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原典講読『真のキリスト教』570(訳文)
(3) 訳文
570. 第四のメモラビリア――
 
 かつて私は新参の霊と話した、その者は世の中にいた時、天界と地獄について多くのものを熟考した。
 新参の霊によって新たに死んだ人間が意味される、その者はその時、霊と呼ばれる霊的な人間であるからである。
 彼は、霊界の中に入るとすぐに、天界と地獄について同様に熟考し始めた。また自分自身に、天界について〔熟考する〕とき、喜びの中に、また地獄について〔熟考する〕とき、悲しみの中に〔いるように〕見られた、彼は自分自身が霊界の中にいることを認めたとき、直ちに、天界がどこに、地獄がどこに、なおまた一つのもう一つが何か、どんなものか求めた。
 〔そこにいる彼らは〕答えた、「天界はあなたの頭の上方にある、また地獄はあなたの足の下方にある、というのは、今や、あなたは天界と地獄の中央にある霊たちの世界の中にいるから。しかし、天界が何でどんなものか、また地獄が何でどんなものか、私たちは簡単に述べることができない。
 その時、知ることの願望が燃え立ったので、ひざまづき、教えられるようにと、神に信心深く祈った。
 すると、見よ、天使が右に現われ、彼を起こし、言った、「あなたは天界と地獄について教えられるようにと懇願した。何が「快さ」か探求し、学べ、するとあなたは知る」。
天使は、これらを言って、上げられた。
 [2] その時、新参の霊は自分自身に言った、「これは何か、『何が快さか探求し、学べ、するとあなたは天界と地獄が何でどんなものか知る』?」
 じきに、その場所から立ち去って、歩きまわった、また出会った者に話しかけて、言った、「お願いがあります、もしよろしかったら、何が快さか言ってください」。
 また、ある者は言った、「この質問は何か、どんなものか? 何が快さか、だれが知らないか? 楽しさと喜びではないのか? それゆえ、あるものがもう一つのように、快さは快さである、私たちは違いを知らない。
 他の者たちは、快さは心のほほえみであることを言った。「というのは、心がほほえむ時、顔は機嫌がよく、話し方は冗談まじりで、身ぶりはふざけている、また人間全体は快さの中にいるから。
 けれども、ある者たちは言った、「快さは、宴会〔に出て〕、ごちそうを食べ、そして銘酒を飲んで酔うこと、またその時、いろいろな事柄についてお、特にウェヌスとクピドー(愛欲と欲望)遊びについてしゃべりすること以外の他のものでは決してない」。
[3] これらをいて、憤慨した新参自分自身った、「これらのえは田舎者のものであるまた都会のものではない。これらのさは天界でも地獄でもない。私賢明出会えればよいのに」。
 彼らから、求めた、「賢明はどこに?」
 またその時、〔彼〕天使的なあるによりられたそのった、「私あなたが天界全般的なものまた地獄全般的なものを願望にかきてられていることを知覚したまたこのこと〔天界地獄〕さであるので、私はあなたをそこに毎日、結果を調べる者、また原因を探し求める者、また目的を見つけ出す者が集まる――
また彼らは、その者は原因を求める、また彼らは、その者は目的を探し出す――
結果を調べる者は知識の霊、また抽象的に「知識」と呼ばれる。原因を探し求める者は、知的な霊、また抽象的に「知性」と呼ばれる。目的を見つけ出す者は、知恵の霊、また抽象的に「知恵」と呼ばれる。彼らのまっ直ぐ上方に、天界の中に天使がいる、彼らは目的から原因を、また原因から結果を見る。これらの天使から、それらの三つの集団に照らしがある」。
 [4] その時、彼は、新参の霊を、手をつかまえて、丘の上へ、また集団へ導いた、彼らは目的を調べる(見つけ出す)、また知恵と呼ばれる者たちであった。
 彼らに言った、「私があなたがたへ上ることを許してください。その理由は、私は私の子供時代から天界と地獄について熟考したからです、またこの世界の中に近ごろ私はやって来て、私と仲間となったある者が、その時、ここに天界は私の頭の上方にある、そして地獄は私の足の下方にあると言った、しかし、一つともう一つのものが何か、どんなものか言いませんでした。 それゆえ、それらについて不断の思考から悩まされて、私は神に祈りました、またその時、天使がそばに立ち、また言いました、「何が「快さ」か探求し、学べ、するとあなたは知る」。
 私は探求しました、しかし、依然としてむだ(むなしい)です――それで、お願いがあります、それでよろしかったら、何が快さかあなたがたが私を教えでください」。
 [5] これに「知恵(たち)えた、「快さは、天界のすべてののいのちのすべてであるまた地獄のすべてののいのちのすべてである――天界にいる、善真理さがあるけれども、地獄にいる、悪虚偽さがあるというのはすべてのさはものでありまた人間のいのちのエッセ(存在)であるからそれゆえ、人間自分のどんなものかしたがって人間であるようにそのように人間自分さのどんなものかしたがって人間である。愛活動さの感覚をつくる。天界でその活動知恵をともにあるまた地獄でその活動狂気をともにある。両方のものはその対象さをこす
 けれども、天界のものと地獄のもの対立するさのにある。天界のものはまたここからなうさのある〕、けれども、地獄のものはまたここからなうさのある〕――それでもしあなたがさかるならあなたは天界地獄でどんなものであるかるでしょう
 [6] しかし、何さか、原因める者た「知性」ばれる者から、探求し、〔彼らはこの場所から右側にいる」
去り、またづき、到来理由、何さかえるように懇願した
 またこれらの質問からうれしがってった、「真理である、快さを知る者天界地獄でどんなものであるかるであろうこと
 意志それ〔意志〕から人間人間であり、快さからでないなら、決して一瞬きまわらないなぜなら、本質的められた意志、愛そのように、快さのらかの情愛でしかないからというのは、何らかの心地よさとここからのえり(選択)でありそれがすることをなうからまた、意志理解力えることへてるまた意志さのるものからでないなら、最小量の思考存在しない
 そのようであることの理由、主自分自身から流入によって、天使、霊、また人間のもとのすべての霊魂とすべての拍動させまた知恵流入によって活動させまたこの流入活動そのものでありそれ〔活動〕からすべてのさがありその起源祝福・至幸福ばれまた派生物、楽しさ心地よさまた全般的意味「善」ばれるからである
 しかし、地獄自分自身のもとのすべてのものをそのようにまた真理虚偽、常さを持続しながら、逆にするなぜなら、快さの持続なしに、彼らに意志、感覚もなくそのようにいのちはなかったであろうからである
 これらから、地獄さがまたどんなものかまたどこからかなおまた天界さが何か、(また)どんなものかまたどこからであるか、明らかである。
 [7] これらで聞いて、第三の集団へ導かれた、そこに結果を調べ、また「知識」と呼ばれる者がいた。
 また、これらの者は言った、「より低い地の中に下れ、またより高い地の中に上れ、これらからあなたは、天界と地獄の快感を知覚し、感る」。
 しかし、見よ、その時、隔たりに向かって(=ある程度の距離のところに)、その隔たりから地が開き、裂け目から三人の悪魔が、彼らの愛の快さから燃え立って上った。また新参の霊に仲間となった天使は、彼ら三人は摂理から、地獄から上ったことを知覚し、悪魔たちに叫んだ、「さらに近く、近づくな。しかし、あなたがたがいるその場所から、あなたがたの快さについて何らかのものを語れ」。
 また、彼らは答えた、「それぞれの者が、あるいは善良な者あるいは悪い者と言われる、自分の快さの中にいることを知るとよい。善良な者と呼ばれる者は、自分のものの〔善の〕中に、また悪い者と呼ばれる者は、自分のものの〔悪の〕中に〔いる〕」。
 また、質問した、「あなたがたの快さは何か?」
 彼らは、淫行し、復讐し、だまし、冒涜するさであったことを言った。
 また再び質問した、「それらの快さはあなたがたに〔とって〕どんなものであるのか?」
 彼らは言った、「他の者により、糞からの悪臭のように、また死体からの腐臭のように、またよどんだ尿からの臭いのように感じられる」。
 また、質問した、「それらがあなたがたに快いものである〔のか〕?」
 言った、「極めて快いものである」。
 また言った、「その時、あなたがたは不潔な獣である、その獣はそれらの中で時を過ごす」。
 また答えた、「もし私たちがそうである〔と思う〕なら、私たちはそうである☆。しかし、そのようなものが私たちの鼻を歓喜(するもの)ある」。
 また質問した、「もっと〔ほかに〕何が〔あるか〕?」
 言った、それぞれの者が自分の快ささらにまた最も不潔なものと呼ぶような快さにの中にいることが、善い霊と天使を攻撃しないかぎり赦されていること。「しかし、私たちの快さから、他の者を攻撃すること以外に異なってできない、〔そうするとき〕私たちは強制収容所に中に投げ込まれ、そこできびしいことを被る。そこに私たちの快さの抑制引っ込めることがある、〔それは〕地獄の責め苦と呼ばれ、そしてまた内的な苦しみである」。
 また質問した、「なぜ、あなたがたは善良な者を攻撃するのか?」
 言った、異なってできないこと。「私たちがある天使を見る、また彼らのまわりの主の神的なスフェアを感じる時、激怒が私たちに入り込むようである」。
 そのことに私たちは言った、「その時、あなたがたもまた野獣のようである」。
 またじきに、彼らが天使とともに新参の霊を見るとき、悪魔に激怒が出てきた、それは憎しみの火のように見えた。
それゆえ、害を加えないように、地獄の中へ投げ返された。
 この後、目的から原因を、また原因を通して結果を見た天使たちが現われた、その者はそれらの三つの集団の上方の天界の中にいた、またこれらの者は白く輝く光の中で見られ、その光は曲がったらせん形を通って転がり落ち、〔天使は〕円形の花冠を持ってきた、(また花で)また新参の霊の頭の上に置いた。またその時、彼にここから声があった、「あなたは子供時代から天界と地獄について熟考したので、その理由のために、この月桂冠があなたに与えられる」。
 
 
ウェヌスは別名ヴィーナス(ミロのヴィーナスが有名)であり、愛と美の女神です。クピドーは別名キューピッドです(恋の橋渡し役)。ここは砕けて言えば(自分自身のまた他人の)「恋愛談議」です。
 
