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原典講読『霊界体験記』 167

(1) 原文

De vita Brutorum

 

167.  De vita brutorum cum angelis loquutus sum, nempe quod communi quadam vita regantur, quae est vita geniorum et spirituum, nam genii et spiritus classificati sunt, et tenentur secundum genera et classes, in suo ordine, inque sua subordinatione, qui{1} quia activitates sunt, inde communis vita existit, et quidem secundum facultates diversas brutorum, sicut ab omni alia activitate, quae diffundit se, et constituit sphaeram, quae sphaera activitatis vocatur, et se in subtiliori natura ad magnam, imo ad immensam distantiam [extendit]{2}, quilibet genius et spiritus suam sphaeram activitatis habet, quod multis demonstratum est, ita quoque omnes simul, secundum ordinem, in quo sunt, qui ordo nisi a Deo Messia conservaretur, periret{3} omne{4} vitale in terra, imo confunderetur totum coelum: haec causa est quod bruta secundum indolem suam vivant, nec ab ea deflectant, et quod varietates excitentur secundum objecta sensuum, et status mutationes in sanguine utroque. Homo autem et spiritus mali, quia contrariam naturae vitam, vivunt, regendi omnino sunt a Deo Messia per angelos secundum classes, etiam a spiritibus, quibus datur major vis operandi, quum homo in tentationes mittitur. Et nisi homines regerentur a Deo Messia per angelos et spiritus, nequicquam posset mens eorum intellectualis aperiri, et instrui, nam absque intellectu nascitur homo, et tempore intellectus formatur, aliter apud animalia bruta.

@1 in ms. quae in qui emendatum〔手書き原稿では quae qui に訂正されている〕

@2 sic J.F.I. Tafel〔ターフェルは extendit を補っている〕

@3 ms. perireret

@4 ms. omnne sed J.F.I. Tafel amoris

 

(2) 直訳

De vita Brutorum 獣のいのちについて

167.  De vita brutorum cum angelis loquutus sum, nempe quod communi quadam vita regantur, quae est vita geniorum et spirituum, 獣のいのちについて私は天使たちと話した、すなわち、全般的なある種のいのちに支配されていること、それは悪鬼と霊たちのいのちである。

nam genii et spiritus classificati sunt, et tenentur secundum genera et classes, in suo ordine, inque sua subordinatione, qui{1} quia activitates sunt, inde communis vita existit, et quidem secundum facultates diversas brutorum, なぜなら、悪鬼と霊たちは分類されているから、また種類(属)と部類にしたがって保たれている、その秩序の中に、そしてその従属の中に、それらは活動であるので、ここから全般的ないのちが存在する、その上(実際に)、獣のいろいろな能力にしたがって。

sicut ab omni alia activitate, quae diffundit se, et constituit sphaeram, quae sphaera activitatis vocatur, et se in subtiliori natura ad magnam, imo ad immensam distantiam [extendit]{2}, 他のすべての活動からのように、それはそれ自体をまきちらす(広がる)、またスフェアを構成する、それは活動のスフェアと呼ばれる、またそれ自体をさらに微細な自然の中に大きなものへ、それどころか測り知れない距離へ〔広げる〕。

quilibet genius et spiritus suam sphaeram activitatis habet, quod multis demonstratum est, ita quoque omnes simul, secundum ordinem, in quo sunt, どんな悪鬼や霊たちも自分の活動のスフェアを持っている、大いに示されたこと、そのようにすべての者もまた一緒に、秩序にしたがって〔持っている〕、その中にいる、

qui ordo nisi a Deo Messia conservaretur, periret{3} omne{4} vitale in terra, imo confunderetur totum coelum: その秩序が神メシアにより守られないなら、地の中のすべての生命力〔のあるもの〕が滅びる、それどころか、全天界が混乱させられる。

haec causa est quod bruta secundum indolem suam vivant, nec ab ea deflectant, et quod varietates excitentur secundum objecta sensuum, et status mutationes in sanguine utroque. これらが理由である、獣がその生来の性質にしたがって生きていること、それから逸れもしない、また多種多様なもの(変化)感覚の対象にしたがってかきたてられる(ひき起こされる)、また両方の血液☆の中の変化の状態〔にしたがって〕。

「両方の血液」とは962番に immunda spiritumm sanguinus(血液の精の不潔なもの) immunda seri sanguinus(血液の漿液の不潔なもの)とあるので、この二つ精(エキス)と漿液(血清)でしょう。

