところにやって来るなら、自分のいのちを呼吸することができないこと。

Inde est, quod quisque post mortem veniat in societatem suorum, qui sunt qui in simili amore sunt, et quod hos cognoscat sicut affines et sicut amicos; ここからである、それぞれの者が、死後、自分の社会の中にやって来ること、その〔社会の〕者は似た愛の中にいる者である、また彼らを親類のように、また友のように認める(知る)

et quod mirum est, cum illos convenit et videt, est sicut illos ab infantia cognovisset; また驚くべきことである、彼らに会う、また見るとき、彼らを幼児期から知っていたようであること。

est affinitas et amicitia spiritualis, quae hoc facit. 霊的な親族関係と友情である、それらがこのことをつくる。

Immo plus, non potest aliquis in societate habitare in alia domo quam in sua, cuivis in societate sua domus est, quam invenit sibi paratam, ut primum societatem intrat. それどころかもっと、ある者は社会の中で他の家の中に住むことができない自分のもの以外、社会の中のそれぞれの者に自分の家がある、それを見つける、自分自身に準備された、社会に入ると直ぐに。

In consortiis potest esse cum aliis extra suam domum, sed usque non alibi quam in sua morari. 交わりの中で、自分の家の外の他の者といることができる、しかし、それでも、自分の〔ところ〕以外の他のところにとどまることが〔でき〕ない。

Et quod adhuc plus est, non potest aliquis in alterius conclavi sedere quam in suo loco; また、さらにもっとである、ある者は他の者の部屋の中で座ることができない、自分の場所の中以外に。

si in alio fit sicut impos mentis et mutus; もし、他の中に〔座る〕なら、心のできないように、また口のきけない。

et quod mirabile est, quisque dum intrat conclave, scit suum locum; また不思議(驚くべきこと)であること、だれもが部屋に入る時、自分の場所を知っている。

similiter fit in templis; 同様に生じる(なる)、神殿(教会、礼拝所)中で。

et quoque in coetibus quando congregati sunt. そしてまた集会の中で、集められる時。

[5.] Ex his patet, quod status spiritualis sit prorsus diversus a statu naturali, ac talis ut aliquis non possit alibi esse quam ubi regnans ejus amor est; [5.] これらから明らかである、霊的な状態が自然的な状態から完全に異なっていること、そしてある者が他のところにいることができないような、そのようなものである、そこに彼の愛が支配している以外に。

ibi enim est jucundum vitae ejus, et quisque vult in suae vitae jucundo esse; というのは、そこに彼のいのち(生活)楽しさがあるから、またそれぞれの者が自分のいのち(生活)楽しさの中にいることを欲する。

et spiritus hominis non potest alibi, quia id facit vitam ejus, immo ipsam respirationem, ut et pulsum cordis ejus. また人間の霊は他のところに〔いることが〕できない、それが彼のいのち(生活)をつくるので、それどころか呼吸そのものを、そのようにまた彼の心臓の鼓動を。

Aliter in mundo naturali: 異なって〔いる〕、自然界の中で。

in hoc externum hominis ab infantia edoctum est jucunda alia simulare facie, loquela et gestu, quam illa quae sunt interni ejus; この外なるものの中に、人間は幼児期から教えられている、他の快さを偽り装うこと、顔で、話し方と身振りで、それら以外に、それらは彼の内部にある。

quare ex statu hominis in mundo naturali non potest concludi ad statum ejus post mortem; それゆえ、自然界の中の人間の状態から、死後の彼の状態について結論されることはできない。

nam status cujusvis post mortem est spiritualis, qui est, quod non possit alibi esse, quam in jucundo sui amoris, quod sibi in mundo naturali per vitam comparavit. なぜなら、そのぞれの者の死後の状態は霊的であるから、それである、他のところにいることができないこと、自分の愛の快さ以外、それを自分自身に自然界の中で生活によって得た。

[6.] Ex his manifeste constare potest, quod nemo possit immitti in jucundum caeli, quod communi voce vocatur gaudium caeleste, qui in jucundo inferni est, seu quod idem, in jucundum boni qui in jucundo mali est: [6.] これらからはっきりと明らかにすることができる、だれも天界の快さの中に入れられることができないこと、普通の言葉で天界の楽しさと呼ばれるもの、その者は地獄の快さの中にいる、すなわち、同じこと〔であるが〕、善の快さの中に、その者は悪の快さの中にいる。

quod adhuc clarius potest concludi ex eo, quod nemini post mortem negetur ascendere in caelum, monstratur ei via, datur copia, et intromittitur; さらに明るくそのこと(quod以下)から結論されることができる、だれにも天界の中に上ることが否定されないこと、彼に道が示される、機会が与えられる、また入れられる(入るのを許される)

sed dum in caelum venit, et aspiratu jucundum ejus attrahit, incipit angi pectore, et torqueri corde, ac sentire deliquium, in quo se contorquet sicut anguis admotus igni, et cum aversa facie e caelo, et conversa ad infernum, praeceps aufugit, nec quiescit quam in societate amoris sui. しかし、天界の中にやって来る時、また呼吸でその快さを引き寄せる、胸で痛みを感じ始める、また心臓で苦しめられ〔始める〕、そして気絶を感じること、その中で、火に近づけられたヘビのように自分自身をねじる、またそのとき天界から顔を背け、また地獄へ向ける、真っ逆さまに逃げ去る、自分の愛の社会の中以外に休みもしない。

Inde constare potest, quod in caelum venire non sit alicui ex immediata misericordia; ここから明らかにすることができる、天界の中にやって来ることはある者に直接の慈悲からではないこと。

proinde quod non solum sit admitti, ut multi in mundo autumant; それゆえに、単に入ることを許されることではない、世の中の多くの者が憶測するように。

tum quod nec sit momentanea salvatio, nam haec ponit immediatam misericordiam. なおまた、瞬間の救いもないこと、なぜなら、これは直接の慈悲を前提(必要)とするから。

[7.] Fuerunt quidam qui in mundo momentaneam salvationem ex immediata misericordia crediderunt; [7.] ある者がいた、その者は直接の慈悲から瞬間の救いを信じた。

et dum spiritus facti voluerunt ut jucundum illorum infernale seu jucundum mali, ex Divina Omnipotentia et simul ex Divina Misericordia transmutaretur in jucundum caeleste seu jucundum boni, et quia ita cupiverunt, etiam permissum est ut ab angelis fieret, qui tunc removerunt jucundum illorum infernale: また霊となった時、彼らの地獄の快さまたは悪の快さが、神的な全能からまた同時に神的な慈悲から天界の快さまたは善の快さに変えられるように欲した、またこのように熱望したので、さらにまた許された、天使たちにより行なわれるように、その者は彼らの地獄の快さを取り除いた。

sed illi tunc, quia id erat jucundum amoris vitae eorum, proinde vita eorum, jacuerunt sicut mortui, absque omni sensu et omni motu; しかし、彼らはその時、それは彼らのいのちの愛の快さであったので、それゆえに彼らのいのち、死んだように横たわった、すべての感覚とすべての動きなしに。

nec possibile fuit insufflare aliam vitam quam suam; 自分のもの以外の他のいのちを吹き入れることも不可能であった。

quia omnia mentis et corporis eorum, quae retro versa erant, non potuerunt retorqueri in contrarium: 彼らの心の、また身体のすべてのものは、それらは後ろ向きに変えられていた、反対のものに逆にする(曲げ返す)ことはできなかったからである。

quare resuscitati sunt per immissionem jucundi amoris vitae eorum. それゆえ、彼らのいのちの愛の快さを送り込むことによって生き返させられた。

Post id dixerunt, quod in illo statu interius senserint dirum et quoddam horrendum, quod non voluerunt propalare. そのことの後、彼らは言った、その状態の中で内的に恐ろしいものと身震いするあるものを感じた、それを公けにすることを欲しなかった。

Quare in Caelo dicitur, quod facilius sit convertere bubonem in turturem, et serpentem in agnum, quam aliquem spiritum infernalem in angelum caeli. それゆえ、天界の中で言われている、ミミズクをキジバトに変えることは容易であること、またヘビを子羊に、何らかの地獄霊を天界の天使に〔変える〕よりも。

 