☆ 接続法と直接法「もし私たちがそうであるなら、そうである」
 原文はSi simus, sumusであり、直訳すれば「もし、私たちであるなら、私たちである」です。ラテン語にこのように簡潔でしかも明快な表現法、すなわち、接続法と直接法があることに、感心してしまいます。これを日本語で「そのようなもの爐任△覘瓩覆蕁△修里茲Δ覆發劉爐任△覘瓩もしれない」と言えば、これで意味が通じます、それでもこの二つの爐任△覘瓩隆屬棒楝核,板樟榾,使われていて、しかも意味を持っています。すなわち認識上の「である」(接続法)、「あなたはそう思うかもしれない」というニュアンスと、事実上の「である」(直接法)、「それでもこれが私たちの実態である」のニュアンスです。このニュアンスの違いを、接続法と直接法を並び立てて明確にしかも簡略に表現しています。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 01:45
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原典講読『真のキリスト教』570(直訳[7])
(2) 直訳
[7.] His auditis, deductus est ad tertium coetum, ubi erant qui rimantur effectus, et vocantur Scientiae. [7] これらで聞いて、第三の集団へ導かれた、そこに結果を調べる(研究する)者がいた、また「知識」と呼ばれる。
Et hi dicebant, "Descende in terram inferiorem, et ascende in terram superiorem in his percepturus et [1]sentiturus es jucunditates et caeli et inferni." また、これらの者は言った、「より低い地の中に下れ、またより高い地の中に上れ、これらからあなたは知覚され、また感じられる、天界と地獄の快感を。
Sed ecce tunc ad distantiam ab illis hiabat terra, et per hiatum ascendebant tres diaboli, apparentes igniti ex jucundo amoris illorum; しかし、見よ、その時、隔たりに向かって(=ある程度の距離のところに)、それ〔隔たり〕から地が開いた、また裂け目から三人の悪魔が上った、彼らの愛の快さから燃え立って。
et quia angeli consociati cum novitio spiritu percipiebant quod illi tres ex proviso ex inferno ascenderint, clamabant ad diabolos, "Ne accedite proprius; また新参の霊に仲間となった天使は知覚した、彼ら三人は摂理から、地獄から上ったこと、悪魔たちに叫んだ、「さらに近く、近づくな。
sed e loco ubi estis, narrate aliquid de jucundis vestris." しかし、場所から、そこにあなたがたがいる、何らかのものを語れ、あなたがたの快さについて」。
Et respondebant, "Scitote quod unusquisque, sive bonus sive malus dicatur, in suo jucundo sit; また、彼らは答えた、「(あなたは)知れ☆、それぞれの者が、あるいは善良な者あるいは悪い者と言われる、自分の快さの中にいること。
命令法の未来形という珍しい形です(会話以外に出て来ないでしょう)。どのような意味でしょうか? 「(今までは知らなかったかもしれないが、これから)知りなさい」、といった意味でしょうか?
bonus ita dictus in suo, et malus ita dictus in suo." 善良な者は、そのように呼ばれる、自分のものの中に、また悪い者は、そのように呼ばれる、自分のものの中に。
Et quaesiverunt, "Quid vestrum jucundum また、質問した、「あなたがたの快さは何か?」
Dicebant, quod esset jucundum scortandi, vindicandi, defraudandi, blasphemandi. 彼らは言った、淫行する、復讐する、だます、冒涜する(中傷する)さであったこと。
Et iterum quaesiverunt, "Qualia sunt vobis jucunda illa?" また再び質問した、「それらの快さはあなたがたにどんなものであるのか?」
Dicebant quod sentiantur ab aliis sicut fetores ex stercoribus, et sicut putores ex cadaveribus, et sicut nidores ex urinis stagnatis." 彼らは言った、他の者により感じられること、糞からの悪臭のように、また死体からの腐臭のように、またよどんだ尿からの臭いのように。
Et quaesiverunt, "Sunt illa vobis jucunda?" また、質問した、「それらがあなたがたに快いものである〔のか〕?」
Dicebant, "Sunt jucundissima." 言った、「極めて(最も)快いものである」。
Et dixerunt, "Tunc estis sicut inmundae bestiae, quae in illis degunt." また言った、「その時、あなたがたは不潔な(=immundae)獣である、それらはそれらの中で時を過ごす(生活する)」。
Et responderunt, "Si simus sumus; また答えた、「もし私たちである(接続)なら、私たちである(直接)☆。
(スヴェーデンボリ出版)『神の摂理』340番の注釈を以下に引用しておきます。
三四〇 接続法と直接法「もし私たちがそうであるなら、そうである」
 原文はSi simus, sumusであり、直訳すれば「もし、私たちであるなら、私たちである」です。ラテン語にこのように簡潔でしかも明快な表現法、すなわち、接続法と直接法があることに、感心してしまいます。これを日本語で「そのようなもの爐任△覘瓩覆蕁△修里茲Δ覆發劉爐任△覘瓩もしれない」と言えば、これで意味が通じます、それでもこの二つの爐任△覘瓩隆屬棒楝核,板樟榾,使われていて、しかも意味を持っています。すなわち認識上の「である」(接続法)、「あなたはそう思うかもしれない」というニュアンスと、事実上の「である」(直接法)、「それでもこれが私たちの実態である」のニュアンスです。このニュアンスの違いを、接続法と直接法を並び立てて明確にしています。これは日本語にはない、味わうべきラテン語の特徴でしょう。
sed talia sunt deliciae narium nostrarum." しかし、そのようなものが私たちの鼻を歓喜(するもの)ある。
Et quaesiverunt, "Quid plura?" また質問した、「もっと〔ほかに〕何が〔あるか〕?」
Dicebant, quod cuivis liceat in suo jucundo esse, etiam immundissimo, ut illud vocant, modo non infestet bonos spiritus et angelos; 言った、それぞれの者が自分の快さの中にいることが赦されていること、さらにまた最も不潔なもの、それを呼ぶように、善い霊と天使を攻撃しない(悩ませない)かぎり。
"sed quia ex jucundo nostro non potuimus aliter, quam illos infestare, conjecti sumus in ergastula, ubi dura patimur; 「しかし、私たちの快さから異なってできない、他の者を攻撃する(悩ませる)こと以外に、私たちは強制収容所に中に投げ込まれる、そこできびしいことを被る。
inhibitio et retractio jucundorum nostrorum ibi, est quod vocatur cruciatus inferni, est quoque interior dolor." そこに私たちの快さの抑制(禁止)引っ込めること(撤回)、がある、地獄の拷問(責め苦)と呼ばれる、そしてまた内的な苦しみである。
Et quaesiverunt, "Cur infestavistis bonos?" また質問した、「なぜ、あなたがたは善良な者を攻撃する(悩ませる)のか?」
Dicebant quod non potuerint aliter; 言った、異なってできないこと。
"est sicut furor nos invadat, dum videmus aliquem angelum, et sentimus sphaeram Divinam Domini circum illum." 「激怒が私たちを入り込むようである、私たちがある天使を見る時、また彼らのまわりの主の神的なスフェアを感じる」。
Ad quod diximus, "Tunc estis etiam sicut ferae." そのことに私たちは言った、「その時、あなたがたもまた野獣のようである」。
Et mox cum viderunt novitium spiritum cum angelis, supervenit diabolos furor, qui apparuit sicut ignis odii; またじきに、彼らが天使とともに新参の霊を見るとき、悪魔を激怒が出てきた、それは憎しみの火のように見えた。
quare ne damnum inferrent, in infernum rejecti sunt. それゆえ、害を加えないように、地獄の中へ投げ返された。
Post haec apparebant angeli qui ex finibus videbant causas, et per causas effectus, qui in caelo supra tres illos coetus erant, et hi visi sunt in candida luce, quae per spirales flexus se devolvens secum tulit rotundum sertum et floribus, et posuit super caput novitii spiritus; この後、天使たちが見られた(現われた)その者は目的から原因を見た、また原因を通して結果を、その者はそれらの三つの集団の上方の天界の中にいた、またこれらの者は白く輝く光の中で見られた、それ〔光〕は曲がったらせん形を通って転がり落ちた、〔天使は〕円形の花冠を持ってきた、また花で、また新参の霊の頭の上に置いた。
et tunc ad illum facta est vox inde, "Haec laurea tibi datur propter causam, quia a pueritia meditatus es de caelo et inferno." またその時、彼に個々らか声があった、「この月桂冠があなたに与えられる、理由のために、あなたは子供時代から天界と地獄について熟考したので」。
 
@1 “sententiturus:”vox ab Auctore saepissime adhibitur, Sic editio princeps; 注1 sententiturus」――著者により極めてしばしば使用される、初版のように。
sic De Am. Conj., n. 461. A Doctore Tafel rectius legebatur “sensurus” このように『結婚愛』461番。ターフェル博士により正しく読まれた「seusurus
author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 04:26
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原典講読『真のキリスト教』570(直訳[5],[6])
(2) 直訳
[5.] Ad haec Sapientiae respondebant, "Jucundum est omne vitae omnibus in caelo, et omne vitae omnibus in inferno: [5] これに「知恵(の霊たち)が答えた、「快さは、天界の中のすべての者のいのちのすべてである、また地獄の中のすべての者のいのちのすべてである――
illis qui in caelo sunt, est jucundum boni et veri; 彼らに、その者は天界の中にいる、善と真理の快さがある。
illis autem qui in inferno sunt, est jucundum mali et falsi; けれでも、彼らに、その者は地獄の中にいる、悪と虚偽の快さがある。
omne enim jucundum est amoris, et amor est Esse vitae hominis; というのは、すべての快さは愛の者であり、また愛は人間のいのちのエッセ(存在)であるから。
quare sicut homo est homo secundum quale sui amoris, ita est homo secundum quale sui jucundi; それゆえ、人間が自分の愛のどんなものか(性質)したがって人間であるように、そのように人間は自分の快さのどんなものか(性質)したがって人間である。
activitas amoris facit sensum Jucundi; 愛の活動が快さの感覚をつくる。
activitas ejus in caelo est cum sapientia, et activitas ejus in inferno est cum insania; 天界の中でその活動は知恵をともにある、また地獄の中でその活動は狂気をともにある。
utraque in suis subjectis sistit jucundum. 両方のものはその対象の中に快さを引き起こす。
Sunt autem caeli et inferni in oppositis jucundis; けれども、天界のものと地獄のもの対立する快さの中にある。
caeli in amore boni et inde jucundo benefaciendi, inferni autem in amore mali et inde in jucundo malefaciendi: 天界のものは善の愛の中に、またここから善を行なう快さの中に〔ある〕、けれども、地獄のものは悪の愛の中に、またここから悪を行なう快さの中に〔ある〕――
si itaque cognoscis quid jucundum, cognosces quid et quale est caelum et infernum. それで、もしあなたが何が快さか知るなら、あなたは天界と地獄が何でどんなものであるか知るでしょう。
[6.] Sed inquire et disce adhuc quid jucundum ab illis qui investigant causas, et vocantur Intelligentiae; [6] しかし、何が快さか探求せよ、また学べ、彼らから、その者は原因を探し求める(調べる)、また「知性」と呼ばれる。
sunt abhinc ad dextrum." 〔彼らは〕この場所から右側にいる。
Et abivit, et accessit, et dixit causam adventus, et petiit ut instruerent quid jucundum. また、私は去った、また〔彼は〕近づいた、また到来の理由を言った、また何が快さか教えるように懇願した。
Et hi gavisi ab interrogatione dixerunt, "Verum est quod qui cognoscit jucundum, cognoscat quid et quale est caelum et infernum. またこれらの者は質問からうれしがって言った、「真理である、快さを以sる者が天界と地獄が何でどんなものであるか知るであろうこと。
Voluntas, ex qua homo est homo, ne quidem punctulum fertur, nisi a jucundo; 意志は、それ〔意志〕から人間は人間である、決して瞬間を歩きまわらない、快さからでないなら。
nam voluntas in se specta, non est nisi quam affectio alicujus amoris, ita jucundi; なぜなら、本質的に眺められた意志は、愛の何らかの情愛以外でないならないから、そのように、快さの。
est enim aliquod volupe et inde placitum, quod facit velle; というのは、何らかの心地よさとここからのえり好み(選択)であるから、それが欲することを行なう。
et quia voluntas agit intellectum ad cogitandum, non datur minimum cogitationis, nisi ab influo voluntatis jucundo. また、意志は理解力を考えることへ駆り立てる、また思考の最小量も存在しない、意志の快さの流れ入るものからでないなら。
Quod ita sit, est causa, quia Dominus per influxum a Se actuat omnia animae et omnia mentis apud angelos, spiritus et homines, et actuat per influxum amoris et sapientiae, et hic influxus est ipsa activitas, ex qua omne jucundum est, quod in origine sua vocatur beatum, faustum et felix, et in derivatione jucundum, amoenum, et volupe, et in universali sensu bonum. そのようであることは、理由がある、主は自分自身から流入によって、天使、霊、また人間のもとのすべての霊魂とすべての心を拍動させる、また愛と知恵の流入によって活動させる、またこの流入は活動そのものである、それ〔活動〕からすべての快さがある、その起源の中で幸福(祝福)、至福と幸福と呼ばれる、また派生物の中で快さ、楽しさ、また快楽(心地よさ)また全般的な意味で「善」〔と呼ばれる〕。
Sed spiritus inferni invertunt apud se omnia, ita bonum in malum, et verum in falsum, permanente jugiter jucundo; しかし、地獄の霊は自分自身のもとのすべてのものを逆にする、そのように善を悪の中へ、また真理〔原文にvが落ちていました〕を虚偽の中へ、常に快さを持続して。
nam absque permanentia jucundi non foret illis voluntas, nec sensatio, ita non vita. なぜなら、快さの持続なしに、彼らに意志はなかったであろうからである、感覚もなく、そのようにいのちがない。
Ex his patet, quid et quale et unde jucundum Inferni, tum quid, quale et unde jucundum caeli est. これらから明らかである、地獄の快さが何またどんなものか(性質)またどこからか、なおまた天界の快さが何、(また)どんなものか(性質)またどこからであるか。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 23:19
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原典講読『真のキリスト教』570(直訳[3],[4])
(2) 直訳
[3.] His auditis, spiritus novitius indignatus secum dixit, "Haec responsa sunt rusticalia et non civilia; [3] これらでいて、憤慨した新参自分自身った、「これらのえは田舎者(粗野)ものであるまた市民のものでない。
haec jucunda non sunt caelum nec infernum; これらの快さは天界でも地獄でもない。
utinam conveniam sapientes." 〜〜てくれたらよいのに、私は賢明な者に出会う」。
Et abivit ab illis et quaesivit, "Ubi sapientes?" また彼らから去った、また求めた、「どこに賢明な者は?」
Et tunc visus est a quodam spiritu angelico, qui dixit, "Percipio quod accensus sis desiderio sciendi id quod est universale caeli, et universale inferni; また、その時、天使的なある霊により見られた、その者は言った、「私は知覚した、あなたがそのことを知る願望にかき立てられていること、それは天界の全館的なもの、また地獄の全般的なもの。
et quia hoc est jucundum, deducam te super collem, ubi cottidie conveniunt illi qui rimantur effectus, et illi qui investigant causas, et illi qui explorant fines: またこのこと〔天界と地獄〕は快さであるので、私はあなたを丘の上に導く、そこに毎日、彼らが集まる、その者は結果を調べる(研究する)、また彼らはその者は原因を探し求める(調べる)、また彼らはその者は目的を調べる(見つけ出す)――
また彼らは、その者は原因を求める、また彼らは、その者は目的を探し出す――
illi ibi qui rimantur effectus vocantur spiritus scientiarum, et abstracte Scientiae; そこに彼らはその者は結果を調べる(研究する)知識の霊と、また抽象的に「知識」と呼ばれる。
et illi qui investigant causas, vocantur spiritus intelligentiae, et abstracte Intelligentiae; また彼らはその者は原因を探し求める(調べる)、知的な霊と、また抽象的に「知性」と呼ばれる。
et illi qui explorant fines, vocantur spiritus sapientiae, abstracte sapientiae; また彼らはその者は目的を調べる(見つけ出す)、知恵の霊と、また抽象的に「知恵」と呼ばれる。
directe supra illos in caelo sunt angeli, qui ex finibus vident causas, et ex causis effectus; 彼らのまっ直ぐ上方に、天界の中に天使がいる、彼らは目的から原因を見る、また原因から結果を。
ex his angelis est tribus illis coetibus illustratio." これらの天使から、それらの三つの集団に照らしがある」。
[4.] Ille tunc spiritum novitium prehendens manu duxit super collem, et ad coetum qui erat ex illis qui explorant fines, et vocantur sapientiae. [4] 彼は、その時、新参の霊を、手をつかまえて、丘の上へ導いた、また集団へ、その者たちは彼らからであった、その者は目的を調べる(見つけ出す)、また知恵と呼ばれる
His dixit, "Ignoscite quod ad vos ascenderim; 彼らに言った、「許せ、あなたがたへ私が上ること。
causa est, quia a pueritia mea meditatus sum de caelo et inferno, et in hunc mundum nuper veni, et quidam mihi tunc associati dixerunt quod hic caelum sit supra caput meum, ac infernum sub pedibus meis; 理由がある、私の子供時代から天界と地獄について私は熟考したからである、またこの世界の中に近ごろ私はやって来た、また私と仲間となったある者が、その時、言った、ここに天界は私の頭の上方にある、そして地獄は私の足の下方に。
sed non dixerunt quid et quale unum et alterum; しかし、言わなかった、一つのもう一つのものが何でどんなものか。
quare ex constante cogitatione de illis anxius factus oravi ad Deum, et tunc adstitit angelus, et dixit, `Inquire et disce quid Jucundum et cognosces.' それゆえ、それらについて不断の思考から悩まされて、私は神に祈った、またその時、天使がそばに立った、また言った、「何が「快さ」か探求せよ、また学べ、するとあなたは知る」。
Inquisivi, sed adhuc in vanum: 私は探求した、しかし、依然としてむだ(むなしい)――
peto itaque, ut si libet, doceatis me quid jucundum." それで、私は懇願する、それでよろしかったら、あなたがたは私を教える、何が快さか」。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 03:59
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原典講読『真のキリスト教』570(原文と直訳[2]まで)
(1) 原文
570. Quartum Memorabile:― 
 
