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原典講読『真のキリスト教』462 (訳文)
(3) 訳文
462. 第四のメモリビリア――
 
 私霊界海岸め、壮大
 私づきのぞきこんだ。見そこにきな船とさな船、それらのにすべての種類商品、腰掛っている少年少女たちがいて望っていた
 また、彼らはった、「私たちはたちのしいガメをることを期待しているそれらがすぐにからてくる」。
 すると見。私さなガメときなガメをそれらの甲羅とうろこのっている幼児ガメをそれらは周囲島々めていた
 親のカメ(複数)つのっていた、一きなそれらの身体甲羅甲羅かれここからいていたまたもうつのさな、海ガメにあるようなものでありそれを身体部分そしてまた目立たないようにきなんだ
 しかし、私、赤きなったまたこれが人間のようなっていることまた腰掛少年少女たちまたらのをなめているのをまたその時、少年少女たちがそれらをったまたそれらに食糧とぜいたくなものそしてまた貴重なものををえた、例えば、衣服のための純粋からられたもの、板のためのシトロン木、飾るための染料(紫色布)また「染料のための緋色」である。
 [2] これらを見て、私はそれらが何を表象するか知ることを願った。私は霊界の中に見られるすべてのものは対応であり、また霊的なものを、それらは情愛とここから思考のものを表象するこを知っていたからである。
 またその時、天界から私に話され、また言った、「しかし、あなたは何が海ガメか知らない」。
 また彼らは言った、「海ガメはそこの聖職者からの、信仰を仁愛とその善の働きから完全に分離する者を表象する。明らかに何らかの結合がないことを自分自身に肯定し、しかし、信仰によって聖霊が父なる神の中に、子の功績のために、人間のもとに入り、そして彼の内的なものを、彼のプロプリウムの意志までも清め、その意志から長円形を平面のようにする。また聖霊の働きがその平面に近づくとき、その左の周囲の部分からそれをそれ、まったくそれを触れない、またこのように人間の生来の内的なまたは高い部分は、神のためのものであり、また外的なまたは低い部分は人間のためのものである、とする。またこのように神の前に、人間が行なうものは善も悪も何も見られない、とする。善は、これは功績を求めるものであるので、また悪は、これは悪であるので〔見られない〕。それで、もしそれらが神の前に見られるなら、人間は〔善悪の〕両側から滅びる――またそのようであるので、人間に、好むどんなものでも、世に対して自分自身を用心するかぎり、欲すること、考えること、話しまた行なうことが許される、としている」。
 [3] 私は、さらにまた、神について遍在と全知でないこと考えることが許された、と主張したかどうか質問した。
 天界から言われた、このこともまた彼らに許されたこと、信仰を得、またそれによって清められ、義とされた者のもとの神は、その者の思考や意志の何らかのものを見ない、またそれでも〔その者は〕自分の内的な胸、または心の高い領域の中に、または信仰の性質の中に保持し、それをその行動の中に受け、またその行動は時々、人間に知られないで繰り返されることができる。
「これらが、『小さな頭』が表象するものであり、平信徒と話す時、それを身体の前部の中に引っ込め、そしてまた大きな頭に差し込む。なぜなら、小さな頭から彼らと話さなず、しかし、前部が人間の顔を備えたように見える大きな頭から話すからである。また彼らと、愛、仁愛、善の働き、十戒の教え、悔い改めについて、みことばから話す、また彼らはそれらについて、ほとんどすべてのものを、それらが書かれているみことばから引き出す。しかし、その時、小さい頭を大きなの中に差し込み、そこから自分自身のもとで内的に、それらのすべてのものは神と救いのために行なわれてはならない、しかし、単に公けと私的な善のために〔行なうものである〕と理解している。
 [4] けれども、彼らはみことばからそれらについてすので、特、福音、聖霊の働き、また救いについて、調子よくまた優雅に、それゆえ、聴衆に美しい人間のように、また地球の中の他の者よりも賢明な者に見える――それゆえ、あなたもまた、の腰掛っている少年少女たちにより、彼らに豪華なものと高価なものが与えられたことを見た。
 そこであなたのガメとして表象されるたちはこれらのである
 あなたの世界の中で(単にそのことによってでは)、自分自身をすべての者で最も賢明な者であることを信じ、そして他の者を嘲笑していることは、他の者からほとんど見分けられない。そしてまた彼らは信仰に関して似た教えの中にいる、しかしそれらの中に秘義はない――あるしるしを、自分自身衣服の中につけ、そのしるしから自分自身を他の者から区別されるようにしている」。
 [5] 〔天使は〕私に話して言った、「私はあなたにその他の信仰の事柄について彼らが何を感じるか、言わない。例えば、(神の)選び、選択の自由、洗礼、聖餐についてのようなものであり、それらを〔彼らは〕公けにしない、しかし私たちは天界の中で知っている。
 けれども、世の中でそのようなものであるものは、死後、考えることと異なって話すことは許されないので、それゆえ、その時、自分の狂気から話すこと以外に異なって話すことができず、狂人のように見なされ、そして社会から追い出され、また最後に深淵の穴の中に降ろされる(それについて、「黙示録」9:2)、また形体的(物質的)な霊になり、エジプトのミイラのように見られる。
というのは、彼らの心の内的なもので「たこ」が引き起こされ、世の中でもまたを間に置くからである。
 彼らからの地獄の社会は、マキアヴェリの追随者からの地獄の社会の境界にある、そして一方から他方の中へしばしば入り、自分自身を仲間と呼ぶ。しかし、信仰を通して義認の行為について何らかの宗教的なもの(信念)が彼らにあった、しかし、マキアヴェリの追随者のもとに何らかのものはなかった、という相違があるので去る
 [6] その後、私は、らが社会からされ、投まれるためにめられたのを。私は七つの帆とともに空中を飛ぶ船を、またその中に船長たちと船員たちを、紫色の衣服を着て、帽子の上にりっぱな月桂樹を装備して、叫んでいるのを見た、「見よ、私たちは天界の中にいる。私たちはておりすべてのよりもすぐれた〕月桂冠をかぶった教師である、私たちはヨーロッパののすべての聖職者からの賢明であるからである」。
 私これはしんだ――また、幻想ばれる、高慢映像、そして想像上思考であったことが言われそれはガメとしてられまた、社会からされた狂人としてまたつにめられそしてつの場所一緒っていた
 またその時、私らとすことをんだ。私、立っている場所づき、彼らに挨拶、言った、「あなたがたは人間なるものをそなるものから分離したですそして聖霊活動信仰に〔あるもの〕のように〔分離〕、人間とともに一緒くことから、信仰またこのように人間から分離しました
 あなたがたは、聖職者からのくの教師のようにこのように仁愛とそのきそのものを信仰からざけるだけでなくしかし、信仰そのものもまた人間によるのそのわれして〔遠ざけたのではありませんか
 [7] しかし、それらの事柄について私が、理性から、あるいは聖書からあなたがたに話すことを、あなたがたが欲するかどうか質問します」。
 彼らは、「最初に、理性から話すこと〔を欲する〕」と言った。
 また私は〔次のことを〕言って、話した、「どのように人間のもとの内なるものと外なるものは分離されることができますか?
だれが普通の知覚から、人間のすべての内的なものは外的なものの中に、またそれでもその最外部の中にその結果を引き起こし、またその働きを生み出すように進み、広がることを見ませんか、または見ることができませんか?
 外なるもののために内なるものはあり、その外なるものの中で定まり、またその中で休み、このように存在しますが、それは柱がその柱礎(土台床)の上にあるのとほとんど異ならないのではありませんか?
 あなたがたは、連続がなかったなら、またこのように結合が、最外部のものは分解されること、そして空中の泡のように消滅する。見ることができます。
 そのように、人間のもとの神の内的な活動は無数であること、それらについて人間は何も知らないことを、だれが否定することができるますか。またそれらを知ることを助けるもの何かありますか? 最外部のものを知るだけであり、それらの中に自分の思考と意志ともに、神とともに、同時に存在します。
 [8] しかし、このことは例によって説明されます。人間は自分の話す活動の内的なものを知っていますか。例えば、どのように肺は空気を引き寄せ、またそれで小囊(のう)、気管支、葉(よう)を満たすのか。どのようにその空気を気管の中に送り出し、またそれらをそこの音の中に変えるのか。どのようにその音を声門の中で咽頭の働きで加減するのか、またどのように舌はその後、それを音節に区切るのか、また唇は話すようになるために(音の)区切りをそろえるのか〔です〕。
人間が話すことができるための最外部のためのものであるそれらすべての内的な活動について人間は何も知らないのではありませんか?
 それら内なるものから、最外部のものとのその連続から、ある(一つの)ものを取り去るか、または分離してみなさい、人間は丸太よりもさらに話すことができますか?
 [9] さらに例をあげましょう。
 二つの手は人間の最外部のものです。
それから続く内的なものは、頭から首を通り、なおまた胸を、肩甲骨、腕また前腕を通っていませんか。無数の筋肉の構造物が、無数の組織集団の運動繊維、無数の神経と血管の束、そして多くの骨の関節がその靭帯や膜とともに存在しませんか。人間はそれらについて何らかのものを知っていますか? またそれでも彼の手はそれらのすべてと個々のものから働きます。
 左または右の手の手首の周りのそれらの内的なものが、それ自体を向きを変え、連続を通して入らない、と想像してみてください。前腕から切り離され、そして引き離された手は、何らかの生命のないもののように腐りませんか? それどころか、あなたが信じることを欲するなら、人間が首を折られるなら、その身体のようになります。
 人間の心も、そしてそのいのちの二つのもの、意志と理解力もまったく似ています。信仰と仁愛のものである神的な活動が人間にまでも、中で、また連続によって、伸びないなら、確かに、その時、人間は獣になるだけでなく、しかし、腐った丸太です。〔今述べた〕これらは理性にしたがっています。
[10] さて、あなたが聞きたいなら、同じことが聖書にもまたしたがっている〔ことを話します〕。
 主は言われていませんか、
 
「わたしにとどまりなさい、わたしもあなたがたの中にとどまります。……わたしはブドウの木で、あなたがたは枝です。わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、この人は多くの実を結びます」(ヨハネ15:4, 5)
 
 実は善い働きであり、それを主は人間によって、人間は主により自分自身から行なうのではありませんか。
さらにまた、主は言われました、戸に立って、叩くこと、また開く者は入れられ、そして彼と食事をし、また彼はその方と食事をすることです(黙示録3:20)
 主はミナとタラントを人間がそれらで商売、また利益を得え、また利益を得るかぎり★、永遠のいのちを与えられるのではありませんか? 
前回、この部分の質問に、さっそくコメントがありました。最後をご覧ください。
 なおまた(主は)、報酬をそれぞれの者にその方のブドウ畑の中の労働にしたがって与えること(マタイ20:1-17)(言われていませんか)
しかし、これらはわずかです。人間は木のように実を結ばなくてはならないこと、戒めにしたがって働くべきであり、神と隣人を愛すべきであることについて、みことばからの多くのもので紙面を満たすことができます。
 [11] しかし、私は、あなたがたのプロプリウム(固有)の知性が、みことばからのものであるものと、このような共通のものを持つことができないこと、本質的にそのようなものを、たとえあなたがたが話しても、それでもあなたがたの観念がそれらをゆがめることを知っています。また、あなたがたは伝達とここからの結合に関して、神のすべてのものを人間から遠ざけているので、あなたがたはこれと異なってできません。その時、礼拝のすべてのもの以外に何が残りますか?
 その後、私に天界の光の中で見られ、それは、それぞれの者がどんなものであるかあばき、明らかにする〔光であった〕。またその時、私は、〔彼らが〕前のように空中のの中に、あたかも天界の中にように、紫色でその中に、そして頭に関して月桂樹でいるのを見なかった。しかし、〔彼らが〕砂だらけの場所の中に、小片からの衣服の中で、そして腰の周りにあたかも漁に使うような綱の帯を締め、それらを通して裸であるのが見られた――またその時、マキアヴェリの追随者の境界にある社会の中に降ろされた
 
◎ 「コメント」について、まずは全文を紹介します。
 
僭越ながら、「ut homo negotietur cum illis, et lucretur, et quod sicut lucratur, det vitam aeternam?」の訳についてコメントします。
 「人間がそれらで商売をするために、また彼(人間)が利益を得るために(接続法)、またそのことは(関係代名詞)彼(人間)が利益を得る(直説法)に応じて(接続詞)彼(主)が(人間に)永遠の生命を与えるため(接続法)ではないか?」と思います。参考にしてください。
 