(3) 訳文

338. [4.] 第二:「しかし、この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態〔について〕の無知からであること」

 霊的な状態について、それは人間の死後の状態であり、前に多くの個所の中で扱われている。また、それぞれの者が自分の愛であること、まただれも、似た愛の中にいる者とでないなら、他の者と生きることができないこと、また他の者のところにやって来るなら自分のいのちを呼吸することができないことが示されている。ここから、それぞれの者が、死後、似た愛の中にいる者の自分の社会の中にやって来て、彼らを親類のように、また友のように認める。また驚くべきことであるが、彼らに会い、また見るとき、彼らを幼児期から知っていたようである。このことは霊的な親族関係と友情から生ずる。

 それどころかさらに、ある者は社会の中で自分のもの以外の他の家の中に住むことができず、それぞれの者に社会の中の自分の家があり、社会に入ると直ぐに、自分自身に準備されたその家を見つける。

 交わりの中で、自分の家の外で他の者といることができる、しかし、それでも、自分のところ以外の他のところにとどまることはできない。もっとさらに、ある者は他の者の部屋の中で、自分の場所でしか座ることができない。もし、他の場所に座るなら、自分の心がないように、口がきけないようになる。また不思議なことに、部屋に入る時、だれもが自分の場所を知っている。神殿(教会、礼拝所)中でも、

そしてまた集会に集まる時も、同様であ

[5.] これらから、霊的な状態が自然的な状態から完全に異なっていること、そしてある者は、彼の愛が支配しているところ以外に他のところにいることができないようなものであることが明らかである。

というのは、そこに彼のいのち(生活)楽しさがあり、またそれぞれの者が自分のいのち(生活)楽しさの中にいることを欲し、またそれが彼のいのち(生活)を、実に呼吸そのものを、そのようにまた心臓の鼓動をつくるので、人間の霊は他のところにいることができない。

 自然界では異なる。この外なるものの中に、人間は幼児期から、彼の内部にあるもの以外の他の快さを、顔、話し方、身振りで偽り装うことを教えられている。それゆえ、自然界での人間の状態から、彼の死後の状態について結論されることはできない。なぜなら、そのぞれの者の死後の状態は霊的であり、自然界での生活によって自分自身に得た自分の愛の快さ以外の他のところにいることができないからである。

[6.] これらから、だれも天界の快さ、普通の言葉で天界の楽しさと呼ばれるものの中に、地獄の快さの中にいる者が入れられることができないこと、すなわち、同じことであるが、悪の快さの中にいる者が善の快さの中に入れられることができないことを、はっきりと明らかにすることができる。

 さらに明るく、だれにも天界の中に上ること、彼に道が示され、機会が与えられ、入れられのが否定されないことを結論することができる。

 しかし、天界の中にやって来て、呼吸でその快さを引き寄せる時、胸に痛みを感じ、心臓を苦しめられ始める。そして気絶しそうに感じ、その中で、火に近づけられたヘビのように自分自身をねじり、またそのとき顔を天界から背け、地獄へ向け、真っ逆さまに逃げ去り、自分の愛の社会の中〔戻る〕以外に休みもしない。

 ここから、天界の中にやって来ることは直接の慈悲からではないことを明らかにすることができる。それゆえ、世の中の多くの者が憶測するように、単に入るのを許されることではない。なおまた、瞬間の救いもない、なぜなら、これは直接の慈悲を前提とするからである。

[7.] 直接の慈悲からの瞬間の救いを信じた者がいた。彼らは霊となった時、自分の地獄の快さまたは悪の快さが、神的な全能からまた同時に神的な慈悲から、天界の快さまたは善の快さに変えられるように欲した、またこのように熱望したので、さらにまた、天使たちにより行なわれるように許され、彼らの地獄の快さを取り除いた。しかし、その時、それは彼らのいのちの愛の快さであり、それゆえ彼らのいのちあったので、すべての感覚とすべての動きなしに、死んだように横たわった。自分のもの以外の他のいのちを吹き入れることも不可能であった。彼らの心の、また身体のすべてのものは、後ろ向きに変えられており、反対のものに曲げ返すことができなかったからである。それゆえ、彼らのいのちの愛の快さを送り込むことによって生き返させられた。その後、彼らは、その状態の中で内的に恐ろしいものと身震いするものを感じたと言い、それを公けにすることを欲しなかった。それゆえ、天界では、何らかの地獄霊を天界の天使に変えるよりも、ミミズクをキジバトに、またヘビを子羊に変えることのほうが容易である、と言われている。

author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 03:04
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原典講読「神の摂理』 338(~[3])
 