Quondam locutus sum cum spiritu novitio, qui dum fuit in mundo, de caelo et inferno multum meditatus est. Per spiritus novitios intelliguntur homines noviter defuncti, qui quia tunc sunt homines spirituales, vocantur spiritus. Ille, ut primum intravit in mundum spiritualem, coepit de caelo et inferno similiter meditari; et sibi visus, cum de caelo, in laetitia, et cum de inferno, in tristitia, ille cum animadvertit se in mundo spirituali esse, statim quaesivit, ubi caelum et ubi infernum, tum quid et quale unum et alterum.
Et responderunt, "Caelum est supra caput tuum, et infernum est infra pedes tuos, nunc enim es in mundo spirituum, qui est medius inter caelum et infernum; sed quid et quale caelum et quid et quale infernum est, non possumus paucis describere.
Et tunc quia flagrabat desiderio cognoscendi, projecit se super genua, et oravit devote ad Deum, ut instrueretur.
Et ecce apparuit angelus ad dextram ejus et elevavit illum, et dixit, "Supplicavisti ut instruereris de caelo et inferno. Inquire et disce quid Jucundum, et cognosces." Et angelus his dictis sublatus est.
[2.] Tunc spiritus novitius secum dixit, "Quid hoc, 'Inquire et disce quid jucundum, et cognosces quid et quale caelum et infernum est?'" Mox e loco illo abiens circumvagatus est, et obvios allocutus dixit, "Dicite quaeso, si placet, quid jucundum."
Et dicebant aliqui, "Quae qualis haec quaestio? quis non scit quid jucundum? estne gaudium et laetitia? quare jucundum est jucundum, unum sicut alterum, non scimus discrimen.
Alii dicebant quod jucundum esset risus mentis; "dum enim mens ridet, est facies hilaris, loquela jocularis, gestus ludens, et totus homo in jucundo."
Aliqui autem dicebant, "Jucundum nihil aliud est quam epulari et edere lautitias, ac bibere et generoso vino inebriari, et tunc confabulari de rebus variis, imprimis de ludis Veneris et Cupidinis."
[3.] His auditis, spiritus novitius indignatus secum dixit, "Haec responsa sunt rusticalia et non civilia; haec jucunda non sunt caelum nec infernum; utinam conveniam sapientes."
Et abivit ab illis et quaesivit, "Ubi sapientes?"
Et tunc visus est a quodam spiritu angelico, qui dixit, "Percipio quod accensus sis desiderio sciendi id quod est universale caeli, et universale inferni; et quia hoc est jucundum, deducam te super collem, ubi cottidie conveniunt illi qui rimantur effectus, et illi qui investigant causas, et illi qui explorant fines: illi ibi qui rimantur effectus vocantur spiritus scientiarum, et abstracte Scientiae; et illi qui investigant causas, vocantur spiritus intelligentiae, et abstracte Intelligentiae; et illi qui explorant fines, vocantur spiritus sapientiae, abstracte sapientiae; directe supra illos in caelo sunt angeli, qui ex finibus vident causas, et ex causis effectus; ex his angelis est tribus illis coetibus illustratio."
[4.] Ille tunc spiritum novitium prehendens manu duxit super collem, et ad coetum qui erat ex illis qui explorant fines, et vocantur sapientiae. His dixit, "Ignoscite quod ad vos ascenderim; causa est, quia a pueritia mea meditatus sum de caelo et inferno, et in hunc mundum nuper veni, et quidam mihi tunc associati dixerunt quod hic caelum sit supra caput meum, ac infernum sub pedibus meis; sed non dixerunt quid et quale unum et alterum; quare ex constante cogitatione de illis anxius factus oravi ad Deum, et tunc adstitit angelus, et dixit, `Inquire et disce quid Jucundum et cognosces.' Inquisivi, sed adhuc in vanum: peto itaque, ut si libet, doceatis me quid jucundum."
[5.] Ad haec Sapientiae respondebant, "Jucundum est omne vitae omnibus in caelo, et omne vitae omnibus in inferno: illis qui in caelo sunt, est jucundum boni et veri; illis autem qui in inferno sunt, est jucundum mali et falsi; omne enim jucundum est amoris, et amor est Esse vitae hominis; quare sicut homo est homo secundum quale sui amoris, ita est homo secundum quale sui jucundi; activitas amoris facit sensum Jucundi; activitas ejus in caelo est cum sapientia, et activitas ejus in inferno est cum insania; utraque in suis subjectis sistit jucundum. Sunt autem caeli et inferni in oppositis jucundis; caeli in amore boni et inde jucundo benefaciendi, inferni autem in amore mali et inde in jucundo malefaciendi: si itaque cognoscis quid jucundum, cognosces quid et quale est caelum et infernum.
[6.] Sed inquire et disce adhuc quid jucundum ab illis qui investigant causas, et vocantur Intelligentiae; sunt abhinc ad dextrum."
Et abivit, et accessit, et dixit causam adventus, et petiit ut instruerent quid jucundum.
Et hi gavisi ab interrogatione dixerunt, "Verum est quod qui cognoscit jucundum, cognoscat quid et quale est caelum et infernum. Voluntas, ex qua homo est homo, ne quidem punctulum fertur, nisi a jucundo; nam voluntas in se specta, non est nisi quam affectio alicujus amoris, ita jucundi; est enim aliquod volupe et inde placitum, quod facit velle; et quia voluntas agit intellectum ad cogitandum, non datur minimum cogitationis, nisi ab influo voluntatis jucundo. Quod ita sit, est causa, quia Dominus per influxum a Se actuat omnia animae et omnia mentis apud angelos, spiritus et homines, et actuat per influxum amoris et sapientiae, et hic influxus est ipsa activitas, ex qua omne jucundum est, quod in origine sua vocatur beatum, faustum et felix, et in derivatione jucundum, amoenum, et volupe, et in universali sensu bonum. Sed spiritus inferni invertunt apud se omnia, ita bonum in malum, et erum in falsum, permanente jugiter jucundo; nam absque permanentia jucundi non foret illis voluntas, nec sensatio, ita non vita. Ex his patet, quid et quale et unde jucundum Inferni, tum quid quale et unde jucundum caeli est.
[7.] His auditis, deductus est ad tertium coetum, ubi erant qui rimantur effectus, et vocantur Scientiae. Et hi dicebant, "Descende in terram inferiorem, et ascende in terram superiorem in his percepturus et [1]sentiturus es jucunditates et caeli et inferni."
Sed ecce tunc ad distantiam ab illis hiabat terra, et per hiatum ascendebant tres diaboli, apparentes igniti ex jucundo amoris illorum; et quia angeli consociati cum novitio spiritu percipiebant quod illi tres ex proviso ex inferno ascenderint, clamabant ad diabolos, "Ne accedite proprius; sed e loco ubi estis, narrate aliquid de jucundis vestris."
Et respondebant, "Scitote quod unusquisque, sive bonus sive malus dicatur, in suo jucundo sit; bonus ita dictus in suo, et malus ita dictus in suo."
Et quaesiverunt, "Quid vestrum jucundum?"
Dicebant, quod esset jucundum scortandi, vindicandi, defraudandi, blasphemandi.
Et iterum quaesiverunt, "Qualia sunt vobis jucunda illa?"
Dicebant quod sentiantur ab aliis sicut fetores ex stercoribus, et sicut putores ex cadaveribus, et sicut nidores ex urinis stagnatis."
Et quaesiverunt, "Sunt illa vobis jucunda?"
Dicebant, "Sunt jucundissima."
Et dixerunt, "Tunc estis sicut inmundae bestiae, quae in illis degunt."
Et responderunt, "Si simus sumus; sed talia sunt deliciae narium nostrarum."
Et quaesiverunt, "Quid plura?"
Dicebant, quod cuivis liceat in suo jucundo esse, etiam immundissimo, ut illud vocant, modo non infestet bonos spiritus et angelos; "sed quia ex jucundo nostro non potuimus aliter, quam illos infestare, conjecti sumus in ergastula, ubi dura patimur; inhibitio et retractio jucundorum nostrorum ibi, est quod vocatur cruciatus inferni, est quoque interior dolor."
Et quaesiverunt, "Cur infestavistis bonos?" Dicebant quod non potuerint aliter; "est sicut furor nos invadat, dum videmus aliquem angelum, et sentimus sphaeram Divinam Domini circum illum." Ad quod diximus, "Tunc estis etiam sicut ferae."
Et mox cum viderunt novitium spiritum cum angelis, supervenit diabolos furor, qui apparuit sicut ignis odii; quare ne damnum inferrent, in infernum rejecti sunt.
Post haec apparebant angeli qui ex finibus videbant causas, et per causas effectus, qui in caelo supra tres illos coetus erant, et hi visi sunt in candida luce, quae per spirales flexus se devolvens secum tulit rotundum sertum et floribus, et posuit super caput novitii spiritus; et tunc ad illum facta est vox inde, "Haec laurea tibi datur propter causam, quia a pueritia meditatus es de caelo et inferno."
 
