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原典講読『真のキリスト教』 356
(1) 原文
356. (i.) Quod Homo sibi possit comparare Fidem, in lemmate tertio supra (a n. [1]343 ad 348) ostensum est, et per id: quod fides in sua essentia sit veritas, ac veritates ex Verbo possint comparari ab unoquovis; et quantum quis comparat sibi illas, et amat illas, tantum initiet sibi fidem. Quibus addentur haec, quod nisi homo posset comparare sibi fidem, irrita forent omnia quae de fide in Verbo mandantur; legitur enim ibi, Quod voluntas Patris sit, ut credant in Filium, et quod qui credit in Ipsum, vitam aeternam habeat, et quod qui non credit, non visurus sit vitam. Legitur etiam, Quod Jesus missurus sit Paracletum, qui arguet mundum de peccato, quia non credunt in Me; praeter plura, quae supra (n. [2]337, 338) adducta sunt: insuper quod omnes apostoli praedicaverint fidem, et hanc in Dominum Deum Salvatorem Jesum Christum. Quid haec et illa omnia, si homo staret remissis manibus sicut sculpta statua, cum articulis mobilibus, et exspectaret influxum? et tunc articuli, praeter quod ad illum recipiendum se applicare possent, intrinsecus ad quoddam non fidei excitarentur: nam orthodoxia hodierna in orbe Christiano a Romano-Catholicis separato, ita docet:
 
Quod homo ad bonum prorsus corruptus et mortuus sit, ita ut in hominis natura post lapsum ante regenerationem ne scintilla quidem spiritualium virium manserit aut restet, quibus ille ad gratiam Dei praeparari, aut oblatam apprehendere, aut ejus gratiae ex se et per se capax esse; aut in spiritualibus intelligere, credere, amplecti, cogitare, velle, inchoare, perficere, agere, operari, cooperari, aut se ad gratiam applicare aut accommodare, aut aliquid ad conversionem ex toto, vel dimidia, vel ex minima parte, ex se potest. Quodque homo in spiritualibus, quae ad animae salutem spectant, sit instar statuae salis uxoris Loti, ac similis trunco ac lapidi vita carenti, quae non oculorum, oris, aut ullorum sensuum usum habent. Quod usque loco motivam potentiam habeat, seu externa membra regere, ad coetus publicos accedere, ac Verbum et Evangelium audire possit.
 
Haec in libro Ecclesiae Evangelicorum, Formula Concordiae vocato, in editione Lips. 1756, p. 656, 658, 661-663, 671-673; in quem librum, et sic in quam fidem, sacerdotes dum inaugurantur, jurant. Similis fides est Reformatis. Sed quis, cui ratio et religio, non illa ut absona et ridicula exsibilaturus est? Nam diceret secum, "Si ita foret, ad quid tunc Verbum, ad quid religio, ad quid sacerdotium, et ad quid praedicatio, nisi quoddam inane aut sonorum nullius rei?" Dic talia ad quendam paganum, cui judicium, quem convertere vis, quod talis sit quoad conversionem et fidem, annon ille Christianismum aspectaret sicut quis vas vacuum? Aufer enim omnem potentiam credendi ab homine ut a se, quid tunc ille aliud? Sed haec clariore luce donabuntur in capite de Libero Arbitrio.
 
   @1 343-348 (cum exemplo Auctoris,) pro “243 ad 248” @2 337, 338 (cum exemplo Auctoris,) pro “237, 238”
 
(2) 直訳
356. (i.) Quod Homo sibi possit comparare Fidem, in lemmate tertio supra (a n. [1]343 ad 348) ostensum est, et per id: (1) 「人間は自分自身に信仰を得ることができること」は、上の第三の節の中に(343から348番まで)示されている、また、それによって――
quod fides in sua essentia sit veritas, ac veritates ex Verbo possint comparari ab unoquovis; 信仰はその本質の中で狄人瓩任△襪海函△修靴討澆海箸个らの狄人瓩呂修譴召譴里發里砲茲蠅燭箸┐蕕譴襪海箸できること。
et quantum quis comparat sibi illas, et amat illas, tantum initiet sibi fidem. まただれかがどれだけそれらを自分自身に得るか〔によって〕、またそれらを愛する、それだけ信仰を自分自身に導く。
Quibus addentur haec, quod nisi homo posset comparare sibi fidem, irrita forent omnia quae de fide in Verbo mandantur; それらにこれらが加えられる、人間が自分自身に信仰を得ることができないなら、すべてのものは無益(むだ)になった(なる)こと、それらはみことばの中で信仰について適用される(命令される)
legitur enim ibi, Quod voluntas Patris sit, ut credant in Filium, et quod qui credit in Ipsum, vitam aeternam habeat, et quod qui non credit, non visurus sit vitam. というのは、そこに読まれるから、父の意志(みこころ)であること、子を信じること、またその方を信じる者は、永遠のいのちを持つこと、また信じない者は、いのちを見ないこと。
Legitur etiam, Quod Jesus missurus sit Paracletum, qui arguet mundum de peccato, quia non credunt in Me; さらにまた読まれる、イエスがパラクレートス(助け主)を送ること、その者は罪からの世を責める、わたしを信じないので。
praeter plura, quae supra (n. [2]337, 338) adducta sunt: ほかに多くのこと、それらは上に(337, 338)提示されている。
insuper quod omnes apostoli praedicaverint fidem, et hanc in Dominum Deum Salvatorem Jesum Christum. なおまた、すべての使徒は信仰を宣べ伝えたこと、またこれを、救い主なる神、主イエス・キリスト〔の信仰〕。
Quid haec et illa omnia, si homo staret remissis manibus sicut sculpta statua, cum articulis mobilibus, et exspectaret influxum? これらとそれらは何か? もし、人間が刻まれた像のように手をこまぬいて、動くことのできる関節とともに、また流入を期待して。
et tunc articuli, praeter quod ad illum recipiendum se applicare possent, intrinsecus ad quoddam non fidei excitarentur: またその時、関節は、それ(流入)を受け入れるために使用することができることのほかに、信仰のあるものに向けてもつれさせることを刺激される。
nam orthodoxia hodierna in orbe Christiano a Romano-Catholicis separato, ita docet: なぜなら、ローマカトリック教(徒)から分離したキリスト教世界の中の今日の正教は、このように教えているから――
Quod homo ad bonum prorsus corruptus et mortuus sit, ita ut in hominis natura post lapsum ante regenerationem ne scintilla quidem spiritualium virium manserit aut restet, quibus ille ad gratiam Dei praeparari, aut oblatam apprehendere, aut ejus gratiae ex se et per se capax esse; 人間は善に向けてまったく汚され、また死んでいること、そのように(例えば)人間の性質の中に、堕落後、再生の前に、決して何らかの霊的な力の火花(少しのもの)は留まらない(残っていない)(maneo)、または残っていない☆、それらによって彼は神の恩恵に向けて準備されること、またはささげ物をつかむこと、またはその恩恵は自分自身からまた自分自身を通して存在することが可能である。
restoが『レキシコン』に載っていません、これは引用文なので、スヴェーデンボリが使用した語ではないとして、載せなかったのでしょうか。
aut in spiritualibus intelligere, credere, amplecti, cogitare, velle, inchoare, perficere, agere, operari, cooperari, aut se ad gratiam applicare aut accommodare, aut aliquid ad conversionem ex toto, vel dimidia, vel ex minima parte, ex se potest. または霊的なものの中で、理解すること、信じること、抱くこと、考えること、意志すること、始まること、成し遂げること、行なうこと、働くこと、協力すること、または自分自身を恩恵へ向けて適用させること、または適合させること、または何らかのものを方向転換へ向けて、全部のものから、あるいは半分のもの、あるいは最小の部分から、それ自体からできる。
Quodque homo in spiritualibus, quae ad animae salutem spectant, sit instar statuae salis uxoris Loti, ac similis trunco ac lapidi vita carenti, quae non oculorum, oris, aut ullorum sensuum usum habent. そして、人間は霊的なものの中で、それは霊魂の救いに向かって眺める、ロトの妻の塩の柱のようであること、そして幹に似たもの、そして生命の欠けた石に、それらは目、耳、または何の感覚を、役立ちをもたない。
Quod usque loco motivam potentiam habeat, seu externa membra regere, ad coetus publicos accedere, ac Verbum et Evangelium audire possit. それでも運動(を起こすもの)の代わりに力を持っている、すなわち、外なる四肢が応答すること、公共の集会へ近づくこと、そしてみことばと福音を聞くことができる。
Haec in libro Ecclesiae Evangelicorum, Formula Concordiae vocato, in editione Lips. 1756, p. 656, 658, 661-663, 671-673; 福音主義の教会の本の中のこれらは、『一致信条』と呼ばれた、1756年ライプツィヒ☆版、656, 658, 661-663, 671-673番。
Lips.が何なのかわかりませんが「ライプツィヒ」でよいと思います。
in quem librum, et sic in quam fidem, sacerdotes dum inaugurantur, jurant. その本の中に、またこのようにその信仰の中に、聖職者は就任する時、誓う。
Similis fides est Reformatis. 同様の信仰である、改革派教会(の者)に
Sed quis, cui ratio et religio, non illa ut absona et ridicula exsibilaturus est? しかし、だれが、その者に理性と宗教が〔ある〕、それを不合理な(ばかばかしい)ものやこっけいなものとしてブーイングしないか?
Nam diceret secum, "Si ita foret, ad quid tunc Verbum, ad quid religio, ad quid sacerdotium, et ad quid praedicatio, nisi quoddam inane aut sonorum nullius rei?" なぜなら、自分自身に言うから、「もしそのようであった(ある)なら、その時、何らかのみことばに向けて、何らかの宗教に向けて、聖職者のだれかに向けて、また何らかの説教へ向けて、無意味な(空虚な)あるものまたは無の事柄の音でないなら?」
Dic talia ad quendam paganum, cui judicium, quem convertere vis, quod talis sit quoad conversionem et fidem, annon ille Christianismum aspectaret sicut quis vas vacuum? このようなものをある異教徒へ言え、その者に判断力〔がある〕、その者をあなたは回心させることを欲する、回心と信仰に関してこのようなものであること、彼はキリスト教を何か空虚な器として見なすのではないか?
Aufer enim omnem potentiam credendi ab homine ut a se, quid tunc ille aliud? というのは、人間から取り去れ、自分自身からのように信じるすべての力を、その時、彼は他のもの〔以外の〕何か?
Sed haec clariore luce donabuntur in capite de Libero Arbitrio. しかし、このことは選択の自由についての章の中でさらに明るい光の中で与えられる。
 
@1 343-348 (cum exemplo Auctoris,) pro “243 ad 248” 注1 243 ad 248」の代わりに343-348(著者の写し(本)に)
@2 337, 338 (cum exemplo Auctoris,) pro “237, 238” 注2 237, 238」の代わりに337, 338(著者の写し(本)に)
 