(1) 原文

338.  (iii.) Quod momentanea salvatio ex immediata misericordia non dabilis sit. In antecedentibus ostensum est quod operatio Divinae Providentiae ad salvandum hominem, inchoet ab ejus nativitate, et perstet usque ad finem vitae ejus, et postea in aeternum; tum quod operatio illa continue fiat per media ex pura misericordia. Ex his sequitur, quod non detur momentanea salvatio, nec immediata misericordia. Sed quia multi, qui de rebus Ecclesiae seu religionis non aliquid cogitant ex intellectu, credunt quod ex immediata misericordia salventur, et inde quod salvatio sit momentanea, et tamen hoc contra veritatem est, et insuper est fides damnosa, interest ut expendatur in suo ordine. (1.) Quod fides de momentanea salvatione ex immediata misericordia capta sit ex statu naturali hominis. (2.) Quod haec fides sit ex ignorantia status spiritualis, qui prorsus diversus est a statu naturali. (3.) Quod doctrinae omnium ecclesiarum in Christiano orbe, interius spectatae, sint contra momentaneam salvationem ex immediata misericordia; sed usque quod externi ecclesiae homines illam stabiliant. [2.] Primum: Quod fides de momentanea salvatione ex immediata misericordia, capta sit ex statu naturali hominis. Naturalis homo ex suo statu non aliter scit quam quod gaudium caeleste sit sicut gaudium mundanum, ac quod similiter influat et recipiatur; pro exemplo, quod sit sicut qui pauper est, dives fit, et sic qui e tristi statu egestatis in felicem statum opulentiae venit; vel sicut qui vilis est, et fit honoratus, et sic e contemptu in gloriam venit; aut sicut qui e domo luctus in gaudium nuptiarum venit. Quia hi status possunt intra diem mutari, et non alia idea est de statu hominis post mortem, patet unde est, quod credatur salvatio momentanea ex immediata misericordia. [3.] In mundo etiam possunt plures in uno consortio et in una societate civili esse et simul laetari, et tamen omnes differre animis; hoc fit in statu naturali. Causa est, quia externum unius hominis potest accommodari externo alterius, utcunque interna dissimilia sunt. Ex hoc statu naturali etiam concluditur, quod salvatio sit modo admissio ad angelos in caelum, et quod admissio sit ex immediata misericordia: quare etiam creditur, quod malis aeque possit dari caelum quam bonis, et quod tunc consociatio sit similis quae in mundo, cum differentia quod illa sit plena gaudio. [4.] Secundum: Sed quod haec fides sit ex ignorantia status spiritualis, qui prorsus diversus est a statu naturali. De statu spirituali, qui est status hominis post mortem, supra multis in locis actum est et ostensum, quod unusquisque sit suus amor, et quod nemo possit vivere cum aliis quam cum illis qui in simili amore sunt, et quod si ad alios venit, non respirare possit suam vitam. Inde est, quod quisque post mortem veniat in societatem suorum, qui sunt qui in simili amore sunt, et quod hos cognoscat sicut affines et sicut amicos; et quod mirum est, cum illos convenit et videt, est sicut illos ab infantia cognovisset; est affinitas et amicitia spiritualis, quae hoc facit. Immo plus, non potest aliquis in societate habitare in alia domo quam in sua, cuivis in societate sua domus est, quam invenit sibi paratam, ut primum societatem intrat. In consortiis potest esse cum aliis extra suam domum, sed usque non alibi quam in sua morari. Et quod adhuc plus est, non potest aliquis in alterius conclavi sedere quam in suo loco; si in alio fit sicut impos mentis et mutus; et quod mirabile est, quisque dum intrat conclave, scit suum locum; similiter fit in templis; et quoque in coetibus quando congregati sunt. [5.] Ex his patet, quod status spiritualis sit prorsus diversus a statu naturali, ac talis ut aliquis non possit alibi esse quam ubi regnans ejus amor est; ibi enim est jucundum vitae ejus, et quisque vult in suae vitae jucundo esse; et spiritus hominis non potest alibi, quia id facit vitam ejus, immo ipsam respirationem, ut et pulsum cordis ejus. Aliter in mundo naturali: in hoc externum hominis ab infantia edoctum est jucunda alia simulare facie, loquela et gestu, quam illa quae sunt interni ejus; quare ex statu hominis in mundo naturali non potest concludi ad statum ejus post mortem; nam status cujusvis post mortem est spiritualis, qui est, quod non possit alibi esse, quam in jucundo sui amoris, quod sibi in mundo naturali per vitam comparavit. [6.] Ex his manifeste constare potest, quod nemo possit immitti in jucundum caeli, quod communi voce vocatur gaudium caeleste, qui in jucundo inferni est, seu quod idem, in jucundum boni qui in jucundo mali est: quod adhuc clarius potest concludi ex eo, quod nemini post mortem negetur ascendere in caelum, monstratur ei via, datur copia, et intromittitur; sed dum in caelum venit, et aspiratu jucundum ejus attrahit, incipit angi pectore, et torqueri corde, ac sentire deliquium, in quo se contorquet sicut anguis admotus igni, et cum aversa facie e caelo, et conversa ad infernum, praeceps aufugit, nec quiescit quam in societate amoris sui. Inde constare potest, quod in caelum venire non sit alicui ex immediata misericordia; proinde quod non solum sit admitti, ut multi in mundo autumant; tum quod nec sit momentanea salvatio, nam haec ponit immediatam misericordiam. [7.] Fuerunt quidam qui in mundo momentaneam salvationem ex immediata misericordia crediderunt; et dum spiritus facti voluerunt ut jucundum illorum infernale seu jucundum mali, ex Divina Omnipotentia et simul ex Divina Misericordia transmutaretur in jucundum caeleste seu jucundum boni, et quia ita cupiverunt, etiam permissum est ut ab angelis fieret, qui tunc removerunt jucundum illorum infernale: sed illi tunc, quia id erat jucundum amoris vitae eorum, proinde vita eorum, jacuerunt sicut mortui, absque omni sensu et omni motu; nec possibile fuit insufflare aliam vitam quam suam; quia omnia mentis et corporis eorum, quae retro versa erant, non potuerunt retorqueri in contrarium: quare resuscitati sunt per immissionem jucundi amoris vitae eorum. Post id dixerunt, quod in illo statu interius senserint dirum et quoddam horrendum, quod non voluerunt propalare. Quare in Caelo dicitur, quod facilius sit convertere bubonem in turturem, et serpentem in agnum, quam aliquem spiritum infernalem in angelum caeli. [8.] Tertium: Quod doctrinae ecclesiarum in Christiano orbe, interius spectatae, sint contra momentaneam salvationem ex immediata misericordia: sed usque quod externi ecclesiae homines illam stabiliant. Doctrinae omnium ecclesiarum interius spectatae docent vitam. Cujusnam ecclesiae doctrina est, quae non docet, quod homo se exploraturus sit, visurus et agniturus sua peccata; confessurus illa, paenitentiam acturus, et dein victurus vitam novam? Quis absque hoc monito et praecepto admittitur ad Sanctam Communionem? Inquire et confirmaberis. Cujus ecclesiae doctrina est, quae non fundatur super praeceptis decalogi? Ac praecepta decalogi sunt praecepta vitae. Quis homo ecclesiae, in quo aliquid ecclesiae est, qui non agnoscit, cum audit, quod salvetur qui bene vivit, et condemnetur qui male? Quare in Fide symbolica Athanasiana, quae etiam est Doctrina in toto Christiano orbe recepta, haec dicuntur:

"Quod Dominus venturus sit ad judicandum vivos et mortuos; et tunc illi qui bona fecerunt, intrabunt in vitam aeternam, et qui mala fecerunt, in ignem aeternum."

 

[9.] Ex quibus patet, quod doctrinae omnium ecclesiarum interius spectatae doceant vitam; et quia docent vitam, doceant quod salvatio sit secundum vitam; ac vita hominis non momento inspiratur, sed formatur successive, et reformatur sicut homo fugit mala ut peccata; proinde sicut novit quid peccatum, ac cognoscit et agnoscit id, et sicut non vult illud, et inde desistit ab illo; et sicut novit etiam illa media, quae se referunt ad cognitionem Dei. Per haec et illa formatur et reformatur vita hominis, quae non uno memento possunt infundi; removendum enim est malum hereditarium, quod in se est infernale, et loco ejus implantandum est bonum, quod in se erit caeleste. Homo ex malo suo hereditario comparari potest buboni quoad intellectum, et serpenti quoad voluntatem; et homo reformatus potest comparari columbae quoad intellectum, et ovi quoad voluntatem: quare momentanea reformatio et inde salvatio foret comparative sicut momentanea conversio bubonis in columbam, ac serpentis in ovem. Quis non videt, qui scit aliquid de vita hominis, quod hoc non detur, nisi bubonis et serpentis natura auferatur, et columbae et ovis natura implantetur? [10.] Notum etiam est, quod omnis intelligens possit intelligentior fieri, et omnis sapiens sapientior, et quod intelligentia et sapientia apud hominem possit crescere, et apud quosdam crescat, ab infantia usque ad finem vitae ejus, et quod homo sic continue perficiatur. Quid non plus intelligentia et sapientia spiritualis? Haec per duos gradus supra intelligentiam et sapientiam naturalem ascendit, et cum ascendit, fit angelica, quae est ineffabilis. Quod haec apud angelos crescat in aeternum, supra dictum est. Quis non comprehendere potest, si vult, quod impossibile sit, quod id, quod perficitur in aeternum, sit perfectum in instanti?

 

(2) 直訳

(iii.) Quod momentanea salvatio ex immediata misericordia non dabilis sit.― (iii.) 直接の慈悲からの瞬間の救いは、ありえないこと―

In antecedentibus ostensum est quod operatio Divinae Providentiae ad salvandum hominem, inchoet ab ejus nativitate, et perstet usque ad finem vitae ejus, et postea in aeternum; 先行するものの中で示されている、人間の救いのための神的摂理の働きは、彼の出生から始まること、また彼のいのち(生涯)の終わりまで続く、またその後、永遠に。

tum quod operatio illa continue fiat per media ex pura misericordia. なおまた、その働きは純粋な慈悲から手段によって絶えず生じること。

Ex his sequitur, quod non detur momentanea salvatio, nec immediata misericordia. これらから〜ということになる、瞬間の救いは存在しないこと、直接の慈悲も。

Sed quia multi, qui de rebus Ecclesiae seu religionis non aliquid cogitant ex intellectu, credunt quod ex immediata misericordia salventur, et inde quod salvatio sit momentanea, et tamen hoc contra veritatem est, et insuper est fides damnosa, interest ut expendatur in suo ordine. しかし、多くの者は、教会または宗教の事柄について何らかのものを理解力から考えない者、直接の慈悲から救われることを信じるので、またここから救いが瞬間のものであること、またそれでもこのことは真理に反していること、また加えて有害な信仰である、その順序の中で考慮されることが重要である。

(1.) Quod fides de momentanea salvatione ex immediata misericordia capta sit ex statu naturali hominis.  (1.) 直接の慈悲からの瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な状態から得られて(把握されて)いること。

(2.) Quod haec fides sit ex ignorantia status spiritualis, qui prorsus diversus est a statu naturali. (2.) この信仰は霊的な状態の無知からであること、それは自然的な状態から完全に異なっている。

(3.) Quod doctrinae omnium ecclesiarum in Christiano orbe, interius spectatae, sint contra momentaneam salvationem ex immediata misericordia; (3.) キリスト教世界の中のすべての教会の教えは、内部で見られた、直接の慈悲からの瞬間の救いに反していること。

sed usque quod externi ecclesiae homines illam stabiliant. しかし、それでも、教会の外なる人間はそれらを確かなものにしていること。