   @1 “sententiturus:”vox ab Auctore saepissime adhibitur, Sic editio princeps; sic De Am. Conj., n. 461. A Doctore Tafel rectius legebatur “sensurus”
 
(2) 直訳
570. Quartum Memorabile:― 第四のメモラビリア――
 
Quondam locutus sum cum spiritu novitio, qui dum fuit in mundo, de caelo et inferno multum meditatus est. かつて私は新参の霊と話した、その者は世の中にいた時、天界と地獄について多くのものを熟考した。
Per spiritus novitios intelliguntur homines noviter defuncti, qui quia tunc sunt homines spirituales, vocantur spiritus. 新参の霊によって新たに死んだ人間が意味される、その者はその時、霊的な人間であるからである、霊と呼ばれる。
Ille, ut primum intravit in mundum spiritualem, coepit de caelo et inferno similiter meditari; 彼は、霊界の中に入ったとすぐに、天界と地獄について同様に熟考し始めた。
et sibi visus, cum de caelo, in laetitia, et cum de inferno, in tristitia, ille cum animadvertit se in mundo spirituali esse, statim quaesivit, ubi caelum et ubi infernum, tum quid et quale unum et alterum. また自分自身に見られた、天界について〔熟考する〕とき、喜びの中に、また地獄について〔熟考する〕とき、悲しみの中に、彼は自分自身が霊界の中にいることを認めたとき、直ちに尋ねた(求めた)、天界がどこに、地獄がどこに、なおまた一つのもう一つが何でどんなものか。
Et responderunt, "Caelum est supra caput tuum, et infernum est infra pedes tuos, nunc enim es in mundo spirituum, qui est medius inter caelum et infernum; また〔彼らは〕答えた、「天界はあなたの頭の上方にある、また地獄はあなたの足の下方にある、というのは、今や、あなたは霊たちの世界の中にいるから、それは天界と地獄の中央にある。
sed quid et quale caelum et quid et quale infernum est, non possumus paucis describere. しかし、天界が何でどんなものか、また地獄が何でどんなものか、私たちは簡単に述べることができない。
Et tunc quia flagrabat desiderio cognoscendi, projecit se super genua, et oravit devote ad Deum, ut instrueretur. またその時、知ることの願望が燃え立ったので、自分自身をひざの上に投げ出した、また神に信心深く祈った、教えられるように。
Et ecce apparuit angelus ad dextram ejus et elevavit illum, et dixit, "Supplicavisti ut instruereris de caelo et inferno. また、見よ、天使が右に見られた(現われた)、また彼を上げた(=立たせた)、また言った、「あなたは教えられるように懇願した、天界と地獄について。
Inquire et disce quid Jucundum, et cognosces." 何が「快さ」か探求せよ、また学べ、するとあなたは知る」。
Et angelus his dictis sublatus est. また、天使は、これらで言われて、上げられた(tollo)
[2.] Tunc spiritus novitius secum dixit, "Quid hoc, 'Inquire et disce quid jucundum, et cognosces quid et quale caelum et infernum est?'" [2] その時、新参の霊は自分自身に言った、「これは何か、『何が快さか探求せよ、また学べ、するとあなたは天界と地獄が何でどんなものか知る』?」
Mox e loco illo abiens circumvagatus est, et obvios allocutus dixit, "Dicite quaeso, si placet, quid jucundum." じきに、その場所から立ち去って、歩きまわった、また出会った者に話しかけて、言った、「言え、願わくば、もし喜びであるなら、何が快さか」。
Et dicebant aliqui, "Quae qualis haec quaestio? また、ある者は言った、「何か、どんなものか、この質問は?
quis non scit quid jucundum? だれが知らないか? 何が快さか。
estne gaudium et laetitia? 楽しさと喜びではないのか?
quare jucundum est jucundum, unum sicut alterum, non scimus discrimen. それゆえ、快さは快さである、あるものがもう一つのように、私たちは違いを知らない。
Alii dicebant quod jucundum esset risus mentis; 他の者たちは言った、快さは心のほほえみであったこと。
"dum enim mens ridet, est facies hilaris, loquela jocularis, gestus ludens, et totus homo in jucundo." 「というのは、心がほほえむ時、顔は機嫌がよい(快活である)、話し方は冗談〔まじりである〕、身ぶりはふざけている、また人間全体は快さの中に〔いる〕から。
Aliqui autem dicebant, "Jucundum nihil aliud est quam epulari et edere lautitias, ac bibere et generoso vino inebriari, et tunc confabulari de rebus variis, imprimis de ludis Veneris et Cupidinis." けれども、ある者たちは言った、「快さは他のものでは決してない、祝宴(宴会)以外の、またおいしいもの(ごちそう)を食べること、そして飲むこと、また銘酒(優良銘柄のワイン)に酔うこと、またその時、いろいろな事柄についておしゃべりすること、特にウェヌスとクピドー☆(愛欲と欲望)遊びについて。
ウェヌスは別名ヴィーナス(ミロのヴィーナスが有名)であり、愛と美の女神です。クピドーは別名キューピッドです(恋の橋渡し役)。ここは砕けて言えば(自分自身のまた他人の)「恋愛談議」です。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 00:24
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原典講読『真のキリスト教』569
(1) 原文
569. Tertium Memorabile:
 
Omnis amor apud hominem exspirat jucundum, per quod se facit sentiri; et exspirat id proxime in spiritum, et inde in corpus; et jucundum amoris ejus una cum amoeno cogitationis facit vitam ejus. Illa jucunda et amoena non sentiuntur nisi obscure ab homine, quamdiu vivit in corpore naturali, quia hoc corpus absorbet et hebetat illa; at post mortem, (cum corpus materiale ablatum est, et sic operimentum seu indumentum spiritus remotum,) tunc jucunda amoris et amoena cogitationis ejus plene sentiuntur et percipiuntur; et quod mirabile, quandoque sicut odores. Inde est, quod omnes in mundo Spirituali consocientur secundum amores suos, in caelo secundum suos, in inferno secundum suos. [2.] Odores, in quos vertuntur jucunda amorum in caelo, sentiuntur omnes sicut tales fragrantiae, suaveolentiae, amoenae spirationes, et deliciosae perceptiones, quales sentiuntur in hortis, floretis, agris et silvis in matutis, tempore veris. Odores autem in quos vertuntur jucunda amorum illorum qui in inferno sunt, sentiuntur ut nidores, fetore, et putores, quales e latrinis, cadaveribus, et stagnis quisquiliis et sterquiliniis oppletis; et quod mirabile, diaboli et satanae ibi sentiunt illa ut balsama, aromata et thura, quae nares et corda illorum refocillant. In mundo naturali datum etiam est bestiis, avibus et vermibus consociari secundum odores, sed non hominibus tunc, priusquam deposuerint corpora ut exuvias. [3.] Inde est, quod caelum distinctissime ordinatum sit secundum omnes varietates amoris boni, ac infernum ex opposito secundum omnes varietates amoris mali. Propter hanc oppositionem est, quod inter caelum et infernum sit hiatus, qui transiri non potest; illi enim qui in caelo sunt non sustinent aliquem odorem inferni, excitat enim nauseam et vomitum, et minatur deliquium, si attrahunt. Simile fit illis qui in inferno sunt, si meditullium istius hiatus transscendunt.
[4.] Quondam vidi aliquem diabolum apparentem e longinquo ut pardum, (qui ante aliquot dies inter angelos ultimi caeli visus est, et calluit artem se angelum lucis facere,) transeuntem meditullium, et stantem inter binas oleas, et non sentientem aliquem odorem vitae suae infestum. Causa erat, quia angeli non aderant: at vero ut primum aderant, convulsionibus actus est, ac decidit quoad omnes artus contractus; et tunc visus est sicut magnus serpens se contorquens in volvulos, et tandem se per hiatum devolvens, et exceptus a suis, et deportatus in cavernam, ubi a graveolente odore sui jucundi revixit.
[5.] Quondam etiam vidi quendam satanam punitum a suis. Quaesivi causam, et dicebatur, quod ille obturatis naribus accesserit ad illos qui in odore caeli erant, et quod redierit, et odorem illum super vestibus suis secum tulerit.
Aliquoties contigit, quod ex caverna aliqua inferni aperta putor sicut cadaveris strinxerit nares meas, et civerit vomitum.
Ex his constare potest, unde est, quod in Verbo "olfactus" significet perceptionem; nam dicitur saepius, quod Jehovah ex holocaustis odoratus sit odorem gratum; tum quod oleum unctionis, et quod thura parata sint ex fragrantibus: et vicissim, quod mandatum sit filiis Israelis, ut immunda e castris eorum exportarentur extra castra, et quod excrementa alvi defoderent et contegerent (Deutr. xxiii. 14, 15 [B.A. 12, 13]): causa erat, quia castra Israelis repraesentabant caelum, ac desertum extra castra repraesentabat infernum.
 