Homo autem et spiritus mali, quia contrariam naturae vitam, vivunt, regendi omnino sunt a Deo Messia per angelos secundum classes, etiam a spiritibus, quibus datur major vis operandi, quum homo in tentationes mittitur. けれども、人間と悪い霊は、自然に反した生活を、生きているので、すべての点で神メシアにより支配されなければならない、天使たちによって、部類にしたがって、霊たちによってもまた、彼らに働きかけるさらに大きな力が与えられている、人間が試練の中に入れられるとき。

Et nisi homines regerentur a Deo Messia per angelos et spiritus, nequicquam posset mens eorum intellectualis aperiri, et instrui, また、人間は神メシアにより支配されないなら、天使と霊たちを通して、決して彼の知性的な心は開かれることができない、また教えられること。

nam absque intellectu nascitur homo, et tempore intellectus formatur, なぜなら、人間は理解力なしに生まれているからである、また時が経つにつれて理解力が形作られる。

aliter apud animalia bruta. 獣のもとで異なって〔いる〕。

 

(3) 訳文

のいのちについて

 

167.  のいのちについて、私天使たちとしたすなわち、悪鬼たちのいのちである全般的なあるのいのちに支配されていることであるなぜなら、悪鬼たちはまた部類にしたがって分類されその秩序そしてその従属それらは活動であるのでここから全般的ないのちが存在実際、獣のいろいろな能力にしたがってたれているからである。他のすべての活動からのようにそれはがり、活動のスフェアとばれるスフェアを構成またさらに微細自然きなものへそれどころかれない距離げる。いにされたことであるが、どんな悪鬼たちも自分活動のスフェアをそのようにすべてのもまた一緒になってそのにいる秩序にしたがってっているその秩序メシアによりられないなら、地上のすべての生命力あるものがそれどころか、全天界混乱させられるこれらが、獣がその生来性質にしたがってそれかられもせずまた感覚対象にしたがってまた両方血液☆変化状態にしたがって、多種多様なものがひきこされる理由である。

 けれども、人間、自然した生活きているのですべてのメシアにより、部類にしたがって天使たちによって、霊たちによってもまた支配されなければならない、彼らには人間試練れられるとき、働きかけるさらにきなえられている

 また、人間メシアにより支配されないなら、天使たちをして、決して知性的かれ、教えられることができないなぜなら、人間理解力なしにまれ、時つにつれて理解力形作られるからである獣のもとで異なっている。

 

「両方の血液」とは、962番にあるように、血液の精(エキス)と漿液(血清)でしょう。962番参照。

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 00:40
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原典講読『啓示された黙示録』 最終節

(1) 原文

[Vers. 21.] "GRATIA DOMINI NOSTRI JESU CHRISTI CUM OMNIBUS VOBIS AMEN."

 

(2) 直訳

[Vers. 21.] "GRATIA DOMINI NOSTRI JESU CHRISTI CUM OMNIBUS VOBIS AMEN.” 〔第21節〕「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者に〔あるように〕、アーメン」 

 

(3) 訳文

直訳どおりです。

 

◎聖書の最後のことばが「恵み」があるように、とは印象的です。この世は愛にあふれ、その結果が「恵み」だと思っています。(原典講読『啓示された黙示録』を終えることができたことも、ほんの少しばかりであっても、私には「恵み」であり、感謝しています)

 2017103日から始まったこの『啓示された黙示録』もこれで終了です、やく2年ほどかかり、翻訳のペースがやや落ちて来ているかな、という気もします(早ければ1年半ぐらいか)

 速ければよい、というものはないし、じっくり(楽しみながら)やればこんなものでしょう。いつも思うのは、「続けていれば」いつかは「到達する」ということです。

 

◎さて次からは『霊界体験記』、これは大著です、終了はいつになるでしょうか(56年、またそれ以上でしょう)。この機会に柳瀬芳意氏について触れておきましょう。(ある人物がある仕事を「いつ」したのか)

 私が柳瀬氏に会ったのは昭和も平成に変わった正月、下井草の静思社を初訪問したとき。私が42歳、柳瀬氏(牧師ではあったが「師」とは呼びたくない、この理由は述べないほうがよいでしょう)80(すなわち彼は38年長)