[2.] Primum: [2.] 第一:

Quod fides de momentanea salvatione ex immediata misericordia, capta sit ex statu naturali hominis. 直接の慈悲からの瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な状態から得られて(把握されて)いること。

Naturalis homo ex suo statu non aliter scit quam quod gaudium caeleste sit sicut gaudium mundanum, ac quod similiter influat et recipiatur; 自然的な人間は自分の状態から異なって知らない、天界の楽しさは世の楽しさのようであること以外に、そして同様に流入し、受けいられること。

pro exemplo, quod sit sicut qui pauper est, dives fit, et sic qui e tristi statu egestatis in felicem statum opulentiae venit; 例として、貧しい者が、富んだ者になったよう〔なもの〕であること、またこのように貧困の悲しい(惨めな)状態から裕福な幸福の状態の中にやって来る者。

vel sicut qui vilis est, et fit honoratus, et sic e contemptu in gloriam venit; あるいは、卑しい者が、称賛される〔者に〕なる、またこのように軽蔑から栄光(名声)の中にやって来る。

aut sicut qui e domo luctus in gaudium nuptiarum venit. または(あるいは)、嘆きの家から婚礼の楽しみの〔家に〕やって来るような。

Quia hi status possunt intra diem mutari, et non alia idea est de statu hominis post mortem, patet unde est, quod credatur salvatio momentanea ex immediata misericordia. これらの状態は一日の内に変えられることができるので、また死後の人間の状態について他の概念がない、どこからであるか明らかである、直接の慈悲から瞬間の救いが信じられること。

[3.] In mundo etiam possunt plures in uno consortio et in una societate civili esse et simul laetari, et tamen omnes differre animis; [3.] 世でもまた多くの者が一つの交わりの中に、また市民の一つの社会の中にいること、また一緒に喜ぶことができる、またそれでもなお、すべての者は心で(アニムスで、気質で)なることが〔できる〕。

hoc fit in statu naturali. このことは〔人間の〕自然的な状態の中で生じる

Causa est, quia externum unius hominis potest accommodari externo alterius, utcunque interna dissimilia sunt. 理由である、一人の人間の外なるものは他の者の外なるものに合わせられることができるからである、どれほど内なるものが似ていなくても。

Ex hoc statu naturali etiam concluditur, quod salvatio sit modo admissio ad angelos in caelum, et quod admissio sit ex immediata misericordia: さらにまたこの自然的な状態から結論される、救いは単に天界の中の天使たち(のところ)に入るのを許されること、また入るのを許されることが直接の慈悲からであること。

quare etiam creditur, quod malis aeque possit dari caelum quam bonis, et quod tunc consociatio sit similis quae in mundo, cum differentia quod illa sit plena gaudio. それゆえ、さらにまた信じられる、悪い者も善い者と等しく天界を与えられることができること、また同様の交わり(仲間づきあい)があること、それは世の中〔と〕、相違とともに、それらが楽しさに満ちていること。

 

(3) 訳文

338. (iii.) 「直接の慈悲からの瞬間の救いは、ありえないこと」

 先行するものの中で、人間の救いのための神的摂理の働きは、彼の出生から始まり、彼の生涯の終わりまで、またその後、永遠に続くこと、なおまた、その働きは純粋な慈悲から手段によって絶えず生じることが示されている。これらから、瞬間の救いは、直接の慈悲も存在しないことがいえる。

しかし、教会または宗教の事柄について何らかのものを理解力から考えない多くの者は、直接の慈悲から救われ、またここから救いが瞬間のものであると信じ、またそれでもこのことは真理に反し、また加えて有害な信仰であるので、次の順序の中で考慮されることが重要である。

 

  (1.) 直接の慈悲からの瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な状態から把握されていること。

 (2.) この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態〔について〕の無知からであること。

 (3.) キリスト教世界の中のすべての教会の内部で見られる教えは、直接の慈悲からの瞬間の救いに反している、しかし、それでも、教会の外なる人間はそれらを確かなものにしていること。

 

[2.] 第一:「直接の慈悲からの瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な状態から把握されていること」

 自然的な人間は自分の状態から、天界の楽しさは世の楽しさのようであり、そして同しように流入し、受けいられるとしか知らない。

 例として、貧しい者が富んだ者になったようなもの、またこのように貧困の惨めな状態から裕福な幸福の状態の中にやって来るようなもの、あるいは、卑しい者が、称賛される者になる、またこのように軽蔑から名声の中にやって来るようなもの、または、嘆きの家から婚礼の楽しみの家にやって来るようなものである。これらの状態は一日の内に変えられることができ、また死後の人間の状態について他に概念がないので、直接の慈悲から瞬間の救いが信じられることがどこからであるか明らかである。

[3.] 世でもまた多くの者が、市民の一つの交わりの中に、また一つの社会の中にいて一緒に喜び、またそれでもなお、すべての者は心でなることができる。このことは〔人間の〕自然的な状態の中で生じる。その理由は、ある人間がその外なるものを他の者の外なるものと、どれほど内なるものが似ていなくても、合わせられることである。さらにまたこの自然的な状態から、救いは単に天界の中の天使たちのところに入るのを許されること、また入るのを許されることは直接の慈悲からであることが結論される。それゆえまた、悪い者も善い者と等しく天界を、世の中でと同様の仲間づきあいが、それらが楽しさに満ちているという相違とともに与えられることができる、と信じられている。

author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 00:52
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原典講読「神の摂理』 336,337
 

(1) 原文

336.  Modi autem, per quos Divina Providentia operatur in media, et per media ad formandum hominem, et ad perficiendum illum, sunt etiam infiniti numero et infiniti varietate; totidem quot sunt operationes Divinae Sapientiae ex Divino Amore ad salvandum hominem; ita quot sunt operationes Divinae Providentiae secundum leges suas, de quibus supra actum est. Quod modi illi arcanissimi sint, supra illustratum est per operationes animae in corpus, de quibus homo tam parum novit, ut vix aliquid; ut quomodo oculus, auris, naris, lingua, cuticula, sentiunt; ac quomodo ventriculus digerit, mesenterium chylificat, hepar sanguinem elaborat, pancreas et lien purificant, renes ab humoribus impuris secernunt, cor illum colligit et distribuit, pulmo illum decantat; et quomodo cerebrum sanguinem sublimat, et e novo vivificat; praeter innumera alia, quae omnia sunt arcana, in quae vix aliqua scientia potest intrare. Ex his patet, quod adhuc minus possit intrari in arcanas operationes Divinae Providentiae; satis est quod sciantur leges ejus.

 

(2) 直訳

Modi autem, per quos Divina Providentia operatur in media, et per media ad formandum hominem, et ad perficiendum illum, sunt etiam infiniti numero et infiniti varietate; けれども、方法は、それによって神的な摂理が手段の中で働く、また手段によって人間を形作るための、またそれを完全にするための、さらにまた数で無限にある、また多様性(変化)無限に。

totidem quot sunt operationes Divinae Sapientiae ex Divino Amore ad salvandum hominem; 同じ数のそれだけ多くある、人間の救いのために神的な愛からの神的な働きと。

ita quot sunt operationes Divinae Providentiae secundum leges suas, de quibus supra actum est. そのように多くある、神的な摂理の法則と、その法則にしたがって、それらは上に述べられている。

ita quot sunt operationes Divinae Providentiae secundum leges suas, de quibus supra actum est. そのように多くある、神的な摂理の法則と、その法則にしたがって、それらは前に述べられている。

Quod modi illi arcanissimi sint, supra illustratum est per operationes animae in corpus, de quibus homo tam parum novit, ut vix aliquid; それらの方法が最高に隠されたもの(秘密なもの)であることは、上に説明されている、身体の中の霊魂の働きによって、それらについて、人間はこのようにわずかに知っている(知った)、ほとんど何らかのものを〔知らない〕ように。

ut quomodo oculus, auris, naris, lingua, cuticula, sentiunt; 例えば、どのように目、耳、鼻、舌、皮膚は感じるか。

ac quomodo ventriculus digerit, mesenterium chylificat, hepar sanguinem elaborat, pancreas et lien purificant, renes ab humoribus impuris secernunt, cor illum colligit et distribuit, pulmo illum decantat;  そして、どのように胃が消化するか、腸間膜が乳糜をつくる、肝臓が血をつくる、膵臓と脾臓が清める、腎臓が不潔な(よごれた)液〔=血液〕から〔不潔なものを〕分離する、心臓がそれらを集める、また分配(配送)る、肺がそれらを浄化する。

et quomodo cerebrum sanguinem sublimat, et e novo vivificat;  またどのように脳(大脳)が血を精製(純化)るか、また新たに活気づける(生き生きとさせる)

praeter innumera alia, quae omnia sunt arcana, in quae vix aliqua scientia potest intrare. ほかに無数の他のもの、それらのすべてのものはアルカナ(秘密、神秘)である、それらの中にほとんど何らかの知識は入ることができない。