(2) 直訳
569. Tertium Memorabile:― 第三のメモラビリア――
 
Omnis amor apud hominem exspirat jucundum, per quod se facit sentiri; 人間のもとのすべての愛は、快さを発散させている、それによって、それ自体が感じられることを行なっている。
et exspirat id proxime in spiritum, et inde in corpus; またそれを最も近く霊の中で発散させている、またここから身体の中に。
et jucundum amoris ejus una cum amoeno cogitationis facit vitam ejus. また彼の愛の快さは思考の心さと一緒に彼のいのちをつくっている。
Illa jucunda et amoena non sentiuntur nisi obscure ab homine, quamdiu vivit in corpore naturali, quia hoc corpus absorbet et hebetat illa; その快さと楽しさ(快感)は人間によりぼんやりとでないなら感じられない、自然的な身体の中で生きる間、この身体はそれら〔快さと楽しさ(快感)〕を吸収し、鈍くするからである。
at post mortem, (cum corpus materiale ablatum est, et sic operimentum seu indumentum spiritus remotum,) tunc jucunda amoris et amoena cogitationis ejus plene sentiuntur et percipiuntur; しかし、死後(物質的な身体が取り去られた(aufero)とき、またこのように霊のおおいまたは衣服が遠ざけられた)、その時、彼の愛の快さと思考の楽しさ(快感)が十分に感じられ、知覚される。
et quod mirabile, quandoque sicut odores. また驚くべきこと〔であるが〕、ときどき(いつも☆)においのように〔感じられ、知覚される〕。
ここは受け止め方の違いでしょうか、私には「ときどき」よりも「いつも」の訳が好ましいです。「そうした時には必ず「におい」を感じるからです」。私の経験ですが、洗礼を受けた時、ある芳ばしいにおいを感じました。(二度とも、柳瀬師からも、その後、ジェネラルチャーチのキング主教からも)
Inde est, quod omnes in mundo Spirituali consocientur secundum amores suos, in caelo secundum suos, in inferno secundum suos. ここからである、霊界の中のすべての者は自分の愛にしたがって仲間となっている、自分のものにしたがって天界の中の、自分のものにしたがって地獄の中の。
[2.] Odores, in quos vertuntur jucunda amorum in caelo, sentiuntur omnes sicut tales fragrantiae, suaveolentiae, amoenae spirationes, et deliciosae perceptiones, quales sentiuntur in hortis, floretis, agris et silvis in matutis, tempore veris. [2] においは、その中へ天界の中の愛の快さが変えられる、すべてのものがこのような香気(芳香)のように感じられる、芳ばしさ、呼吸の楽しさ(快感)、また知覚のうれしいもの、朝の庭園の、花の、畑や森の中のようなものが感じられる、春の時の。
Odores autem in quos vertuntur jucunda amorum illorum qui in inferno sunt, sentiuntur ut nidores, fetore, et putores, quales e latrinis, cadaveribus, et stagnis quisquiliis et sterquiliniis oppletis; けれども、その中へ彼らの愛の快さが変えられる、その者は地獄の中にいる、悪臭のように感じられる、いやな臭い、また腐臭、便所、死体からのような、またよどんだ水〔から〕、廃物(ごみ)や糞の堆積でいっぱいの。
et quod mirabile, diaboli et satanae ibi sentiunt illa ut balsama, aromata et thura, quae nares et corda illorum refocillant. また驚くべきこと〔であるが〕、悪魔とサタンはそこにそれらをバルサム(香油)のように感じる、香料や乳香、それらは彼らの鼻と心をさわやかにする。
In mundo naturali datum etiam est bestiis, avibus et vermibus consociari secundum odores, sed non hominibus tunc, priusquam deposuerint corpora ut exuvias. 自然界の中でもまた、獣、鳥また虫に、においにしたがって仲間となれることが与えられる、しかし、人間にその時はない、身体をぬけがらとして捨てるより前に。
[3.] Inde est, quod caelum distinctissime ordinatum sit secundum omnes varietates amoris boni, ac infernum ex opposito secundum omnes varietates amoris mali. [3] ここからである、天界は善の愛のすべての多様性(変化)にしたがって最も区別して(明確に)秩序づけられていること、そして地獄は悪の愛のすべての多様性(変化)にしたがって対立から。
Propter hanc oppositionem est, quod inter caelum et infernum sit hiatus, qui transiri non potest; この対立があるために、天界と地獄の間に裂け目があること、それは渡られることができない。
illi enim qui in caelo sunt non sustinent aliquem odorem inferni, excitat enim nauseam et vomitum, et minatur deliquium, si attrahunt. というのは、彼らは、その者は天界の中にいる、地獄の何らかのにおいに耐えることができないから、というのは、吐き気と嘔吐を引き起こすから、また気絶を脅される、もし、引き寄せられる(=吸い込む)なら。
Simile fit illis qui in inferno sunt, si meditullium istius hiatus transscendunt. 彼らに同様に生じる、その者は地獄の中にいる、もしその中央の裂け目を渡るなら。
[4.] Quondam vidi aliquem diabolum apparentem e longinquo ut pardum, (qui ante aliquot dies inter angelos ultimi caeli visus est, et calluit artem se angelum lucis facere,) transeuntem meditullium, et stantem inter binas oleas, et non sentientem aliquem odorem vitae suae infestum. [4] かつて、私は遠くからヒョウのように見られた(現われた)ある悪魔を見た(その者は数日前に最も低い天界の天使の間に見られた、また技術で熟練した、自分自身を光の天使につくること)、中央を越えた、また二つのオリーブの木の間に立った、また自分のいのちを攻撃する何らかのにおいを感じなかった。
Causa erat, quia angeli non aderant: 理由があった、天使たちが近づかなかったからである。
at vero ut primum aderant, convulsionibus actus est, ac decidit quoad omnes artus contractus; しかし、近づくとすぐに、痙攣で働かられた(ひきつけを起こした)、そして倒れた、すべてのものに関して固く収縮して。
et tunc visus est sicut magnus serpens se contorquens in volvulos, et tandem se per hiatum devolvens, et exceptus a suis, et deportatus in cavernam, ubi a graveolente odore sui jucundi revixit. またその時、大きなヘビのように見えた、それ自体をねじって、巻き物の中に、また最後に裂け目を通ってそれ自体を転がし落とし、また自分自身から期待して、また洞窟の中に降ろされて、そこに自分のひどい悪臭により生き返った。
[5.] Quondam etiam vidi quendam satanam punitum a suis. [5] かつて、さらにまた私はあるサタンが自分のもの〔仲間〕から罰せられているのを見た。
Quaesivi causam, et dicebatur, quod ille obturatis naribus accesserit ad illos qui in odore caeli erant, et quod redierit, et odorem illum super vestibus suis secum tulerit. 私は理由を聞いた、また言われた、彼は鼻でふさいで、彼らに近づいた、その者は天界のにおいの中にいた、また戻ったこと、またそのにおいを自分の衣服の上に、それ自体に運んだ(fero)
Aliquoties contigit, quod ex caverna aliqua inferni aperta putor sicut cadaveris strinxerit nares meas, et civerit vomitum. 数回、起こった、地獄のある開かれた洞窟から死体のような腐臭が私の鼻を打ったこと、また嘔吐を引き起こした(吐き気を催した)(cio)
Ex his constare potest, unde est, quod in Verbo "olfactus" significet perceptionem; これらから明らかにすることができる、どこからであるか、みことばの中で「嗅覚」が知覚を意味すること。
nam dicitur saepius, quod Jehovah ex holocaustis odoratus sit odorem gratum; なぜなら、しばしば言われているから、エホバは全焼のいけにえから快いにおいをかがれたこと。
tum quod oleum unctionis, et quod thura parata sint ex fragrantibus: なおまた聖油のオリーブ油を〔かがれた〕こと、また乳香が用意された(整えられた)と、芳ばしさから――
et vicissim, quod mandatum sit filiis Israelis, ut immunda e castris eorum exportarentur extra castra, et quod excrementa alvi defoderent et contegerent (Deutr. xxiii. 14, 15 [B.A. 12, 13]): また逆に、イスラエル民族に命令されたこと、彼らの陣営から不潔なものを陣営の外に運び出されなければならないように、また腸の排泄物(糞)は埋められなければならない(defodio)またおおい隠されなければならないこと。
causa erat, quia castra Israelis repraesentabant caelum, ac desertum extra castra repraesentabat infernum. 理由があった、イスラエルの陣営は天界を表象したからである、そして陣営の外の荒野は地獄を表象した。
 
(3) 訳文
569. 第三のメモラビリア――
 
 人間のもとのすべての愛は、快さを発散させており、それによって、それ自体が感じられることを行なっている。またそれを最も近く霊の中で、またここから身体の中に発散させている。また彼の愛の快さは思考の心さと一緒に彼のいのちをつくっている。
 その快さと楽しさ(快感)は人間によりぼんやりとでないなら感じられない、自然的な身体の中で生きる間、この身体はそれら〔快さと楽しさ(快感)〕を吸収し、鈍くするからである。しかし、死後(物質的な身体が取り去られ、またこのように霊のおおいまたは衣服が遠ざけられたとき)、その時、彼の愛の快さと思考の楽しさ(快感)が十分に感じられ、知覚される。また驚くべきこと〔であるが〕、ときどき、においのように〔感じられ、知覚される〕。
 ここから、霊界の中のすべての者は自分の愛にしたがって自分のものにしたがって天界の中の、自分のものにしたがって地獄の中の仲間となっている。
 [2] その中へ天界の中の愛の快さが変えられるにおいは、すべてのものが、朝の庭園の、花の、春の時の畑や森の中のようなものが感じられる、このような芳香、芳ばしさ、呼吸の楽しさ(快感)、また知覚のうれしいものに感じられる。
 けれども、その中へ地獄の中にいる者の愛の快さが変えられるものは、便所、死体からのような、また廃物(ごみ)や糞の堆積でいっぱいのよどんだ水〔からの〕、悪臭、いやな臭い、腐臭のように感じられる。また驚くべきこと〔であるが〕、悪魔とサタンはそこにそれらをバルサム(香油)、香料や乳香のように感じ、それらは彼らの鼻と心をさわやかにする。
 自然界の中でもまた、獣、鳥また虫に、においにしたがって仲間となれることが与えられる、しかし、その時、人間に、身体をぬけがらとして捨てるより前にはない。
[3] ここから、天界は善の愛のすべての多様性(変化)にしたがって、そして地獄は悪の愛のすべての多様性(変化)にしたがって対立から最も区別して(明確に)秩序づけられている
 この対立があるために、天界と地獄の間に渡ることができない裂け目がある。というのは、天界の中にいる者は、地獄の何らかのにおいに耐えることができない、というのは、吐き気と嘔吐を引き起こすから、またもし、引き寄せられる(=吸い込む)なら気絶を脅されるから。
 地獄の中にいる者に、もしその中央の裂け目を渡るなら、同様に生じる。
 [4] かつて、私は遠くからヒョウのように現われたある悪魔を見た(その者は自分自身を光の天使につくることの技術に熟練しており、数日前に最も低い天界の天使の間に見られた)、その者は中央を越え、二つのオリーブの木の間に立った、また自分のいのちを攻撃する何らかのにおいを感じなかった。
 その理由は、天使たちが近づかなかったからである――しかし、近づくとすぐに、痙攣を起こし、そしてすべてのものに関して〔=全身を〕固く収縮して倒れた。またその時、、巻き物の中にそれ自体をねじった大きなヘビのように見えた、また最後に裂け目を通ってそれ自体を転がし落とし、また自分自身から期待して、洞窟の中に降ろされて、そこに自分のひどい悪臭により生き返った。
 [5] かつて、さらにまた私はあるサタンが自分のもの〔仲間〕から罰せられているのを見た。
 私は理由を聞いた、また言われた、彼は鼻でふさいで、天界のにおいの中にいた者たちに近づき、そのにおいを自分の衣服の上に、それ自体に運んで戻ったこと。
 数回、地獄のある開かれた洞窟から死体のような腐臭が私の鼻を打ち、吐き気を催したことが起こった。これらから、みことばの中で「嗅覚」が知覚を意味することがどこからであるか、明らかにすることができる。なぜなら、しばしば、エホバは全焼のいけにえから快いにおいをかがれたこと、なおまた聖油のオリーブ油を〔かがれた〕こと、また芳香から乳香が用意されたと――また逆に、イスラエル民族に、彼らの陣営から不潔なものを陣営の外に運び出され、また腸の排泄物(糞)は埋められ、おおい隠されなければならないことが命令されたことが言われているから。その理由は、イスラエルの陣営は天界を表象し、そして陣営の外の荒野は地獄を表象したからである。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 07:12
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原典講読『真のキリスト教』568(訳文)
(3) 訳文
568. 第二のメモラビリア――
 
 敬虔で賢明な者のだれが自分の死後の生活の運命を知ることを欲しないか? それゆえ、私は、知るために全般的なものを示す。
 すべての人間は、死後、今でも生きること、また他の世界の中にいることを気づき、そして、彼らの上に天界があり、そこに永遠の楽しさがあり、また彼らの下に地獄があり、そこに永遠の苦痛があることを聞く時、最初に自分の外なるものの中に、それらの中に前の世の中でいた中に戻され、またその時、確かに天界の中にやって来ること、そして聡明に話し、賢明に行動するであろうことを信じる。
 またある者は言う、「道徳的に私たちは生きた、私たちは尊敬すべきものを目指した、また故意に悪を行なわなかった」。
 また他の者は言う、「私たちはしばしば神殿(教会)を訪れ、ミサを聞き、聖なる彫像にキスし、ひざまづいて祈りを唱えた」。
 またある者は言う、「私たちは貧しい者に与え、乏しい者を援助し、敬虔な本(信仰修養書)、そしてまた、みことばを読んだ」。
 ほかに多くの似たことを。
 [2] しかし、〔彼らが〕これらを言った後、天使がそばに立ち、言う、「それらすべてのものは、それらをあなたがたは話に出した、あなたがたが外なるものの中で行なった。しかし、あなたがたは、依然として、あなたがたが内なるものの中でどんなものであるか知らない。
 今や、あなたがたは実体的な身体の中の霊である、そして霊はあなたがたの内なる人である。これがあなたがたの中にいる、その者が欲するものを考え、愛するものを欲し、そしてこれが彼のいのちの快さである。
すべての人間は、幼児期から外なるものから生活を始め、そして道徳的に行動すること、そして聡明に話すことを学ぶ、また天界とそこの幸運の観念得るとき、祈ること、しばしば神殿(教会)を訪れること、また礼拝の儀式に出席することを始める、そしてまた、悪が、自分の生来の泉からわき出てくる時、自分の心のふところの中にしまい込むこと、そしてまた才気で、欺きからの推論の誤用で、そのものが悪が悪であることが知られないまでもまわりをおおう。
 またその時、悪は、、またちりのように隠されて、おおわれるので、単に世の前に見られないように用心して、もはやそれらについて考えない。このように単に外なる者の中で道徳的な生活に専念し、またこのように二重の人間になる。外なるものの中で羊、また内なるものの中でオオカミである。また金の箱のよう〔であり〕、その内部に毒物がある。またこのように、そばに立っている者により感じられないように、口の中によい香りのものを保っている不潔に呼吸する者のようになる。またネズミの皮のようになる、それはバルサムのように(悪臭を)放つ。
 [3] あなたがたは、道徳的に生きた、また敬虔な熱望を目指した、と言った。しかし、願わくば、かつて、あなたがたはあなたがたの内なる人を調べ、また、殺人までも復讐する、姦淫までも欲望にふける、盗みまでもだます、虚偽の証人〔になる〕までも偽る何らかの欲望を知覚したか〔言ってください〕。
 十戒の四つの戒めに、「(あなたは)行なってはならない」言われている。また最後の二つ〔の戒め〕に、「むさぼってはならない」と言われている。
 あなたがたの内なる人が、これらの中であなたがたの外なる人と似たものであったことを、あなたがたは信じているのか? 。
 もし、このことをあなたがたが信じているなら、おそらく……」
[4] しかし、これらに彼らは答えた、「内なる人とは何か?
 これは外なる〔人〕と一つの同じものでないのか?
私たちは私たちの聖職者から、内なる人は信仰以外の他のものではないこと、また口での経験と道徳的な生活はそのしるしであることを聞いた、その働きであるからである」。
 それらに天使は答えた、「救う信仰は内なる人の中にある、またここからキリスト教徒の忠実と道徳(徳性)外なる人の中にある。しかし、もし前述の欲望が内なる人の中にあるなら、そのように意志の中にまたここから思考の中にとどまる、それゆえに、もし、内なるものがそれらを愛するなら、またそれでも外なるものの中で異なってあなたがたが行ない、話すなら、その時、あなたがたのもとに悪が善の上にある、また善が悪の下にある、そのために、どれほど理解力からあなたがたが話し、また愛からあなたがたが行動しても、内的に悪である、またこのことはそのようにまわりをおおわれている。またその時、あなたがたは人間と同じような行動を装う、しかし、彼らの心は大いに欠けている狡猾なチンパンジーのようである。
 [5] しかし、あなたがたの内なる人がどんなものであるかは(それについてあなたがたは何も知らない、あなたがたを調べなかった、また調査の後、悔い改めを行なわなかった)、時の後、あなたがたは、あなたがたが外なる人を脱ぐ時、そして内なる〔人〕の中に入れられるのを見る(ようになる)。またこのことが起こるとき、もはやあなたがたはあなたがたの仲間から、あなたがた自身からもまた認められない。
 私は見た、道徳的な〔しかし〕悪い者を、その時、野獣のようであり、隣人を獰猛な目で見つめ、致命的な(殺人を引き起こす)憎しみで燃え立ち、また外なる人の中で崇拝しながらも神を中傷する者であった」。
 これらを聞いて、彼らは去った。また天使は、その時、言った、「あなたがたは、今後、あなたがたの生活の運命を見る、なぜなら、じきに、人間の外なるものがあなたがたに取り去られるからである、そしてあなたがたは内なるものの中に入る、それは、今、あなたがたの霊である」。
 