 このとき、翻訳・出版だけでなく「牧会」していることを知り、3月には同師から洗礼を受けた。当時,同氏が翻訳中であった『黙示録講解』の第9, 10巻の校正の手伝いなどしながらも、翌年の5月に柳瀬氏から去った。簡単に言えばその人間性に失望したのであった(悪口になるのでこれ以上言わない、その後、何年かして「箱根集会」であったが、その時、柳瀬氏は私のことをすっかり忘れていた)

 さて、本題。(静思社版)『霊界日記』の第1巻の初版発行は昭和554月。これは柳瀬氏71歳のことである(彼は明治41(1908)1015日生まれ)(彼が61歳から始めた『天界の秘義』はまだ完成していない、完成は昭和58(74))。『天界の秘義』と並行しながら『霊界日記』を翻訳・出版していた。

 私も(現在72)、以前に『霊界日記』を読んでいた、そして「……」の箇所(柳瀬氏によれば、意味が不明なので、としている、しかし、よく読めばわかる)が多いので、「世に公開する出版物として、良心的でない(一カ月でも二カ月でも、その翻訳のために努力すべきではないだろうか)」と感じていた。

 なので、いつか、「原典にはこう書いてある」と紹介したかった。この機会が、ここで与えられる。ありがたいことである。この原典講読の読者の方々が、浅学ながらも、私の訳から何か得てもらえばそれで満足。なお、霊界への興味から、『霊界日記』を熱心に読んでいる方が多いことは承知している。

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 23:14
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原典講読『啓示された黙示録』 962(訳文)

(3) 訳文

962.第二のメモラビリア――

 

主により命令から、私に天界の中と天界の下にある驚くべきことを見ることが与えられたので、私は見られたものを記録すること義務がある。

 荘厳宮殿またその最内部神殿られたそのでできたがありそのみことばがあったそれにふたりの天使がそばに立った。

 その三列の椅子があった。第一列椅子純粋でつくられた紫色で、第二列椅子純粋でつくられたまた第三列椅子われていた

 机屋根宝石から広大がりの天蓋(てんがい)られそれらのきから、雨後、天がしずまったときののようなものが

 突然その時、すべてのものは祭司職能衣服椅子っている聖職者からのくのられた

 一つの側に宝庫があり、そこに守護の天使が立っていた。また内部に美しい順序でみごとな衣服が置かれていた。

[2] 主により招集された会議であった。また、私は、「熟考せよ」と言っている天界からの声を聞いた。

 しかし、彼らは言った、「何について?

 「主について、また聖霊について」と言われた。

 しかし、〔彼らが〕それらについて考えたとき、照らしの中にいなかった。それゆえ、懇願した。その時、光が天界から降り、それが最初に彼らの後頭部を照らし、またその後、こめかみを、また最後に、彼らの顔を照らした。また、その時、始まった。そして命令されたように、最初に、「主」について〔であった〕。

 また、最初の命題と討議は、「だれが処女マリアの中で人間性を取ったか?」であった。

 また、その上にみことばがあった机〔の脇〕に立っている天使が、彼らの前で「ルカ福音書」のこれらを読んだ――

 

 天使はマリヤに言った、「見よ、あなたは胎の中にみごもっている、また子を産む。またその名前をイエスと呼べ――この者は偉大な者になる、またいと高き方の子を呼ばれる。また、マリヤは天使に言った、私は男を知らないのに、どのようにこのことが起こるのか? また、天使は答えて、言った、聖霊があなたの上にやって来る、またいと高き方の力があなたをおおう。それゆえ、あなたから聖なる者が生まれ、神の子と呼ばれる」(1:31, 32, 34, 35)

 

 さらにまた「マタイ福音書」第120-25節のそれら、またそこに25節を、声高に読んだ。

 ほかにも、福音書からの多くのものを読んだ、そこにその方はご自分の人間性からエホバを自分の父と呼んでいる。そのようにまた、エホバご自身が世の中にやって来ることが預言書に予言されており、 それらの間に、「イザヤ書」のこれら二つもまた〔ある〕。

 

 「その日に言われる。見よ、この方は私たちの神、その方を私たちは、私たちを救うようにと待ち望んだ。この方はエホバ、その方を私たちは待ち望んだ。私たちは小躍りして喜び、その方の救いの中で喜ぶ」(25:9)