Ex his patet, quod adhuc minus possit intrari in arcanas operationes Divinae Providentiae; これらから明らかである、なおさら(さらに)少なく(なおさら)入られることができないこと神的な摂理の働きのアルカナの中に。

satis est quod sciantur leges ejus. 十分で☆である、その法則が知られること。

訳が「十分で」でよいか、私にはよくわかりません。

 

(3) 訳文

336.  けれども、神的な摂理が手段の中で働き、また手段によって人間を形作るための、またそれを完全にするための方法は、さらにまた数で無限であり、また多様性無限であり、人間の救いのために、神的な愛からの神的な働きと同じ数だけ多くある。前に述べられている神的な摂理の法則と、その法則にしたがってそのように多くある。それらの方法が最高に隠されたものであることは、前に身体の中の霊魂の働きによって説明されている、それらについて人間が知っていることはわずかであり、ほとんど何も知らないようなものである。例えば、目、耳、鼻、舌、皮膚はどのように感じるのか。そして、どのように胃が消化し、腸間膜が乳糜をつくり、肝臓が血をつくり、膵臓と脾臓が清め、腎臓がよごれた血液から不潔なものを分離し、心臓がそれらを集め、また分配、肺がそれらを浄化するのか。またどのように脳が血を純化し、新たに活気づけるのか。ほかに無数の他のもの、それらのすべてのものはアルカナ(秘密)であり、それらの中に何らかの知識はほとんど入ることができない。

 これらから、神的な摂理の働きのアルカナの中には、さらになおさら入れられることができないことが明らかである。その法則が知られることで十分である。

 

(1) 原文

337.  Quod Divina Providentia operetur omnia ex pura misericordia, est quia ipsa Essentia Divina est purus Amor, et hic est qui per Divinam Sapientiam operatur, et haec operatio est quae vocatur Divina Providentia. Quod purus ille Amor sit pura Misericordia, est,(1.) Quia operatur apud omnes qui in universo terrarum orbe sunt, qui tales sunt, ut nihil possint ex se. (2.) Quod operetur apud malos et injustos aeque ac apud bonos et justos. (3.) Quod ducat illos in inferno, et inde eripiat illos. (4.) Quod ibi perpetuo luctetur cum illis, et pugnet pro illis contra diabolum, hoc est, contra mala inferni. (5.) Quod propterea in mundum venerit, et subiverit tentationes usque ad ultiman illarum, quae fuit passio crucis. (6.) Quod continue agat cum immundis ut mundos reddat, et cum insanis ut sanos reddat: ita continue laboret ex pura misericordia.

 

(2) 直訳

Quod Divina Providentia operetur omnia ex pura misericordia, est quia ipsa Essentia Divina est purus Amor, et hic est qui per Divinam Sapientiam operatur, et haec operatio est quae vocatur Divina Providentia. 神的な摂理はすべてのものを純粋な慈悲から働く、神的な本質そのものが純粋な愛であるからである、またこれである、それは神的な知恵によって働く、またこの働きは神的な摂理と呼ばれるものである。

Quod purus ille Amor sit pura Misericordia, est,― この純粋な愛が純粋な慈悲であることは、〔次のこと〕である―

(1.) Quia operatur apud omnes qui in universo terrarum orbe sunt, qui tales sunt, ut nihil possint ex se. (1.) すべての者のもとで働くからである、その者は全地の地球の中にいる者、その者はこのようなものである、自分自身からは何もできないような。

(2.) Quod operetur apud malos et injustos aeque ac apud bonos et justos. (2.) 悪い者と不正な者のもとで等しく、そして善い者と正しい者のもとで、働くこと。

(3.) Quod ducat illos in inferno, et inde eripiat illos. (3.) 彼らを地獄の中で導くこと、またここから彼らを(ひったくるように)救い出す。

(4.) Quod ibi perpetuo luctetur cum illis, et pugnet pro illis contra diabolum, hoc est, contra mala inferni. (4.) そこで絶えず彼らともに苦闘する、また彼らのために悪魔に対して戦うこと、すなわち、地獄の悪に対して。

(5.) Quod propterea in mundum venerit, et subiverit tentationes usque ad ultiman illarum, quae fuit passio crucis. (5.) このために世に来たこと、また試練を受けた、その最後のものまでも、それは十字架の受難であった。

(6.) Quod continue agat cum immundis ut mundos reddat, et cum insanis ut sanos reddat: (6.) 絶えず不潔(不純)なもの()に行なった(働きかけた)こと、清潔なも()戻すように、また狂った者に、健全な者に戻すように。

ita continue laboret ex pura misericordia. このように絶えず働く(苦労する)、純粋な慈悲から。

 

(3) 訳文

337.  神的な摂理が純粋な慈悲からすべてのものに働くのは、神的な本質そのものが純粋な愛であるからであり、またこれは神的な知恵によって働き、この働きは神的な摂理と呼ばれるものである。

 この純粋な愛が純粋な慈悲であることは―

 

(1.) 全地球の中にいて、自分自身からは何もできないようなすべての者のもとで働くからである。

(2.) 悪い者と不正な者のもとでも、善い者と正しい者のもとと等しく働くこと。

(3.) 彼らを地獄の中で導き、またここから彼らを救い出すこと。

(4.) そこのところ絶えず彼らともに苦闘し、また彼らのために、悪魔に対して、すなわち、地獄の悪に対して戦うこと。

(5.) このために世に来た、また試練をその最後のものまでも受け、それは十字架の受難であったこと。

(6.) 不潔な者を清潔な者に戻すように、また狂った者を健全な者に戻すように、絶えず働きかけた)こと。

 

 このように純粋な慈悲から絶えず働いている。

author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 01:57
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原典講読「神の摂理』 335
 

(1) 原文

335.  (ii.) Quod operatio Divinae Providentiae continue fiat per media ex pura misericordia. Sunt media et modi Divinae Providentiae. Media sunt, ex quibus homo fit homo, ac perficitur quoad intellectum et quoad voluntatem; modi sunt, per quos illa fiunt. Media ex quibus homo fit homo, ac perficitur quoad intellectum, communi voce vocantur vera, quae fiunt ideae in cogitatione, et dicuntur res in memoria, et in se sunt cognitiones, ex quibus scientiae. Omnia illa media in se spectata sunt spiritualia; sed quia sunt in naturalibus, ex indusio seu vestitu suo apparent sicut naturalia, et quaedam sicut materialia. Media illa infinita sunt numero, ac infinita sunt varietate; sunt simplicia et composita minus et magis, et sunt imperfecta et perfecta minus et magis. Sunt media pro formanda et perficienda vita civili naturali; tum pro formanda et perficienda vita morali rationali; ut et pro formanda et perficienda vita spirituali caelesti. [2.] Media illa succedunt, unum genus post alterum, ab infantia usque ad aetatem hominis ultimam, et post illam in aeternum: et sicut succedunt crescendo, ita priora fiunt media posteriorum, ingrediuntur enim omne formatum sicut causae mediae; nam ex his omnis effectus seu omne conclusum est efficiens, et inde fit causa; ita posteriora fiunt successive media: et quia hoc fit in aeternum, non datur postremum seu ultimum, quod claudit. Nam sicut aeternum est absque fine, ita sapientia quae in aeternum crescit est absque fine. Si finis sapientiae foret apud sapientem, periret jucundum sapientiae ejus, quod consistit in perpetua multiplicatione et fructificatione ejus; et sic jucundum vitae ejus, et loco ejus succederet jucundum gloriae, in quo solo non est vita caelestis; fit homo ille sapiens tunc non amplius sicut juvenis, sed sicut senex, et tandem sicut decrepitus. [3.] Tametsi sapientia sapientis in caelo crescit in aeternum, usque tamen non datur sapientiae angelicae approximatio ad sapientiam Divinam talis, ut illam possit contingere; est comparative sicut dicitur de linea recta circum hyperbolam ducta continue approximante et nusquam tangente; et sicut dicitur de quadrando circulo. Ex his constare potest, quid intelligitur per media, per quae Divina Providentia operatur, ut homo sit homo, ac ut perficiatur quoad intellectum; et quod haec media communi voce dicantur vera. Totidem etiam sunt media, per quae homo formatur et perficitur quoad voluntatem, sed haec communi voce dicuntur bona; ex his est homini amor, ex illis autem est homini sapientia. Conjunctio illorum facit hominem; nam qualis illa est, talis est homo. Haec conjunctio est quae vocatur conjugium boni et veri.