(3) 訳文
356.  (1) 「人間自分自身信仰ることができること、前第三されている(343から348まで)またそれによって――信仰はその本質狄人瓩任△襪海函△修靴討澆海箸个らの狄人瓩呂修譴召譴里發里砲茲蠅燭箸┐蕕譴襪海箸できること。まただれかがそれらを自分自身得れば得るほど、またそれらをすればするほどそれだけ信仰自分自身
 それらにこれらがえられる――人間自分自身信仰ることができないならみことばの信仰について命令されるすべてのものは無益になることというのはそこにまれるから――父のみこころは、子じることまたそのじる、永遠のいのちをつことまたじないいのちをないことである
さらにまたまれる――イエスが、罪からのめるパラクレートス(主)ることイエスをじないからであるほかにくのことそれらは提示されている(337, 338)なおまたすべての使徒信仰また、救なる神、主イエス・キリストの信仰を宣えたこと
もし、人間が、くことのできる関節とともにまれたのようにをこまぬいてまた流入期待しているなら、これらとそれらは? またその時、関節その流入れるために使用することができることのほかに、信仰のあるものにけてもつれさせることを刺激されるなぜならローマカトリック分離したキリスト教世界今日正教このようにえているから――
 
 人間けてまったくされ、死んでいることそのように性質には、堕落後、再生、決してらかの霊的火花まらないまたはっていないそれらによって人間は恩恵またはささげをつかむことにけて準備されまたはその恩恵自分自身からまた自分自身して存在することが可能であるまたは霊的なものを、理解、信、抱、考、意志し、始め、成、行ない、働、協力または自分自身恩恵けて適用させまたは適合させまたは、全部のものあるいは半分のものあるいは最小部分からそれ自体からできるらかのものを方向転換けることである
そして、人間それは霊魂いにけた霊的なもののロトの柱、そして生命けた幹、そして石のようであるそれらは役立目、耳、または感覚も持たない
 それでも運動わりにっているすなわち、外なる四肢応答すること、公共集会づくことそしてみことばと福音くことができることである
 
『一致信条』と呼ばれた福音主義の教会の本の中のこれらは、1756年ライプツィヒ版の656, 658, 661-663, 671-673番である。その本の中のこのような信仰を、聖職者は就任する時、誓う。
 同様の信仰が改革派教会ある。
 しかし、その者に理性と宗教があるだれが、、それを不合理なものやこっけいなものとしてブーイングしないか?
 なぜなら、自分自身に言うから、「もしそのようであるなら、その時、何らかのみことば、何らかの宗教、聖職者のだれか、また何らかの説教は、無意味なものまたは無の事柄の音でないなら〔何なのか〕?」
 その者に判断力がある異教徒へ、あなたは回心させることを欲する者へ、回心と信仰に関してこのようなものであることを言え、彼はキリスト教を何か空虚な器として見なすのではないのか?
というのは、人間から、自分自身からのように信じるすべての力を取り去れ、その時、彼は空虚な器以外の何なのか?
 しかし、このことは「選択の自由について」の章の中でさらに明るい光の中で与えられる。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 23:42
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原典講読『真のキリスト教』 335(訳文)
(3) 訳文
335.  第四のメモラビリア――
 
 かつて夜明けに、私りから目覚めたとき、私にいろいろな幽霊のようなものをまたその後、朝となったとき、私かないろいろなあるものはかれたものでちた羊皮紙のようにそれはびまたわされ、最後流星のようにられそれは空気落下、消えたまたあるものは、開かれたのようであった〕、それらのあるものは弓張のようにきらめきまたあるものはろうそくのようにえたこれらの、高いところのがり、高さのわれた〔本〕、またのものは、地ちたそこの塵へと分解したがあった
 このられたものからその流星ったおおいに重大なものとえた想像上事柄について論争した、と推量したなぜなら、霊界でこのような大気現象、下っている推論からられるからである
 またじきに霊的視覚かれまた〔多くの〕数めたそれらの月桂樹からのまれ、身体花模様のトーガていたがそれらはその自然界学識評判名高ったであったことを意味した
 また、私にいたので、近づき、集団じりんだまたその時、私、〔彼らが〕自分たちの生得観念について、人間のように生来からのらかのものが内在するかどうか、鋭、熱心論争したのをいた
 否定した、彼らから自分自身かせまた最後じきにうことを実行するつの戦闘隊形のようにいに分離してった――しかし、彼らにがなかったので、言葉剣先(知性)った
 [2] しかし、急にその時、ある天使的らの、大きなって、言った、「私はあなたがたからくないたりから、生来観念についてのようにしく人間にあるかどうか、両方論争えていることいたけれども、私はあなたがたに、人間生来観念もないことまたにも観念もないことをそれゆえあなたがたは、「ヤギの羊毛」☆1についてまたは「生まれたての世代(=新生児)のあごひげ」2についてわれるように無意味なことについて争っている。
 これらを聞いて、すべての者は激しく怒り、叫んだ、「この者を追い出せ、通常の感覚(常識)に反することを話している」。
しかし、追い出そうとしたとき、彼が天的な光に取り巻かれているのを見た、その光によって突進することができなかった。というのは、天使的な霊であったから――それゆえ、引き下がり、彼から少し遠ざかった。また、その光が退いた後、彼らに言った、「なぜ、あなたがたは激しく怒るのか? まず、私が提示するものを聞け、理性(論理的な推理力)を集め、あなたがた自身がそれらから結論をつくれ。また私は先見する。判断力で賦与されている者は同意を表わし。あなたがたの心の中で生じた嵐は鎮められるであろう」。
 この言われたことに、それでも憤慨する声で、言った、「そこで、話せ、また私たちは聞く」。
 [3] またその時、話すことが起こり、言った、「あなたがたは、獣に生来の観念があることを信じている、またあなたがたはこのことをそれからそれら〔獣〕の行動が思考からのように見えることを結論している。またそれでも、それら〔獣〕に何も思考はなく、そしてそこからでないなら観念は述べられない。また、これまたはそれのために、そのようにあるいはそのように行なうことは思考の性質ある。
 そこで、最も巧みにクモの巣を織るクモがそのちっぽけな頭で考えるかどうか考量せよ。
 「私のクモの巣が風の振動でおどされてばらばらにこわれないように、私はこの順序で糸を張り、それを交差する糸で導き出そう。そして、主要な糸でヘリ(縁)から中央へ向かってつくり、そこに私の席を用意し、その中で私は、どんなものでも出会うために知覚し、そこへ走りよる。例えば、もしハエが飛び入るなら、それを網で捕え、そして迅速に手に入れ、それを縛り付け、また私にとっての食物となる」。
 さらに、ミツバチは自分のちっぽけな頭の中で考えるかどうか、「私は飛びだす。私は、どこに花の野があり、そこでそれらの花から蝋を、またそれらから蜂蜜を吸うのを知っている。また蝋から私たちは続きもの様式で切れ目なく続く小室を造り、私は仲間とともに、街路を通るかのように自由に私たちは出入りし、またその後、それらの中に、私たちは蜂蜜を、来たる冬のためにもまた十分な様に、私たちが死なないように豊富に蓄える」。ほかにも、人間の政治上のまた経済の思慮分別を、単にまねするだけでなく、しかしあるものの中でまさっている他の驚くべきことがある(前の12番の[7]参照)
 [4] さらに、スズメバチは自分のちっぽけな頭の中で考えるかどうか、「私は私の仲間とともに薄いパピルス(紙)から小さい家を造り、その壁の内部に私たちは形の中に迷路の回り道を通って導き、そして最内部で広場をその中に入り口とそこからの出口があるのように用意し、最内部への道を見つけ出し、そこに私たちは集まり、またこれを私たちの一族以外の何らか生き物が入らないように、その技巧で〔造る〕。
 再び、カイコは、虫の時、そのちっぽけな頭で考えるかどうか、「今や、私は、絹を吐くために、また、吐いた時、私は空中に飛びだす目的のために用意する時である。その中に以前に私は進むことができない、私は仲間(配偶者)と遊び、私に子孫を準備する」。
 壁を通ってはう他の虫も、若虫(わかむし)(nympha)さなぎ(aulelia)、さなぎ(chrysalis)、また最後にチョウになる時、同様である。
 ハエは交尾について、ここにまたそこにかと、何らかの考えを他のハエと持っているのか?
[5] 大きなからだの動物も、それらの小さい動物(昆虫)と同様である。すべての種類の鳥と羽のあるものにのように、交接(交尾)し、なおまた巣を用意し、そこに卵を置き、それらにすわり、ヒナを孵化し、それらに食物を与え、飛ぶ時まで育て、またその後、自分の子でないように巣から追い払う時。ほかに他の数えきれないこと。
 さらにまた、地の獣、ヘビ、また魚に同様である。
 あなたがたのだれが前述のことから、それらの自発的な行動は何らかの思考から流れ出ないこと、それ(思考)について観念がもっぱら属性とされることができることを見ることができないか? 
 誤りは、獣に観念があり、それらは人間と等しく考え、また単に話すことが相違をつくるという信念から以外に、他のところから流れ出ない」。
[6] この後、天使的な霊は見回した、また彼らが、獣に思考があるかないか、それでもためらっているのをを見たので、談話を続け、また言った――
 「私は、人間と似ている獣の行動から、それでもあなたがたに、それらの思考について想像(幻想)の観念がこびりついていることを知覚した。それゆえ、私は言う、それらの行動がどこからか――すなわち、それぞれの獣、それぞれの飛ぶ動物、それぞれの魚、這うもの(爬虫類)、また昆虫に、感覚的そしてからだのその自然的な愛が、それらの住まいはそれらの頭である、それらの脳の中にある。これらを通して霊界がそれらのからだの感覚の中に直接に流入し、またこれらを通して行動を決定する、それが、それらのからだの感覚が人間のものよりもはるかに鋭敏であることの理由である。
霊界からのその流入は、本能と呼ばれるものであり、そして本能と呼ばれるのは、思考の手段なしに存在するからである――さらにまた、慣れから、本能の付加的なものが存在する。
 しかし、それらの愛は、それらを通って霊界から行動への決定(方向)が生じるが、単に食物★のため、また繁殖のためであって、何らかの知識、知性また知恵のためではない。それら〔知識、知性また知恵〕によって引き続いて人間のもとの愛が生じる。
 [7] 人間にも何らかの生来の観念がないことは、、彼に何らかの生来の思考がないこと、また思考がないところに、そこに観念もないことからはっきりと明らかにすることができる、というのは、一つは相互にもう一つであるから。
このことが、乳を吸い、また呼吸することのほかに何もできない、生まれたばかりの幼児から結論されることができる。
 乳を吸うことができることは、生来からでない、しかし、母の子宮の中での継続する吸いこみからである。また、呼吸することができること、生きているからである、このこともまた、生命に普遍的なものである。
彼らの身体の感覚そのものは最高の不明瞭の中にある、またこれにより対象を通して連続的に進む――同様に、それらの運動も慣れによって。
 また連続的に声をペチャクチャしゃべることを学ぶように、またそれらを最初観念なしに声で表現し、何らかの不明瞭な空想が起こる。それが明瞭となるように、想像力の不明瞭なものが、またここから思考の〔不明瞭なものが〕生まれる。
 この形成の状態に従って、観念が存在するようになる、それらは、前に言われたように、思考と一つのものをつくり、また思考は教えからの〔思考が〕何もないものから増大する。
 それゆえ、人間に観念がある、けれども生来の〔もの〕でなく、しかし、形成された、またこれらから、話すことと行動が流れ出る。
 人間に、知り、理解し、また賢明になるための能力、そのようにまたそれらだけでなく、しかし、隣人と神を愛するための傾向以外に、何らかのものは一緒に生まれていない(生得のものではない)ことは、前のメモラビリア48番の中に、さらにまた、今後の、あるメモラビリアの中に見られる。
 この後、私は見回し、近くにライプニッツとヴォルフを見た。その者は天使的な霊の言明による論証に心を向けた、またその時、ライプニッツは近づき、同意を賛同した。しかし、ヴォルフは否定し、また肯定して変わった。というのは、内的な判断力を賦与されていなかったから、ライプニッツはそれを〔賦与されていた〕。
 