 「荒野の中で叫ぶ声、エホバの道を備えよ、荒れ地で私たちの神の大路を地ならしせよ。というのは、エホバの栄光が現わされ、すべての肉が一緒に見るから。見よ、神エホバが力の中にやって来られる。ご自分の群れを飼う羊飼いのように」(イザヤ40:3, 5, 10, 11)

 

[3] また天使は言った、「エホバご自身が世にやって来て、人間性を取り、またそのことによって人間を救い、あがなったので、それゆえ、その方は預言のもとに、「救い主」と「あがない主」と呼ばれている」。

 また、その時、彼らの前で続くこれらのものを読んだ――

 

 「神はただあなたの間にだけ〔おられ〕、他に神はいない。あなたは深く隠された神、イスラエルの神、救い主」(イザヤ545:14, 15)

 「わたしはエホバでないか、わたしのほかにもはや神はいない。わたしのほかに正義の神、救い主はいない」(イザヤ55:21, 22)

 「わたしはエホバ、わたしのほかに救い主はいない」(イザヤ43:11)

 「わたしは、あなたの神、エホバ、あなたはわたしのほかに神を認めない、わたしのほかに救い主はいない」(ホセア13:4)

 「わたしがエホバ、あなたの救い主、またあなたがあがない主〔である〕ことを、すべての肉が知るように」(イザヤ49:2660:16)

 「私たちのあがない主に関して、その方の名前は万軍の主」(イザヤ47:4)

 「彼らの贖い主は、強い、その方の名前は万軍の主」(エレミヤ50:34)

 「エホバは私の岩、私の贖い主」(詩篇19:14)

 「あなたのあがない主エホバ、イスラエルの聖なる者は、このように言われた。わたしはエホバ、あなたの神〔である〕」(イザヤ48:1742:1449:756:8)

 「あなたは、私たちの父、エホバ、あなたの名前は永久から私たちの贖い主」(イザヤ63:16)

 「あなたのあがない主エホバはこのように言われた、わたしはすべてのものを造った、わたし自身からひとりで」(イザヤ44:24)

 「イスラエルの王エホバ、またそのあがない主、万軍のエホバがこのように言われた、わたしは初めと終わり〔である〕、わたしのほかに神はいない」(イザヤ44:6)

 「その方の名前は万軍のエホバ、あなたのあがない主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれる」(イザヤ54:5)

 「見よ〔その〕日が来る、その時、わたしはダビデに正しい若枝を起こす、またその方の名前は、エホバ、私たちの正義」(エレミヤ23:5, 633:15, 16)

 「その日に、エホバは全地の上に王となる。その日に、エホバはひとり、またその方の名前は一つとなる」(ザカリヤ14:9)

 

 [4] これらやそれらから、椅子上に座っている者は確信して、エホバご自身が、人間をあがない、救うために人間性を取ったことを一致して言った。

 しかし、その時、神殿の隅に隠れていたローマカトリック教徒から声が聞こえた、「どのように神エホバは人間になることができるのか。全世界の創造者ではないのか?」

 また、第二列の椅子上に座っている者からある者が振り向き、言った、「そのとき、だれが?」

 また、彼は隅から答えた、「永遠からの子〔である〕」。

しかし、答えを受けた、「永遠からの子は、あなたがたの告白にしたがって、全世界の創造者でもまたないのか? また、永遠から生まれた子、または神とは何か? また、一つまた分割できないものである神的な本質が、分離されること、そしてその何らかのものが降りてくること、また人間性をまとうこと、また同時に全体〔であること〕がどのようにして、同じもののもとでできるのか?」

 [5] 霊魂と身体が一つであるように、このように父とその方は一つであるかどうか、主についてもう一つの討議があった。

 彼らは言った、このことは、霊魂は父からであるので、結果である。

 その時、第三列の椅子の上に座った者からのひとりが、『アタナシウス信条』と呼ばれる『信条』から、これらを読んだ――

 

 「わたしたちの主、イエス・キリスト、神の子は、神と人間であるけれども、それでも二つではない、しかし一つのキリスト、それどころか、完全に一つ、一つのペルソナ(位格)である。霊魂と身体が一つの人間をつくるように、そのように神と人間は一つのキリストであるからである」。

 