author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 01:47
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原典講読『真のキリスト教』568(原文と直訳)
原典講読『真のキリスト教』568(原文と直訳)  (2015525)
 
(1) 原文
568. Secundum Memorabile:
 
Quis pius et sapiens non vult scire sortem vitae suae post mortem? quare manifestabo communia ut sciat. Omnis homo post mortem, cum sentit quod adhuc vivat, et quod in alio mundo sit, ac audit quod supra illum sit caelum ubi aeterna gaudia, et infra illum sit infernum ubi aeterni dolores, primum remittitur in externa sua in quibus fuit in mundo priori, et tunc credit quod certe in caelum venturus sit, ac loquitur intelligenter et agit prudenter.
Et dicunt aliqui, "Moraliter viximus, honesta sectavimus, ex proposito non fecimus malum." Et alii dicunt, "Frequentavimus templa, missas auscultavimus, sancta sculptilia osculati sumus, super genubus fudimus preces." Et quidam dicunt, "Pauperibus dedimus, opitulati sumus egenis, libros pietatis legimus, et quoque Verbum." Praeter plura similia.
[2.] At postquam haec dixerunt, adstant angeli, et dicunt, "Illa omnia quae memoravistis, fecistis in externis; sed nescitis adhuc quales estis in internis. Nunc estis spiritus in corpore substantiali, ac spiritus est internus vester homo; est hic in vobis qui cogitat quod vult, et vult quod amat, et hoc est jucundum vitae ejus. Omnis homo ab infantia inchoat vitam ab externis, ac discit moraliter agere, ac intelligenter loqui, et cum [1]ideam caeli et beatitudinis ibi [1]coepit, inchoat orare, frequentare templa, et solennia cultus obire, et usque mala, dum e suo fonte nativo scaturiunt, in sinu mentis suae recondere, et quoque ingeniose circumvelare ratiociniis ex fallaciis, usque adeo ut ipse non sciat quod malum sit malum. Et tunc mala quia circumvelata sunt et contecta sicut pulvere, non amplius cogitat de illis, cavendo solum ne appareant coram mundo; ita modo studet vitae morali in externis et sic fit homo duplex; fit ovis in externis, et lupus in internis; et sicut pyxis aurea in qua intus est venenum; et fit sicut foede respirans aromaticum in ore tenens ne ab adstantibus sentiatur; et fit sicut pellis muris quae balsamice olet. [3.] Dixistis, quod moraliter vixeritis, et quod studia pietatis sectaveritis; sed quaero, num usquam exploravistis internum vestrum hominem et percepistis aliquas concupiscentias vindicandi usque ad necem, libidinandi usque ad adulterium, defraudandi usque ad furtum, mentiendi usque [ad] falsum testimonium. In quatuor decalogi praeceptis dicitur Illa `Non facies;' et in duobus ultimis dicitur Illa `non concupisces.' Num creditis quod internus vester homo in his similis fuerit externo vestro? Si hoc creditis, forte"
[4.] Sed ad haec responderunt, "Quid internus homo? Estne hic et externus unus idem? Audivimus a ministris nostris quod internus homo non aliud sit quam fides, et quod pietas oris et moralitas vitae signum ejus sit, quia operatio ejus." Ad quae responderunt angeli, "Fides salvifica est in interno homine, pariter charitas, et inde est fidelitas et moralitas Christiana in externo homine; at si concupiscentiae supradictae in interno homine, ita in voluntate et inde in cogitatione manent, proinde si interius amatis illas, et tamen alter in externis agitis et loquimini, tunc apud vos malum est supra bonum, et bonum est infra malum, quapropter utcunque sicut ex intellectu loquimini, et ex amore agitis, interius est malum, et hoc ita circumvelatum; et tunc estis sicut Fingae astutae, quae fingunt actus similes humanis, sed cor eorum longe abest. [5.] Sed qualis internus vester homo est (de quo nihil scitis, quia non exploravistis vos, et post explorationem non paenitentiam egistis), post tempus visuri estis, quando exuemini externo homine, ac intromittemini in internum; et cum hoc fit, non amplius agnoscemini a consociis vestris, nec a vobis ipsis. Vidi morales malos tunc sicut feras, intuentes proximum truculentis oculis, flagrantes odio internecino, et blasphemantes Deum, quem in externo homine adoraverunt."
His auditis recesserunt; et angeli tunc dicebant, "Videbitis sortem vitae vestrae posthac, nam brevi auferetur vobis externus homo, ac intrabitis in internum, qui nunc est spiritus vester."
 
   @1 A Doctore Tafel legeretur cum ideam….cepit. Forte est legendum cum idea….coepit.
 
(2) 直訳
568. Secundum Memorabile:― 第二のメモラビリア――
 
Quis pius et sapiens non vult scire sortem vitae suae post mortem? 敬虔で賢明な者のだれが自分の死後の生活の運命を知ることを欲しないか?
quare manifestabo communia ut sciat. それゆえ、私は全般的なものを示す、知るために。
Omnis homo post mortem, cum sentit quod adhuc vivat, et quod in alio mundo sit, ac audit quod supra illum sit caelum ubi aeterna gaudia, et infra illum sit infernum ubi aeterni dolores, primum remittitur in externa sua in quibus fuit in mundo priori, et tunc credit quod certe in caelum venturus sit, ac loquitur intelligenter et agit prudenter. すべての人間は、死後、今でも生きることを気づくとき、また他の世界の中にいること、そして聞く、彼らの上に天界があること、そこに永遠の楽しさ〔がある〕、また彼らのしたに地獄がある、そこに永遠の苦痛〔がある〕、最初に自分の外なるものの中に戻される、それらの中に前の世の中でいた、またその時信じる、確かに天界の中にやって来ること、そして聡明に話す、また賢明に行動する。
Et dicunt aliqui, "Moraliter viximus, honesta sectavimus, ex proposito non fecimus malum." またある者は言う、「道徳的に私たちは生きた、私たちは尊敬すべきものを目指した、またはっきりとした目的で(故意に)私たちは悪を行なわなかった」。
Et alii dicunt, "Frequentavimus templa, missas auscultavimus, sancta sculptilia osculati sumus, super genubus fudimus preces." また他の者は言う、「私たちはしばしば神殿(教会)を訪れた、私たちはミサを聞いた、聖なる彫像にキスした、ひざの上で私たちは祈りを唱えた」。
Et quidam dicunt, "Pauperibus dedimus, opitulati sumus egenis, libros pietatis legimus, et quoque Verbum." またある者は言う、「私たちは貧しい者に与えた、援助をした、乏しい者を、敬虔な本(信仰修養書)読んだ、そしてまた、みことばを」。
Praeter plura similia. ほかに多くの似たことを。
[2.] At postquam haec dixerunt, adstant angeli, et dicunt, "Illa omnia quae memoravistis, fecistis in externis; [2] しかし、〔彼らが〕これらを言った後、天使がそばに立つ、また言う、「それらすべてのものは、それらをあなたがたは話に出した、あなたがたが外なるものの中で行なった。
sed nescitis adhuc quales estis in internis. しかし、あなたがたは知らない、依然として(やはり)、あなたがたが内なるものの中でどんなものであるか。
Nunc estis spiritus in corpore substantiali, ac spiritus est internus vester homo; 今や、あなたがたは実体的な身体の中の霊である、そして霊はあなたがたの内なる人である。
est hic in vobis qui cogitat quod vult, et vult quod amat, et hoc est jucundum vitae ejus. これがあなたがたの中にいる、その者が欲するものを考える、また愛するものを欲する、そしてこれが彼のいのちの快さである。
Omnis homo ab infantia inchoat vitam ab externis, ac discit moraliter agere, ac intelligenter loqui, et cum [1]ideam caeli et beatitudinis ibi [1]coepit, inchoat orare, frequentare templa, et solennia cultus obire, et usque mala, dum e suo fonte nativo scaturiunt, in sinu mentis suae recondere, et quoque ingeniose circumvelare ratiociniis ex fallaciis, usque adeo ut ipse non sciat quod malum sit malum. すべての人間は、幼児期から外なるものから生活を始める、そして道徳的に行動することを学ぶ、そして聡明に話すこと、また天界とそこの幸運の観念を始める(☆得る)とき、祈ることを始める、しばしば神殿(教会)を訪れること、また礼拝の儀式に出席すること、そしてまた、悪が、自分の生来の泉からわき出てくる時、自分の心のふところの中にしまい込む(隠す)こと、そしてまた才気でまわりをおおうこと、欺きからの推論の誤用で、そのものが知られないまでも、悪が悪であること。
注にあるように、ここはターフェル博士のように「得るcaoio」と読むほうがよいでしょう。注のように別読みもありえます。
Et tunc mala quia circumvelata sunt et contecta sicut pulvere, non amplius cogitat de illis, cavendo solum ne appareant coram mundo; またその時、悪は、おおわれるので、またちりのように隠された、もはたそれらについて考えない、単に世の前に見られないように用心して。
ita modo studet vitae morali in externis et sic fit homo duplex; このように単に外なる者の中で道徳的な生活に専念する、またこのように二重の人間になる。
fit ovis in externis, et lupus in internis; 外なるものの中で羊である、また内なるものの中でオオカミ。
et sicut pyxis aurea in qua intus est venenum; また金の箱のよう〔である〕、その内部に毒物がある。
et fit sicut foede respirans aromaticum in ore tenens ne ab adstantibus sentiatur; またこのように不潔に呼吸する者のようになる、口の中によい香りのものを保っている、そばに立っている者により感じられないように。
et fit sicut pellis muris quae balsamice olet. またネズミの皮のようになる、それはバルサムのように(悪臭を)放つ。
[3.] Dixistis, quod moraliter vixeritis, et quod studia pietatis sectaveritis; [3] あなたがたは言った、道徳的に生きたこと、また敬虔な熱望を目指した(追求した)
sed quaero, num usquam exploravistis internum vestrum hominem et percepistis aliquas concupiscentias vindicandi usque ad necem, libidinandi usque ad adulterium, defraudandi usque ad furtum, mentiendi usque [ad] falsum testimonium. しかし、願わくば、かつて、あなたがたはあなたがたの内なる人を調べたか、また何らかの欲望を知覚した、殺人までも復讐する、姦淫までも欲望にふける、盗みまでもだます、虚偽の証人〔になる〕までも偽る。
In quatuor decalogi praeceptis dicitur Illa `Non facies;' 十戒の四つの戒めに言われている、それらは「(あなたは)行なってはならない」。
et in duobus ultimis dicitur Illa `non concupisces.' また最後の二つ〔の戒め〕に言われている、それらは「むさぼってはならない」。
Num creditis quod internus vester homo in his similis fuerit externo vestro? あなたがたは信じているのか? あなたがたの内なる人が、これらの中で☆あなたがたの外なる人と似たものであったこと。
「これら」とは「行なってはならない」「むさぼってはならない」という戒めに対して、ということでしょう。
Si hoc creditis, forte" もし、このことをあなたがたが信じているなら、おそらく……☆」
ここで、文は中断しています、すなわち「中断法」という表現手段です、よく使われるのは「しかし……」といった形です。ここでは、続けるなら、「でも爐そらく畤じていないでしょう」といったところでしょう。
[4.] Sed ad haec responderunt, "Quid internus homo? [4] しかし、これらに彼らは答えた、「内なる人とは何か?
Estne hic et externus unus idem? これは外なる〔人〕と一つの同じものでないのか?
Audivimus a ministris nostris quod internus homo non aliud sit quam fides, et quod pietas oris et moralitas vitae signum ejus sit, quia operatio ejus." 私たちは私たちの聖職者から聞いた、内なる人は信仰以外の他のものではないこと、また口での経験と道徳的な生活はそのしるしであること、その働きであるので」。
Ad quae responderunt angeli, "Fides salvifica est in interno homine, pariter charitas, et inde est fidelitas et moralitas Christiana in externo homine; それらに天使は答えた、「救う信仰は内なる人の中にある、またここからキリスト教徒の忠実と道徳(徳性)外なる人の中にある。
at si concupiscentiae supradictae in interno homine, ita in voluntate et inde in cogitatione manent, proinde si interius amatis illas, et tamen alter in externis agitis et loquimini, tunc apud vos malum est supra bonum, et bonum est infra malum, quapropter utcunque sicut ex intellectu loquimini, et ex amore agitis, interius est malum, et hoc ita circumvelatum; しかし、もし上述の欲望が内なる人の中にあるなら、そのように意志の中にまたここから思考の中にとどまる、それゆえに、もし、内なるものがそれらを愛するなら、またそれでも外なるものの中で異なってあなたがたが行ない、話すなら、その時、あなたがたのもとに悪が善の上にある、また善が悪の下にある、そのために、どれほど理解力からあなたがたが話し、また愛からあなたがたが行動しても、内的に悪である、またこのことはそのようにまわりをおおわれている。
et tunc estis sicut Fingae astutae, quae fingunt actus similes humanis, sed cor eorum longe abest. またその時、あなたがたは人間と同じような行動を装う狡猾なチンパンジーのようである、しかし、彼らの心は遠く(大いに)欠けている。
[5.] Sed qualis internus vester homo est (de quo nihil scitis, quia non exploravistis vos, et post explorationem non paenitentiam egistis), post tempus visuri estis, quando exuemini externo homine, ac intromittemini in internum; [5] しかし、あなたがたの内なる人がどんなものであるかは(それについてあなたがたは何も知らない、あなたがたを調べなかったので、また調査の後、悔い改めを行なわなかった)、時の後、あなたがたは見る(ようになる)、あなたがたが外なる人を脱ぐ時、そして内なる〔人〕の中に入れられる。
et cum hoc fit, non amplius agnoscemini a consociis vestris, nec a vobis ipsis. またこのことが起こるとき、もはやあなたがたはあなたがたの仲間から認められない、あなたがた自身からもまた。
Vidi morales malos tunc sicut feras, intuentes proximum truculentis oculis, flagrantes odio internecino, et blasphemantes Deum, quem in externo homine adoraverunt." 私は見た、道徳的者を〔しかし〕悪い者を、その時、野獣のよう〔であった〕、隣人を獰猛な目で見つめている者、致命的な(殺人を引き起こす)憎しみで燃え立っている者、また神を中傷する者、それを外なる人の中で崇拝した」。
His auditis recesserunt; これらで聞いて、彼らは去った。
et angeli tunc dicebant, "Videbitis sortem vitae vestrae posthac, nam brevi auferetur vobis externus homo, ac intrabitis in internum, qui nunc est spiritus vester." また天使は、その時、言った、「あなたがたは、今後、あなたがたの生活の運命をみる、なぜなら、じきに、人間の外なるものがあなたがたに取り去られるからである、そしてあなたがたは内なるものの中に入る、それは、今、あなたがたの霊である」。
 