誉めるのも変ですが、直訳としてすばらしいコメントです(今後、この「原典講読」を代わってほしいくらいです)。sicutの語を正確にとらえ、それに即した直訳となっています。それでquodに対する疑問も解消しました。コメントをありがとうございました。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第7章, 00:25
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原典講読『真のキリスト教』462 (直訳[9]〜[11])
[9] Sit adhuc exemplum. [9] さらに例がある(接続)
Binae manus sunt ultima hominis. 二つの手は人間の最外部のものである。
Nonne interiora, quae illuc continuantur, sunt a capite per cervicem, tum per pectus, scapulas, brachia et ulnas; 内的なものは、それらはそれから続けられる、頭から首を通っている、なおまた胸を通って、肩甲骨、腕また前腕。
suntque innumeri musculares textus, innumerae phalanges fibrarum motricium, innumeri manipuli nervorum et vasorum sanguineorum, ac plures ginglymi ossium cum suis ligamentis et membranis; 無数の筋肉の構造物(織物)が存在しないか、無数の組織集団の運動繊維、無数の神経と血管の束、そして多くの骨の関節、その靭帯や膜とともに。
num homo aliquid de illis scit? 人間はそれらについて何らかのものを知っているのか?
et tamen operantur manus ejus ex omnibus et singulis illis. またそれでも彼の手はそれらのすべてと個々のものから働く。
Suppone quod interiora illa circa poplitem manus se sinistrorsum aut dextrorsum reflecterent, et non per continuum intrarent; 想像(仮定)せよ、左または右の手の手首の周りのそれらの内的なものがそれ自体を向きを変える、また連続を通して入らない。
annon manus ab ulna decideret, ac sicut aliquod avulsum inanimatum putresceret? 手は前腕から切り離され、そして引き離された(avello)何らかの生命のないもののように腐らないか?
immo si vultis credere, foret sicut cum corpore, si homo decollaretur. それどころか、もしあなたが信じることを欲するなら、身体にのようになる、もし人間が首を折られるなら。
Prorsus simile foret cum mente humana, ac cum binis ejus vitis, voluntate et intellectu, si Divinae operationes, quae fidei et charitatis sunt, desinerent in media via, et non usque ad hominem per continuum tenderent; 人間の心にまったく似てなる、そしてそのいのちの二つのものに、意志と理解力、もし神的な働き(活動)が、それらは信仰と仁愛のものである、(道の)中で、また人間にまでも連続によって伸びないなら。
sane foret tunc homo non modo brutum, sed putris [1]stipes: 確かに、その時、人間は獣になるだけでなく、しかし、腐った丸太。
haec sunt secundum rationem. これらは理性にしたがっている。
[10] Nunc si vultis audire, eadem etiam sunt secundum Scripturam Sacram. さて、あなたが聞くことを欲するなら、同じことが聖書にもまたしたがっている〔ことを話そう〕。
Annon Dominus dicit, [10] 主は言われていないか、
 
"Manete in Me, et Ego in vobis. 「わたしの中にとどまれ、またわたしはあなたがたの中に。
...Ego sum Vitis et vos palmites; ……わたしはブドウの木、またあなたがたは枝である。
qui manet in Me, et Ego in illo, hic fert fructum multum" (Joh. [2]xv. 4, 5). わたしの中にとどまる者は、またわたしが彼の中に、この者は多くの実を結ぶ」(ヨハネ15:4, 5)
 
Numne fructus sunt bona opera, quae Dominus facit per hominem, et homo ex se a Domino. 実は善い働きではないのか、それを主は人間によって行なう、また人間は主により自分自身から。
Dominus etiam dicit, さらにまた、主は言われた、
 
Quod stet ad ostium et pulset, et quod ad illum qui aperit, ingrediatur, ac cenet cum illo et ille cum Ipso (Apoc. iii. 20). 戸に立って、また叩くこと、また彼に、その者は開く、入れられる、そして彼と食事をする、また彼はその方と(黙示録3:20)
Annon Dominus dat minas et talenta, ut homo negotietur cum illis, et lucretur, et quod sicut lucratur, det vitam aeternam? (Matth. xxv. 14-[3]30; Luc. xix. 13-26). 主はミナとタラントを与える(接続)のではないか? 人間がそれらで商売するように、また利益を得る、また利益を得るように☆、永遠のいのちを与える(未来)
ここにあるquodは何なのかよくわかりません(省略してもよいように思えるので)
Tum (annon Dominus dicit), なおまた(主は言われていないか)
 
Quod mercedem det cuivis secundum laborem in Vinea Ipsius? (Matth. xx. 1-17.) 報酬をそれぞれの者にその方のブドウ畑の中の労働にしたがって与えること?(マタイ20:1-17)
 
Sed haec pauca sunt; しかし、これらはわずかである。
possunt membranae impleri ex Verbo, de eo, quod homo facturus sit fructus sicut arbor, operaturus sit secundum praecepta, amaturus Deum et proximum, et plura. 紙面をみことばから満たされることができる、そのことについて、人間は木のように実を結ばなくてはならないこと、戒めにしたがって働くべきである、神と隣人を愛すべきである、また多くのこと。
[11] Sed scio, quod propria intelligentia vestra cum illis quae ex Verbo sunt, non possit tale commune habere, quale est in se, quae tametsi loquimini, usque ideae vestrae pervertunt illa: [11] しかし、私は知っている、あなたがたのプロプリウム(固有)の知性がそれらと、それらはみことばからのものである、このような共通のものを持つことができないこと、本質的にそのようなものである、それらをたとえあなたがたが話しても、それでもあなたがたの観念がそれらをゆがめる。
et vos non potestis aliter, quia removetis omnia Dei ab homine quoad communicationem et inde conjunctionem: また、あなたがたは異なってできない、あなたがたは伝達とここからの結合に関して、神のすべてのものを人間から遠ざけているので。
quid tunc superest, nisi etiam omnia cultus?" その時、何が残るのか? 礼拝のすべてのものもまた〔遠ざけ〕ないなら☆。
☆「礼拝のすべてのものもまた遠ざけたなら」何も残らないので、「礼拝のすべてのものを残して、それ以外の何が残るというのか」という意味です。
Postea illi mihi visi sunt in luce caeli, quae detegit et manifestat qualis quisque est; その後、私に天界の光の中で見られた、それはあばき、明らかにする〔光であった〕、それぞれの者がどんなものであるか。
et tunc non visi sicut prius in navigio in aere quasi in caelo, nec inibi purpurati quoad vestes, ac laureati quoad caput; またその時、私は見なかった、前のように空中の中の舟(船)の中に、あたかも天界の中にのように、紫色でその中に、衣服に関して、そして月桂樹で(その中に)頭に関して。
sed in loco arenoso, in vestibus ex frustis, ac cincti retibus quasi piscatoriis circum lumbos, trans quae nuditates illorum apparebant: しかし、砂だらけの場所の中に、小片からの衣服の中で、そして綱で帯を締めて、腰の周りにあたかも漁に使うような、それらを通して彼らの裸が見られた――
et tunc demissi sunt in Societatem, quae in confinio ad Machiavellistas erat. またその時、社会の中に降ろされた、それはマキアヴェリの追随者(権謀術数者)への境界の中にあった。
 
@1 stipes pro “stapes” 注1 stapes」の代わりにstipes
@2 xv. pro “xvi.” 注2 xvi.」の代わりにxv.
@3 30 pro “34” 注3 34」の代わりに30
author:yasubee, category:原典講読『真教』第7章, 23:44
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原典講読『真のキリスト教』462 (直訳[6]〜[8])
[6] Postquam vidi illos ejectos ex societatibus, et collectos ut dejicerentur, vidi navigium in aere cum septem velis volans, et inibi naucleros et nautas indutos veste purpurea, habentes super pileis magnificas laurus, clamantes, "En nos in caelo; [6] その後、私社会からされたらをまたまれるためにめられた、私は七つの帆とともに空中を飛ぶ舟(船)見た、またその中に船長たちと船員たちを、紫色の衣服を着て、頭飾り(帽子)の上にりっぱな月桂樹を装備して(持って)、叫んで、「見よ、私たちは天界の中に。
sumus doctores purpurati, et prae omnibus laureati, quia sumus capita sapientum ex omni clero in Europa." 私たちはまたすべてのよりも月桂冠をかぶった教師である、私たちはヨーロッパののすべての聖職者からの賢明(長)であるから」
Miratus sum quid hoc; 私は、これは何か、と怪しんだ。
et dictum est mihi quod essent imagines fastus, ac cogitationes ideales, quae vocantur phantasiae, ex illis, qui prius visi sunt ut testudines, et nunc ut insani ejecti e societatibus, et in unum collecti, ac starent simul in uno loco. また私に言われた、高慢の映像(想像の産物)、そして想像上の(観念的な)思考であったこと、それは幻想と呼ばれる、それらからの、それは前に海ガメとして見られた、また今や、社会から追い出された狂人として、また一つ(の中)に集められた、そして一つの場所の中に一緒に立っている。
Et tunc desiderabam loqui cum illis, et accessi ad locum ubi stabant, et salutabam illos, et dicebam, "Estis vos qui separavistis interna hominum ab externis illorum, ac operationem Spiritus Sancti sicut in fide a cooperatione ejus cum homine extra fidem, et sic separavistis Deum ab homine. またその時、私は彼らと話すことを望んだ、また私は場所に近づいた、そこに立っている、また私は彼らに挨拶した、また言った、「あなたがたは人間の内なるものをそ(れら)外なるものから分離した者である、そして聖霊の働き(活動)を信仰の中にのように〔分離する〕、その一緒に働くこと(協同)から、人間とともに、信仰の外の、またこのように神を人間から分詞した。
Annon vos ita non modo removistis ipsam charitatem et ejus opera a fide, sicut multi alii doctores e clero, sed etiam ipsam fidem quoad manifestationem ejus coram Deo ab homine? あなたがたは、このように仁愛とその働きそのものを信仰から遠ざけるだけでなく、聖職者からの他の多くの教師のように、しかし、信仰そのものもまた人間による神の前のその現われ関して〔遠ざけた〕のではないか?
[7] Sed quaeso, num velitis, ut de illa re loquar vobiscum ex ratione vel num ex Scriptura Sacra." [7] しかし、どうぞ(お願いします)、あなたがたは欲するかどうか、それらの事柄について私があなたがたに話すために、理性から、あるいは聖書からかどうか」。
Dixerunt, "Loquere primum ex ratione." 彼らは言った、「最初に、理性から話すこと」。
Et locutus sum, dicens, "Quomodo potest internum et externum apud hominem separari? また私は話した、言って、「どのように人間のもとの内なるものと外なるものは分離されることができるのか?
Quis non ex communi perceptione videt, aut videre potest, quod omnia interiora hominis pergant et continuentur in exteriora, et usque in extrema ejus ut efficiant effectus suos, et operentur opera sua? だれが全般的な(普通の)知覚から見ないか、または見ることができないか、人間のすべての内的なものは外的なものの中に進む(達する、及ぶ)た広がる、またそれでもその最外部の中にその結果を引き起こすように、またその働きを生み出す(遂行する)
Suntne interna propter externa, ut desinant in illa, et subsistant in illis, et sic existant, vix aliter quam sicut columna super stylobata sua? 外なるもののために内なるものはあるのではないのか、その中に定めるために、またその中で止まる(休む)、またこのように存在する、ほとんど異ならない、柱がその柱礎(土台床)の上にのように以外に。
Potestis videre, quod nisi continuatio foret, et sic conjunctio, extrema dissolverentur, ac diffluerent sicut bullae in aere. あなたがたは見ることができる、連続がなかったなら、またこのように結合が、最外部のものは分解されること、そして空中の泡のように消滅する。
Quis negare potest, quin interiores operationes Dei apud hominem sint myriades myriadum, de quibus homo nihil scit; だれが否定することができるのか、そのようにではなく、人間のもとの神の内的な働き(活動)一万の一万(無数)あること、それらについて人間は何も知らない。
et quid juvat illa scire, modo sciat extrema, in quibus cum sua cogitatione et voluntate cum Deo simul est? またそれらを知ることを何が助けるのか? 最外部のものを知るだけ〔でよい〕、それらの中に自分の思考と意志ともに、神とともに、同時に存在する。
[8] Sed hoc illustrabitur per exemplum. [8] しかし、このことは例によって説明される、
Num scit homo interiores operationes loquelae suae; 人間は自分の話すことの働き(活動)の内的なものを知っているのか。
ut quomodo pulmo attrahit aerem, et illo implet vesiculas, bronchias, et lobos; 例えば、どのように肺は空気を引き寄せるのか、またそれで小囊(のう)を、気管支を、また葉(よう)を満たす。
quomodo illum aerem emittit in trachiam, et ibi vertit illum in sonum; どのようにその空気を気管の中に送り出すのか、またそこにそれらを音の中に変える。
quomodo sonus ille in glottide ope laryngis modificatur, et quomodo lingua dein articulat illum et labia articulationem complent, ut fiat loquela? どのようにその音を声門の中で咽頭の働きで少し変える(変更する、加減する)のか、またどのように舌はその後、それを音節に区切る(はっきり発音する)のか、また唇は(音の)区切りを満たす(そろえる)、はなすことになるように?
Nonne omnes illae interiores operationes, de quibus homo nihil scit, sunt propter extremum, ut homo possit loqui? それらすべての内的な働き(活動)、それらについて人間は何も知らないのではないか、最外部のためのものである、人間が話すことができるための?
Remove aut separa unum ex internis illis a suo continuo cum extremis, num homo potuisset loqui plus quam stipes? それら内なるものからある(一つの)ものを取り去れ、または分離せよ、最外部のものとのその連続から、人間は丸太よりもさらに話すことができたのか?
author:yasubee, category:原典講読『真教』第7章, 23:29
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原典講読『真のキリスト教』462 (直訳[4],[5])
[4] Verum quia loquuntur de illis ex Verbo, imprimis de Evangelio, operatione Spiritus Sancti, et salvatione, suaviter et eleganter, ideo apparent auditoribus sicut homines pulchri, et prae reliquis in terrarum orbe sapientes: [4] けれども、彼らはみことばからそれらについてすので、特、福音、聖霊の働き、また救いについて、甘く(調子よく)また優雅に、それゆえ、聴衆に美しい人間のように見える、また地球の中の他の者よりも賢明な者――
quare etiam vidisti, quod data illis essent a pueris et puellis sedentibus super transtris navigiorum opipara et pretiosa. それゆえ、あなたもまた見た、彼らに与えられたこと、舟(船)の腰掛(横木)っている少年少女たちにより、豊富(豪華)なものと高価なもの。
Hi itaque sunt, quos repraesentates vidisti ut testudines. そこでこれらのであるそのたちを表象するたちをあなたは海ガメとして。
In mundo tuo parum dignoscuntur ab aliis, solum per id, quod credant se omnibus sapientiores esse, ac rideant alios, et quoque illos qui in simili doctrina quoad fidem sunt, sed non in illis arcanis: あなたの世界の中で他の者からほとんど見分けられません、単にそのことによって〔では〕、自分自身をすべての者で最も賢明な者であることを信じていること、そして他の者を嘲笑する、そしてまた彼らを、その者は信仰に関して似た教えの中にいる、しかしそれらの中に秘義はない。
sigillum quoddam secum in veste ferunt, ex quo se faciunt ab aliis internosci." あるしるしを、自分自身衣服の中にもたらす、そのものから自分自身を他の者から区別されることをする」。
[5] Dixit loquens cum me, "Non dicam tibi quid sentiunt de ceteris rebus fidei, ut quid de Electione, de Libero Arbitrio, de Baptismo, et de Sacra Cena, quae sunt talia, quae non evulgant, sed nos in caelo scimus. [5] 私に話して言った、「私はあなたに言わない(未来)何を感じるか、信仰のその他の事柄について、例えば、(神の)選びについて、選択の自由について、洗礼について、聖餐について、それらはこのようなものである、それらを公けにしない、しかし私たちは天界の中で知っている。
Verum, quia tales sunt in mundo, et post mortem non licet alicui loqui aliter quam cogitat, ideo quia tunc non possunt aliter quam loqui ex insaniis cogitationum suarum, reputantur ut insani, ac ejiciuntur e societatibus, et tandem demittuntur in puteum abyssi (de quo in Apocalypsi ix. 2), et fiunt spiritus corporei, et apparent sicut Aegyptiorum mumia; けれども、世の中でそのようなものであるものは、また死後、ある者に許されないので、考えるよりもことなって話すこと、それゆえ、その時、自分の狂気から話すこと以外に異なって話すことができない、狂人ののように見なされる、そして社会から追い出される、また最後に深淵の穴の中に降ろされる(それについて、「黙示録」9:2)、また形体的(物質的)な霊になる、またエジプトのミイラのように見られる。
callus enim inductus est interioribus mentis eorum, quia in mundo etiam interposuerunt sepem. というのは、彼らの心の内的なもので「たこ」が引き起こされるから、世の中でもまた囲い(垣)を間に置くからである。
Societas infernalis ex illis est in confinio ad societatem infernalem ex Machiavellistis, ac intrant passim ab una in alteram, et vocant se sodales; 彼らからの地獄の社会はマキアヴェリの追随者(権謀術数者)からの地獄の社会への境界の中にある、そして一方から他方の中へしばしば入る、また自分自身を仲間と呼ぶ。
sed exeunt, quia diversitas est, ex eo, quod aliquod religiosum de actu justificationis per fidem apud illos fuerit, sed non aliquod apud Machiavellistas." しかし、去る、相違があるので、そのことから、信仰を通して義認の行為について何らかの宗教的なもの(信念)が彼らにあった、しかし、マキアヴェリの追随者(権謀術数者)のもとに何らかのものはなかった。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第7章, 23:40
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原典講読『真のキリスト教』462 (直訳[3])
[3] Quaesivi num etiam asserant, quod liceat cogitare de Deo, quod non omnipraesens et omniscius sit. [3] 私は質問した、さらにまた主張したかどうか、神について考えることが許されたこと、遍在と全知でないこと。
Dixerunt e caelo, quod hoc quoque illis liceat, quia Deus apud illum, qui fidem adeptus est, et per illam purificatus et justificatus, non videt ad aliquod cogitationis et voluntatis ejus, et quod usque retineat in sinu interiori aut regione superiori mentis suae seu ingenii Fidem, quam in actu ejus receperat, et quod ille actus quandoque possit redire, homine nesciente. 天界から言われた、このこともまた彼らに許されたこと、彼らのもとの神は、その者は信仰を得た、またそれによって清められ、また義とされた、彼の思考のまた意志の何らかのものを見ない、またそれでも自分の内的な胸、または心の高い領域の中に、または信仰の性質の中に☆保持する(しまっておく)、それをその行動の中に受ける、またその行動は時々、繰り返されることができる、人間に知られないで。
ここのingeniiingeniiのミスプリでしょう。
"Haec sunt, quae repraesentat caput parvum, quod in anteriora corporis intrahunt, et quoque insertant capiti magno, dum loquuntur cum laicis; 「これらである、それらを『小さな頭』が表象する、それを身体の前部の中に引っ込める、そしてまた大きな頭に差し込む、平信徒と話す時。
nam ex parvo capite non loquuntur cum illis, sed ex magno, quod antrorsum apparet sicut facie humana praeditum; なぜなら、小さな頭から彼らと話さないから、しかし、大きな(頭)ら、その前部は人間の顔を備えたように見える。
et loquuntur cum illis ex Verbo de amore, de charitate, de bonis operibus, de praeceptis Decalogi, de paenitentia, et ex Verbo desumunt paene omnia quae ibi sunt de illis: また彼らとみことばから話す、愛について、仁愛について、善の働きについて、十戒の教えについて、悔い改めについて、また彼らはみことばからほとんどすべてのものを引き出す、それらはそこにそれらについてある。
sed tunc insertant caput parvum in magnum, ex quo intus apud se intelligunt, quod omnia illa non facienda sint propter Deum et salutem, sed modo propter bonum publicum et privatum. しかし、その時、小さい頭を大きな(頭)の中に差し込む、そこから内的に自分自身のもとで理解する、それらのすべてのものは神と救いのために行なわれてはならない、しかし、単に公けと私的な善のために〔行なっている〕。
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原典講読『真のキリスト教』462 (原文と直訳[1],[2])
 (1) 原文
462. Quartum Memorabile:
 