 読んでいる者は、「この信仰は、全キリスト教世界の中で、さらにまたローマカトリック教徒から受け入れられている」と言った。

 また、彼らは言った、「何が、多くの者に必要とされるのか? 霊魂と身体が一つであるように、父なる神とその方は一つである」。

また、彼らは、「そのようであるので、私たちは、主の人間性は、エホバの人間性であるので、神性である、なおまた、主は、神的人間性に関して近づくべきであること、またこのようにまた父と異なって呼ばれる神性に近づくことができない」と言った。

[6] このそれらの結論を天使は、みことばからの多くのものによって補強した、それらの間に、これらがあった。「イザヤ書」に――

 

 「少年が私たちに生まれた、子が私たちに与えられる、その名前は、不思議な者、助言者、神、英雄、永遠の地知、平和の君」(イザヤイザヤ9:6)

 

 同書に、

 

 「あなたは私たちの父。アブラハムは私たちを知らない、イスラエルは私たちを認めない。

あなた、エホバは、私たちの父。あなたの名前は永遠からの私たちの贖い主〔である〕」(63:16)

 

 また「ヨハネ福音書」に――

 

 「イエスは言われた。わたしを信じる者は、わたしを遣わした方を信じます。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見ます」(ヨハネ12:44, 45)

 「ピリポは言った」イエスに「私たちに父を示せ」。イエスは彼に言われた、わたしを見た者は、父を見たのです。それゆえに、どのように、私たちに父を示せと、あなたは言うのですか? 

あなたは信じないのですか? わたしが父の中に、また父がわたしの中に〔いる〕ことを。わたしに信じなさい、わたしが父の中に、また父がわたしの中に〔いる〕ことを」(14:8-11)

 

 また、最後に、このこと――

 

 「イエスは言われた。わたしは、道、真理、またいのちです。わたしを通してでないなら、だれも父へやって来ません」(14:6)

 

 これらを聞いて、すべての者は一つの口と心で言った、主の人間性は神的なものであること、またこれは父が近づかれるように近づくべきであること。永遠からの主である神エホバは、ご自分を世に送ったそのことによってので、ご自分を人間の目に見ることができるものに、またこのように近づくことができるものにした。同じく、ご自分を目に見えるものにした、またこのように古代人の前に人間の形の中で近づくことができるものにした、しかし、その時、天使を通して〔であった〕。

 [7] この後、聖霊についての考慮が続けられた。

 また、最初に、父なる神、子、また聖霊について多くの考えが示された。それらは、父なる神が高いところに、子はその方の右に座り、それら自体から、人間を照らし、教えるために聖霊を送ることである。

 しかし、その時、天界から声が聞かれた、言って、「私たちはその思考の観念を支えない。だれが、神エホバは遍在されることを知らないか? このことを知り、認める者は、さらにまた、その方は照らし、教えること、またその方から区別され、媒介として働く神ではなく、まして位格から位格のように区別される二つのものでないことを認める。それゆえ、前のむなしい観念は取り除かれ、また正しいこれが受け入れられ、あなたがたはこれをはっきりと見る」。

[8] しかし、その時、神殿の隅に隠れていたローマカトリック教徒からの声が聞こえ、言った、「そのとき、聖霊とは何か? それはみことばの中に、福音書のもとに、またパウロ〔の手紙〕のもとに名前を挙げられていおり、そこから聖職者からの学識ある者全部は、特に私たちからの者は、自分自身が導かれる、と言っている。今日のキリスト教世界の中で、聖霊を、またその働きを、だれが否定するのか?」

 これに第二列の椅子の上に座っていた彼らからのある者が向きを変え、また、言った、「聖霊は、エホバ主から発出する神性である。あなたがたは、聖霊はそれ自体によって、また神はそれ自体によって位格である、と言う。しかし、出て発出する働きでないなら、位格から出て発出する位格は何か? 一つの位格は他の位格から出て発出することができない、しかし、働きはできる。または、出て発出する神性でないなら、神から出て発出する神とは何か? 一つの神は他の神から、他の神によって出て発出することができない、しかし、神性は一つの神からできる。神的本質は一つまた分けられないものではないのか? また、神的本質、すなわち、神的エッセ(存在)は神であるので、神は一つまた分けられないものではないのか?」。

 [9] これらを聞いて、椅子の上に座っている者は、一致して結論に達した。聖霊はそれ自体によって位格でなく、それ自体によって神でなく、しかし、遍在する唯一の神から出て発出する聖なる神性、それは主であることである。