@1 A Doctore Tafel legeretur cum ideam….cepit. 注1 ターフェル博士により読まれる、cum ideam….
cepit
Forte est legendum cum idea….coepit. あるいは読まれるべきであるcum idea….coepit。〔「観念が始まるとき」の読みもありえます〕
 
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author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 02:10
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原典講読『真のキリスト教』567(訳文)
(3) 訳文
567.  これらに次のメモラビリアが加えられる。
 最初のもの(第一のもの)はこれ――
 
 突然に、私は、ほとんど致命的な死に襲われた――頭全体が病んだ。 「ソドムとエジプト」と呼ばれるエルサレム(黙示録11:8)から悪疫を引き起こす(伝染する)煙が放たれた。私は激しい苦痛とともに半死であった、私は最期を予期した――そのように私は寝床の中に、三日半の間、横たわった。
 私の霊がこのようになった、またそこから私の身体が。
 またその時、私は私の周囲で言っている声を聞いた、「見よ! 私たちの都の街路の中に死んだ者が横たわっている、その者は罪の赦しの中への悔い改めを、また人間キリストだけを宣べ伝えた」。
 また、聖職者からのある者たちに、彼が埋葬に適当と思うかどうか質問した。
 彼らは、否、と言った――「横たえておけ、そして見せ物にしておけ」。
 また、彼らは立ち去り、戻り、あざけった。
「黙示録」の第十一章が解説されているとき、真実から、そのように私に起こった、。
 その時、あざける者のきびしい声が聞こえた、特にこれら――
 「信仰なしに、どのように悔い改めが行われることができるのか?
 そのようにキリスト人間が神として崇拝されることができるのか?
  何も私たちの功績なしに、ただで私たちが救われている時、その時、信仰のみでないなら、働きとは何か? 〔その信仰は〕父なる神が子を遣わし、律法の断罪(有罪)を取り除き、私たちにご自分の功績を転嫁し、またそのようにご自分の前に私たちを義とし、また聖職者の使者(布告者)で私たちを罪から赦免し、またその時、聖霊が与えられ、その聖霊は私たちの中ですべての善を働く。
 これらは聖書に、そしてまた理性にしたがっていないか?」
 これらに、そばに立っている群れは拍手喝さいした。
 [2] 私はこれらを聞いた、ほとんど死かけて横たわったので、答えることもできなかった。しかし、三日半後、私の霊が健康になり、霊に関して私は都の中の街路から去り、また再び言った、「悔い改めを行なえ、またキリストを信じよ、またあなたがたに罪が赦される、またあなたがたは救われる、またもし〔そうし〕ないなら、あなたがたは滅びる。
 主ご自身が罪の赦しの中で悔い改めを、そしてその方を信じるように宣べ伝えなかったか?
 弟子たちに同じことを宣べ伝えるように命令しなかったか?
あなたがたの信仰の教義は、いのちのまったくの信頼といえるのか?」
 しかし、彼らは言った、「あなたは何とむだなおしゃべりをしている。子は贖罪をしなかったか? 父はそれを転嫁しなかったか? その方は私たちを義とした、(私たちは)のことを信じる。
 私たちは、このように恩寵の霊に導かれている。その時、私たちの中の罪とは何か? その時、私たちに死とは何か?
  罪のまた福音の布告者よ、あなたはこの福音を把握しているのか? 。
 しかし、その時、天界から声が発し、「悔い改めない者の信仰は、死んだものでないなら、何か?
 終わりがやって来る、あなたがたの目の中で罪がない者、あなたがたの信仰の中で義とされる者、サタンたち、あなたがたの自信の上に、終わりがやって来る」と言った。
 また、突然に、その時、都の真ん中に割れ目が開かれ、そしてそれ自体が広がり、また家の上に家が倒れ、またのみ込まれ、またすぐに広い沼地から水が泡立り、廃墟を水でおおった。
 [3] そのように押さえつけられ、また水でおおわれたのを見た時、私は彼らの運命を知ることを望んだ、また私に天界から、「あなたは見る、また聞く」と言われた。
 またその時、私の目の前でおおわれているのが見られたその水が消えた、水は霊界の中で対応(するもの)であるからである、またここから虚偽の中にいる者のまわりに見られた。またその時、私に、砂だらけの底の中に見られた、そこにでたらめの構造の石からの塊り、それらの間に彼らが走っていた、また、その大きな都から放り出されたことを嘆いていた。
 また彼らは大声で呼び、叫んだ、「なぜ、このことが私たちに?
 私たちは、私たちの信仰によって、清潔な者、純粋な者、正しい者、聖なる者ではないのか。私たちは、私たちの信仰によって清潔にされた者、清められた者、義とされた者、聖別された者ではないのか?」
 また、他の者たちは、「私たちは私たちの信仰によって、父なる神の前に現われ、見られ、評価されまた天使の前に、清潔な者、純粋な者、正しい者、また聖なる者に、このような者にされたのではないか? 私たちは和解され、なだめられ、あながわれ、またこのように自由にされ、洗い清められ、罪からぬぐい取られたのではないか?
 キリストにより律法の断罪が取り除かれていないか? 
 そこで、なぜ、断罪されたように私たちはここへ投げ込まれたのか?
 私たちは、私たちに大きな都の中の罪の大胆な布告者から、「キリストを信じよ、また悔い改めを行なえ」と聞いた。
 私たちはキリストを、その方の功績とともに信じなかったか。また、私たちが、私たちが罪人であることを告白した時、悔い改めを行なわなかったか? 
 そこで、なぜ、このことが私たちに起こったのか?」
[4] しかし、その時、脇から彼らに声が聞こえた、「あなたがたは知らないのか? 何かの罪が〔ある〕、その中にあなたがたがいる。やはりあなたがたは、調べなかったのではないか? それゆえ、あなたがたは何らかの悪を神の前に罪として避けなかったのではないか?(またそれを避けなかった者は、その中にいる)
 罪は悪魔ではないのか?
 それゆえ、それらの者について主が言ういうのはあなたがたである、
 
 「その時、あなたがたは、私たちはあなたの前で食べ、また私たちは飲み、また私たちの街路であなたは導いた、と言い始める。しかし、彼は言う、「私はあなたがたに言う、私はあなたがたがどこからであるのか知らない。私から立ち去れ、不正を働くすべての者よ」(ルカ13:26, 27、そのようにまたそれらの者についてマタイ17:22, 23)
 