Prospexi ad oram maritimam in mundo spirituali; et vidi magnificum navale. Accessi, et introspexi, et ecce ibi navigia magna et parva, et in illis merces omnis generis, et super transtris sedentes pueri et puellae distribuentes volentibus.
Et dixerunt, "Exspectamus videre pulchras nostras Testudines (skòldpadda), quae jamjam e mari ad nos exsurgent."
Et ecce vidi testudines parvas et magnas, super quarum conchis et squamis sedebant testudines infantes, quae spectabant ad insulas circum. Testudines patres habebant bina capita, unum magnum circumductum concha simili conchae corporis illarum, unde rutilabant; et alterum parvum, quale est testudinibus, quod retrahebant in anteriora corporis, et quoque insertabant modo inconspicuo capiti majori.
Sed tenebam oculos in magno capite rutilo, et vidi quod hoc haberet faciem sicut homo, et loqueretur cum pueris et puellis super transtris, et lamberet manus eorum; et tunc pueri et puellae palpabant illos, et dabant illis edulia et opipara, et quoque pretiosa, ut holosericum ad vestes, lignum thyinum ad tabulas, purpuram ad decorationes, et coccinum ad infucationes.
[2] His visis, desiderabam scire quid illa repraesentabant, quia novi quod omnia quae in mundo spirituali apparent, sint correspondentiae, et repraesentent spiritualia quae affectionis et inde cogitationis sunt.
Et tunc loquebantur mecum e caelo, et dicebant, "Nosti ipse quid repraesentat navale, tum quid navigia, ut et quid pueri et puellae super illis; sed non scis quid testudines." Et dixerunt, "Testudines repraesentant illos e clero ibi, qui prorsus separant fidem a charitate et ejus bonis operibus, affirmantes apud se, quod plane non sit aliqua conjunctio, sed quod Spiritus Sanctus per fidem in Deum Patrem propter meritum Filii, intret apud hominem, ac purificet interiora ejus usque ad propriam voluntatem ejus, ex qua faciunt sicut planum ovale; et quod cum operatio Spiritus Sancti ad illud planum appropinquat, a parte ejus sinistra circum id deflectat se, et prorsus illud non tangat, et quod ita pars interior seu superior ingenii hominis sit pro Deo, et quod pars exterior seu inferior sit pro homine; et sic quod non appareat coram Deo aliquid quod homo facit, neque bonum neque malum; non bonum quia hoc est meritorium, et non malum quia hoc est malum; quoniam si illa apparerent coram Deo, homo ex utroque periret: et quia ita est, quod liceat homini velle, cogitare, loqui et facere, quicquid lubet, modo caveat sibi pro mundo."
[3] Quaesivi num etiam asserant, quod liceat cogitare de Deo, quod non omnipraesens et omniscius sit.
Dixerunt e caelo, quod hoc quoque illis liceat, quia Deus apud illum, qui fidem adeptus est, et per illam purificatus et justificatus, non videt ad aliquod cogitationis et voluntatis ejus, et quod usque retineat in sinu interiori aut regione superiori mentis suae seu ingenii Fidem, quam in actu ejus receperat, et quod ille actus quandoque possit redire, homine nesciente. "Haec sunt, quae repraesentat caput parvum, quod in anteriora corporis intrahunt, et quoque insertant capiti magno, dum loquuntur cum laicis; nam ex parvo capite non loquuntur cum illis, sed ex magno, quod antrorsum apparet sicut facie humana praeditum; et loquuntur cum illis ex Verbo de amore, de charitate, de bonis operibus, de praeceptis Decalogi, de paenitentia, et ex Verbo desumunt paene omnia quae ibi sunt de illis: sed tunc insertant caput parvum in magnum, ex quo intus apud se intelligunt, quod omnia illa non facienda sint propter Deum et salutem, sed modo propter bonum publicum et privatum. [4] Verum quia loquuntur de illis ex Verbo, imprimis de Evangelio, operatione Spiritus Sancti, et salvatione, suaviter et eleganter, ideo apparent auditoribus sicut homines pulchri, et prae reliquis in terrarum orbe sapientes: quare etiam vidisti, quod data illis essent a pueris et puellis sedentibus super transtris navigiorum opipara et pretiosa. Hi itaque sunt, quos repraesentates vidisti ut testudines. In mundo tuo parum dignoscuntur ab aliis, solum per id, quod credant se omnibus sapientiores esse, ac rideant alios, et quoque illos qui in simili doctrina quoad fidem sunt, sed non in illis arcanis: sigillum quoddam secum in veste ferunt, ex quo se faciunt ab aliis internosci."
[5] Dixit loquens cum me, "Non dicam tibi quid sentiunt de ceteris rebus fidei, ut quid de Electione, de Libero Arbitrio, de Baptismo, et de Sacra Cena, quae sunt talia, quae non evulgant, sed nos in caelo scimus. Verum, quia tales sunt in mundo, et post mortem non licet alicui loqui aliter quam cogitat, ideo quia tunc non possunt aliter quam loqui ex insaniis cogitationum suarum, reputantur ut insani, ac ejiciuntur e societatibus, et tandem demittuntur in puteum abyssi (de quo in Apocalypsi ix. 2), et fiunt spiritus corporei, et apparent sicut Aegyptiorum mumia; callus enim inductus est interioribus mentis eorum, quia in mundo etiam interposuerunt sepem. Societas infernalis ex illis est in confinio ad societatem infernalem ex Machiavellistis, ac intrant passim ab una in alteram, et vocant se sodales; sed exeunt, quia diversitas est, ex eo, quod aliquod religiosum de actu justificationis per fidem apud illos fuerit, sed non aliquod apud Machiavellistas."
[6] Postquam vidi illos ejectos ex societatibus, et collectos ut dejicerentur, vidi navigium in aere cum septem velis volans, et inibi naucleros et nautas indutos veste purpurea, habentes super pileis magnificas laurus, clamantes, "En nos in caelo; sumus doctores purpurati, et prae omnibus laureati, quia sumus capita sapientum ex omni clero in Europa."
Miratus sum quid hoc; et dictum est mihi quod essent imagines fastus, ac cogitationes ideales, quae vocantur phantasiae, ex illis, qui prius visi sunt ut testudines, et nunc ut insani ejecti e societatibus, et in unum collecti, ac starent simul in uno loco.
Et tunc desiderabam loqui cum illis, et accessi ad locum ubi stabant, et salutabam illos, et dicebam, "Estis vos qui separavistis interna hominum ab externis illorum, ac operationem Spiritus Sancti sicut in fide a cooperatione ejus cum homine extra fidem, et sic separavistis Deum ab homine. Annon vos ita non modo removistis ipsam charitatem et ejus opera a fide, sicut multi alii doctores e clero, sed etiam ipsam fidem quoad manifestationem ejus coram Deo ab homine? [7] Sed quaeso, num velitis, ut de illa re loquar vobiscum ex ratione vel num ex Scriptura Sacra."
Dixerunt, "Loquere primum ex ratione."
Et locutus sum, dicens, "Quomodo potest internum et externum apud hominem separari? Quis non ex communi perceptione videt, aut videre potest, quod omnia interiora hominis pergant et continuentur in exteriora, et usque in extrema ejus ut efficiant effectus suos, et operentur opera sua? Suntne interna propter externa, ut desinant in illa, et subsistant in illis, et sic existant, vix aliter quam sicut columna super stylobata sua? Potestis videre, quod nisi continuatio foret, et sic conjunctio, extrema dissolverentur, ac diffluerent sicut bullae in aere. Quis negare potest, quin interiores operationes Dei apud hominem sint myriades myriadum, de quibus homo nihil scit; et quid juvat illa scire, modo sciat extrema, in quibus cum sua cogitatione et voluntate cum Deo simul est? [8] Sed hoc illustrabitur per exemplum. Num scit homo interiores operationes loquelae suae; ut quomodo pulmo attrahit aerem, et illo implet vesiculas, bronchias, et lobos; quomodo illum aerem emittit in trachiam, et ibi vertit illum in sonum; quomodo sonus ille in glottide ope laryngis modificatur, et quomodo lingua dein articulat illum et labia articulationem complent, ut fiat loquela? Nonne omnes illae interiores operationes, de quibus homo nihil scit, sunt propter extremum, ut homo possit loqui? Remove aut separa unum ex internis illis a suo continuo cum extremis, num homo potuisset loqui plus quam stipes? [9] Sit adhuc exemplum. Binae manus sunt ultima hominis. Nonne interiora, quae illuc continuantur, sunt a capite per cervicem, tum per pectus, scapulas, brachia et ulnas; suntque innumeri musculares textus, innumerae phalanges fibrarum motricium, innumeri manipuli nervorum et vasorum sanguineorum, ac plures ginglymi ossium cum suis ligamentis et membranis; num homo aliquid de illis scit? et tamen operantur manus ejus ex omnibus et singulis illis. Suppone quod interiora illa circa poplitem manus se sinistrorsum aut dextrorsum reflecterent, et non per continuum intrarent; annon manus ab ulna decideret, ac sicut aliquod avulsum inanimatum putresceret? immo si vultis credere, foret sicut cum corpore, si homo decollaretur. Prorsus simile foret cum mente humana, ac cum binis ejus vitis, voluntate et intellectu, si Divinae operationes, quae fidei et charitatis sunt, desinerent in media via, et non usque ad hominem per continuum tenderent; sane foret tunc homo non modo brutum, sed putris [1]stipes: haec sunt secundum rationem. [10] Nunc si vultis audire, eadem etiam sunt secundum Scripturam Sacram. Annon Dominus dicit,
 