1 「ヤギの羊毛」は非存在物の典型です、それで「空虚な推論」を行なうことを意味します。
2 直訳は「この世代のあごひげ」であり、これも非存在の典型です。
 
直訳でnutrioneがわからないとしましたが、初版には(ちゃんと)nutritioneとありました(すなわちミスプリ)。いつもはこうした時、初版を見るのですが、うっかりしました。なお、すぐさま、ある読者からコメントがあり、このことを指摘していただきました。ご指摘ありがとうございます。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 23:57
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原典講読『真のキリスト教』 335(直訳[6]〜[7])
[6.] Post haec spiritus angelicus circumspexit, et quia vidit illos adhuc haesitantes, num bestiis sit cogitatio vel non, continuavit sermonem, et dixit: [6] この後、天使的な霊は見回した、また彼らを見たたのでそれでもためらっているのを、獣に思考があるかないか、談話を続けた、また言った――
"Percipio quod ex actibus animalium brutorum similaribus cum humanis, adhuc vobis inhaereat idea visionaria de cogitatione illorum; 「私は知覚した、獣(bruta amimalia)の行動から、人間と似ている、それでもあなたがたに、それらの思考について想像(幻想)の観念がこびりついていること。
quare dicam, unde illi actus: それゆえ、私は言う、それらの行動がどこからか――
videlicet, est cuivis bestiae, cuivis volucri, cuivis pisci, reptili, et insecto, suus amor naturalis, sensualis ac corporeus, cujus habitacula sunt illorum capita, et in his cerebra; すなわち、それぞれの獣に、それぞれの飛ぶ動物に、それぞれの魚に、這うもの(爬虫類)、また昆虫、その自然的な愛が、感覚的そしてからだの、それらの住まいはそれらの頭である、またそれらの脳の中に。
per haec influit mundus spiritualis in sensus corporis eorum immediate, et per hos determinat actus, quae causa est, quod sensus corporis illorum prae humanis sint multo exquisitiores. これらを通して霊界がそれらのからだの感覚の中に直接に流入する、またこれらを通して行動を決定する、それが理由である、それらのからだの感覚が人間のものよりもはるかに鋭敏であること。
Influxus ille e mundo spirituali, est qui vocatur instinctus, ac instinctus vocatur, quia absque media cogitatione existit: 霊界からのその流入は、本能と呼ばれるものである、そして本能と呼ばれる、思考の手段なしに存在するので。
dantur etiam accessoria instinctus ex assuetudine. さらにまた、慣れからの本能の付加的なものが存在する。
At amor illorum, per quem e mundo spirituali fit determinatio ad actus, est solum pro nutrione et propagatione, non autem pro aliqua scientia, intelligentia et sapientia, per quas successive fit amor apud homines." しかし、それらの愛は、それらを通って霊界から行動への決定(方向)が生じる、単にnutrione☆のため、また繁殖のためである、けれども、何らかの知識、知性また知恵のためではない、それらによって引き続いて人間のもとの愛が生じる。
私にこの単語が何なのかわかりません、nutrio「食物を与える」に関係する語だとは思いますが。
[7.] Quod nec homini aliquae ideae connatae sint evidenter constare potest ex eo, quod non aliqua cogitatio ei connata sit, et ubi non cogitatio ibi nec idea, una enim est alterius vicissim. [7] 人間にも何らかの生来の観念がないことは、それからはっきりと明らかにすることができる、彼に何らかの生来の思考がないこと、また思考がないところに、そこに観念もない、というのは、一つはもう一つであるから相互に。
Hoc concludi potest ex infantibus recens natis, quod praeter lactere et respirare nihil possint. このことが結論されることができる、最近に生まれた幼児から結論されることができる、乳を吸い、また呼吸することのほかに、何もできないこと。
Quod possint lactere, non est ex connato, sed ex continua suctione in utero matris; 乳を吸うことができることは、生来からでない、しかし、母の子宮の中での継続する吸いこみから。
et quod possit respirare, est quia vivunt, hoc enim est universale vitae. また、呼吸することができること、生きているからである、このこともまた、生命に普遍的なものである。
Ipsi sensus corporis eorum sunt in summa obscuritate, et ab hac successive enituntur per objecta; 彼らの身体の感覚そのものは最高の暗さ(不明瞭)の中にある、またこれにより対象を通して連続的に進む。
similiter illorum motus per assuetudines. 同様に、それらの運動も慣れによって。
Et successive sicut discunt effutire voces, et sonare illas primum absque idea, exoritur aliquod obscurum phantasiae; また連続的に声をペチャクチャしゃべることを学ぶように、またそれらを最初観念なしに声で表現する、何らかの不明瞭な空想が起こる。
quod sicut clarescit, nascitur obscurum imaginationis, et inde cogitationis. それが明瞭となるように、想像力の不明瞭なものが生まれる、またここから思考の〔不明瞭なものが〕。
Secundum hujus status formationem existunt ideae, quae, ut supra dictum est, cum cogitatione unum faciunt, et cogitatio a nulla increscit per instructiones. この形成の状態に従って、観念が存在するようになる、それらは、上に言われたように、思考と一つのものをつくる、また思考は教えからの〔思考が〕何もないものから増大する。
Quare ideae hominibus sunt, verum non connatae, sed formatae, et ex his fluunt loquelae et actus illorum. それゆえ、人間に観念がある、けれども生来の〔もの〕でなく、しかし、形成された、またこれらから、話すことと行動が流れ出る。
Quod homini non aliud connascatur quam facultas ad sciendum, intelligendum, et sapiendum, ut et inclinatio ad amandum non modo illas, sed etiam proximum et Deum, videatur supra in Memorabile, n. 48; 人間に何らかのものは一緒に生まれていない(生得のものではない)こと、知り、理解し、また賢明になるための能力以外に、そのようにまた愛するための傾向、それらだけでなく、しかし、隣人と神の、上のメモラビリアの中に見られる、48番。
et quoque infra in quodam Memorabili. さらにまた、下のあるメモラビリアの中に。
Post haec circumspexi, et vidi in propinquo Leibnitzium et Wolfium, qui intendebant rationibus a spiritu angelico prolatis, et tunc accessit Leibnitzius, et assensu favit; この後、私は見回した、また私は近くの中にライプニッツとヴォルフを見た、その者は天使的な霊の言明による論証に心を向けた、またその時、ライプニッツは近づいた、また同意を賛同した。
at Wolfius abivit et negans et affirmans, non enim pollebat interiori judicio quo Leibnitzius. しかし、ヴォルフは出た(変わった)、また否定し、また肯定する、というのは、内的な判断力を賦与されていなかったから、それをライプニッツは〔賦与されていた〕。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 23:12
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原典講読『真のキリスト教』 335(直訳[4]〜[5])
[4.] Adhuc, num fucus major in pusillo suo capite cogitat, `Ego cum sociis meis fabricabimus domunculam ex tenui papyro, cujus parietes intus circumducemus in formam labyrintheam, ac intime parabimus sicut forum, in quod erit ingressus et a quo egressus, et hoc eo artificio, ut non aliud vivum, quam quod ex nostra prosapia est, reperiat viam ad intimum, ubi congregamur?' [4] さらに、スズメバチは自分のちっぽけな頭の中で考えるかどうか、「私は私の仲間とともに薄いパピルス(紙)から小さい家を造る、その壁の内部に私たちは形の中に迷路の回り道を通って導く(連れまわす)、そして最内部で広場のように用意する、その中に入り口がある、またそこから出て行く、またこれをその技巧で、何らか生き物がないように、私たちの一族からであること以外の、最内部への道を見つけ出す、そこに私たちは集まる。
Iterum, num bombyx, dum vermis, in pusillo suo capite cogitat, `Nunc tempus est ut praeparem me ad nendum sericum, et propter finem, ut quando netum est, evolem, et in aere, in quem non prius eniti potui, ludam cum comparibus, et prospiciam mihi progeniem?' 再び、カイコは、虫の時、そのちっぽけな頭で考えるかどうか、「今や、私に用意するための時である、絹を吐くための、また目的のために、紡いだ(吐いた)時のために、私は飛びだす、また空中に、その中に以前に私は進むことができない、私は仲間(配偶者)と遊ぶ、また私は私に子孫を準備する?」
Similiter reliqui vermes, dum subrepunt per parietes, et fiunt nymphae, aureliae, chrysallides, et demum papiliones? 同様に、他の虫、壁を通ってはう(こっそりと動く)、また若虫(わかむし)、さなぎ☆、さなぎ☆、また最後にチョウになる時?
さなぎに段階があるので、別語となっていますが、どのような言葉なのか私は知りません。
Num musca aliquam ideam de congressu cum alia musca habet, quod hic et non ibi? ハエは交尾について何らかの考えを他のハエと持っているのかどうか、ここにまたそこにない☆こと?
言葉を変えれば「どこで交尾したらよいのか」という観念でしょうか?
[5.] Simile est cum animalibus grandioris corporis, sicut est cum illis animalculis; [5] 大きなからだの動物に同様である、それらの小さい動物(昆虫)に、のようにである。
ut cum avibus et pennatis omnis generis, quando congrediuntur, tum quando parant nidos, ponunt inibi ova, incubant illis, excludunt pullos, his porrigunt escas, educant usque dum evolant, et postea abigunt a nidis sicut prolem non suam, praeter innumera alia. すべての種類の鳥と羽のあるものにのように、交接(交尾)する時、なおまた巣を用意する時、そこに卵を置く、それらで(を)すわる(孵化する)、ヒナを孵化する、それらに食物を与える、飛ぶ時まで育てる、またその後、巣から追い払う、自分の子でないように、ほかに他の数えきれないこと。
Simile etiam est cum bestiis terrae, cum serpentibus, et cum piscibus. さらにまた同様である、地の獣に、ヘビに、また魚に。
Quis vestrum non potest ex supradictis videre, quod actus illarum spontanei non profluant ex aliqua cogitatione, de qua unice praedicabilis est idea? あなたがたのだれが上述のことから見ることができないか、それらの自発的な行動は何らかの思考から流れ出ないこと、それ(思考)について観念がもっぱら属性とされることができること。
Error, quod bestiis sint ideae, non aliunde profluxit, quam ex persuasione, quod illae aeque ac homines cogitent, et quod modo loquela faciat discrimen." 誤りは、獣に観念があること、他のところから流れ出ない、信念から以外に、それらは人間と等しく考える、また単に話すことが相違をつくること。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 22:31
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原典講読『真のキリスト教』 335(直訳[3])
[3.] Et tunc exorsus loqui dixit, "Vos creditis quod bestiis ideae connatae sint, et hoc conclusistis ex eo, quod actus illarum appareant sicut ex cogitatione; [3] またその時、話すことが起こり、言った、「あなたがたは、あなたがたは信じている、獣に生来の観念があること、またあなたがたはこのことをそれから結論している、それら〔獣〕の行動が思考からのように見えること。
et tamen illis ne hilum cogitationis est, ac ideae non praedicabiles sunt nisi inde; またそれでも、それら〔獣〕に何も思考はない、そして観念は述べられない、そこからでないなら。
et cogitationis character est, ut faciant propter hoc aut illud ita vel ita. また思考の性質(特質)である、これまたはそれのために、そのようにあるいはそのように行なうこと。
Expendite itaque, num aranea, quae artificiosissime texit telam, in suo pusillo capite cogitet. そこで考量せよ、クモが、それは最も巧みにクモの巣を織る、そのちっぽけな頭で考えるかどうか。
`In hoc ordine fila extendam, et illa transversis filis colligabo, ne tela mea ingruente aeris vibratione diffluat; 「この順序の中に私は糸を張る(伸ばす)、またそれを横断する(交差する)糸で導き出す、私のクモの巣が風の振動でおどされてばらばらにこわれないように。
ac in terminis primis filorum, qui facient meditullium, parabo mihi sedem, in qua percipiam quodcunque incidit, ut illuc accurram; そして、最初の糸でヘリ(縁)の中に☆、それは中央をつくる☆、私は私に席を用意する、その中で私は知覚する、どんなものでも出会う(陥る)、そこへ走りよるために。
この箇所はよくわかりません、最初の糸は「主要な糸」と訳すのでしょうか? 英訳ではthe ends of the threads meet to form the centre「糸の端が中央をつくる(ように)出会う」としています。
ut si musca involat, irretiatur illa, ac cito invadam et circumligabo illam, et cedet mihi in escam.' 例えば、もしハエが飛び入るなら、それを網で捕える、そして迅速に手に入れる、またそれを縛り付ける、また私に与える、食物の中に(対象になって)
Porro num apis in pusillo suo capite cogitat, `Evolabo; さらに、ミツバチは自分のちっぽけな頭の中で考えるかどうか、「私は飛びだす。
scio ubi campi florescentes sunt, et ibi ex his floribus ceram, et ex illis mel exsugam, et ex cera exstruam cellulas contiguas in serie, illo modo ut ego cum sociis sicut per plateas libere intremus et exeamus, et postea in illis reponemus mel abundanter, ut satis sit etiam pro ventura hieme, ne moriamur?' 私は知っている、どこに花の野があるか、またそこでこれらの花から蝋を、またそれらから蜂蜜を吸う、また蝋から私たちは切れ目なく続く小室を造る、続きものの中で、その様式で、私は仲間とともに、街路を通ってのように自由に私たちは入る、また出る、またその後、それらの中に、私たちは蜂蜜を豊富に蓄える、来たる冬のためにもまた十分二様に、私たちが死なないように?」
praeter alia mirabilia, in quibus prudentiam politicam et oeconomicam humanam non modo aemulantur, sed in quibusdam excedunt (videatur supra, p. 11). ほかに、他の驚くべきこと、それらの中に、人間の政治上のまた経済の思慮分別を、単にまねするだけでなく、しかしあるものの中でまさっている(上の11ページ☆に見られる)
初版の11ページには12番の[7]が載っています。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 23:42
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原典講読『真のキリスト教』 335(直訳[2])
[2.] At subito tunc spiritus quidam angelicus in medio eorum constitit, et alta voce loquens dixit, "Audivi e distantia non procul a vobis, quod utrinque ardeatis in lite de ideis connatis num aliquae essent hominibus ut bestiis; [2] しかし、急にその時、ある天使的な霊が彼らの間に立った、大きな声で語って、言った、「私はあなたがたから遠くない隔たりから聞いた、両方が論争の中で燃えていること、生来の観念について獣のように等しく人間にあるかどうか。
ego vero dico vobis, quod non sint ullae ideae connatae hominibus, et quod nec sint ullae ideae bestiis, quare rixamini de nihilo, aut sicut dicitur, de lana caprina, aut de barba hujus saeculi. けれども、私はあなたがたに言う、人間に生来の観念は何もないこと、また獣にも観念は何もないこと、それゆえ、あなたがたは何もない(無意味なこと)について争う、または言われるように、ヤギの羊毛☆1について、またはこの世代のあごひげ☆2について。
1 「ヤギの羊毛」は非存在物の典型です、それで「空虚な推論」を行なうことを意味します。
2 直訳「この世代のあごひげ」とは何でしょうか? saeculumに世紀(100年間)の意味があるので、「この100年間にのびたあごひげ」という意味でしょうか?(これは長島訳です)まずありえないので、そのことについて語っても無意味でしょう。Dickの英訳(SS)には「the beard on the new-born generation」とあります。これだと「生まれたての世代(=新生児)のあごひげ」となり、これも非存在の典型です、この訳でよいでしょう。
His auditis excanduerunt omnes, et vociferabantur, "Ejicite hunc, loquitur contra sensum communem." これらで聞いて、すべての者は激しく怒った、また叫んだ、「この者を追い出せ、通常の感覚☆に反することを話す」。
「通常の感覚(共通感覚)」も十分受け入れられる訳と思いますが、英訳そのままのcommon senseで「常識」でよいでしょう。
At cum in conatu ejiciendi erant, viderunt illum cinctum luce caelesti, per quam non potuerunt irrumpere; しかし、追い出す努力の中にいたとき、天的な光に取り巻かれた彼を見た、それ(光)によって突進することができなかった。
erat enim spiritus angelicus: というのは、天使的な霊であったから。
quare recedebant, et parum se removebant ab illo; それゆえ、引き下がった、また少し、彼から遠ざかった。
et postquam lux illa intracta est, dixit illis, "Cur excandescitis? また、その光が退いた後、彼らに言った、「なぜ、あなたがたは激しく怒るのか?
Audite primum, et colligite rationes quas afferam, et vos ipsi ex illis conclusum facite; まず、聞け、また、理性(論理的な推理力)を集めよ(導き出せ)、それを私は持ってくる(提示する)、またあなた方自身がそれらから結論をつくれ。
et praevideo, quod illi, qui judicio pollent, accessuri sint, et tempestates in mentibus vestris obortas sedaturi." また私は先見する、彼らは、その者は判断力で賦与されている、同意を表ぜられる(accedo)、またあなたがたの心の中で生じた嵐は鎮められる。
Ad haec dicta, sono tamen indignante, dicebant, "Loquere itaque, et audiemus." この言われたことへ、それでも憤慨する声で、言った、「そこで、話せ、また私たちは聞く」。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 23:19
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原典講読『真のキリスト教』 335(原文と直訳[1])
(1) 原文
335. Quartum Memorabile:
 