 

(2) 直訳

(ii.) Quod operatio Divinae Providentiae continue fiat per media ex pura misericordia.― (ii.) 神的な摂理の働きは純粋な慈悲からの手段によって絶えず生じること―

Sunt media et modi Divinae Providentiae. 神的な摂理の手段と方法がある。

Media sunt, ex quibus homo fit homo, ac perficitur quoad intellectum et quoad voluntatem; 手段がある、それらから人間は人間になる、そして理解力に関して、また意志に関して完全にされる(理想に近づけさせられる)

modi sunt, per quos illa fiunt. 方法がある、それらによってそれら〔手段〕が行なわれる。

Media ex quibus homo fit homo, ac perficitur quoad intellectum, communi voce vocantur vera, quae fiunt ideae in cogitatione, et dicuntur res in memoria, et in se sunt cognitiones, ex quibus scientiae. 手段は、それらから人間は人間となる、そして理解力に関して完全にされる、通常の言葉で真理を呼ばれる、それらは思考の中で観念となる、また記憶の中で〔記憶の〕事柄と言われる、また本質的に認識(知識)である、それらから知識〔がある〕。

Omnia illa media in se spectata sunt spiritualia;  本質的に見られたそれらのすべての手段は霊的なものである。

sed quia sunt in naturalibus, ex indusio seu vestitu suo apparent sicut naturalia, et quaedam sicut materialia. しかし、自然的なものの中にあるので、その衣服または服装から、自然的なものに見える、またあるものは物質的なもののようである。

Media illa infinita sunt numero, ac infinita sunt varietate; それらの手段は数で無限である、そして多様性(変化)無限である。

sunt simplicia et composita minus et magis, et sunt imperfecta et perfecta minus et magis. 少なくまた多く、単純なものと合成され(組み合わされた)のである、また少なくまた多く不完全なものと完全なものである。

Sunt media pro formanda et perficienda vita civili naturali; 手段がある、自然的な市民の生活をつくり、完全にするための。

tum pro formanda et perficienda vita morali rationali; なおまた、理性的な道徳の生活をつくり、完全にするための。

ut et pro formanda et perficienda vita spirituali caelesti. そのようにまた、天界的な霊的の生活をつくり、完全にするための。

[2.] Media illa succedunt, unum genus post alterum, ab infantia usque ad aetatem hominis ultimam, et post illam in aeternum: [2.] これらの手段は続く、一つの種類からもう一つの後ろへ、幼児期から人間の最後の年齢にまでも、またその後、永遠に。

et sicut succedunt crescendo, ita priora fiunt media posteriorum, ingrediuntur enim omne formatum sicut causae mediae; また増大(成長)て続くように、そのように前のものは後ろのものの手段となる、というのはそれらは入るから、手段の原因のように形成されたすべてのものに。

nam ex his omnis effectus seu omne conclusum est efficiens, et inde fit causa; なぜなら、これらのすべての結果または結論は有効な(効果を引き起こす)ものである、またここから原因となるから。

ita posteriora fiunt successive media: そのように後のものは引き続いて手段になる。

et quia hoc fit in aeternum, non datur postremum seu ultimum, quod claudit. またこのことは永遠に生じるので、最終のものまたは最後のものは存在しない、それは閉じる。

Nam sicut aeternum est absque fine, ita sapientia quae in aeternum crescit est absque fine. なぜなら、永遠が終わりなしであるように、そのように知恵は、それは永遠に増大する、終わりなしであるから。

Si finis sapientiae foret apud sapientem, periret jucundum sapientiae ejus, quod consistit in perpetua multiplicatione et fructificatione ejus; もし、賢明な者のもとで知恵の終わりがあったなら、彼の知恵の快さ(楽しさ)は滅びる(失われる)、それは絶え間ないその増加と結実を構成する。

et sic jucundum vitae ejus, et loco ejus succederet jucundum gloriae, in quo solo non est vita caelestis; またこのように(したがって)、そのいのちの快さ(楽しさ)は、またそれに代わって栄光(称賛)快さ(楽しさ)、その中に、単独で☆、天界のいのちはない。

☆ 「単独で」とは、説明するまでもないでしょうが、「称賛される快感だけがそこにあるなら」ということです。

fit homo ille sapiens tunc non amplius sicut juvenis, sed sicut senex, et tandem sicut decrepitus. その賢明な人間はその時、もはや若者のようではない、しかし老人のよう〔である〕、また最後によぼよぼに〔なる〕。

[3.] Tametsi sapientia sapientis in caelo crescit in aeternum, usque tamen non datur sapientiae angelicae approximatio ad sapientiam Divinam talis, ut illam possit contingere; [3.] たとえ天界の中で賢明な者の知恵は永遠に増大しても、やはりそれでもなお天使の知恵の接近は与えられない(存在しない)、このような神的な知恵へ、それらと接触するような。

est comparative sicut dicitur de linea recta circum hyperbolam ducta continue approximante et nusquam tangente; 比較によって存在する、双曲線のまわりの直線について言われるような、絶えず近づいてまた決して触れないで導かれる。

et sicut dicitur de quadrando circulo. また円を四角にすること☆について言われるようである。

直訳は「円を四角にすること」ですが解説が必要でしょう。これを柳瀬は「円を直線にする」と意図的に誤訳し、長島も「四角を円にすることができない」すなわち、「曲がった漸近線を直線にできない」ことの類例としてとらえています。これでは「近づくことはできても、完全に一致することが不可能であるものの例」であるであることがわかりません。これは古代ギリシアの数学で三大難問として知られていた「円と等面積の正方形を作図すること」です。スヴェーデンボリの時代には、これが不可能であることが(ずっと以前から)よく知られていました。

Ex his constare potest, quid intelligitur per media, per quae Divina Providentia operatur, ut homo sit homo, ac ut perficiatur quoad intellectum; これらから明らかにすることができる、手段によって何が意味されるか、神的な摂理が働くものによって、人間が人間であるように、そして理解力に関して完全されるように。

et quod haec media communi voce dicantur vera. またこれらの手段が通常の言葉で真理と言われること。

Totidem etiam sunt media, per quae homo formatur et perficitur quoad voluntatem, sed haec communi voce dicuntur bona; さらにまた同数の手段がある、それらによって人間が意志に関して形作られ、完全にされる、しかし、これらは通常の言葉で善と言われる。

ex his est homini amor, ex illis autem est homini sapientia. これら〔後者〕から人間に愛がある、けれどもそれら〔前者〕から人間に知恵がある。

Conjunctio illorum facit hominem; それらの結合が人間をつくる。

nam qualis illa est, talis est homo. なぜなら、それらがどのようなものであるか〔によって〕、人間はそのようなものであるから。

Haec conjunctio est quae vocatur conjugium boni et veri.  この結合である、それが善と真理の結婚と呼ばれる。

 