"Manete in Me, et Ego in vobis. ...Ego sum Vitis et vos palmites; qui manet in Me, et Ego in illo, hic fert fructum multum" (Joh. [2]xv. 4, 5).
 
Numne fructus sunt bona opera, quae Dominus facit per hominem, et homo ex se a Domino. Dominus etiam dicit,
 
Quod stet ad ostium et pulset, et quod ad illum qui aperit, ingrediatur, ac cenet cum illo et ille cum Ipso (Apoc. iii. 20).
Annon Dominus dat minas et talenta, ut homo negotietur cum illis, et lucretur, et quod sicut lucratur, det vitam aeternam? (Matth. xxv. 14-[3]30; Luc. xix. 13-26).
 
Tum (annon Dominus dicit),
 
Quod mercedem det cuivis secundum laborem in Vinea Ipsius? (Matth. xx. 1-17.)
 
Sed haec pauca sunt; possunt membranae impleri ex Verbo, de eo, quod homo facturus sit fructus sicut arbor, operaturus sit secundum praecepta, amaturus Deum et proximum, et plura. [11] Sed scio, quod propria intelligentia vestra cum illis quae ex Verbo sunt, non possit tale commune habere, quale est in se, quae tametsi loquimini, usque ideae vestrae pervertunt illa: et vos non potestis aliter, quia removetis omnia Dei ab homine quoad communicationem et inde conjunctionem: quid tunc superest, nisi etiam omnia cultus?"
Postea illi mihi visi sunt in luce caeli, quae detegit et manifestat qualis quisque est; et tunc non visi sicut prius in navigio in aere quasi in caelo, nec inibi purpurati quoad vestes, ac laureati quoad caput; sed in loco arenoso, in vestibus ex frustis, ac cincti retibus quasi piscatoriis circum lumbos, trans quae nuditates illorum apparebant: et tunc demissi sunt in Societatem, quae in confinio ad Machiavellistas erat.
 
   @1 stipes pro “stapes” @2 xv. pro “xvi.” @3 30 pro “34”
 
(2) 直訳
462. Quartum Memorabile:― 第四のメモリビリア――
 
Prospexi ad oram maritimam in mundo spirituali; 私は霊界の中で海岸を眺めた。
et vidi magnificum navale. また私は、壮大な港を見た。
Accessi, et introspexi, et ecce ibi navigia magna et parva, et in illis merces omnis generis, et super transtris sedentes pueri et puellae distribuentes volentibus. 私は近づいた、またのぞきこんだ、また見よ、そこに大きなまた小さな船(舟)、またそれらの中にすべての種類の商品、また腰掛け梁(横木)の上に座っている少年と少女たち、望む者に配っている。
Et dixerunt, "Exspectamus videre pulchras nostras Testudines (skòldpadda), quae jamjam e mari ad nos exsurgent." また、彼らは言った、「私たちは私たちの美しい海ガメ〔スウェーデン語?〕を見ることを期待している、それらがすぐに海から私たちに起こる」。
Et ecce vidi testudines parvas et magnas, super quarum conchis et squamis sedebant testudines infantes, quae spectabant ad insulas circum. また、見よ、私は小さなと大きな海ガメを見た、それらの甲羅とうろこの上に座っている幼児の海ガメ、それらは周囲の島々を眺めていた。
Testudines patres habebant bina capita, unum magnum circumductum concha simili conchae corporis illarum, unde rutilabant; 親のカメ(複数)は二つの頭を持っていた、一つ大きなもの(頭)それらの身体の甲羅に似た甲羅で取り巻かれていた、ここから赤く輝いた。
et alterum parvum, quale est testudinibus, quod retrahebant in anteriora corporis, et quoque insertabant modo inconspicuo capiti majori. またもう一つの小さなもの(頭)は、海ガメにあるようなものである、それを身体の前の部分の中に引き戻す、そしてまた目立たないように大きな頭に差し込んだ。
Sed tenebam oculos in magno capite rutilo, et vidi quod hoc haberet faciem sicut homo, et loqueretur cum pueris et puellis super transtris, et lamberet manus eorum; しかし、私は目を保った、赤く輝く大きな頭の中に、また私は見た、これが人間のような顔を持っていること、また腰掛け梁(横木)の上の少年と少女たち話している、また彼らの手をなめる。
et tunc pueri et puellae palpabant illos, et dabant illis edulia et opipara, et quoque pretiosa, ut holosericum ad vestes, lignum thyinum ad tabulas, purpuram ad decorationes, et coccinum ad infucationes. またその時、少年と少女たちがそれらを触った、またそれらに食糧とぜいたくなものを与えた、そしてまた貴重なものを、例えば、衣服のための純粋な絹から作られたもの、板のためのシトロン材の木、飾るための紫の染料(紫色の布)、また「染料のための緋色」。
[2] His visis, desiderabam scire quid illa repraesentabant, quia novi quod omnia quae in mundo spirituali apparent, sint correspondentiae, et repraesentent spiritualia quae affectionis et inde cogitationis sunt. [2] これらで見られて、私はそれらが何を表象するか願った、私は知っていたので、すべてのものは、それは霊界の中に見られる、対応(物)であること、また霊的なものを表象すること、それらは情愛とここから思考のものである。
Et tunc loquebantur mecum e caelo, et dicebant, "Nosti ipse quid repraesentat navale, tum quid navigia, ut et quid pueri et puellae super illis; またその時、天界から私に話された、また言った、「
sed non scis quid testudines." しかし、あなたは何が海ガメか知らない」。
Et dixerunt, "Testudines repraesentant illos e clero ibi, qui prorsus separant fidem a charitate et ejus bonis operibus, affirmantes apud se, quod plane non sit aliqua conjunctio, sed quod Spiritus Sanctus per fidem in Deum Patrem propter meritum Filii, intret apud hominem, ac purificet interiora ejus usque ad propriam voluntatem ejus, ex qua faciunt sicut planum ovale; また彼らは言った、「海ガメはそこに聖職者からの彼らを表象する、その者は信仰を仁愛とその善の働きから完全に分離する、自分自身に肯定して、明らかに何らかの結合がないこと、しかし、信仰によって聖霊が父なる神の中に、子の功績のために、人間のもとに入る、そして彼の内的なものを清める、彼のプロプリウムの意志までも、それ〔意志〕から長円形を平面のようにする。
et quod cum operatio Spiritus Sancti ad illud planum appropinquat, a parte ejus sinistra circum id deflectat se, et prorsus illud non tangat, et quod ita pars interior seu superior ingenii hominis sit pro Deo, et quod pars exterior seu inferior sit pro homine; また聖霊の働きがその平面に近づくとき、その左の周囲の部分からそれを(それ自体)曲げる(それる)、またまったくそれを触れない、またこのように人間の生来の内的なまたは高い部分は神のためのものであること、また外的なまたは低い部分は人間のためのものであること。
et sic quod non appareat coram Deo aliquid quod homo facit, neque bonum neque malum; またこのように神の前に何らかのものは見られないこと、人間が行なうもの、善も悪もない。
non bonum quia hoc est meritorium, et non malum quia hoc est malum; 善は、これは功績を求めるものであるので、また悪はこれは悪であるので。
quoniam si illa apparerent coram Deo, homo ex utroque periret: 〜であるので、もしそれらが神の前に見られるなら、人間は両側から滅びる。
et quia ita est, quod liceat homini velle, cogitare, loqui et facere, quicquid lubet, modo caveat sibi pro mundo." またそのようであるので、人間に欲すること、考えること、話しまた行なうことが許されること、好むどんなものでも、世のために(対して)自分自身を用心するかぎり。
 
◎前回の記事の最後の部分『天界の秘義』について次の注釈を追加します。
 
★このメモラビリアは『啓示された黙示録』875番の再録であり、ほぼ同一ですが、そこでは「私によって書かれた本」は『神の愛と知恵』と『神の摂理』です。
 
(なぜスヴェーデンボリは後になって書き変えたのでしょうか、また、このことからは、「メモラビリア」は霊界での「実体験」ではなく、一種の「創作」となってしまう恐れが生じます、すなわち、やや問題かなと感じます)
author:yasubee, category:原典講読『真教』第7章, 00:23
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原典講読『真のキリスト教』461 (直訳[7],[8]と訳文)
(2) 直訳
[7] Praeterea quid actio hominis nisi mens agens? [7] 加えて、人間の行動は何か? 心が行なうのでなければ。
quod enim mens vult et cogitat, hoc agit et loquitur per corpus suum organum; というのは、心が欲し、考えるものを、これをその身体の器官によって行ない、話すから。
quare dum mens ducitur a Domino, ducitur etiam actio et loquela; それゆえ、心が主により導かれる時、行動と話すこともまた導かれる。
ac actio et loquela ducuntur a Domino, cum creditur in Ipsum. そして行動と話すことは主により導かれる、その方が信じられるとき。
Nisi ita foret, dicite si potestis, cur Dominus in Verbo suo millenis in locis mandavit, ut homo amaturus sit proximum, operaturus sit bona charitatis, ac (facturus sit) fructus sicut arbor, ac facturus praecepta, et hoc et illud, ut salvetur; そのようでないなら、あなたがたは言え、もしできるなら、なぜ主はご自分のみことばの中で千を数える箇所の中で、命令したか、人間は隣人を愛すべきであること、仁愛の善を働くべきである、そして木のように実を(生み出すべきである)そして戒めを行なうべきである、またこれやそれを、救われるために。
tum cur dixit, quod homo secundum facta seu opera sua judicaretur, qui bona facit ad caelum et vitam, et qui mala ad infernum et mortem. なおまた、なぜ言われたのか? 人間は自分の行為または働きにしたがって裁かれること、善を行なう者は天界といのちへと、また悪を〔行なう〕ものは地獄と死へと。
Quomodo potuerat Dominus talia loqui, si omne, quod procedit ab homine, foret meritorium et inde malum? どのように主はこのようなことを話すことができたのか? 人間から発出するものが功績を求めるものとここから悪であったなら。
Sciatis itaque, quod si mens est charitas, etiam actio sit charitas; それで、あなたがたは知る(接続)、もし心が仁愛であるなら、行動もまた仁愛であること。
si autem mens est sola fides, quae etiam est fides separata a charitate spirituali, etiam actio sit illa fides." けれども、もし心が信仰のみであるなら、それは霊的な仁愛から分離した信仰でもある、行動もまたその信仰である」。
[8] His auditis, dixerunt sedentes sub lauru, "Comprehendimus quod juste locutus sis, sed usque non comprehendimus." [8] これらで聞いて、月桂樹の下に座っている者たちが言った、「私たちは把握する(理解する)、正しく、あなたが話したこと、しかし、それでも、私たちは把握しない(理解しない)」。
Quibus respondi, "Comprehenditis quod juste locutus sim ex communi perceptione quae est homini ex influxu lucis e caelo cum aliquod verum audit; 彼らに私は答えた、「あなたがたは把握する(理解する)、正しく、私が話したことを、全般的な知覚から、それは人間に天界からの光の流入からある、何らかの真理を聞くとき。
at non comprehenditis ex propria perceptione, quae est homini ex influxu lucis e mundo; しかし、あなたがたはプロプリウムの知覚から把握しない(理解しない)、それは人間に世からの光の流入からある。
binae illae perceptiones, nempe interna et externa, seu spiritualis et naturalis, unum faciunt apud sapientes: それらの二つの知覚は、すなわち、内なるものと外なるもの、または、霊的なものと自然的なもの、賢明な者のもとで一つとなっている。
vos quoque potestis illas unum facere, si spectatis ad Dominum, et removetis mala." あなたがたもまた、それらを一つにすることができる、もしあなたがたが主へ目を向け、また悪を遠ざけるなら。
Haec quia intellexerunt, desumpsi termites ex quadam vite, et porrexi illis, et dixi, "Num creditis quod hoc a me sit, vel a Domino?" これらを彼らは把握した(理解した)ので、私は、あるブドウの木から小枝を選び出した、また彼らに差し出した、また言った、「あなたがたは信じているかどうか、このことが私からであること、あるいは主から?」。
Et dixerunt, quod ex me a Domino; また、彼らは言った、主により私から〔である〕こと。
et ecce termites illi in manibus illorum extruserunt uvas. また見よ、その小枝は彼らの手の中でブドウの実を出した。
At cum recessi, vidi mensam cedrinam, super qua erat liber, sub olea virente, cujus truncum circumligabat vitis. しかし、私が去ったとき、私は(ヒマラヤ)の机を見た、その上に本があった、緑のオリーブの木の下に、〔その〕幹をブドウの木が巻きつけた。
Aspexi, et ecce erat liber per me scriptus, vocatus Arcana Caelestia; 私は見つめた、また見よ、私によって書かれた本があった、『天界の秘義』と呼ばれる。
et dixi, quod in illo libro plene ostensum sit, quod homo sit organum recipiens vitae, et non vita; また、私ったその十分されていること、人間はいのちのれる器官(有機体)であること、またいのちでない。
et quod haec non possit creari, et sic creata inesse homini, plus quam lux oculo. またこれいのち創造れることができないこと、またこのように創造されたものが人間に内在すること、光が目に〔内在すること〕以上にさらに。
 