Quodam diluculo cum evigilatus sum a somno, vidi sicut larvas varia effigie ante oculos; et postea, cum erat mane, vidi luces fatuas in diversis formis; quasdam sicut membranas scripturis plenas, quae iterum et iterum complicatae tandem apparebant sicut stellae caducae, quae delapsae in aere evanescebant; et quasdam sicut libros apertos quarum aliqui micabant sicut lunulae, et aliquae ardebant sicut candelae; inter hos erant libri qui se sustulerunt in altum, et in altitudine peribant, et alii qui deciderunt in terram, et in pulverem ibi dissolvebantur. Ex his visis augurabar, quod infra meteora illa starent, qui de rebus imaginariis, quas reputabant magni momenti, litigarent; nam in mundo spirituali talia phaenomena in atmosphaeris ex ratiociniis infra stantium apparent.
Et mox apertus est mihi visus spiritus mei, et animadverti numerum spirituum, quorum capita cincta erant foliis ex lauru, et corpore induti togis florificatis, quae signabant, quod essent spiritus, qui in mundo naturali fama eruditionis incluti fuerunt. Et quia eram in spiritu, accessi, et coetui me immiscui; et tunc audivi, quod inter se acriter et ardenter disceptarent de ideis connatis, num aliquae hominibus a nativitate inessent, ut bestiis.
Illi qui negabant, se avertebant ab illis qui affirmabant, et tandem segregati steterunt vicissim, sicut phalanges duorum exercituum mox pugnaturi ensibus: sed quia non erant illis enses, acuminibus verborum pugnabant.
[2.] At subito tunc spiritus quidam angelicus in medio eorum constitit, et alta voce loquens dixit, "Audivi e distantia non procul a vobis, quod utrinque ardeatis in lite de ideis connatis num aliquae essent hominibus ut bestiis; ego vero dico vobis, quod non sint ullae ideae connatae hominibus, et quod nec sint ullae ideae bestiis, quare rixamini de nihilo, aut sicut dicitur, de lana caprina, aut de barba hujus saeculi.
His auditis excanduerunt omnes, et vociferabantur, "Ejicite hunc, loquitur contra sensum communem."
At cum in conatu ejiciendi erant, viderunt illum cinctum luce caelesti, per quam non potuerunt irrumpere; erat enim spiritus angelicus: quare recedebant, et parum se removebant ab illo; et postquam lux illa intracta est, dixit illis, "Cur excandescitis? Audite primum, et colligite rationes quas afferam, et vos ipsi ex illis conclusum facite; et praevideo, quod illi, qui judicio pollent, accessuri sint, et tempestates in mentibus vestris obortas sedaturi."
Ad haec dicta, sono tamen indignante, dicebant, "Loquere itaque, et audiemus."
[3.] Et tunc exorsus loqui dixit, "Vos creditis quod bestiis ideae connatae sint, et hoc conclusistis ex eo, quod actus illarum appareant sicut ex cogitatione; et tamen illis ne hilum cogitationis est, ac ideae non praedicabiles sunt nisi inde; et cogitationis character est, ut faciant propter hoc aut illud ita vel ita. Expendite itaque, num aranea, quae artificiosissime texit telam, in suo pusillo capite cogitet. `In hoc ordine fila extendam, et illa transversis filis colligabo, ne tela mea ingruente aeris vibratione diffluat; ac in terminis primis filorum, qui facient meditullium, parabo mihi sedem, in qua percipiam quodcunque incidit, ut illuc accurram; ut si musca involat, irretiatur illa, ac cito invadam et circumligabo illam, et cedet mihi in escam.' Porro num apis in pusillo suo capite cogitat, `Evolabo; scio ubi campi florescentes sunt, et ibi ex his floribus ceram, et ex illis mel exsugam, et ex cera exstruam cellulas contiguas in serie, illo modo ut ego cum sociis sicut per plateas libere intremus et exeamus, et postea in illis reponemus mel abundanter, ut Satis sit etiam pro Ventura hieme, ne moriamur?' praeter alia mirabilia, in quibus prudentiam politicam et oeconomicam humanam non modo aemulantur, sed in quibusdam excedunt (videatur supra, p. 11). [4.] Adhuc, num fucus major in pusillo suo capite cogitat, `Ego cum sociis meis fabricabimus domunculam ex tenui papyro, cujus parietes intus circumducemus in formam labyrintheam, ac intime parabimus sicut forum, in quod erit ingressus et a quo egressus, et hoc eo artificio, ut non aliud vivum, quam quod ex nostra prosapia est, reperiat viam ad intimum, ubi congregamur?' Iterum, num bombyx, dum vermis, in pusillo suo capite cogitat, `Nunc tempus est ut praeparem me ad nendum sericum, et propter finem, ut quando netum est, evolem, et in aere, in quem non prius eniti potui, ludam cum comparibus, et prospiciam mihi progeniem?' Similiter reliqui vermes, dum subrepunt per parietes, et fiunt nymphae, aureliae, chrysallides, et demum papiliones? Num musca aliquam ideam de congressu cum alia musca habet, quod hic et non ibi? [5.] Simile est cum animalibus grandioris corporis, sicut est cum illis animalculis; ut cum avibus et pennatis omnis generis, quando congrediuntur, tum quando parant nidos, ponunt inibi ova, incubant illis, excludunt pullos, his porrigunt escas, educant usque dum evolant, et postea abigunt a nidis sicut prolem non suam, praeter innumera alia. Simile etiam est cum bestiis terrae, cum serpentibus, et cum piscibus. Quis vestrum non potest ex supradictis videre, quod actus illarum spontanei non profluant ex aliqua cogitatione, de qua unice praedicabilis est idea? Error, quod bestiis sint ideae, non aliunde profluxit, quam ex persuasione, quod illae aeque ac homines cogitent, et quod modo loquela faciat discrimen."
[6.] Post haec spiritus angelicus circumspexit, et quia vidit illos adhuc haesitantes, num bestiis sit cogitatio vel non, continuavit sermonem, et dixit: "Percipio quod ex actibus animalium brutorum similaribus cum humanis, adhuc vobis inhaereat idea visionaria de cogitatione illorum; quare dicam, unde illi actus: videlicet, est cuivis bestiae, cuivis volucri, cuivis pisci, reptili, et insecto, suus amor naturalis, sensualis ac corporeus, cujus habitacula sunt illorum capita, et in his cerebra; per haec influit mundus spiritualis in sensus corporis eorum immediate, et per hos determinat actus, quae causa est, quod sensus corporis illorum prae humanis sint multo exquisitiores. Influxus ille e mundo spirituali, est qui vocatur instinctus, ac instinctus vocatur, quia absque media cogitatione existit: dantur etiam accessoria instinctus ex assuetudine. At amor illorum, per quem e mundo spirituali fit determinatio ad actus, est solum pro nutrione et propagatione, non autem pro aliqua scientia, intelligentia et sapientia, per quas successive fit amor apud homines."
[7.] Quod nec homini aliquae ideae connatae sint evidenter constare potest ex eo, quod non aliqua cogitatio ei connata sit, et ubi non cogitatio ibi nec idea, una enim est alterius vicissim. Hoc concludi potest ex infantibus recens natis, quod praeter lactere et respirare nihil possint. Quod possint lactere, non est ex connato, sed ex continua suctione in utero matris; et quod possit respirare, est quia vivunt, hoc enim est universale vitae. Ipsi sensus corporis eorum sunt in summa obscuritate, et ab hac successive enituntur per objecta; similiter illorum motus per assuetudines. Et successive sicut discunt effutire voces, et sonare illas primum absque idea, exoritur aliquod obscurum phantasiae; quod sicut clarescit, nascitur obscurum imaginationis, et inde cogitationis. Secundum hujus status formationem existunt ideae, quae, ut supra dictum est, cum cogitatione unum faciunt, et cogitatio a nulla increscit per instructiones. Quare ideae hominibus sunt, verum non connatae, sed formatae, et ex his fluunt loquelae et actus illorum.
Quod homini non aliud connascatur quam facultas ad sciendum, intelligendum, et sapiendum, ut et inclinatio ad amandum non modo illas, sed etiam proximum et Deum, videatur supra in Memorabile, n. 48; et quoque infra in quodam Memorabili.
Post haec circumspexi, et vidi in propinquo Leibnitzium et Wolfium, qui intendebant rationibus a spiritu angelico prolatis, et tunc accessit Leibnitzius, et assensu favit; at Wolfius abivit et negans et affirmans, non enim pollebat interiori judicio quo Leibnitzius.
 