 これらに、その上にみことばがあった金の机〔の脇〕に立っていた天使は言った、「よろしい! 旧い契約の中のどこにも、預言者たちが聖霊から話したことは読まれない、しかし、エホバ、主から〔話した〕。またそこに、聖霊が言われている新しい契約の中では、発出する神性が意味され、それは、照らし、教え、生かす、改心させる、また再生させる神性である」。

 [10] この後、聖霊について別の討議が続いた。それは、「聖霊と呼ばれる神性はだれから発出するのか、父からなのか、あるいは主からなのか、父と呼ばれる神性からなのか、あるいは子と〔呼ばれる神的人間性からなのか」であった。

 またこれを議論していたとき、天界から光が照らし、その光から彼らは、聖霊によって意味される聖なる神性は、父から主を通って発出するのではなく、人間のもとの活動が霊魂から身体を通って発出するように、比較によって、主の中の神性から栄化されたその方の人間性を通して発出することを見た。

 このことを机〔の脇〕に立っている天使は、みことばからのこれらによって確信させた――

 

 「父が遣わしたその方は、神のことばを話す。その方に量って霊を与えなかった。父は子を愛し、すべてのものをその方の手の中に与えた」(ヨハネ3:34, 35)

「エッサイの幹から若枝が出た。その方の上にエホバの霊、知恵と知性の霊、思慮と力の霊が休息する」(ザヤ11:1, 2)

 エホバの霊がその方の上にあり、その方の中にあったこと(イザヤ42:159:19, 2061:1、ルカ4:18)

 「わたしがあなたがたに父から遣わす聖霊がやって来る時」(ヨハネ15:26)

 「聖霊はわたしを栄化します、わたしのものから受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持つどんなものでも、すべてのものは、わたしのものです。それゆえ、このことをわたしは言いました、わたしのものから受けて、あなたがたに知らせることです」(ヨハネ16:14, 15)

 「もし、わたしが去ったなら、わたしはパラクレートス(助け主)をあなたがたに遣わします」(ヨハネ16:7)

 パラクレートス(助け主)は聖霊である(ヨハネ14:26)

 「イエスはまだ栄化されていなかったので、聖霊はまだなかった」(ヨハネ7:39)

 栄化の後、イエスは弟子たちに息を吹き込んで、言った、「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)

 

 [11] 主の神的な遍在からのその方の神的な働きが、聖霊によって意味されるので、それゆえ、聖霊について弟子たちに話されたとき、それを父なる神から送ることを、さらにまた言われた、

 

 「わたしはあなたがた孤児を置き去りにしません。わたしは去り、また、あなたがたにやって来ます。……その日に、あなたがたは、わたしがわたしの父の中に、また、あなたがたがわたしの中に、また、わたしがあなたがたの中に〔いる〕こと知ります」(ヨハネ14:18, 20, 28)

 

 また、世から去る直前に、言った、

 

 「見よ。わたしはあなたがたとすべての日々、世代の完了までもいる」(マタイ28:20)

 

 これらが彼らの前で読まれて、天使は言った、「みことばからのそれらと他の多くのものから明らかである、神性は、主の中の神性からその方の神的人間性を通して発出すること」。

 これらに、椅子の上に座っている者たちは、言った、「これは神的な狄人である」。

 [12] 最後に、この決議がなされた――

 「この会議の中の熟考から、私たちははっきりと見る、またここから聖なる真理として認める。私たちの主イエス・キリストの中に、神的な三一性があること、それは、父と呼ばれるその方からの神性、子である神的人間性、また、聖霊である発出する神性である――そのように教会の中にひとつの神がいる」。

 [13] 壮大なその会議でこれらが結論された後、彼らは立ちあがった。また宝庫から守護の天使がやって来て、椅子の上に着席していたそれぞれの者に光り輝く服を携えてきた。その衣服はこことそこに金糸が編み込まれていた。また、言った、「婚礼の衣服を受け取れ」。

 また栄光の中に、新しいキリスト教徒の天界の中に導かれた。それに新しいエルサレムである地上の主の教会は結合される。

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 23:12
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原典講読『啓示された黙示録』 962(直訳[7]から終わりまで)

[7] Post haec sequebatur Deliberatio de Spiritu Sancto. [7] この後、「聖霊」についての考慮が続けられた。