@1 19 pro “9” 注1 9」の代わりに19
 
(3) 訳文
461. 第三のメモラビリア――
  かつて霊の中で私は霊界の中の南の地方に、またそこのある楽園に進んだ。そして私は、これが今まで観察した他のものにまさることを見た。
 その理由は、庭園が知性を意味し、そして他の者よりも知性を賦与されているすべての者は南の中に移されるからである。
アダムとその妻がいたエデンの園は他のものを意味しない。それゆえ、そこから追放されたことは、知性から、そしてこのようにまたいのちの発達から〔追放されたこと〕を含んでいる。
この南の庭園の中の私が歩いている時、私は、月桂樹の下に座って、イチジクの実を食べている者を認めた。彼らへと私は去った〔近づいた〕、また私は彼らからイチジクの実を求め、彼らは与えた。
 見よ、私の手の中のイチジクの実はブドウの実になった。
そのことを私が驚いたとき、私の近くに座っていた天使の霊が私に言った、「あなたの手の中のイチジクの実はブドウの実になったのは、イチジク(の実)は対応から仁愛の善を、またここから自然的なものの中の信仰を、すなわち、外なる人〔の中の〕、そしてブドウ(の実)は、仁愛の善を、またここから霊的なものの中の信仰を、すなわち、内なる人〔の中の信仰を〕意味するからである。また、あなたが霊的なものを愛するので、それゆえ、そのようにあなたに生じた。というのは、私たちの世界の中で、すべてのものは対応にしたがって生じ、存在するようにな、そしてまた、変化するからである」。
 [2] すぐさま、その時、私に、どのように人間は神により善を行なうことができるのか、またそれでも完全に自分自身からのように行なうことができるのか知ろうとする熱烈なものが出てきた。
それゆえ、私はイチジクの実を食べている者に、どのように彼らはそのことを把握しているか質問した。
これらの者は、そのことを、神がそれを人間の中で内的に、そして人間によって、彼がそのことを知らない時に働くこと以外に異なって把握することができないことを言った。もし、人間がそのことを気づいている、またこのように行なうなら、単に現われるものでないなら善を行なわないからであり、それは内的に悪である。「というのは、人間から発出するすべてのものは、彼のプロプリウムから発出し、またこれは出生から悪であるからである。
どのようにその時、神からの善が、また人間からの悪が結合されること、またこのように結合したものが行動の中に発出することができるのか?。
そして、救いの事柄の中で人間のプロプリウムは絶えず功績を吹き込んでいる。またどれだけこのことを行なうか〔によって〕それだけ主ご自身の功績を取り去り、それは最大の不正と不敬である。 一言でいえば、もし、神が人間の中で働き、人間の中で欲することまたここから行なう善が流入するなら、その善はすべての点で不潔にされ、そしてまた冒涜され、それでも神は決して許さない。
確かに、人間は、自分自身を通して行ない、考えることができる善を神からであること、またそれを神の善と呼ぶことができる。しかしそれでも、そのこと〔がそのよう〕である〔ことを〕、私たちは把握しない」。
 [3] しかし、その時、私は心を開き、言った、「あなたがたは、あ外観から考えているので把握していない、外観から確信した思考は欺きである。
あなたがたは、人間が意志し、考え、またここから行ない、話すすべてのものはが自分自身の中にあること、またしたがって自分自身から〔のものであると〕信じているので、外観とここからの欺きがあなたがたにある。そのときそれでも、流入するものを受け入れる状態以外に、それらの中に彼のものは何もない。
人間は自分自身の中にいのちがない、しかし、いのちの受け入れる器官である。
 「ヨハネ福音書」にもまた言われるように、主は自分自身の中にいのちがある―― 
 
 「父がご自分自身の中にいのちを持つように、そのように子もまたご自分自身の中にいのちを持つことを与えた」(5:26、ほかに他の箇所に、例えばヨハネ11:25,14:6, 19)
 
 [4]
いのちをつくる二つのもの、愛と知恵がある。または、愛の善と知恵の真理と同じものである。これらは神から流入し、また人間により、彼のものであるかのように受け入れられる。またそのように感じられるので、人間から発出するものも、彼の〔ものであるか〕のように〔感じられる〕。
人間に流入し、働きかけ、このように受け入られ、そしてとどまるそのように、人間により感じられることは、主により与えられている。
しかし、すべての悪もまた、神からでなく、しかし、地獄から流入し、これは快さとともに受け入れられる、人間はこのような器官に生まれているからであり、それゆえ、悔い改めによって、また一緒に、主への信仰によって生じ、人間から遠ざけられた悪がどれだけか、それ以上に、神から善の多くのものを受け入れない。
 [5] 知恵、仁愛と信仰は、または一般的ない方で、愛と仁愛の善は、そして知恵と信仰の真理は、流入し、また流入するものは、人間の中で完全に彼の〔もの〕のように、またここから彼の〔もの〕のように発出するもののように見えることが、聴覚で、嗅覚で、味覚で、また触覚で明らかに見られることができる。それらの感覚器官感じられるすべてのものは、外から流入し、それらの中に、同様、内部感覚器官、単なる相違とともに感じられる、後者は見えないものの流入するけれども前者は見えるものの流入する
 一言でいえば、人間からのいのちのれる器官であるしたがって、悪かられるかぎり流入する器官である
 悪かられることができることは、主がそれぞれの人間えている、意志することと理解することをえているからであるまたそれぞれの人間意志から理解力(知性)にしたがってすなわち、同じことであるが〕、★(以下訳れです)でも意志自由から、理解力理性にしたがってなうこれが
 そのことによって、主人間自分自身との結合状態こしまたこのことの改心させ、再生させまた
 [6] 流入するいのちは、主から発出するいのちでありそのいのちは霊、みことばの聖霊ともばれるそれについてもまた、照らすまたかすそれどころか、彼くとわれるしかしこのいのちはによってこされた組織にしたがって多様にされ、変えられる
さらにまたあなたがたは知ることができる、愛と仁愛のすべての善は、また知恵と信仰のすべての真理は流入すること、そのことから、考える者は、このようなものが人間に創造から内在することを、最後に異なって考えることができない、神がご自分を人間に注いだこと以外に、またこのように人間は部分に関して神になったこと。またそれでも、このことを信念から考える者は、悪魔になり、また私たちのもとで死体のように悪臭を放つ。
 [7] 加えて、心が行なうのでなければ人間の行動は何か? というのは、心が欲し、考えるものを、これをその身体の器官によって行ない、話すから。それゆえ、心が主により導かれる時、行動と話すこともまた導かれる。そして主が信じられるとき、行動と話すことはその方により導かれる。
 そのようでないなら、あなたがたは、もしできるなら、なぜ主はご自分のみことばの中で千を数える箇所の中で、命令したか言え、人間は隣人を愛すべきであること、仁愛の善を働くべきである、そして木のように実を(生み出すべきである)そして戒めを行なうべきである、またこれやそれを、救われるために。なおまた、人間は自分の行為または働きにしたがって善を行なう者は天界といのちへ、また悪を〔行なう〕ものは地獄と死へと裁かれると、なぜ言われたのか? 
人間から発出するものが功績を求めるものとここから悪であったなら、どのようにして主はこのようなことを話すことができたのか? 。
 それで、あなたがたは、もし心が仁愛であるなら、行動もまた仁愛であることを知らなければならない。けれども、もし心が信仰のみであるなら、それは霊的な仁愛から分離した信仰でもある、行動もまたその信仰である」。
 [8] これらを聞いて、月桂樹の下に座っている者たちが言った、「私たちは、正しく、あなたが話したことを把握する、しかし、それでも、私たちは把握しない」。
 彼らに私は答えた、「あなたがたは、正しく、私が話したことを、全般的な知覚から把握している、その知覚は何らかの真理を聞くとき天界からの光の流入から人間にある。しかし、あなたがたはプロプリウムの知覚から把握しない、それは人間に世からの光の流入からある。それらの二つ、すなわち、内なるものと外なるもの、または、霊的なものと自然的なものの知覚は、賢明な者のもとで一つとなっている。あなたがたもまた、それらを一つにすることができる、もしあなたがたが主へ目を向け、また悪を遠ざけるなら。
 これらを彼らは把握したので、私は、ブドウの木から小枝を選び出し、彼らに差し出し、言った、「あなたがたは、このことが私から、あるいは主からであることを信じているのか?」
 また、彼らは言った、主により私から〔である〕こと。すると見よ、その小枝は彼らの手の中でブドウの実を出した。
しかし、私が去ったとき、私は幹のブドウの木が巻きついていた緑のオリーブの木の下に、の机を、その上に本があるのを見た。
 私は見つめた、見よ、私によって書かれた『天界の秘義』と呼ばれる本があった。また、私その十分されていること、人間はいのちのれる器官であり、いのちでないこと、またこれいのち、光が目に〔内在することができない〕以上にさらに、創造れ、このように創造されたものが人間に内在することができないことった
author:yasubee, category:原典講読『真教』第7章, 00:41
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原典講読『真のキリスト教』461 (直訳[5],[6])
(2) 直訳
 [5] Quod amor et sapientia, charitas et fides, seu communius loquendo, bonum amoris et charitatis, ac verum sapientiae et fidei, influant, et quod quae influunt, appareant in homine prorsus sicut ejus, et inde procedant sicut ejus, manifeste videri potest ex visu, auditu, odoratu, gustu, et tactu; [5] 知恵、仁愛と信仰は、または一般的な(普通の)い方で、愛と仁愛の善は、そして知恵と信仰の真理は、流入する、また流入するものは、人間の中で完全に彼の〔もの〕のように見える、またここから彼の〔もの〕のように発出することが、明らかに見られることができる、聴覚で、嗅覚で、味覚で、また触覚で。
omnia quae in illorum sensuum organis sentiuntur, influunt ab extra, et sentiuntur in illis; すべてのものはそれらはそれらの感覚器官感じられる、外から流入する、またそれらの中に感じられる。
similiter in sensuum internorum organis; 同様に、内部の感覚の器官の中で。
cum sola differentia, quod in haec influant spiritualia quae non apparent, in illa autem naturalia quae apparent. 単なる相違とともに、これら〔後者〕の中に流入する、それら見えないこと、けれどもそれら〔前者〕の中に流入するそれらは見える。
Verbo, homo est organum recipiens vitae a Deo; 一言でいえば、人間は神からのいのちの受け入れる器官(有機体)である。
consequenter est recipiens boni, quantum desistit a malo. したがって、善の流入するものである、悪から離れるかぎり。
Posse desistere a malo, dat Dominus cuivis homini, quia dat velle et intelligere; 悪から離れることができることは、主がそれぞれの人間に与えている、意志することと理解することを与えているので。
et quicquid homo ex voluntate secundum intellectum, seu quod idem, quicquid ex libero voluntatis secundum rationem intellectus agit, hoc permanet. またそれぞれの人間は意志から理解力(知性)にしたがって、すなわち、おなじこと〔であるが〕、
Per id Dominus inducit homini statum conjunctionis Secum, et in hoc illum reformat, regenerat, et salvat. そのことによって、主は人間に自分自身との結合の状態を引き起こす、またこのことの中で彼を改心させる、再生させる、また救う。
[6.] Vita, quae influit, est vita procedens a Domino, quae vita etiam vocatur Spiritus Dei, in Verbo Spiritus Sanctus, de quo etiam dicitur, quod illustret et vivificet, immo quod operetur in illo; [6] いのちは、それは流入する、主から発出するいのちである、そのいのちは神の霊とも呼ばれる、みことばの中で聖霊と、それについてもまた言われる、照らす、また生かす、それどころか、彼の中で働く。
sed vita haec variatur et modificatur secundum Organizationem inductam per amorem. しかし、このいのちは愛によって引き起こされた組織(構成)にしたがって変えられ(多様にされ)、少し変えられる(修正される)
Potestis etiam scire quod omne bonum amoris et charitatis, et omne verum sapientiae et fidei influant, et non sint in homine, ex eo, quod qui cogitat quod tale homini insit a creatione, denique non possit aliter cogitare quam quod Deus infuderit Se homini et sic quod homines quoad partem forent Dii; さらにまたあなたがたは知ることができる、愛と仁愛のすべての善は、また知恵と信仰のすべての真理は流入すること、そのことから、考える者は、このようなものが人間に創造から内在することを、最後に異なって考えることができない、神がご自分を人間に注いだこと以外に、またこのように人間は部分に関して神になったこと。
et tamen qui hoc ex fide cogitant, fiunt diaboli, et apud nos putent sicut cadavera. またそれでも、このことを信念から考える者は、悪魔になる、また私たちのもとで死体のように悪臭を放つ。
 
author:yasubee, category:原典講読『真教』第7章, 23:46
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原典講読『真のキリスト教』461 (原文と直訳[4]まで)
(1) 原文
461. Tertium Memorabile:
 