(2) 直訳
335. Quartum Memorabile:― 第四のメモラビリア――
 
Quodam diluculo cum evigilatus sum a somno, vidi sicut larvas varia effigie ante oculos; かつて夜明けに、私が眠りから目覚めたとき、私は目の前にいろいろな似姿()の幽霊のようなものを見た。
et postea, cum erat mane, vidi luces fatuas in diversis formis; また、その後、朝となったとき、私は愚かな光を見た、いろいろな形の中に。
quasdam sicut membranas scripturis plenas, quae iterum et iterum complicatae tandem apparebant sicut stellae caducae, quae delapsae in aere evanescebant; あるものは書かれたもので満ちた羊皮紙のように、それは再びまた再び折り合わされた、最後に流星(直訳:星の尾)のように見られた、それは空気の中に落下し、消えた。
et quasdam sicut libros apertos quarum aliqui micabant sicut lunulae, et aliquae ardebant sicut candelae; またあるものは、開かれた本のよう〔であった〕、それらのあるものは小さな月(弓張り月)のようにきらめいた、またあるものはろうそくのように燃えた。
inter hos erant libri qui se sustulerunt in altum, et in altitudine peribant, et alii qui deciderunt in terram, et in pulverem ibi dissolvebantur. これらの間に本があった、それは高いところの中に持ち上がった(tollo)、また高さの中で失われた、また他のものは、それは地の中に落ちた、またそこに塵の中に分解した。
Ex his visis augurabar, quod infra meteora illa starent, qui de rebus imaginariis, quas reputabant magni momenti, litigarent; これの見られたものから私は推量した、その流星の下に立ったこと、その者は想像上の事柄について、それをおおいに重大な(magni moment)ものと考えた、論争する。
nam in mundo spirituali talia phaenomena in atmosphaeris ex ratiociniis infra stantium apparent. なぜなら、霊界の中でこのような大気の中の現象は下に立っている〔者の〕推論から見られるからである。
Et mox apertus est mihi visus spiritus mei, et animadverti numerum spirituum, quorum capita cincta erant foliis ex lauru, et corpore induti togis florificatis, quae signabant, quod essent spiritus, qui in mundo naturali fama eruditionis incluti fuerunt. また、じきに私に私の霊的な視覚が開かれた、また〔多くの〕数の霊が認められた、それらの頭は月桂樹からの葉で囲まれていた、また身体は花で飾られた(花模様の)ローブ(トーガ)を着ていた、それらは意味した、霊であったこと、その者は自然界の中で学識で評判が名高った。
Et quia eram in spiritu, accessi, et coetui me immiscui; また、私は霊の中にいたので、近づいた、また私を集団に混ぜ合わせた。
et tunc audivi, quod inter se acriter et ardenter disceptarent de ideis connatis, num aliquae hominibus a nativitate inessent, ut bestiis. またその時、私は聞いた、自分たちの間で生得の観念について鋭く、また熱心に論争したこと、人間に生来からの何らかのものが内在するかどうか、獣のように。
Illi qui negabant, se avertebant ab illis qui affirmabant, et tandem segregati steterunt vicissim, sicut phalanges duorum exercituum mox pugnaturi ensibus: 彼らは、その者は否定した、彼らから自分自身を背かせた、また最後にお互いに分離して立った、実行する二つの戦闘隊形)のように、じきに剣で戦うことを。
sed quia non erant illis enses, acuminibus verborum pugnabant. しかし、彼らに剣がなかったので、言葉の剣先(知性の鋭さ)で闘った。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 23:23
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原典講読『真のキリスト教』 334(直訳[6]〜[8]と訳文)
[6.] Postea legatus quaesivit, num posset facere verum, quod [2]ipse insaniret, et dixit, "Possum sed non volo; [6] その後、大使は質問した、真理をつくることができるかどうか、自分自身が狂っていること、また彼は言った、「私はできる、しかし私は欲しない。
quis non insanit?" だれが狂っていないか?」
Deinde rogaverunt illum, ut diceret ex corde, num joculetur, vel num credat, quod non sit aliquod verum, nisi quod homo facit verum, et respondit, "Juro quod credam." その後、彼らは彼を求めた(頼んだ)、心から言うように、冗談を言ってるかどうか、あるいは信じているかどうか、何らかの真理がないこと、人間が真理とするものでないなら、また答えた、「私は誓う、私は信じていること」。
Post haec universalis ille confirmator missus est ad angelos, qui explorarent illum qualis est; この後、その全般的な☆証明する者は、天使たちに送られた、その者は彼をどんなものであるか調べる。
universalisの訳語として『レキシコン』にありませんが、ここは「万能の、博識の」(皮肉の意味で)がよいでしょう。
et hi post explorationem dixerunt quod ille ne quidem granum intellectus possideat, "Quoniam omne id quod supra rationale est, apud illum occlusum est, et solum id quod infra rationale est, apertum est; またこれらの者は調査の後、言った、彼は決して理解力の穀粒(微塵)を所有しないこと、「そのすべてのものが、それは理性(推理力)の上にある、彼のもとで閉ざされているからである、また単にそれが、それは理性(推理力)の下にある、開かれている。
supra rationale est lux spiritualis, ac infra rationale est lux naturalis, et haec lux apud hominem talis est, ut confirmare possit quicquid lubet; 理性(推理力)の上方に霊的な光がある、そして理性(推理力)の下方に自然的な光がある、またこの光は人間のもとでこのようなものである、
at si non lux spiritualis influit in lucem naturalem, homo non videt num aliquod verum sit verum, et inde nec quod aliquod falsum sit falsum; しかし、もし霊的な光が自然的な光の中に流入しないなら、人間は見ない、何らかの真理が真理であるかどうか、またここから何らかの虚偽が虚偽であることもまた。
et hoc et illud videre, est ex luce spirituali in luce naturali, et lux spiritualis est ex Deo caeli, qui est Dominus; また、これとそれを見ることは、自然的な光の中の霊的な光からである、また、霊的な光は天界の神からである、その者は主である。
quare universalis ille confirmator non est homo nec bestia, sed est bestia homo." それゆえ、その万能な証明する者は人間でも獣でもない、しかし、獣人間である」。
[7.] Quaesivi angelos de sorte talium, num possunt una esse cum vivis, quia vita homini est ex luce spirituali, et ex hoc est intellectus ejus: [7] 私は天使たちにこのような者の運命について質問した、生きるものと一緒にいることができるのかどうか、人間のいのちは霊的な光からであるので、またこれ〔光〕から彼の理解力がある。
et dixerunt, quod tales, cum soli sunt, non possint aliquid cogitare, et inde loqui, sed quod stent sicut automata muti, et sicut in alto sopore; また彼らは言った、このような者である、自分だけ(ひとり)でいるとき、何らかのことを考えることができない、またここから話すこと、しかし、口のきけない自動人形のように立っている、またそのように深い眠りの中に。
at quod expergiscantur, ut primum auribus captant aliquid: しかし、目覚める、耳で何らかのものを捕えるとすぐに。
et addiderunt, quod illi fiant tales, qui intime mali sunt; また、言い足した、彼らはこのような者になる、その者は内部で悪い者である。
in hos non potest lux spiritualis a superiori influere, sed modo aliquod spirituale per mundum, unde illis facultas confirmandi est. これらの者の中に上のものから霊的な光は流入することができない、しかし、世を通って何らかの霊的なものだけが〔流入する〕、ここから彼らに確信(証明)する能力がある。
[8.] His dictis, audivi vocem ex angelis qui exploraverunt illum, [3]dicentem, "Fac ex auditis illis universale conclusum." [8] これらで聞いて、私は天使たちからの声を聞いた、その者は彼を調べた、言って、「それらの聞いたものから普遍的な(全般的な)結論をつくれ」。
Et feci hoc quod posse confirmare quicquid lubet, non sit intelligentis; また、私はこれを行なった、何でも好むところを確認(証明)することは、知的でないこと。
sed quod posse videre quod verum sit verum, et quae falsum sit falsum, et id confirmare, sit intelligentis." しかし、見ることができること、真理が真理であること、またその虚偽が虚偽である、またこれを確認(証明)するこが、知的であること」。
Post haec spectavi ad coetum, ubi stabant confirmatores, et turba circum illos clamabat, "O quam sapientes," et ecce nubes fusca obvelavit illos, et in nube volabant ululae et vespertiliones. この後、私は集会に向かって眺めた、そこに証明する者たちが立っていた、また群衆が彼らのまわりで叫んだ、「おお、なんと賢明な者たち」、また、見よ、暗い色の雲が彼らをおおった、また雲の中をモリフクロウとコウモリが飛んだ。
Et dicbatur mihi, "Ululae et vespertiliones in nube illa volantes, sunt correspondentiae et inde apparentiae cogitationum illorum: また、私に言われた、「その雲の中を飛んでいるモリフクロウとコウモリは、彼らの思考の対応(物)とここからの外観である。
quoniam confirmationes falsitatum usque ut appareant sicut veritates, repraesentantur in hoc mundo sub formis avium noctis, quarum oculos fatua lux intus illuminat, ex qua vident objecta in tenebris sicut in luce. 虚偽を真理のように見えるまでもの確認(証明)は、この世界の中で夜の鳥の形の下に表象されるからである、その目を愚かな光は内部で照らす、それ(光)から対象(物)を光の中でのように暗やみの中で見る。
Talis lux fatua spiritualis est illis qui confirmant falsa, usque dum videntur ut vera, ac postea creduntur vera; このような霊的な愚かな光が彼らにある、その者は虚偽を確信(証明)する、真理として見るまでも、そしてその後、真理と信じる。
sunt omnes illi in visione posteriore, et non in aliquo visu priori." 彼らのすべての者は後(あと)の視覚☆の中にいる、また何らかの前の視覚☆の中にいない」。
☆ 「後(あと)の視覚」と「前の視覚」でわかるでしょうか? 言葉を変えれば、物事を「結果だけから見」て「原因から見」ないことです。
@1 quicquid pro “quiquid” 注1 quiquid」の代わりにquicquid
@2 ipse insaniret (cum exemplo Auctoris; tum quoque cum opera De Amore Conj., n.233,) pro “tu insanires” 注2 tu insanires」の代わりにipse insaniret(著者の写し(本)。なおまた著作『結婚愛』233番にもまた)。
@3 dicentem pro “dicens” 注3 dicens」の代わりにdicentem
 