Et primum detecta est plurium idea de Deo Patre, Filio et Spiritu Sancto, quae erat sicut Deus Pater sederet in alto, et Filius ad dextram Ejus, et a Se emitterent Spiritum Sanctum ad illustrandum et docendum homines. また、最初に、多くの観念(考え)が示された、父なる神、子、また聖霊について、それらであった、父なる神が高いところに座る、また子はその方の右に、それ自体☆から聖霊を送る、人間を照らし、教えるために。

seは単複同形です。それで「ご自分たち(父と子)から」の意味です。

At tunc audita est vox e Caelo, dicens, "Non sustinemus illam cogitationis ideam; しかし、その時、天界から声が聞かれた、言って、「私たちはその思考の観念を支えない(保持しない)

quis non scit quod Jehovah Deus sit Omnipraesens: だれが知らないか? 神エホバは遍在されること――

qui hoc scit et agnoscit, etiam agnoscet quod Ipse illustret et doceat, et quod non sit Deus intermedius, distinctus ab Ipso, et minus a duobus, ut persona a persona; このことを知り、認める者は、さらにまた認める(未来)、その方は照らす、教える、こと、またその方から区別される、媒介として働く神ではない、まして二つのものから〔区別される〕、位格から位格のように。

quare removeatur prior idea quae est vana, et recipiatur haec quae est justa, et videbitis hoc clare."  それゆえ、前の観念は取り除かれる、それはむなしい、またこれが受け入れられる、それは正しい、また、あなたがたはこれをはっきりと見る」。

[8] Sed tunc iterum audita est vox ex Romano Catholicis, qui se in angulo templi occultaverant, dicens, "Quid tunc est `Spiritus Sanctus,' Qui in Verbo nominatur apud Evangelistas et apud Paulum, a Quo tot docti e Clero, imprimis a nostro, se dicunt duci; [8] しかし、その時、ローマカトリック教徒からの声が聞こえた、その者は神殿の隅に隠れていた、言って、「その時(そのとき)、「聖霊」は何か? それはみことばの中に名前を挙げられている、福音書のもとに、またパウロ〔の手紙〕のもとに、そこから聖職者からの学識ある者全部は、特に私たちからの、自分自身が導かれることを言っている。

quis hodie in Christiano orbe Spiritum Sanctum et Ejus operationem negat." 今日のキリスト教世界の中で、聖霊を、またその働きを、だれが否定するのか?」

Ad haec convertit se unus et illis qui super soliis secundi ordinis sedebant, et dixit, "Spiritus Sanctus est Divinum procedens a Jehovah Domino. これに彼らからのある者が向きを変えた、その者は第二列の椅子の上に座っていた、また言った、「聖霊は、エホバ主から発出する神性である。

Vos dicitis quod Spiritus Sanctus sit Persona per se et Deus per se; あなたがたは言う、 聖霊はそれ自体によって位格であること、また神はそれ自体によって〔位格である〕。

sed quid est Persona exiens et procedens a Persona, nisi operatio exiens et procedens. しかし、位格から出る、また発出する位格は何か? 出る、また発出する働きでないなら。

Non potest una persona et altera per alteram exire et procedere, sed operatio potest. ある位格は他のもの〔位格〕から出ること、また発出することができない、しかし、働きはできる。

Aut quid est Deus exiens et procedens a Deo nisi Divinum exiens et procedens. または、神から出る、また発出する神は何か? 出る、また発出する神性でないなら。

Non potest unus Deus ab altero per alterum exire et procedere, sed Divinum potest. 一つの神は他のもの〔神〕から、他のもの〔神によって出ること、また発出することができない、しかし、神性はできる。

Estne Divina Essentia Una et Individua: 神的本質は一つまた分けられないものではないのか?

et quia Divina Essentia seu Divinum Esse est Deus, estne Deus Unus et Individuus." また、神的本質、すなわち、神的エッセ(存在)は神であるので、神は一つまた分けられないものではないのか?」

[9] His auditis, sedentes super soliis unanimiter concluserunt quod Spiritus Sanctus non sit Persona per se, nec Deus per se, sed quod sit Sanctum Divinum exiens et procedens et Unico Deo Omnipraesente, Qui est Dominus. [9] これらで聞いて、椅子の上に座っている者は、一致して結論に達した、聖霊はそれ自体によって位格でないこと、それ自体によって神でない、しかし、遍在する唯一の神から出る、また発出する聖なる神性であること、それは主である。