Quondam in spiritu provectus sum in plagam meridionalem in mundo spirituali, et in quendam paradisum ibi; ac vidi quod hic excelleret reliquis, quos hactenus lustravi. Causa erat, quia hortus significat intelligentiam, ac in meridiem transferuntur omnes, qui prae aliis intelligentia pollent. Hortus Edenis, in quo Adam cum uxore sua fuit, nec aliud significat; quare quod expulsi ab illo fuerint, involvit, quod ab intelligentia, at sic quoque ab integritate vitae. Dum in meridionali hoc paradiso ambularem, animadverti aliquos sedentes sub quadam lauru comedentes ficus. Ad illos secessi, et petivi ab illis ficus, et dederunt; et ecce ficus in manu mea factae sunt uvae.
Quod cum miratus sum, dixit mihi Spiritus angelicus, qui juxta me stetit, "Ficus in manu tua factae sunt uvae, quia ficus ex correspondentia significant bona charitatis et inde fidei in naturali seu externo homine, ac uvae bona charitatis et inde fidei in spirituali seu interno homine: et quia amas spiritualia, ideo ita factum est tibi; in nostro enim mundo omnia fiunt et existunt, et quoque mutantur, secundum correspondentias."
[2.] Illico tunc supervenit me avidum sciendi quomodo homo potest facere bonum a Deo, et tamen prorsus ut a se; quare interrogavi comedentes ficus, quomodo illi id comprehendunt. Hi dixerunt, quod non possint id aliter comprehendere, quam quod Deus operetur id intus in homine, ac per hominem quando ille id nescit; quoniam si homo id consciret, et sic faceret, non faceret bonum nisi modo apparens, quod intus est malum; "omne enim quod ab homine procedit, procedit a proprio ejus, et hoc a nativitate malum est. Quomodo potest tunc bonum a Deo, et malum ab homine conjungi, et sic conjunctim procedere in actum? Ac proprium hominis in rebus salutis continue spirat meritum; et quantum hoc facit, tantum derogat Domino Ipsius meritum, quod est summa injustitia et impietas. Verbo, si bonum, quod Deus in homine operatur, in hominis velle et inde facere influeret, id bonum omnino conspurcaretur, et quoque profanaretur, quod tamen Deus nusquam permittit. Potest quidem homo bonum quod facit, cogitare quod sit a Deo, et id vocare bonum Dei per se; at usque, quod sit, non comprehendimus."
[3.] Sed tunc aperui mentem, et dixi, "Non comprehenditis, quia cogitatis ex apparentia, et cogitatio ex apparentia confirmata est fallacia. Apparentia et inde fallacia vobis est, quia creditis, quod omnia, quae homo vult et cogitat, et inde facit et loquitur, sint in ipso, et consequenter ex ipso; cum tamen nihil eorum est in illo, praeter statum recipiendi quod influit. Homo non est vita in se, sed est organum recipiens vitae. Dominus est Vita in Se, ut quoque dicit apud Johannem:
 
'Quemadmodum Pater habet Vitam in Se Ipso, ita quoque dedit Filio Vitam habere in Se Ipso'" (v. 26; praeter alibi, ut Joh. xi. 25; xiv. 6, [1]19).
 
[4.] Sunt duo quae faciunt vitam, amor et sapientia; seu quod idem, bonum amoris et verum sapientiae. Haec influunt a Deo, et recipiuntur ab homine sicut forent ejus; et quia sentiuntur ita, etiam procedunt ab homine sicut ejus. Quod ita sentiantur ab homine, datum est a Domino, ut id quod influit, afficiat illum, et sic recipiatur ac remaneat. Sed quia omne malum etiam influit, non a Deo, sed ab inferno, et hoc recipitur cum jucunditate, quia homo tale organum est natus, quare non plus boni recipitur a Deo, quam quantum mali removetur ab homine ut ab illo quod fit per paenitentiam et simul per fidem in Dominum. [5] Quod amor et sapientia, charitas et fides, seu communius loquendo, bonum amoris et charitatis, ac verum sapientiae et fidei, influant, et quod quae influunt, appareant in homine prorsus sicut ejus, et inde procedant sicut ejus, manifeste videri potest ex visu, auditu, odoratu, gustu, et tactu; omnia quae in illorum sensuum organis sentiuntur, influunt ab extra, et sentiuntur in illis; similiter in sensuum internorum organis; cum sola differentia, quod in haec influant spiritualia quae non apparent, in illa autem naturalia quae apparent. Verbo, homo est organum recipiens vitae a Deo; consequenter est recipiens boni, quantum desistit a malo. Posse desistere a malo, dat Dominus cuivis homini, quia dat velle et intelligere; et quicquid homo ex voluntate secundum intellectum, seu quod idem, quicquid ex libero voluntatis secundum rationem intellectus agit, hoc permanet. Per id Dominus inducit homini statum conjunctionis Secum, et in hoc illum reformat, regenerat, et salvat. [6.] Vita, quae influit, est vita procedens a Domino, quae vita etiam vocatur Spiritus Dei, in Verbo Spiritus Sanctus, de quo etiam dicitur, quod illustret et vivificet, immo quod operetur in illo; sed vita haec variatur et modificatur secundum Organizationem inductam per amorem. Potestis etiam scire quod omne bonum amoris et charitatis, et omne verum sapientiae et fidei influant, et non sint in homine, ex eo, quod qui cogitat quod tale homini insit a creatione, denique non possit aliter cogitare quam quod Deus infuderit Se homini et sic quod homines quoad partem forent Dii; et tamen qui hoc ex fide cogitant, fiunt diaboli, et apud nos putent sicut cadavera. [7] Praeterea quid actio hominis nisi mens agens? quod enim mens vult et cogitat, hoc agit et loquitur per corpus suum organum; quare dum mens ducitur a Domino, ducitur etiam actio et loquela; ac actio et loquela ducuntur a Domino, cum creditur in Ipsum. Nisi ita foret, dicite si potestis, cur Dominus in Verbo suo millenis in locis mandavit, ut homo amaturus sit proximum, operaturus sit bona charitatis, ac (facturus sit) fructus sicut arbor, ac facturus praecepta, et hoc et illud, ut salvetur; tum cur dixit, quod homo secundum facta seu opera sua judicaretur, qui bona facit ad caelum et vitam, et qui mala ad infernum et mortem. Quomodo potuerat Dominus talia loqui, si omne, quod procedit ab homine, foret meritorium et inde malum? Sciatis itaque, quod si mens est charitas, etiam actio sit charitas; si autem mens est sola fides, quae etiam est fides separata a charitate spirituali, etiam actio sit illa fides."
[8] His auditis, dixerunt sedentes sub lauru, "Comprehendimus quod juste locutus sis, sed usque non comprehendimus."
Quibus respondi, "Comprehenditis quod juste locutus sim ex communi perceptione quae est homini ex influxu lucis e caelo cum aliquod verum audit; at non comprehenditis ex propria perceptione, quae est homini ex influxu lucis e mundo; binae illae perceptiones, nempe interna et externa, seu spiritualis et naturalis, unum faciunt apud sapientes: vos quoque potestis illas unum facere, si spectatis ad Dominum, et removetis mala."
Haec quia intellexerunt, desumpsi termites ex quadam vite, et porrexi illis, et dixi, "Num creditis quod hoc a me sit, vel a Domino?"
Et dixerunt, quod ex me a Domino; et ecce termites illi in manibus illorum extruserunt uvas.
At cum recessi, vidi mensam cedrinam, super qua erat liber, sub olea virente, cujus truncum circumligabat vitis. Aspexi, et ecce erat liber per me scriptus, vocatus Arcana Caelestia; et dixi, quod in illo libro plene ostensum sit, quod homo sit organum recipiens vitae, et non vita; et quod haec non possit creari, et sic creata inesse homini, plus quam lux oculo.
 
   @1 19 pro “9”
 
(2) 直訳
461. Tertium Memorabile: 第三のメモラビリア――
 Quondam in spiritu provectus sum in plagam meridionalem in mundo spirituali, et in quendam paradisum ibi; かつて私は霊界の中の南の地方の中に進んだ、またそこに、ある楽園の中に。
ac vidi quod hic excelleret reliquis, quos hactenus lustravi. そしてこれがのものにまさること、それらを今まで私は調べた(観察した)
Causa erat, quia hortus significat intelligentiam, ac in meridiem transferuntur omnes, qui prae aliis intelligentia pollent. 理由があった、庭園知性意味したからである、そしてすべての者は南の中に移される、その者は他の者よりも知性を賦与されている。
Hortus Edenis, in quo Adam cum uxore sua fuit, nec aliud significat; エデンの園は(もまた)、その中にアダムは自分の妻といた、他のものを意味しない。
quare quod expulsi ab illo fuerint, involvit, quod ab intelligentia, at sic quoque ab integritate vitae. それゆえ、そこから追放された(expeiio)ことは、含んだ、知性から、そしてこのようにまたいのちの発達から〔追放されたこと〕。
Dum in meridionali hoc paradiso ambularem, animadverti aliquos sedentes sub quadam lauru comedentes ficus. この南の庭園の中の私が歩いている時、私はある者を認めた、ある月桂樹の下に座っている者、イチジクの実を食べている者を。
Ad illos secessi, et petivi ab illis ficus, et dederunt; 彼らへと私は去った☆、また私は彼らからイチジクの実を求めた、また彼らは与えた。
secedoが使われていますが、別の語のほうがよいでしょう。
et ecce ficus in manu mea factae sunt uvae. また見よ、私の手の中のイチジクの実はブドウの実になった。
Quod cum miratus sum, dixit mihi Spiritus angelicus, qui juxta me stetit, "Ficus in manu tua factae sunt uvae, quia ficus ex correspondentia significant bona charitatis et inde fidei in naturali seu externo homine, ac uvae bona charitatis et inde fidei in spirituali seu interno homine: そのことを私が驚いたとき、私に天使の霊が言った、その者は私の近くに座っていた、「あなたの手の中のイチジクの実はブドウの実になった、イチジク(の実)は対応から仁愛の善を意味するからである、またここから自然的なものの中の信仰、すなわち、外なる人〔の中の〕、そしてブドウ(の実)は、仁愛の善を、またここから霊的なものの中の信仰、すなわち、内なる人〔の中の〕。
et quia amas spiritualia, ideo ita factum est tibi; また、あなたが霊的なものを愛するので、それゆえ、そのようにあなたに生じた。
in nostro enim mundo omnia fiunt et existunt, et quoque mutantur, secundum correspondentias." というのは、私たちの世界の中で、すべてのものは生じ、存在するようになるから、そしてまた、変化する、対応にしたがって。
[2.] Illico tunc supervenit me avidum sciendi quomodo homo potest facere bonum a Deo, et tamen prorsus ut a se; [2] すぐさま、その時、私に知ろうとする熱烈なものが出てきた、どのように人間は神により善を行なうことができるのか、またそれでも完全に自分自身からのように。
quare interrogavi comedentes ficus, quomodo illi id comprehendunt. それゆえ、私はイチジクの実を食べている者に質問した、どのように彼らはそのことを把握(理解)しているか。
Hi dixerunt, quod non possint id aliter comprehendere, quam quod Deus operetur id intus in homine, ac per hominem quando ille id nescit; これらの者は言った、そのことを異なって把握(理解)することができないこと、神がそれを人間の中で内的に働くこと以外に、そして人間によって、彼がそのことを知らない時に。
quoniam si homo id consciret, et sic faceret, non faceret bonum nisi modo apparens, quod intus est malum; もし、人間がそのことを気づいている、またこのように行なうなら、善を行なわないからである、単に現われるものでないなら、それは内的に悪である。
"omne enim quod ab homine procedit, procedit a proprio ejus, et hoc a nativitate malum est. 「というのは、すべてのものは、それは人間から発出する、彼のプロプリウムから発出するから、またこれは出生から悪である。
Quomodo potest tunc bonum a Deo, et malum ab homine conjungi, et sic conjunctim procedere in actum? どのようにその時、神からの善が、また人間からの悪が結合されることができるのか? またこのように結合したものが行動の中に発出すること。
Ac proprium hominis in rebus salutis continue spirat meritum; そして、救いの事柄の中で人間のプロプリウムは絶えず功績を吹き込んでいる。
et quantum hoc facit, tantum derogat Domino Ipsius meritum, quod est summa injustitia et impietas. またどれだけこのことを行なうか〔によって〕それだけ主ご自身の功績を取り去る、それは最大の不正と不敬である。
Verbo, si bonum, quod Deus in homine operatur, in hominis velle et inde facere influeret, id bonum omnino conspurcaretur, et quoque profanaretur, quod tamen Deus nusquam permittit. 一言でいえば、もし善が、それを神は人間の中で働く、人間の中で欲することまたここから行なうこと、流入するなら、その善はすべての点で不潔にされる、そしてまた冒涜される、それでも神は決して許さないこと。
Potest quidem homo bonum quod facit, cogitare quod sit a Deo, et id vocare bonum Dei per se; 確かに、人間は善を、それを行なう、考えることができる、それが神からであること、またそれを神の善と呼ぶこと、自分自身を通しての。
at usque, quod sit, non comprehendimus." しかしそれでも、そのこと〔がそのよう〕である〔ことを〕、私たちは把握(理解)しない」。
[3.] Sed tunc aperui mentem, et dixi, "Non comprehenditis, quia cogitatis ex apparentia, et cogitatio ex apparentia confirmata est fallacia. [3] しかし、その時、私は心を開いた、また私は言った、「あなたがたは把握(理解)していない、あなたがは外観から考えているので、また外観から確信した思考は欺きである。
Apparentia et inde fallacia vobis est, quia creditis, quod omnia, quae homo vult et cogitat, et inde facit et loquitur, sint in ipso, et consequenter ex ipso; 外観とここからの欺きがあなたがたにある、あなたがたは信じているので、すべてのものは、それらを人間が意志し、考える、またここから行ない、話す、自分自身の中にあること、またしたがって自分自身から。
cum tamen nihil eorum est in illo, praeter statum recipiendi quod influit. そのときそれでも、それらの中に彼の(もの)何もない、流入するものを受け入れる状態以外に。
Homo non est vita in se, sed est organum recipiens vitae. 人間は自分自身の中に(本質的に)いのちがない、しかし、いのちの受け入れる器官(有機体)である。
Dominus est Vita in Se, ut quoque dicit apud Johannem: 主は自分自身の中に(本質的に)いのちがある、「ヨハネ(福音書)」のものとにもまた言うように―― 
'Quemadmodum Pater habet Vitam in Se Ipso, ita quoque dedit Filio Vitam habere in Se Ipso'" (v. 26; praeter alibi, ut Joh. xi. 25; xiv. 6, [1]19). 「父がご自分自身の中にいのちを持つように、そのように子もまたご自分自身の中にいのちを持つことを与えた」(5:26、ほかに他の箇所に、例えばヨハネ11:25,14:6, 19) 
[4.] Sunt duo quae faciunt vitam, amor et sapientia; [4] 二つのものがある、それらはいのちをつくる、愛と知恵である。
seu quod idem, bonum amoris et verum sapientiae. または同じもの〔である〕こと、愛の善と知恵の真理。
Haec influunt a Deo, et recipiuntur ab homine sicut forent ejus; これらは神から流入する、また人間により受け入れられる、彼の〔もので〕あったように。
et quia sentiuntur ita, etiam procedunt ab homine sicut ejus. またそのように感じられるので、人間から発出する、彼の〔ものであるか〕のように。
Quod ita sentiantur ab homine, datum est a Domino, ut id quod influit, afficiat illum, et sic recipiatur ac remaneat. そのように人間により感じられることは、主により与えられている、そのことが、それは流入する、彼に働きかけるように、またこのように受け入られる、そしてとどまる。
Sed quia omne malum etiam influit, non a Deo, sed ab inferno, et hoc recipitur cum jucunditate, quia homo tale organum est natus, quare non plus boni recipitur a Deo, quam quantum mali removetur ab homine ut ab illo quod fit per paenitentiam et simul per fidem in Dominum. しかし、すべての悪もまた流入する、神からでなく、しかし、地獄から、またこれは快さとともに受け入れられる、人間はこのような器官(有機体)に生まれているので、それゆえ、神から善の多くのものを受け入れない、人間から取り去られた(遠ざけられた)悪のどれだけのもの(量)以上に、それからのように、悔い改めによって生じるもの、また一緒に、主への信仰によって。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第7章, 00:12
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原典講読『真のキリスト教』460
(1) 原文
460. Secundum Memorabile:
 