(3) 訳文

335.  (ii.)「神的な摂理の働きは純粋な慈悲からの手段によって絶えず生じること」

 神的な摂理の手段と方法がある。手段から人間は人間になり、そして理解力に関して、また意志に関して完全にされる。方法よってそれらの手段が行なわれる。

 手段から人間は人間となり、そして理解力に関して完全にされるが、その手段は通常の言葉で真理を呼ばれ、それらは思考の中で観念となり、また記憶の中で〔記憶の〕事柄と言われ、また本質的には認識であり、それらから知識がある。本質的に見られたそれらのすべての手段は霊的なものである。しかし、その衣服または服装から自然的なものの中にあるので、自然的なものに見え、またあるものは物質的なもののようである。それらの手段は数で無限であり、そして多様性無限である。多かれ少なかれ単純なものと組み合わされたものであり、また多かれ少なかれ不完全なものと完全なものである。

 自然的な市民の生活をつくり、完全にするための、なおまた、理性的な道徳の生活をつくり、完全にするための、そのようにまた、天界的な霊的の生活をつくり、完全にするための手段がある。

[2.] これらの手段は、一つからもう一つの後ろの種類へ、幼児期から人間の最後の年齢にまでも、またその後、永遠に続く。また成長して続くように、そのように前のものは後ろのものの手段となる、というのは、それらは手段の原因のように形成されたすべてのものの中に入るから。なぜなら、これらのすべての結果または結論は有効なものであり、またここから原因となるから。そのように後のものは引き続いて手段になる。またこのことは永遠に生じるので、閉じる最終のものまたは最後のものは存在しない。なぜなら、永遠に終わりがないように、そのように永遠に増大する知恵に終わりがないから。

 もし、賢明な者のもとで知恵の終わりがあったなら、絶え間ない増加と結実を構成する彼の知恵の快さは失われる。またしたがって、そのいのちの快さは、それに代わって称賛の快さとなり、その快さだけしかないなら、その中に天界のいのちはない。その時、その賢明な人間はもはや若者のようではなく、老人のようであり、最後にはよぼよぼになる。

[3.] たとえ天界の中で賢明な者の知恵は永遠に増大しても、やはりそれでもなお、神的な知恵へと接触するような天使の知恵の接近は与えられない。

 比較すれば、絶えず近づくが決して触れないような双曲線のまわりの直線について言われるようなものである。また円を四角にすること〔円と等面積の正方形を作図すること〕ついて言われるようなものである。

 これらから、神的な摂理が、人間が人間であるように、そして理解力に関して完全されるように働く手段によって何が意味されるか明らかにすることができる。またこれらの手段が通常の言葉で真理と言われる。さらにまた同数の手段があり、それらによって人間が意志に関して形作られ、完全にされる、しかし、これらは通常の言葉で善と言われる。後者から人間に愛がある、けれども前者から人間に知恵がある。それらの結合が人間をつくる。なぜなら、それらがどのようなものであるかによって、人間はそのようなものであるから。この結合が善と真理の結婚と呼ばれるものである。

author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 23:53
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原典講読「神の摂理』 333, 334
 

(1) 原文

333.  Dicitur quod operatio Divinae Providentiae ad salvandum hominem inchoet a nativitate ejus et perstet usque ad finem vitae ejus. Quod ut intelligatur, sciendum est, quod Dominus videat, qualis homo est, ac praevideat qualis vult esse, ita qualis futurus est; et liberum voluntatis ejus non potest auferri, ut sit homo et inde immortalis, ut prius multis ostensum est; quare Dominus praevidet statum ejus post mortem, et illum providet a nativitate ejus usque ad finem vitae. Apud malos providet permittendo et continue abducendo a malis; apud bonos autem providet ducendo ad bonum. Ita Divina Providentia est continue in operatione salvandi hominem; sed non salvari possunt plures quam salvari volunt, ac illi volunt salvari, qui Deum agnoscunt, et ab Ipso ducuntur; et illi non volunt, qui Deum non agnoscunt, et semet ducunt; hi enim non cogitant de vita aeterna, et de salvatione, illi vero cogitant. Hoc videt Dominus, et usque ducit illos, et ducit secundum leges Divinae Providentiae suae, contra quas non potest agere, quoniam agere contra illas, foret agere contra Divinum suum Amorem, et contra Divinam suam Sapientiam, quod est contra Se Ipsum. [2.] Nunc quia praevidet omnium status post mortem, et quoque praevidet loca illorum, qui non salvari volunt, in inferno, ac loca illorum, qui salvari volunt, in caelo, sequitur, quod, ut dictum est, provideat malis sua loca permittendo et abducendo, ac bonis sua loca ducendo; quod nisi fieret continue a nativitate cujusvis ad finem vitae ejus, caelum non subsisteret, nec infernum: nam absque illa Praevidentia et simul Providentia non foret caelum nec infernum nisi confusum quoddam. Quod cuivis suus locus a Domino ex praeviso provisus sit, videatur supra (n. 202, 203). [3.] Hoc illustrari potest per hanc comparationem: si jaculator aut sclopetarius collimaret ad scopum, et a scopo post illum duceretur linea recta ad milliaris distantiam, si in collimatione aberraret ungue solum, telum vel globulus ad finem milliaris immensum recederet a linea post scopum ducta. Ita foret, nisi Dominus omni momento, immo minutissimo spectaret aeternum in praevidendo et providendo cujusvis locum post mortem; sed hoc fit a Domino, quia omne futurum est Ipsi praesens, et omne praesens est Ipsi aeternum. Quod Divina Providentia in omni quod facit, spectet infinitum ac aeternum, videatur supra (n. 46-69, 214 seq.).

 

(2) 直訳

Dicitur quod operatio Divinae Providentiae ad salvandum hominem inchoet a nativitate ejus et perstet usque ad finem vitae ejus. 人間の救いのための(向けて)神的な摂理の働きは、彼の出生から始まる、また彼のいのち(生涯)の終わりまでも続くことが言われている。

Quod ut intelligatur, sciendum est, quod Dominus videat, qualis homo est, ac praevideat qualis vult esse, ita qualis futurus est; 理解されるように、知らなければならないこと、主が見ること、人間がどんなであるか、そしてどのようでありたいか先見する、このように〔将来〕どのようであるか。

et liberum voluntatis ejus non potest auferri, ut sit homo et inde immortalis, ut prius multis ostensum est; また彼の意志の自由は取り去られることができない、人間であり、またここから不死であるために、以前に多く示されているように。

quare Dominus praevidet statum ejus post mortem, et illum providet a nativitate ejus usque ad finem vitae. それゆえ、主は、死後の彼の状態を先見する、またそれを備える、彼の出生から彼のいのち(生涯)の終わりまでも。

Apud malos providet permittendo et continue abducendo a malis; 悪い者のもとで備える、悪から許されるように、また絶えず導き出されるように。

apud bonos autem providet ducendo ad bonum. けれども、善い者のもとで備える、善へ導くように。

Ita Divina Providentia est continue in operatione salvandi hominem; このように神的な摂理が、絶えず人間を救う働きの中にある。

sed non salvari possunt plures quam salvari volunt, ac illi volunt salvari, qui Deum agnoscunt, et ab Ipso ducuntur; しかし、もっと多く救われることができない、救われることを欲する以上に、そして、救われることを欲する者は、その者は神を認める、またその方により導かれる。

et illi non volunt, qui Deum non agnoscunt, et semet ducunt; また、彼らは欲しない、神を認めない者、また自分自身を導く。

hi enim non cogitant de vita aeterna, et de salvatione, illi vero cogitant. というのは、これらの者〔後者〕は永遠のいのちについて考えないから、また救いについて、けれども、それらの者〔前者〕は考える。

Hoc videt Dominus, et usque ducit illos, et ducit secundum leges Divinae Providentiae suae, contra quas non potest agere, quoniam agere contra illas, foret agere contra Divinum suum Amorem, et contra Divinam suam Sapientiam, quod est contra Se Ipsum. このことを主は見る、またそれでも彼らを導く、またご自分の神的な摂理の法則にしたがって導く、それらに反して行なうことはできない、それらに反して行なうことは、ご自分の神的な愛に反して行なうことになるので、またご自分の神的な知恵に反して、そのことはご自分自身に反することである。