(3) 訳文
334. 第三のメモラビリア――
 
この後、天使からの一人った、「そこにおおなんと賢明たち」と叫ばれている場所へとけ」
 またった、「あなたは人間怪物見、人間のものである身体るであろう、それでも人間ではない」。
 また、私った、「その時、獣なのか?」 彼えた、「獣ではないしかし、獣人間〔である〕。というのはその,真理真理であるかどうかあるいは〔真理ないかまったくることができずそれでもなお、何でもするものを〕真理のようにられるようにすることができるであるからこのようなたちのもとで、狆斂ばれる」。
 またたちはびへと従い、〔その〕場所へやってきたまた、見、男集団、また集団のまわりに、群衆。また群衆貴族系統からのあるすべてのものを証明したこといた時、自分自身にこれほどにらかな同意好感つとまた、向きをえてまた、「おおなんと賢明たち」と言った
 [2] しかし、天使った、「私たちがらにづかないようにして〕、しかし、私たちは集団から一人そう」。またたちは、彼とともにいろいろなことをした。彼個々のものをまったく真理のようにえるまでも証明したまた、私たちは、正反対事物もまた証明することができるかどうか、質問した
 彼は、前のもののように☆1これほどによく〔できる〕、と言った――
 その時、あからさまに、また、心から、「何が真理か? 人間が真理とするもの以外に自然の事柄の中に何らかの真理が存在するのか? 何でも好むところを言え、私はそれを真理であるようにする」と言った。
 また、私は言った、「信仰は教会のすべてのものであることを真理としてみよ」。
 またこれを取り囲む学者たちが驚嘆し、拍手するように、そのように巧みに、また如才なくした。
 その後、私は、仁愛が教会のすべてのものであることを真理とするように求めた。そして〔そう〕した。またその後、仁愛がまったく教会のものでないこと、そして両方とも衣服を着け、概観で飾った。傍観者が互いに覗き込むようにして、「この者は賢明な者ではないのか?」と言った。
 また、私は言った、「よく生きることが仁愛であること、よく信じることが信仰であることを、あなたは知らないか? よく生きる者は、よく信じもしないか? このように、信仰は仁愛のもの、また仁愛は信仰のものである〔のではない〕? あなたは、これは真理であることを見ないか?」
 彼は答えた、「私はそれを真理とする、また私は見る」――そしてした、また言った、「今や、私は見る」。しかし、じきにその正反対の事柄を、真理であるようにした、またその時、言った、「私はこれが真理であることもまた見る」。
 これに私たちはほほ笑み、私たちは言った、「正反対の事柄ではないのか? どのようにして二つの正反対の事柄が真理と見られることができるのか?」
 これに憤慨して答えた、「あなたがたは間違っている。人間が真理とするもの以外に何らかのものは真理でないので、両方とも真理である」。
[3] 近くにいる者が立った、その者は世の中で、第一位の大使であった。彼はこれを驚いて、「私は認める、何らかの似たものが世の中にあること、しかしそれでも、あなたは、あなたは狂っている。もし、あなたができるなら、光が暗黒、また暗黒が光であることを真理であるようにせよ」と言った。。
 また答えた、「私は容易にこのことをする――光と暗黒は目の状態でないなら何か? 目が日照からやって来る時、そのようにまた、人間が目を賢明に太陽の中に定める時、光は陰に変わらないか? 目の状態はその時、変えられること、また、光はここから陰のように見えることを、だれが知らないか。そして逆に、目の状態が戻る時,その陰は光のように見える〔のではないか〕? フクロウは夜の暗黒を日の光のように、また火の光を夜の暗黒のように、またその時、確かに太陽そのものを暗くて黒ずんだ球として見ないか? もし、だれか人間がフクロウのような目を持つなら、何を光と、また何を暗黒と呼ぶか? その時、光は目の状態でないなら何か? また、もし単なる目の状態なら、光が暗黒、また暗黒は光ではないのか? それゆえ、一つのものが真理であるように、またもう一つのものが真理である。
[4] しかし、この証明はある者を混乱させたので、私は言った、「私は、その証明家が、真理の光と愚かな光が存在すること、また両方のそれらの光が光のように見えることを知らないことを認めた。しかしそれでも、愚かな光は本質的に光ではない、しかし、真理の光に比べて黒である。愚かな光の中にフクロウはいる、というのは、その目の内に〔他の〕鳥を調べ、食い尽そうとする欲望があるから、またこの光はその目を夜の時に見ように、まったく同様に、ネコのように、その目は小部屋の中でろうそく〔の火〕のように見えるようにする。愚かな光が、それらの目の中にネズミを調べ、食い尽そうとする欲望から生ずる、それはそれを生みだす。ここから、太陽の光が真理の光であること、また欲望の光が愚かな光であることが明らかである」。
 [5] この後、大使は証明家に、カラスが白であり、黒でないことが真理であるようにするように求めた。
 また、答えた、「このこともまた、私は容易に行なう」。
 また、言った、「針またはかみそりを取れ、またカラスの羽毛また綿毛を開け、なおまた、羽毛また綿毛を取り去れ、皮からカラスを眺めよ、白ではないか?
 まわりにある陰でないなら色とは何か、カラスの色についてそれ〔陰〕から判断すべきではなのか? 黒色は単に陰である、光学の科学の熟練者に相談せよ、〔そう〕言う〔であろう〕。または、黒い石を、またはガラスを細かいちりにすりつぶせ、あなたは、ちりが白色であること見るであろう」。
しかし、大使は答えた、「カラスは視覚の前に黒色に見えないか?」
 しかし、その証明家は答えた、「〔もののわかった〕人間であるあなたは、何らかのものを外観から考えることを欲するか? または確かに外観から、カラスが黒であることを話すことができる、しかし、あなたはそれを考えることができない。例えば(例として)あなたは、太陽が上り、沈む、と外観から語ることができる。しかし、あなたは〔もののわかった〕人間であるので、あなたは、太陽は不動であり、地球は進行するのでそれを考えることができない。
カラスも同様である。外観は外観である。何でもあなたが欲すること言え(=何とでも言え)、カラスはすべての点で白である。さらにまた私は〔カラスが〕年取ったとき白くなったのを見た」。
この後、そばに立つ者が私を覗き込んだ――それゆえ、私は言った、カラスの羽毛また綿毛がその皮と同じく白さを内部から得ることが真理である。しかし、このことはカラスのもとにだけではなく、全世界の中すべての鳥のもとにある。また、すべての人間は鳥を、それらの色の外観から区別する。もし、この区別が行なわれなかったなら、私たちはすべての鳥について白である、と言うが、これはばかばかしく、無益である。
 [6] その後、大使は、自分自身が狂っていること真理とすることができるかどうか、質問した。彼は言った、「私はできる、しかし私は欲しない。だれが狂っていないか?」
 その後、彼らは、彼に、人間が真理とするものでないなら何らかの真理がないことを、冗談で言っているかどうか、あるいは信じているかどうか、心から言うように求めた。また答えた、「私は誓う、私は信じている」。
 この後、その万能な証明家は、彼がどんなものであるか調べる天使たちに送られた。またこれらの者は調査の後、、彼は決して理解力の微塵すら所有しない、と言った。「理性(推理力)の上にあるそのすべてのものが彼のもとで閉ざされているからである、また単に理性(推理力)の下にあるものが開かれている。理性(推理力)の上方に霊的な光があり、そして理性(推理力)の下方に自然的な光がある、またこの光は人間のもとでこのようなものである。しかし、もし霊的な光が自然的な光の中に流入しないなら、人間は、何らかの真理が真理であるかどうか、またここから何らかの虚偽が虚偽であることもまた見ない。また、それらを見ることは、自然的な光の中の霊的な光からである、また、霊的な光は主であられる天界の神からである。それゆえ、その万能な証明家は人間でも獣でもない、しかし、獣人間である」。
 [7] 私は天使たちにこのような者の運命について、人間のいのちは霊的な光からであり、この光から彼の理解力があるので、生きるものと一緒にいることができるのかどうか、質問した――また彼らは言った、自分だけ(ひとり)でいるとき、何らかのことを考えること、またここから話すことができない、しかし、口のきけない自動人形のように立っている、またそのように深い眠りの中にいるような者である。しかし、耳で何らかのものを捕えるとすぐに目覚める――また、言い足した。内部で悪い者である彼らはこのような者になる。これらの者の中に上のものから霊的な光は流入することができない、しかし、世を通って何らかの霊的なものだけが〔流入する〕、ここから彼らに証明する能力がある。
 [8] これらを聞いて、私は彼を調べた天使たちからの、「それらの聞いたものから全般的な結論をつくれ」と言っている声を聞いた。
 また、私はこれを行なった、「何でも好むところを証明することは、知的でないこと。しかし、真理が真理であり、虚偽が虚偽である、と見ることができること、またこれを証明することが知的であること」。
 この後、私は集会に向かって眺めた、そこに証明する者たちが立っていた、また群衆が彼らのまわりで叫んだ、「おお、なんと賢明な者たち」、また、見よ、暗い色の雲が彼らをおおった、また雲の中をモリフクロウとコウモリが飛んだ。
 また、私に言われた、「その雲の中を飛んでいるモリフクロウとコウモリは、彼らの思考の対応(物)とここからの外観である――虚偽を真理のように見えるまでもの確認(証明)は、この世界の中で夜の鳥の形の下に表象されるからである、その目を愚かな光は内部で照らし、その光から対象(物)を光の中でのように暗やみの中で見る。
 このような霊的な愚かな光が、虚偽を確信(証明)し、真理として見るまでも、そしてその後、真理と信じる者にある。
彼らのすべての者は後(あと)からの視覚☆2の中にいる、また何らかの前もっての視覚☆2の中にいない」。
 