Quondam cum circumspexi in mundo spirituali, audivi sicut stridorem dentium, et quoque sicut pulsatile, et illis intermixtum sicut raucum, et quaesivi quid illa.
Et dixerunt angeli qui apud me erant, "Sunt collegia, quae a nobis vocantur diversoria, ubi inter se disceptant; disceptationes illorum ita audiuntur e longinquo, sed prope non audiuntur nisi disceptationes."
Accessi, et vidi domunculas contextas ex juncis luto conglutinatis; et volui inspicere per fenestram, sed non erat; non enim licuit intrare per januam, quia sic lux e caelo influeret, et confunderet. At subito tunc facta est fenestra a dextro latere, et tunc audivi conquestos quod in tenebris essent; sed mox facta est fenestra a latere sinistro, clausa fenestra a latere dextro, et tunc paullatim discussae sunt tenebrae, et visi sibi in sua luce: et post haec mihi datum est intrare per januam, et audire.
Erat mensa in medio, et scamna circum circa, omnes tamen mihi visi sunt super scamnis stare, et acriter inter se disputare de Fide et Charitate; ab una parte, quod fides esset essentiale ecclesiae, ab altera quod charitas esset.
Illi qui fecerunt fidem essentiale, dixerunt, "Annon fide agimus cum Deo, et charitate cum homine? estne inde fides caelestis, et charitas terrestris? annon per caelestia salvamur, et non per terrestria? Tum, annon Deus potest dare fidem e caelo, quia est caelestis, et annon homo sibi daturus est charitatem, quia haec est terrestris? et quod homo sibi dat, hoc non est ecclesiae, et ideo non salvat. Num sic aliquis potest ex operibus, quae vocantur charitatis, coram Deo justificari? Credite nobis, quod per fidem solam non modo justificemur, sed etiam sanctificemur, si non fides per meritoria, quae sunt ex operibus charitatis, inquinatur:" praeter plura.
[2.] At illi qui charitatem faciebant essentiale ecclesiae, acriter refellebant illa, dicendo, quod charitas salvet, et non fides. "Annon Deus caros habet omnes, et bonum vult omnibus? Quomodo potest Deus hoc facere nisi per homines? Num Deus solum dat loqui cum hominibus quae fidei sunt, et non dat facere hominibus quae charitatis sunt? Videtisne, quod absurde locuti sitis de charitate, quod sit terrestris? Charitas est caelestis; et quia vos non facitis bonum charitatis, est fides vestra terrestris. Quomodo accipitis fidem vestram, nisi sicut truncus aut lapis? Dicitis `Per auditum Verbi;' at quomodo potest Verbum modo auditum operari? et quomodo in truncum aut lapidem? Forte vivificamini vobis prorsus insciis; sed quae vivificatio, nisi quod possitis loqui, quod sola Fides justificet et salvet: at quid fides, et quae fides salvans, non scitis."
[3.] Sed tunc surrexit unus, qui ab angelo mecum loquente vocabatur syncretista. Hic sumpsit capitium, et posuit super mensa, sed illud subito reposuit super capite, quia calvus erat. Ille dixit, "Audite; erratis omnes; verum est, quod fides sit spiritualis, et charitas moralis, sed usque [1]conjungentur, et conjunguntur per Verbum, et tunc per Spiritum Sanctum, et per effectum, qui quidem vocari potest obedientia, sed in qua homo non aliquam partem habet; quia quando infertur fides, homo non scit plus quam statua. De his mecum diu cogitavi, et inveni tandem, quod homo a Deo possit accipere fidem quae spiritualis sit, sed quod non possit, moveri a Deo ad charitatem quae sit spiritualis, plus quam truncus."
[4.] His dictis adplaudebant qui in sola fide erant, sed explodebant qui in charitate; et hi ex indignatione dicebant, "Audi socie, tu non scis quod sit vita moralis spiritualis, et quod sit vita moralis mere naturalis; vita moralis spiritualis apud illos, qui bonum faciunt a Deo, et usque sicut a se, ac vita moralis mere naturalis apud illos, qui bonum faciunt ex inferno, et tamen usque sicut a se."
[5.] Dictum est, quod disceptatio audita sit sicut stridor dentium, et sicut pulsatile, quibus intermixtum erat raucum. Disceptatio audita sicut stridor dentium, erat ab illis qui fidem fecerunt unicum essentiale ecclesiae; ac pulsatile erat ab illis qui charitatem fecerunt unicum essentiale ecclesiae; et raucum intermixtum erat a syncretista. Quod soni illorum ita auditi sint a longinquo, erat causa, quia omnes illi in mundo disceptarunt, et non aliquod malum fugerunt, et ideo non aliquod bonum ex prosapia spirituali fecerunt; et quoque prorsus nesciverunt, quod omne fidei sit verum, et omne charitatis bonum, et quod verum absque bono non sit verum spiritu, et quod bonum absque vero non [2]sit bonum spiritu, et quod sic unum faciat alterum.
 
   @1 conjungetur pro “conjunguntur:sic exemplum Auctoris; sic quoque Apoc. Rev., n. 386. @2 sit pro “fit:”sic exemplum Auctoris; sic quoque Apoc. Rev., n. 386.
 