[2.] Nunc quia praevidet omnium status post mortem, et quoque praevidet loca illorum, qui non salvari volunt, in inferno, ac loca illorum, qui salvari volunt, in caelo, sequitur, quod, ut dictum est, provideat malis sua loca permittendo et abducendo, ac bonis sua loca ducendo; [2.] そこで、〔主は〕死後のすべての者の状態を先見するので、そしてまた彼らの場所を先見する、救われることを欲しない者は、地獄の中に、そして彼らの場所を、救わることを欲する者は、天界の中に、〜ということになる、言われたように、悪い者に自分の場所を許して、また導き出して備える、そして善い者に自分の場所を、導いて。

quod nisi fieret continue a nativitate cujusvis ad finem vitae ejus, caelum non subsisteret, nec infernum: このことが絶えず、それぞれの者に出生から彼のいのち(生涯)終わりまでなかったなら、天界は存続しなかった、地獄も。

nam absque illa Praevidentia et simul Providentia non foret caelum nec infernum nisi confusum quoddam. なぜなら、その先見と同時に摂理なしに、天界は地獄も、ある種の混乱がないなら、存在しない(しなかった)から。

Quod cuivis suus locus a Domino ex praeviso provisus sit, videatur supra (n. 202, 203). それぞれの者に自分の場所が主により先見する力から備えられることは、上に見られる(202, 203)

[3.] Hoc illustrari potest per hanc comparationem: [3.] このことはこの比較(たとえ)によって説明されることができる。

si jaculator aut sclopetarius collimaret ad scopum, et a scopo post illum duceretur linea recta ad milliaris distantiam, si in collimatione aberraret ungue solum, telum vel globulus ad finem milliaris immensum recederet a linea post scopum ducta. もし射る者または(マスケット)を撃つ者が的をねらうとき、また的からその後ろに線が真っ直ぐに導かれている一マイルの距離に向けて、もし、ねらいの動作の中で、つめの幅だけはずれるなら、矢または球()は一マイルの目標に向けて、計り知れないほどそれる、的の後ろに導かれた線から。

Ita foret, nisi Dominus omni momento, immo minutissimo spectaret aeternum in praevidendo et providendo cujusvis locum post mortem; このようになった〔であろう〕、主がすべての者に、瞬間に、それどころか最小の瞬間に、それぞれの者に場所を死後に先見する、また備える中で、永遠を眺めないなら。

sed hoc fit a Domino, quia omne futurum est Ipsi praesens, et omne praesens est Ipsi aeternum. しかし、このことは主により生じる、すべての将来はその方に現在するので、またすべての現在はその方に永遠である。

Quod Divina Providentia in omni quod facit, spectet infinitum ac aeternum, videatur supra (n. 46-69, 214 seq.).  神的な摂理が、すべてのものの中で、それは生じる、無限と永遠を眺めることは、上に見られる(46-69番、214番と続き)

 

(3) 訳文

333.  人間の救いのための神的な摂理の働きは、彼の出生から始まり、彼の生涯の終わりまでも続くことが言われている。主が、人間がどんなであるか見る、そしてどのようでありたいか、このように将来どのようであるか先見すること、また、人間であり、またここから不死であるために、以前に多く示されているように、彼の意志の自由は取り去られることができないことを知らなければならないことが理解されるためである。それゆえ、主は、死後の彼の状態を先見し、それを彼の出生からその生涯の終わりまでも備えられる。悪い者のもとでは、悪から許されるように、また絶えず導き出されるように備える。けれども、善い者のもとでは、善へ導くように備えられる。このように神的な摂理が、絶えず人間を救う働きの中にある。しかし、救われることを欲する以上にさらに救われることはできない、そして、救われることを欲する者は、神を認め、その方により導かれる。また、神を認めない者、自分自身を導く者は〔救われることを〕欲しない。というのは、後者は永遠のいのちについて、また救いについて考えない、けれども、前者は考えるから。

 このことを主は見、彼らを導く、ご自分の神的な摂理の法則にしたがって導くがそれでも、それら〔法則〕に反して行なうことはできない、それらに反して行なうことは、ご自分の神的な愛に反して、またご自分の神的な知恵に反して行なうことになりからであり、そのことはご自分自身に反することである。

[2.] さて、〔主は〕死後のすべての者の状態を先見し、そしてまた彼らの場所を先見するので、彼らの場所を救われることを欲しない者は地獄の中に、そして、救わることを欲する者は天界の中に、いま言われたように、悪い者には自分の場所を許し、また導き出して、そして善い者には自分の場所を導いて備えることがいえる。このことが、それぞれの者に絶えず出生からその生涯の終わりまでなかったなら、天界は、地獄も、存続しなかった。なぜなら、その先見と同時に摂理がないなら、天界は地獄もある種の混乱なしに存在しなかったであろうから。

主による先見から、それぞれの者に自分の場所が備えられることは前に見られる(202, 203)

[3.] このことは次のたとえによって説明されることができる。

 もし射る者またはを撃つ者が的をねらい、的からその後ろに線が真っ直ぐに一マイルの距離引かれており、またもし、ねらいの動作で、つめの幅だけはずれるなら、目標に向けて、矢またはは的の後ろに導かれた線から一マイル〔のところ〕で、計り知れないほど、それる。

 主がすべての者に、瞬間に、それどころか最小の瞬間に、それぞれの者に死後の場所を先見し、また備える中で、永遠を眺めないなら、このようになったであろう。しかし、このことは主により生じる。すべての将来はその方に現在し、また現在のすべてのものはその方にとって永遠であるからである。

 生じるすべてのものの中で、神的な摂理が無限と永遠を眺めていることは、前に見られる(46-69番、214番と続き)

 

(1) 原文

334.  Dicitur etiam quod operatio Divinae Providentiae perstet in aeternum, quoniam omnis angelus perficitur sapientia in aeternum; at quisque secundum gradum affectionis boni et veri, in quo fuit cum abivit e mundo. Hic gradus est qui in aeternum perficitur; quod ultra illum gradum est, hoc extra angelum est, et non intra illum; et id quod extra illum est, non potest perfici intra illum. Hoc intelligitur per

 

 "Mensuram bonam, pressam, agitatam et superfluentem," quae dabitur in sinum illorum, qui remittunt et dant aliis (Luc. vii. 37, 38);

hoc est, qui in bono charitatis sunt.

 

(2) 直訳

Dicitur etiam quod operatio Divinae Providentiae perstet in aeternum, quoniam omnis angelus perficitur sapientia in aeternum; 神的な摂理の働きが永遠に続くこともまた言われた、すべての天使は知恵を永遠に完成させられるので。

at quisque secundum gradum affectionis boni et veri, in quo fuit cum abivit e mundo. しかし、それぞれの者が、善と真理の情愛の段階にしたがって、その中にいた、世から立ち去ったとき。

Hic gradus est qui in aeternum perficitur; この段階である、それは永遠に完成させられる。

quod ultra illum gradum est, hoc extra angelum est, et non intra illum; その段階を越えるものは、これは天使の外にある、また彼の内にない。

et id quod extra illum est, non potest perfici intra illum. またそれは、彼の外にあるもの、彼の内で完成せられることができない。

Hoc intelligitur per このことが、〜によって意味される、

"Mensuram bonam, pressam, agitatam et superfluentem," quae dabitur in sinum illorum, qui remittunt et dant aliis (Luc. vii. 37, 38); 「善い計量を、圧したものを、揺さぶったものとあふれるものを」☆1、それらが彼らのふところの中に与えられる、その者は許し、また他の者に与える(ルカvi.237, 38)

1 なめらかに訳せば「量りをよくし、押しつけ、揺さぶり、あふれるものを」でしょう。

2 初版もviiとなっていますがviのミスプリです。
hoc est, qui in bono charitatis sunt.
 すなわち、仁愛の善の中にいる者。

 

(3) 訳文

334.  すべての天使は知恵を永遠に完成させられるので、神的な摂理の働きが永遠に続くこともまた言われた。しかし、それぞれの者が、世から立ち去ったときにいた善と真理の情愛の段階にしたがって。この段階で永遠に完成させられる。その段階を越えるものは、天使の外にあり、彼の内にない。彼の外にあるものは、彼の内で完成せられることができない。

このことが、「量りをよくし、押しつけ、揺さぶり、あふれるもの」が、許し、また他の者に与える者、すなわち、仁愛の善の中にいる者のふところの中に与えられること(ルカvi.237, 38)によって意味される。
author:yasubee, category:原典講読『神の摂理』, 03:25
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