1 「前のもののように」とは何でしょうか? 「今までいろいろ話したことのように」、「前から当たり前にあったもののように」ということでしょうか? ニュアンスとしては狡飯「前」瓩任后
2 「後(あと)からの視覚」と「前もっての視覚」でわかるでしょうか? 言葉を変えれば、物事を「結果だけから見」て「原因から見」ないことです。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 23:59
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原典講読『真のキリスト教』 334(直訳[3]〜[5])
[3.] Stabat prope aliquis qui in mundo fuerat legatus primi gradus; [3] 近くにある者が立った、その者は世の中で、第一の位の大使であった。
ille hoc miratus est, et dixit, "Agnosco, quod aliquid simile in mundo sit, sed usque tu insanis; 彼はこれを驚いて、また言った、「私は認める、何らかの似たものが世の中にあること、しかしそれでも、あなたは、あなたは狂っている」。
fac si potes ut sit verum, quod lux sit caligo, et caligo lux." つくれ、もし、あなたができるなら、真理であるように、光が暗黒、また暗黒が光であること」。
Et respondit, "Hoc faciam facile: また答えた、「このことを私は容易につくる――
quid lux et caligo nisi status oculi? 光と暗黒は目の状態でないなら何か?
Numne mutatur lux in umbram, dum oculus ex aprico venit, ut et dum homo oculum intense figit in solem? 光は陰の中に変わらないか、目が日照からやって来る時、そのようにまたその時、人間が目を賢明に太陽の中に定める。
Quis non scit, quod status oculi tunc mutetur, et quod lux inde appareat ut umbra; だれが知らないか、目の状態はその時、変えられること、また、光はここから陰のように見えること。
ac vicissim dum status oculi redit, quod umbra illa appareat ut lux? そして逆に、目の状態が戻る時,その陰は光のように見える?
Nonne noctua videt caliginem noctis ut lucem diei, et lucem diei ut caliginem noctis, et tunc omnino ipsum solem ut globum opacum et furvum? フクロウは夜の暗黒を日の光のように見ないか、また火の光を夜の暗黒のように、またその時、すべての点で(確かに)太陽そのものを暗くて黒ずんだ球として?
Si quis homo haberet oculos sicut noctua, quid vocaret lucem et quid caliginem? もし、だれか人間がフクロウのような目を持つなら、何を光と呼ぶか、また何を暗黒と?
Quid tunc lux nisi status oculi? その時、光は目の状態でないなら何か?
et si modo est status oculi, numne lux est caligo, et caligo lux? また、もし単なる目の状態なら、光が暗黒ではないのか、また暗黒は光?
quare ut unum est verum et alterum est verum. それゆえ、一つのものが真理であるように、またもう一つのものが真理である。
[4.] Sed quia haec confirmatio confudit quosdam, dixi, "Animadverti, quod confirmator ille non sciat, quod detur lux vera, et lux fatua, et quod ambae illae luces appareant sicut sint luces; [4] しかし、この確証(証拠)はある者を混乱させたので、私は言った、「私は認めた、その証明する者が知らないこと、真理の光と愚かな(弱い)光が存在すること、また両方のそれらの光が光のように見えること。
sed usque lux fatua in se non est lux, sed respective ad lucem veram est caligo. しかしそれでも、愚かな(弱い)光は本質的に光ではない、しかし、真理の光に比べて(相対的に)暗黒である。
In luce fatua est noctua, est enim intra oculos ejus cupiditas insectandi et vorandi aves, et haec lux facit oculos ejus tempore noctis videre, prorsus similiter ut feles, quorum oculi in cellis apparent sicut candelae; 愚かな(弱い)光の中にフクロウはいる、というのは、その目の内に鳥を調べる、またのみ込もう(食い尽そう)とする☆欲望があるから、またこの光はその目を夜の時に見ることをつくる、まったく同様に、ネコのように、その目は小部屋の中でろうそく〔の火〕のように見える。
動詞voro「のみ込む・食い尽す」が『レキシコン』にありませんでした!
est lux fatua oriunda ex cupiditate insectandi et vorandi mures intus in oculis illorum, quae id producit. 愚かな(弱い)光がそれらの目の中にネズミを調べる、またのみ込もう(食い尽そう)とする欲望から生ずる、それはそれを生みだす。
Inde patet, quod lux solis sit lux vera, et quod lux cupidinis sit lux fatua." ここから明らかである、太陽の光が真理の光であること、また欲望の光が愚かな(弱い)光であること」。
[5.] Post haec, legatus rogavit confirmatorem, ut faceret hoc ut sit verum, quod corvus sit albus et non niger. [5] この後、大使は証明する者に求めた、このことが真理であるようにつくるように、カラスが白(色)であり、黒(色)でないこと。
Et respondit, "Etiam hoc faciam facile." また、答えた、「このこともまた、私は容易につくる」。
Et dixit, "Sume acum seu novaculam, et aperi pennas et plumas corvi, tum remove pennas et plumas, et specta corvum a cute, nonne est albus? また、言った、「針(acus)またはかみそりを取れ、またカラスの羽毛また綿毛を開け、なおまた、羽毛また綿毛を取り去れ、また皮からカラスを眺めよ、白(色)ではないか?
Quid nigrum, quod circum est, nisi umbra, e qua non judicandum est de colore corvi?  (色)とは何か、それはまわりにある、陰でないなら、それ〔陰〕から判断すべきではないか、カラスの色について?
Quod nigrum sit modo umbra, consule gnaros scientiae optices, et dicent; 黒(色)は単に陰である、光学の科学の熟練者に相談せよ(諮れ)、また言う。
aut mole nigrum lapidem aut vitrum in tenuem pulverem, et videbis quod pulvis sit albus." または、黒い石をすりつぶせ、またはガラスを細かいちりの中に、またあなたは見る、ちりが白(色)であること」。
Sed respondit legatus, "Apparetne corvus niger coram visu?" しかし、大使は答えた、「カラスは視覚の前に黒(色)に見えないか?」
At confirmator ille respondit, "Vis tu, qui es homo, cogitare aliquid ex apparentia? しかし、その証明する者は答えた、「あなたは、その者は〔もののわかった〕人間である、欲するか、何らかのものを外観から岩変えることを?
Potes quidem loqui ex apparentia quod corvus sit niger, sed non potes id cogitare; あまたは確かに外観から話すことができる、カラスが黒(色)でであること、しかし、あなたはそれを考えることができない。
ut pro exemplo, potes loqui ex apparentia, quod sol oriatur et occidat; 例えば、例として、あなたは外観から語ることができる、太陽が上る、また沈むこと。
sed quia es homo, non potes cogitare id, quia sol stat immotus, et tellus progreditur: しかし、あなたは〔もののわかった〕人間であるので、あなたはそれを考えることができない、太陽は不動であるので、また地球は進行する。
simile est cum corvo; カラスに同様である。
apparentia est apparentia; 外観は外観である。
dic quicquid vis, corvus est totus quantus albus; あなたが欲する何でも言え、カラスはすべての点で白(色)である。
albescit etiam cum senescit, hoc vidi." さらにまた年取ったとき、白くなった、これを私は見た」。
Post haec adstantes inspexerunt me: この後、そばに立つ者が私を熟視した(覗き込んだ)――
quare dixi, quod verum sit, quod pennae et plumae corvi intus trahant ex albedine, pariter ejus cutis; それゆえ、私は言った、真理であること、カラスの羽毛また綿毛が白さから内部を得る、その皮と同じく。
sed hoc datur non modo apud corvos, sed etiam apud omnes aves in universo; しかし、このことはカラスのもとにだけ存在しない、しかしすべての鳥のもとに、全世界の中に。
et omnis homo aves distinguit ex apparentia coloris illarum; また、すべての人間は鳥を区別する、それらの色の外観から。
si hoc non fieret, diceremus de omni ave quod sit alba, quod absurdum et irritum est. もし、このことは行なわれなかったなら、私たちはすべての鳥について言う、白(色)であること、これは不合理(ばかばかしい)と無益(むだ)である。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 23:03
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原典講読『真のキリスト教』 334(原文と直訳[2]まで)
(1) 原文
334. Tertium Memorabile:
 