(2) 直訳
460. Secundum Memorabile: 第二のメモラビリア――
Quondam cum circumspexi in mundo spirituali, audivi sicut stridorem dentium, et quoque sicut pulsatile, et illis intermixtum sicut raucum, et quaesivi quid illa. かつて私が霊界の中を見回したとき、私は歯のきしむような音を聞いた、そしてまた〔足を〕トントンと叩く☆ような、またそれらに混ざり合ってしゃがれ声のような、また私はそれらが何か質問した。
形容詞pulsatilisは「トントンと打つ」という意味ですが、それ以外のことが述べてないので、手で机を叩くのかもしれません、でもここは足を踏み鳴らすのではないでしょうか? なお『レキシコン』のここの例文「脈打つような」としたのは誤りです、訂正いたします。
Et dixerunt angeli qui apud me erant, "Sunt collegia, quae a nobis vocantur diversoria, ubi inter se disceptant; また天使たちは言った、その者は私のもとにいた、「大学がある、それは私たちから娯楽と呼ばれる、そこに自分たちの間で論争する。
disceptationes illorum ita audiuntur e longinquo, sed prope non audiuntur nisi disceptationes." 彼らの論争がそのように遠方からこえたしかしで論争でないなら聞かれない」。
Accessi, et vidi domunculas contextas ex juncis luto conglutinatis; 私づいたまたんでられた小屋、泥でくっつけたイグサからの
et volui inspicere per fenestram, sed non erat; また私は窓を通して覗き込むことを欲した、しかし〔窓は〕なかった。
non enim licuit intrare per januam, quia sic lux e caelo influeret, et confunderet. というのは、入り口(扉)を通して入ることが許されなかったから、このように天界からの光が流入し、また混乱させるので。
At subito tunc facta est fenestra a dextro latere, et tunc audivi conquestos quod in tenebris essent; しかし、急にその時、右側からの窓が作られた、またその時、私は不平の声を聞いた、暗やみの中にいたこと☆。
おわかりかと思いますが、「(虚偽の)にいる者は天界からの光が注ぐと、かえって暗やみを感じる」ということです。
sed mox facta est fenestra a latere sinistro, clausa fenestra a latere dextro, et tunc paullatim discussae sunt tenebrae, et visi sibi in sua luce: しかし、間もなく左側からの窓が作られた、右側からの窓は閉ざされた、またその時、暗やみは次第に追い散らされた、またその光の中で自分たちに視覚で☆。
「自分たちに視覚で」とは「自分たちに視覚が(取り戻された)」すなわち「お互いに見ることができた」です。
et post haec mihi datum est intrare per januam, et audire. また、この後、私に入り口を通って入ることが与えられた、また聞くことが。
Erat mensa in medio, et scamna circum circa, omnes tamen mihi visi sunt super scamnis stare, et acriter inter se disputare de Fide et Charitate; 真ん中の中に机があった、周りに取り巻いて(周りに)長椅子、それでもすべての者は、私に見られた、長椅子の上に立つこと(sto)、また鋭く、自分たちの間で(互いに)信仰についてと仁愛について言い争うこと。
ab una parte, quod fides esset essentiale ecclesiae, ab altera quod charitas esset. 一方から、信仰が教会の本質的なものであったこと、もう一方から、仁愛が〔教会の本質的なもので〕あったこと。
Illi qui fecerunt fidem essentiale, dixerunt, "Annon fide agimus cum Deo, et charitate cum homine? 彼らは、その者は信仰を本質的なものとした、言った、「信仰を私たちは神とともに行なわないか? また仁愛を人間とともに。
estne inde fides caelestis, et charitas terrestris? ここから信仰は天界的なものではないか? また仁愛は地的(世俗的)もの。
annon per caelestia salvamur, et non per terrestria? 天界的なものによって、私たちは救われないか? また地的(世俗的)ものによって〔救われ〕ない。
Tum, annon Deus potest dare fidem e caelo, quia est caelestis, et annon homo sibi daturus est charitatem, quia haec est terrestris? なおまた、神は信仰を天界から与えることができないか? 天界的なものであるので、また人間は自分自身に仁愛を与えられる(かもしれない)、これは地的(世俗的)ものなので。
et quod homo sibi dat, hoc non est ecclesiae, et ideo non salvat. また人間が自分自身に与えるものは、これは教会のものではない、またそれゆえ救わない。
Num sic aliquis potest ex operibus, quae vocantur charitatis, coram Deo justificari? このように、ある者は働きから、それは仁愛のものと呼ばれる、神の前に義とされることができるのか?〔できない〕
Credite nobis, quod per fidem solam non modo justificemur, sed etiam sanctificemur, si non fides per meritoria, quae sunt ex operibus charitatis, inquinatur:" 私たちで信じよ、信仰のみによって、私たちは義とされるだけでなく、しかし聖別されること、もし、信仰が功績を求めるものによって、それは仁愛の働きからのものである、汚されないなら」。
praeter plura. ほかに多くのことを。
[2.] At illi qui charitatem faciebant essentiale ecclesiae, acriter refellebant illa, dicendo, quod charitas salvet, et non fides. [2] しかし、彼らは、その者は仁愛を教会の本質的なものとした、鋭くそれらに反駁した、言って、仁愛が救うこと、また信仰は〔救わ〕ない。
"Annon Deus caros habet omnes, et bonum vult omnibus? 「神はすべての者に愛すべきものを持たないか? またすべての者に善を欲する。
Quomodo potest Deus hoc facere nisi per homines? どのように神はこのことを行なうことができるか? 人間によってでないなら。
Num Deus solum dat loqui cum hominibus quae fidei sunt, et non dat facere hominibus quae charitatis sunt? 神は話すことだけを人間に与える、それは信仰のものである、また人間に行なうことを与えないのか? それは仁愛のものである。
Videtisne, quod absurde locuti sitis de charitate, quod sit terrestris? あなたがたは見ないのか? 仁愛についてあなたがたはばかばかしく話していること、地的(世俗的)ものであること。
Charitas est caelestis; 仁愛は天界的なものである。
et quia vos non facitis bonum charitatis, est fides vestra terrestris. また、あなたがたは仁愛の善を行なわないので、あなたがたの信仰は地的(世俗的)である〕。
Quomodo accipitis fidem vestram, nisi sicut truncus aut lapis? どのようにあなたがたは信仰を受け入れるのか? 幹または石のようにでないなら。
Dicitis `Per auditum Verbi;' あなたがたは言う、「みことばの聞くことによって」。
at quomodo potest Verbum modo auditum operari? しかし、どのようにみことばは、単に聞くことで働くことができるのか?
et quomodo in truncum aut lapidem? またどのように幹または石の中で?
Forte vivificamini vobis prorsus insciis; ことによると、あなたがたは生かされる、あなたがたにまったく知らないで。
sed quae vivificatio, nisi quod possitis loqui, quod sola Fides justificet et salvet: しかし、その活性化(活気づけられること)は、あなたがたが話すことでないなら〔何でもない〕信仰のみが義とし、また救うこと。
at quid fides, et quae fides salvans, non scitis." しかし、何が信仰か、また何が救う信仰か、あなたがたは知らない」。
[3.] Sed tunc surrexit unus, qui ab angelo mecum loquente vocabatur syncretista. [3] しかし、その時、ある者が立ち上がった、その者は、天使から私に語って、呼ばれた、混合主義者。
Hic sumpsit capitium, et posuit super mensa, sed illud subito reposuit super capite, quia calvus erat. この者はcapitium☆を取った、また机の上に置いた、しかし、それを急いで頭の上に戻した、はげであったので。
このcapitiumはおそらくcapillitium「かつら」の誤り。当時は「はげ」でなくても、(正装の)服装の一部として「かつら」用いました。スヴェーデンボリの肖像画を参照、現在でもイギリスの裁判官はかつらをしています()
Ille dixit, "Audite; erratis omnes; 彼は言った、「聞け、あなたがたはすべてのものを間違えている。
verum est, quod fides sit spiritualis, et charitas moralis, sed usque [1]conjungentur, et conjunguntur per Verbum, et tunc per Spiritum Sanctum, et per effectum, qui quidem vocari potest obedientia, sed in qua homo non aliquam partem habet; 真理である、信仰が霊的で、また仁愛が道徳的であること、しかしそれでも結合されている、またみことばによって結合されている、またその時、聖霊によって、また結果によって、それは確かに服従と呼ばれることができる、しかし、その中に人間は何らかの部分(役割)持たない。
quia quando infertur fides, homo non scit plus quam statua. 信仰が持ち込まれる時、人間は彫像以外にさらにのようでないからである。
De his mecum diu cogitavi, et inveni tandem, quod homo a Deo possit accipere fidem quae spiritualis sit, sed quod non possit, moveri a Deo ad charitatem quae sit spiritualis, plus quam truncus." これらについて私自身で長い間、考えた、また私は最後に発見した、人間は神から信仰を受けることができること、それは霊的なものである、しかし、できないこと、神から仁愛へと動かされること、それは霊的なものである、幹以上にさらに。
[4.] His dictis adplaudebant qui in sola fide erant, sed explodebant qui in charitate; [4] これらで聞いて、称賛(拍手喝采)した、その者は信仰のみの中にいた、しかし、反対した、その者は仁愛の中に。
et hi ex indignatione dicebant, "Audi socie, tu non scis quod sit vita moralis spiritualis, et quod sit vita moralis mere naturalis; またこれらの者(後者)は憤慨から言った、「聞け、仲間よ、あなたは知らない、道徳的な生活が霊的であること、また道徳的な生活が単に自然的なものであること。
vita moralis spiritualis apud illos, qui bonum faciunt a Deo, et usque sicut a se, ac vita moralis mere naturalis apud illos, qui bonum faciunt ex inferno, et tamen usque sicut a se." 霊的で道徳的な生活が彼らのもとに〔ある〕、その者は神から善を行なう、またそれでも自分自身からのように、そして単に自然的な道徳的な生活が彼らのもとに〔ある〕、その者は地獄から〔善を〕行なう、またそれでもやはり自分自身からのように」。
[5.] Dictum est, quod disceptatio audita sit sicut stridor dentium, et sicut pulsatile, quibus intermixtum erat raucum. [5] 言われた、聞かれた論争が歯のきしむような、また〔足を〕トントンと叩くような、それらに混ざり合ってしゃがれ声のようなものであったこと。
Disceptatio audita sicut stridor dentium, erat ab illis qui fidem fecerunt unicum essentiale ecclesiae; 歯のきしむような聞かれた論争は、彼らからであった、その者は信仰を教会の唯一の本質的なものとした。
ac pulsatile erat ab illis qui charitatem fecerunt unicum essentiale ecclesiae; そして、〔足を〕トントンと叩く〔音〕は彼らからであった、その者は仁愛を教会の唯一の本質的なものとした。
et raucum intermixtum erat a syncretista. 混ざり合って〔いた〕しゃがれ声は混合主義者からであった。
Quod soni illorum ita auditi sint a longinquo, erat causa, quia omnes illi in mundo disceptarunt, et non aliquod malum fugerunt, et ideo non aliquod bonum ex prosapia spirituali fecerunt; 彼らの音声が遠方からそのように聞こえたことは、理由があった、すべての者は、彼らは世の中で論争したからである、また何らかの悪を避けなかった、またそれゆえ、何らかの善を霊的な家系(一族)から行なわなかった。
et quoque prorsus nesciverunt, quod omne fidei sit verum, et omne charitatis bonum, et quod verum absque bono non sit verum spiritu, et quod bonum absque vero non [2]sit bonum spiritu, et quod sic unum faciat alterum. そしてまた、まったく知らなかった、信仰のすべてのものは真理であること、また仁愛のすべてのものは善、また善なしの真理は霊での真理でないこと、また真理なしも善は霊で善でないこと、このように一方がもう一方をつくること。
 
@1 conjungetur pro “conjunguntur:sic exemplum Auctoris; sic quoque Apoc. Rev., n. 386. 注1 conjunguntur」の代わりにvonjungetur――このように著者の写し(本)に。
@2 sit pro “fit:”sic exemplum Auctoris; sic quoque Apoc. Rev., n. 386. 注2 fit」の代わりにsit――このように著者の写し(本)に。このように『啓示された黙示録』386番にもまた。
 
(3) 訳文
460. 第二のメモラビリア――
 
 かつて私が霊界の中を見回したとき、歯のきしむような音、そしてまた〔足を〕トントンと叩くような音、またそれらに混ざり合ってしゃがれ声のような音を聞き、私はそれらが何か質問した。
 すると、私のもとにいた天使たちは言った、「大学がある、それは私たちから娯楽と呼ばれる、そこで自分たちの間で論争する。彼らの論争がそのように遠方からこえたしかしでは論争しか聞かれない」。
 私づいた、泥でくっつけたイグサからんでられた小屋。私窓から覗込んでみたかった、しかし〔窓なかったというのは、入口から入ることがされなかったからこのように天界からの流入また混乱させるので
 しかし、急にその時、右側られまたその時、私、「暗やみのにいるという不平いたしかし、間もなく左側られ、右側ざされたまたその時、暗やみは次第らされまたそのらに視覚が戻った。またこの後、私ってることまたくことがえられた
 真机が、周りにいて長椅子があったそれでもられたすべての長椅子、鋭いに信仰と仁愛について、一方から、信仰教会本質的なものでありもう一方から、仁愛教会本質的なものであることを争っていた。
信仰本質的なものとしたった、「信仰たちはとともに、仁愛人間とともになわないか? ここから信仰天界的なもの、仁愛地的ものではないのか? 天界的なものによって、私たちはわれ、地的ものによってはわれないのではないのか? 
 なおまた、神、天界的なものであるので信仰天界からえることができまた人間自分自身仁愛をこれは地的ものなのでえられかもしれないのではないのか? また人間自分自身えるものはこれは教会のものではなくそれゆえわない
 このようにある仁愛のものとばれるきから、神とされることができるのか?〔できない
 私たちを信じよ。もし信仰が仁愛の働きからのものである功績を求めるものによって汚されないなら、信仰のみによって、私たちは義とされるだけでなく、しかし聖別されることである」。ほかに多くのこと。
 [2] しかし、仁愛を教会の本質的なものとした者は、仁愛が救い、信仰は救わないことを言って、鋭くそれらに反駁した。
 「神はすべての者に愛すべきものを持ち、すべての者に善を欲しないか?。
人間によってでないなら、どのように神はこのことを行なうことができるか? 
 神は信仰のものである話すことだけを人間に与え、仁愛のものである行なうことをた人間に与えないのか?
 あなたがたは、仁愛について地的ものであるとして、ばかばかしく話していることがわからないのか?
 仁愛は天界的なものである。また、あなたがたは仁愛の善を行なわないので、あなたがたの信仰は地的である。
 幹または石のようにでないなら、どのようにあなたがたは信仰を受け入れるのか? 。
 あなたがたは、「みことばの聞くことによって」と言う。しかし、どのようにみことばは、単に聞くことで、またどのように幹または石の中で働くことができるのか?
 ことによると、あなたがたは、まったく知らないで生かされるかもしれない。しかし、その活気づけられることは、あなたがたが信仰のみが義とし、救う、と話すこと以外の何でもない。しかし、何が信仰か、また何が救う信仰か、あなたがたは知らない」。
 [3] しかし、その時、ある者が立ち上がった、天使から私に語られたが、彼は混合主義者と呼ばれ者であった。この者はかつらを取り、机の上に置いた、しかし、はげであったので、それを急いで頭の上に戻した。
 彼は言った、「聞け、あなたがたはすべてのものを間違えている。信仰が霊的であり、仁愛が道徳的であることは真理である、しかしそれでも結合されている、またみことばによって、またその時、聖霊によって、また確かに服従と呼ばれることができる結果によって結合されている、しかし、その中で人間は何らかの役割を持たない。信仰が持ち込まれる時、人間は彫像のようなものでしかないからである。
私自身、長い間、これらについて考え、私は最後に見いだした。人間は神から霊的なものである信仰を受けることができること、しかし、神から霊的なものである仁愛へと幹以上にさらに動かされることができないことである」。
 [4] これらを聞いて、信仰のみの中にいた者が拍手喝采した、しかし、仁愛の中にいた者は反対した。また後者は憤慨から言った、「聞け、仲間よ。あなたは、道徳的な生活が霊的であること、また道徳的な生活が単に自然的なものであることを知らない。霊的で道徳的な生活が神からまたそれでも自分自身からのように善を行なう者のもとにあり、そして単に自然的な道徳的な生活が地獄から、それでもやはり自分自身からのように善を行なう者のもとにある」。
 [5] 聞かれた論争が歯のきしむような、また〔足を〕トントンと叩くような、それらに混ざり合ってしゃがれ声のようなものであったことが言われた。
歯のきしむような聞かれた論争は、信仰を教会の唯一の本質的なものとした者から、そして、〔足を〕トントンと叩く〔音〕は、仁愛を教会の唯一の本質的なものとした者から、混ざり合って〔いた〕しゃがれ声は混合主義者からであった。
 彼らの音声が遠方からそのように聞こえたことの理由は、すべての者が世で論争し、何らかの悪を避けず、またそれゆえ、何らかの善を霊的な一族から行なわなかった、そしてまた、信仰のすべてのものは真理であり、仁愛のすべてのものは善であること、また善なしの真理は霊での真理でなく、真理なしも善は霊で善でないこと、このように一方がもう一方をつくることをまったく知らなかったからである。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第7章, 01:45
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