 そこで、だれもが自分の場所の中に立ち去れ。
 あなたがたは、洞穴の中への開口部を見る。そこへ入れ、そこにあなたがたのそれぞれの者に行なうための自分の働きが、またその時、食べ物が、働きの量に応じて与えられる。もし〔入ら〕ないなら、それでも飢えがあなたがたを、入るように駆り立てる」。
 [5] その後、天界から地の上のある者に声がした、その者はその大きな都の外にいた(それについてもまた(黙示録)11:13)、大きな声で言って、「あなたがたに用心せよ、あなたがたに似た者との仲間(交わり)から。
 あなたがたは、罪と不正と呼ばれる悪が人間を不潔なものと不純なものに戻すことを理解できないのか?
実際の悔い改めによって、また主イエス・キリストへの信仰によって以外に、どのように人間はそれらから清潔にされること、また清められることができるのか?
 実際の悔い改めは、自分自身を調べ、自分の罪を知り、認めること、自分自身を罪あるとし、それを神の前に告白し、、それらの中で抵抗する、またこのようにそれらから離れること、新しい生活を送ること助けと力を懇願すること、またこれらすべてことをあなたがたからのように〔することである〕。
 そのように年の中で一度または二度、行なえ、あなたがたが聖餐に近づく時、またその後、あなたがたが行なった罪が、あなたがたの心に戻ってくるとき。その時、あなたがたに、あなたがたは言わなければならない、「私たちはそれらを欲しない、神に反する罪であるから」。
 これが実際の悔い改めである。
 [6] 自分の罪を調べない、また見ない者が、それらの中にとどまることをだれが理解することができないか? というのは、すべての悪は出生から快いものであるから。というのは、、復讐すること、淫行すること、だますこと、冒涜すること、特に自己愛から支配することは快いものであり、〔その〕快さにより、見られないようにされないか? またもし、おそらく罪であることが言われるなら、罪でないことをそれらの快さからそれらを弁解し、それどことか虚偽によって確信し、またそのようにそれらの中にとどまって、またそれらを行なって、その後、以前よりもさらに、またこれをその間、何が罪か、それどころか、罪であるかどうか知らない〔のではないか〕?
実際の悔い改めを行なったそれぞれの者に異なって生じる――彼は自分の悪を、それらを知り、認め、罪と呼び、そしてそれゆえ、それらを避け、嫌悪し、また最後にそれらの快さを不快と感じ始める。またこのことを行なえば行なうほど、それだけ善を愛し、また最後にこれらの快さを感じる、それは天界の天使の快さである。
 ひとことで言えば、だれかが悪魔を背後へ投げ返せば投げ返すほど、それだけ主により養子にされ、その方により教えられ、導かれ、悪から妨げられ、また善の中に保たれる。
 これが地獄から天界への道であり、他のものはない」。
 [7] 実際の悔い改めに対してある種の定着した拒絶、不本意と反感が改革派教徒にあることは驚くべきことである。それは、自分自身を調べることへ向けて、また自分の罪を見ることへ向けて、またそれを神の前に告白することへ向けて自分自身を強いることができないような、これほどのものである。それをしようとする時、身震いが彼らに入り込むようである。
 私は非常に多くの者に霊界の中でそのことについて質問した、またすべての者は、このことは彼らの力を越えている、と言った。
 ローマカトリック教徒がそれでもこのことを行なっていること、すなわち、自分自身を調べること、また公けに自分の罪を修道士の前に告白すること、またそのうえ、改革派教徒が密かに神の前に、たとえそれが聖餐へ近づく前に。彼らに等しく負わされていても(命じられていても)、それを行なうことができないことを彼らが聞いたとき、大いに驚いた。
 またなぜこのことが〔あるのか〕調べたそこのある者が、信仰のみがそのような悔い改めない状態を、またそのような心を引き起こしたことを見いだした。
 またその時、キリストを崇拝した、また聖徒に加護を祈らなかった、ローマカトリック教会からの者が救われたことを、彼らに見ることが与えられた。
 [8] これらの後、雷鳴のような、また天界から、「私たちは驚いている。改革派教徒の集団に、『キリストを信じよ、また悔い改めを行なえ、すると私たちは救われる』と言え」と言って、話す声が聞かれた。
 また、私は言った。またそのうえ、「洗礼は悔い改めの礼典であり、またここから教会の中への導入ではないのか?
 教父(名親)ちは〔幼児〕洗礼を授けられる者のために、悪魔とその働きを退けるように以外に他の何を誓約しないか? 
 聖餐は悔い改めの礼典であり、またここから天界の中への導入はないのか?
 聖餐に与る者に、近づく前にすべての者に悔い改めを行なうように言われていないか?
 教会の普遍的な教え〔である〕カテキズム〔十戒〕は悔い改めを教えていないか?
 第二の板の六つの戒めの中に、そこに、これやそれの悪をあなたは行なってならない、と言われていないか? また、これやそれの善をあなたは行なうべきである、と言われていない。
ここから知ることができる、だれかが悪を退け、顧みなければ顧みないほど、それだけ善に鼓舞され、また〔善を〕愛すること。また〔それ〕以前に何が善か、それどころか何が悪かも知らないこと」。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 00:43
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原典講読『真のキリスト教』567(直訳[5]〜[8])
(2) 直訳
[5.] Postea vox e caelo facta est ad quosdam super terra, qui extra urbem illam magnam fuerunt (de quibus etiam [Apoc.] xi. 13), dicens alte, "Cavete vobis, cavete vobis a consociatione cum similibus. [5] その後15、天界から地の上のある者に声がした、その者はその大きな都の外にいた(それについてもまた(黙示録)11:13)、大きな声で言って、「あなたがたに用心せよ、あなたがたに似た者との仲間(交わり)から。
Annon potestis intelligere, quod mala, quae vocantur peccata et iniquitates, immundum et impurum reddant hominem? あなたがたは理解できないのか、悪は、それらは罪と不正と呼ばれる、人間を不潔なものと不純なものに戻すこと?
Quomodo potest homo ab illis mundari et purificari, quam per actualem paenitentiam, et per fidem in Dominum Jesum Christum? どのように人間はそれらから清潔にされること、また清められることができるか、実際の悔い改めによって、また主イエス・キリストへの信仰によって以外に?
Actualis paenitentia est, explorare se, cognoscere et agnoscere sua peccata, se reum facere, confiteri illa coram Domino, implorare opem et potentiam resistendi in is, et sic desistere ab illis, et novam vitam agere, et haec omnia sicut a vobis. 実際の悔い改めである、自分自身を調べること、また自分の罪を知り、認めること、自分自身を罪あるとすること、それを神の前に告白すること、助けと力を懇願すること、それらの中で抵抗する、またこのようにそれらから離れること、新しい生活を送ること〔ネット上にミスプリがありました〕、またこれらすべてことをあなたがたからのように。
Facite ita semel aut bis in anno, quando acceditis ad Sanctam Communionem, et postea cum peccata, quorum reos vos fecistis, recurrunt; そのように一度または二度、年の中で行なえ、あなたがたが聖餐に近づく時、またその後、罪が、それらのreos☆あなたがたを、あなたがたが行なった、心に戻ってくるとき。
このreosとは何でしょうか? この語がなくても訳せますが?
tunc vobiscum dicatis, `Non volumus illa, quia sunt peccata contra Deum.' その時、あなたがたに、あなたがたは言わなければならない、「私たちはそれらを欲しない、神に反する罪であるから」。
Haec est paenitentia actualis. これが実際の悔い改めである。
[6.] Quis non potest intelligere, quod qui non explorat et videt sua peccata, maneat in illis? [6] だれが理解することができないか、自分の罪を調べない、また見ない者が、それらの中にとどまることを?
omne enim malum a nativitate jucundum est; というのは、すべての悪は出生から快いものであるから。
jucundum enim est, vindicare, scortari, defraudare, blasphemare, imprimis dominari ex amore sui annon jucundum facit ut non videantur? というのは、快いものである、復讐すること、淫行すること、だますこと、冒涜すること、特に自己愛から支配すること、快さが見られないようにしないか?
et si forte dicitur quod peccata sint, annon ex jucundo illorum excusatis illa, immo per falsa confirmatis quod peccata non sint, et sic manetis in illis, et facitis illa postea plus quam prius, et hoc eousque dum non scitis quid peccatum, immo num sit peccatum? またもし、おそらく言われるなら、罪であること、それらの快さからそれらの弁解で、それどことか虚偽によって確信して、罪でないことを、またそのようにそれらの中にとどまって、またそれらを行なって、その後、以前よりもさらに、またこれをそれだけ、〜の間、何が罪か知らない、それどころか、罪であるかどうか?
Aliter fit cuivis, qui paenitentiam actualiter egit: それぞれの者に異なって生じる、その者は実際の悔い改めを行なった――
ille mala sua, quae cognovit et agnovit, vocat peccata, ac ideo incipit illa fugere et aversari, et tandem jucundum illorum sentire injucundum; 彼は自分の悪を、それらを知り、認めた、罪と呼ぶ、そしてそれゆえ、それらを避けることと嫌悪することを始める、また最後にそれらの快さを不快と感じること。
et quantum hoc fit, tantum videt et amat bona, et tandem sentit horum jucundum, quod est jucundum angelorum caeli. またどれほどこのことを行なうか〔によって〕それだけ善を愛する、また最後にこれらの快さを感じる、それは天界の天使の快さである。
Verbo, quantum quis rejicit diabolum ad tergum, tantum adoptatur a Domino, et ab Ipso docetur, ducitur, detinetur a malis, et tenetur in bonis. ひとことで言えば、どれだけだれかが悪魔を背後へ投げ返すか〔によって〕それだけ主により養子にされる、またその方により教えられる、導かれる、悪から妨げられる、また善の中に保たれる。
Haec via est, et non alia ab inferno ad caelum." これが道である、また他のものはない、地獄から天界への」。
[7.] Hoc mirabile est, quod quaedam insita renuentia, tergiversatio et aversatio pro paenitentia actuali sit Reformatis; [7] このことは驚くべきことである、ある種の定着した拒絶、不本意(不承不承)と反感が、実際の悔い改めに対して改革派教徒にあること。
quae tanta est, ut non possint adigere semet ad explorandum se, et ad videndum sua peccata, et ad confitendum ea coram Deo; それはこれほどのものである、自分自身を調べることへ向けて自分自身を強いることができないような、また自分の罪を見ることへ向けて、またそれを神の前に告白することへ向けて。
est sicut horror invadat illos dum id intendunt. 身震い(恐怖感)が彼らに入り込むようである、それをしようとする時。
Quaesivi permultos in mundo spirituali de eo, et dixerunt omnes, quod hoc sit supra vires illorum. 私は非常に多くの者に霊界の中でそのことについて質問した、またすべての者は言った、このことは彼らの力を越えていること。
Cum audiverunt quod pontificii usque hoc faciant, hoc est, quod explorent se, et palam confiteantur peccata sua coram monacho, valde mirati sunt, et insuper quod Reformati non possint id facere in occulto coram Deo, tametsi id illis aeque injunctum est antequam ad Sacram Cenam accedunt. かっらが聞いたとき、ローマカトリック教徒がそれでもこのことを行なっていること、すなわち、自分自身を調べること、また公けに自分の罪を修道士の前に告白すること、大いに驚いた、またそのうえ、改革派教徒がそれを行なうことができないこと密かに神の前に、たとえそれが彼らに等しく負わされていても(命じられていても)、聖餐へ近づく前に。
Et quidam ibi inquisiverunt cur hoc, ac invenerunt quod sola fides talem impaenitentiae statum et tale cor induxerit. またある者が、そこに調べた、なぜこのことが、そして見いだした、信仰のみがそのような悔い改めない状態を、またそのような心を引き起こしたこと。
Et tunc datum est illis videre, quod illi ex Pontificiis, qui adorant Christum, et non invocant sanctos, salventur. またその時、彼らに見ることが与えられた、ローマカトリック教会からの者が、その者はキリストを崇拝した、また聖徒を加護を祈らなかった、救われたこと。
[8.] Post haec auditum est sicut tonitru, et vox loquens e caelo, dicens, "Miramur; [8] これらの後、聞雷鳴のような、また天界から話す声が聞かれた、言って、「私たちは驚いている。
dic ad coetum Reformatorum, `Credite in Christum, et agite paenitentiam, et salvabimini.'" 改革派教徒の集団に言え、『キリストを信じよ、また悔い改めを行なえ、すると私たちは救われる』」。
Et dixi; また、私は言った。
et insuper, "Estne Baptismus sacramentum paenitentiae, et inde introductio in ecclesiam? またそのうえ、「洗礼は悔い改めの礼典(秘跡)はないのか、またここから教会の中への導入?
Quid aliud patrini pro baptizando spondent, quam ut abdicet diabolum et ejus opera? 他の何を教父(名親)ちは〔幼児〕洗礼を授けられる者のために誓約しないか、悪魔とその働きを退けるように以外に。
Estne Sacra Cena sacramentum paenitentiae, et inde introductio in caelum? 聖餐は悔い改めの礼典(秘跡)はないのか、またここから天界の中への導入?
Diciturne ad communicantes, ut omnino ante accessionem paenitentiam agant? 聖餐に与る者に言われていないか、近づく前にすべての者に悔い改めを行なうように?
Estne Catechismus Doctrina universalis Ecclesiae Christianae, docens paenitentiam? 教会の普遍的な教え〔である〕カテキズム〔十戒〕は悔い改めを教えていないか?
Diciturne ibi in sex praeceptis secundae tabulae, Hoc et illud malum non facies? そこに言われていないか? 第二の板の六つの戒めの中に、これやそれの悪をあなたはおこなってならない。
et non dicitur, Hoc et illud bonum facies. また言われていない、これやそれの善をあなたは行なうべきである。
Inde potestis scire, quod quantum quis malum abdicat et aversatur, tantum bonum affectet et amet; ここから知ることができる、どれだけだれかが悪を退ける、また顧みないか〔によって〕、それだけ善に鼓舞され、また〔善を〕愛すること。
et quod prius non sciat quid bonum, immo nec quid malum." また〔それ〕以前に何が善か知らないこと、それどころか何が悪かも〔知ら〕ない」。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第9章, 03:11
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