Post haec dixit unus ex angelis, "Sequere me ad locum ubi vociferantur, `O quam sapientes.'" Et dixit, "Videbis portenta hominum; videbis facies et corpora, quae sunt hominis, et tamen non sunt homines."
Et dixi, "Suntne tunc bestiae?"
Respondit, "Non sunt bestiae, sed bestiae homines; sunt enim, qui prorsus non videre possunt num verum sit verum, vel non, et tamen possunt facere ut appareat sicut verum quicquid volunt; tales apud nos vocantur Confirmatores."
Et secuti sumus vociferationem, et venimus ad locum; et ecce coetus virorum, et circum coetum turba, et in turba aliqui ex nobili stemmate, qui dum audiverunt, quod confirmarent omnia quae dicebant, et sibi tam manifesto consensu faverent, se converterunt, et dixerunt, "O quam sapientes."
[2.] Sed dixit mihi angelus, "Ne adeamus illos, sed evocemus coetu unum"; et evocavimus, et cum illo secessimus, et locuti sumus varia, et ille confirmabat singula, usque ut prorsus apparerent sicut vera.
Et quaesivimus illum num etiam possit confirmare contraria. Dixit, quod tam bene ut priora: dixit tunc aperte, et ex corde, "Quid verum? Num datur aliquod verum in rerum natura, quam quod homo facit verum? Dic [1]quicquid placet, et faciam id ut sit verum."
Et dixi, "Fac hoc verum quod fides sit omne ecclesiae."
Et fecit hoc ita dextre et solerter ut eruditi circumstantes admirati sint, et adplauserint. Postea petii, ut faceret verum, quod charitas esset omne ecclesiae, ac fecit; et postea, quod charitas sit nihil ecclesiae, ac investivit utrumque, et exornavit apparentiis, ut adstantes inspicerent se mutuo, et dicerent, "Estne hic sapiens?"
Et dixi, "Nonne scis, quod bene vivere sit charitas, et quod bene credere sit fides? Numne qui bene vivit, etiam bene credit? et sic quod fides sit charitatis, et charitas fidei? Videsne quod hoc verum sit?"
Respondit, "Faciam id verum, et videbo:" ac fecit, et dixit, "Nunc video;" at mox fecit contrarium ejus, ut esset verum, et tunc dixit, "Video etiam quod hoc verum sit,"
Ad haec subrisimus, et diximus, "Suntne contraria? quomodo possunt duo contraria videri vera?"
Ad haec, indignatus respondit, "Erratis; est utrumque verum quoniam non aliud est verum, quam quod homo facit verum."
[3.] Stabat prope aliquis qui in mundo fuerat legatus primi gradus; ille hoc miratus est, et dixit, "Agnosco, quod aliquid simile in mundo sit, sed usque tu insanis; fac si potes ut sit verum, quod lux sit caligo, et caligo lux."
Et respondit, "Hoc faciam facile: quid lux et caligo nisi status oculi? Numne mutatur lux in umbram, dum oculus ex aprico venit, ut et dum homo oculum intense figit in solem? Quis non scit, quod status oculi tunc mutetur, et quod lux inde appareat ut umbra; ac vicissim dum status oculi redit, quod umbra illa appareat ut lux? Nonne noctua videt caliginem noctis ut lucem diei, et lucem diei ut caliginem noctis, et tunc omnino ipsum solem ut globum opacum et furvum? Si quis homo haberet oculos sicut noctua, quid vocaret lucem et quid caliginem? Quid tunc lux nisi status oculi? et si modo est status oculi, numne lux est caligo, et caligo lux? quare ut unum est verum et alterum est verum.
[4.] Sed quia haec confirmatio confudit quosdam, dixi, "Animadverti, quod confirmator ille non sciat, quod detur lux vera, et lux fatua, et quod ambae illae luces appareant sicut sint luces; sed usque lux fatua in se non est lux, sed respective ad lucem veram est caligo. In luce fatua est noctua, est enim intra oculos ejus cupiditas insectandi et vorandi aves, et haec lux facit oculos ejus tempore noctis videre, prorsus similiter ut feles, quorum oculi in cellis apparent sicut candelae; est lux fatua oriunda ex cupiditate insectandi et vorandi mures intus in oculis illorum, quae id producit. Inde patet, quod lux solis sit lux vera, et quod lux cupidinis sit lux fatua."
[5.] Post haec, legatus rogavit confirmatorem, ut faceret hoc ut sit verum, quod corvus sit albus et non niger.
Et respondit, "Etiam hoc faciam facile." Et dixit, "Sume acum seu novaculam, et aperi pennas et plumas corvi, tum remove pennas et plumas, et specta corvum a cute, nonne est albus? Quid nigrum, quod circum est, nisi umbra, e qua non judicandum est de colore corvi? Quod nigrum sit modo umbra, consule gnaros scientiae optices, et dicent; aut mole nigrum lapidem aut vitrum in tenuem pulverem, et videbis quod pulvis sit albus."
Sed respondit legatus, "Apparetne corvus niger coram visu?"
At confirmator ille respondit, "Vis tu, qui es homo, cogitare aliquid ex apparentia? Potes quidem loqui ex apparentia quod corvus sit niger, sed non potes id cogitare; ut pro exemplo, potes loqui ex apparentia, quod sol oriatur et occidat; sed quia es homo, non potes cogitare id, quia sol stat immotus, et tellus progreditur: simile est cum corvo; apparentia est apparentia; dic quicquid vis, corvus est totus quantus albus; albescit etiam cum senescit, hoc vidi."
Post haec adstantes inspexerunt me: quare dixi, quod verum sit, quod pennae et plumae corvi intus trahant ex albedine, pariter ejus cutis; sed hoc datur non modo apud corvos, sed etiam apud omnes aves in universo; et omnis homo aves distinguit ex apparentia coloris illarum; si hoc non fieret, diceremus de omni ave quod sit alba, quod absurdum et irritum est.
[6.] Postea legatus quaesivit, num posset facere verum, quod [2]ipse insaniret, et dixit, "Possum sed non volo; quis non insanit?"
Deinde rogaverunt illum, ut diceret ex corde, num joculetur, vel num credat, quod non sit aliquod verum, nisi quod homo facit verum, et respondit, "Juro quod credam."
Post haec universalis ille confirmator missus est ad angelos, qui explorarent illum qualis est; et hi post explorationem dixerunt quod ille ne quidem granum intellectus possideat, "Quoniam omne id quod supra rationale est, apud illum occlusum est, et solum id quod infra rationale est, apertum est; supra rationale est lux spiritualis, ac infra rationale est lux naturalis, et haec lux apud hominem talis est, ut confirmare possit quicquid lubet; at si non lux spiritualis influit in lucem naturalem, homo non videt num aliquod verum sit verum, et inde nec quod aliquod falsum sit falsum; et hoc et illud videre, est ex luce spirituali in luce naturali, et lux spiritualis est ex Deo caeli, qui est Dominus; quare universalis ille confirmator non est homo nec bestia, sed est bestia homo."
[7.] Quaesivi angelos de sorte talium, num possunt una esse cum vivis, quia vita homini est ex luce spirituali, et ex hoc est intellectus ejus: et dixerunt, quod tales, cum soli sunt, non possint aliquid cogitare, et inde loqui, sed quod stent sicut automata muti, et sicut in alto sopore; at quod expergiscantur, ut primum auribus captant aliquid: et addiderunt, quod illi fiant tales, qui intime mali sunt; in hos non potest lux spiritualis a superiori influere, sed modo aliquod spirituale per mundum, unde illis facultas confirmandi est.
[8.] His dictis, audivi vocem ex angelis qui exploraverunt illum, [3]dicentem, "Fac ex auditis illis universale conclusum."
Et feci hoc quod posse confirmare quicquid lubet, non sit intelligentis; sed quod posse videre quod verum sit verum, et quae falsum sit falsum, et id confirmare, sit intelligentis."
Post haec spectavi ad coetum, ubi stabant confirmatores, et turba circum illos clamabat, "O quam sapientes," et ecce nubes fusca obvelavit illos, et in nube volabant ululae et vespertiliones. Et dicbatur mihi, "Ululae et vespertiliones in nube illa volantes, sunt correspondentiae et inde apparentiae cogitationum illorum: quoniam confirmationes falsitatum usque ut appareant sicut veritates, repraesentantur in hoc mundo sub formis avium noctis, quarum oculos fatua lux intus illuminat, ex qua vident objecta in tenebris sicut in luce. Talis lux fatua spiritualis est illis qui confirmant falsa, usque dum videntur ut Vera, ac postea creduntur vera; sunt omnes illi in visione posteriore, et non in aliquo visu priori."
 
   @1 quicquid pro “quiquid” @2 ipse insaniret (cum exemplo Auctoris; tum quoque cum opera De Amore Conj., n.233,) pro “tu insanires” @3 dicentem pro “dicens”
 
(2) 直訳
334. Tertium Memorabile:― 第三のメモラビリア――
 
Post haec dixit unus ex angelis, "Sequere me ad locum ubi vociferantur, `O quam sapientes.'" この後、天使からの一人が言った、「私に従え(後に続け)、そこに叫ばれている場所へ、「おお、なんと賢明な者たち」。
Et dixit, "Videbis portenta hominum; また言った、「あなたは人間の怪物を見る(未来)
videbis facies et corpora, quae sunt hominis, et tamen non sunt homines." あなたは顔と身体を見る(未来)、それらは人間のものである、またそれでも人間ではない」。
Et dixi, "Suntne tunc bestiae?" また、私は言った、「その時、獣なのか?」
Respondit, "Non sunt bestiae, sed bestiae homines; 彼は答えた、「獣ではない、しかし、獣人間〔である〕」。
sunt enim, qui prorsus non videre possunt num verum sit verum, vel non, et tamen possunt facere ut appareat sicut verum quicquid volunt; というのは、その者はまったく見ることができない〔者〕であるから、真理が真理であるかどうか、あるいは〔真理で〕ない、またそれでもなお、真理のように見られるようにつくることができる、何でも欲する〔ものを〕。
tales apud nos vocantur Confirmatores." このような者は私たちのもとで、狆斂世垢觴圻瓩噺討个譴襦廖
Et secuti sumus vociferationem, et venimus ad locum; また私たちは叫びへ従った(sequor)、また〔その〕場所へやってきた。
et ecce coetus virorum, et circum coetum turba, et in turba aliqui ex nobili stemmate, qui dum audiverunt, quod confirmarent omnia quae dicebant, et sibi tam manifesto consensu faverent, se converterunt, et dixerunt, "O quam sapientes." また、見よ、男の集団、また集団のまわりに、群衆、また群衆の中に貴族の(高貴な)系統からのある者が、その者は聞いた時、すべてのものを確認した(証明した)こと、それを言った、また、自分自身にこれほどに明らかな同意で好感を持つ、自分自身を向きを変えて、また言った、「おお、なんと賢明な者たち」。
[2.] Sed dixit mihi angelus, "Ne adeamus illos, sed evocemus coetu unum"; [2] しかし、私に天使が言った、「私たちが彼らに近づかないように〔して〕、しかし、私たちは集団から一人を呼び出そう」。
et evocavimus, et cum illo secessimus, et locuti sumus varia, et ille confirmabat singula, usque ut prorsus apparerent sicut vera. また私たちは呼び出した、また彼とともに離れた、またいろいろなことを話した、また彼は個々のものを確認した(証明した)、まったく真理にのように見えるまでも。
Et quaesivimus illum num etiam possit confirmare contraria. また、私たちは彼に質問した、さらにまた正反対の事物を証明することができるかどうか。
Dixit, quod tam bene ut priora: 彼は言った、前のもののように☆これほどによく〔できる〕こと。
「前のもののように」とは何でしょうか? 「今までいろいろ話したことのように」、「前から当たり前にあったもののように」ということでしょうか? ニュアンスとしては狡飯「前」瓩任后
dixit tunc aperte, et ex corde, "Quid verum? その時、あからさまに言った、また、心から、「何が真理か?
Num datur aliquod verum in rerum natura, quam quod homo facit verum? 自然の事柄の中に何らかの真理が存在するのか、人間が真理をつくる(真理とする)もの以外に?
Dic [1]quicquid placet, et faciam id ut sit verum." 言え、何でも好むところを、また私はそれを真理であるようにつくる」。
Et dixi, "Fac hoc verum quod fides sit omne ecclesiae." また、私は言った、「この真理をつくれ、信仰は教会のすべてのものであること」。
Et fecit hoc ita dextre et solerter ut eruditi circumstantes admirati sint, et adplauserint. またこれをつくった、そのように巧みに、また如才なく、取り囲む学者たちが驚嘆し、また拍手するように。
Postea petii, ut faceret verum, quod charitas esset omne ecclesiae, ac fecit; その後、私は懇願した(求めた)、真理をつくるように、仁愛が教会のすべてのものであること、そしてつくった。
et postea, quod charitas sit nihil ecclesiae, ac investivit utrumque, et exornavit apparentiis, ut adstantes inspicerent se mutuo, et dicerent, "Estne hic sapiens?" またその後、仁愛はまったく教会のものでないこと、そして両方とも衣服を着けた(包んだ)、また概観で飾った、傍観者が互いに覗き込むように、また言った、「この者は賢明な者ではないのか?」
Et dixi, "Nonne scis, quod bene vivere sit charitas, et quod bene credere sit fides? また、私は言った、「あなたは知らないか? よく生きる(生活する)ことが仁愛であること、またよく信じることが信仰であること。
Numne qui bene vivit, etiam bene credit? よく生きる者は、さらにまたよく信じないか?
et sic quod fides sit charitatis, et charitas fidei? またこのように、信仰は仁愛のもの、また仁愛は信仰のものである?
Videsne quod hoc verum sit?" あなたは見ないか、これは真理であることを?」
Respondit, "Faciam id verum, et videbo:" 彼は答えた、「私はそれを真理につくる、また私は見る」――
ac fecit, et dixit, "Nunc video;" そしてつくった、また言った、「今や、私は見る」。
at mox fecit contrarium ejus, ut esset verum, et tunc dixit, "Video etiam quod hoc verum sit," しかし、じきにその正反対の事柄をつくった、真理であるように、またその時、言った、「私はこれが真理であることもまた見る」。
Ad haec subrisimus, et diximus, "Suntne contraria? これに私たちはほほ笑んだ、また私たちは言った、「正反対の事柄ではないのか?
quomodo possunt duo contraria videri vera?" どのように二つの正反対の事柄が真理と見られることができるのか?」
Ad haec, indignatus respondit, "Erratis; これに憤慨して答えた、「あなたがたは間違っている。
est utrumque verum quoniam non aliud est verum, quam quod homo facit verum." 両方とも真理である、何らかのものは真理でないので、人間が真理につくるもの以外に」。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第5章, 23:17
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