Ad haec dixerunt Angeli stantes ad mensam auream, super qua erat Verbum, "Bene; これらに、金の机〔の脇〕に立っていた天使は言った、その上にみことばがあった、「よろしい!

non legitur ullibi in Veteri Foedere quod Prophetae locuti sint Verbum ex Spiritu Sancto, sed ex Jehovah Domino; どこにも読まれない、旧い契約の中に、預言者たちが聖霊から話したこと、しかし、エホバ、主から。

et ubi in Novo Foedere dicitur `Spiritus Sanctus,' intelligitur Divinum procedens, quod est Divinum illustrans, docens, vivificans, reformans et regenerans." またそこに、新しい契約の中に、「聖霊」が言われている、発出する神性が意味される、それは、照らし、教え、生かす、改心させる、また再生させる神性である」。

[10] Post hoc successit altera ventilatio de Spiritu Sancto, quae erat, A Quo procedit Divinum, quod vocatur Spiritus Sanctus; [10] この後、聖霊について別の討議が続いた、それであった、「神性はだれから発出するか、それは聖霊と呼ばれる」。によって意味される、父からなのか、あるいは主からなのか。

num ex Divino quod Pater vocatur, vel ex Divino Humano quod Filius. 神性からなのか、それは父と呼ばれる、あるいは神的人間性から、それは子と〔呼ばれる〕。

Et cum hoc ventilabant, affulsit lux e Caelo, ex qua viderunt, quod Sanctum Divinum, quod intelligitur per Spiritum Sanctum, procedat ex Divino in Domino per Ipsius Humanum glorificatum, quod est Divinum Humanum, comparative sicut omne activum procedit ex anima per corpus apud hominem.  またこれを議論していたとき、天界から光が照らした、それ〔光〕から彼らは見た、聖なる神性は、それが聖霊によって意味される、主の中の神性から栄化されたその方の人間性を通して発出する、それは神的人間性である、比較によって、人間のもとのすべての活動が霊魂から身体を通って発出するように。

Hoc Angelus stans ad mensam confirmavit ex Verbo per haec: このことを机〔の脇〕に立っている天使はみことばからのこれらによって証明した(確信させた)――

"Quem misit Pater, verba De loquitur: 「その者を父が遣わした、神のことばを話す。

non ex mensura dedit Illi Spiritum; その方に測定から(量って)霊を与えなかった。

Pater amat Filium, et omnia dedit in manum Ipsius (Joh. iii. 34, 35); 父は子を愛する、またすべてのものをその方の手の中に与えた」(ヨハネ3:34, 35)

"Exibit Virga de trunco Jischaji; 「エッサイの幹から若枝が出た。

quiescet super Ipso Spiritus Jehovae, Spiritus Sapientiae et Intelligentiae, Spiritus Consilii et Virtutis" (Esaj. xi. 1, 2); その方の上にエホバの霊が休息する、知恵と知性の霊、思慮と力の霊」(イザヤ11:1, 2)

Quod Spiritus Jehovae datus sit super Illum, et quod esset in Illo (Esaj. xlii. 1: cap. lix. 19, 20; cap. lxi. 1; Luc. iv. 18): エホバの霊がその方の上にあった(与えられた)こと、また、その方の中にあったこと(イザヤ42:159:19, 2061:1、ルカ4:18)

"Quando venerit Spiritus Sanctus, Quem Ego missurus sum vobis a Patre" (Joh. xv. 26); 「聖霊がやって来る時、その者をわたしはあなたがたに父から遣わす」(ヨハネ15:26)

"Ille Me glorificabit, quia ex Meo accipiet, et annuntiabit vobis: 「その者(聖霊)はわたしを栄化する、わたしのものから受けて、あなたがたに知らせるので。

omnia quaecunque Pater habet Mea sunt; すべてのものは、父が持つどんなものでも、わたしのものである。

propter hoc dixi, quod ex Meo accepturus sit et annuntiaturus vobis" (Joh. xvi. 14, 15); それゆえ、このことをわたしは言った、わたしのものから受けて、あなたがたに知らせること」(ヨハネ16:14, 15)

"Si abivero, mittam Paracletum ad vos" (Joh. xvi. 7); 「もし、わたしが去ったなら、わたしは送る(遣わす)、パラクレートス(助け主)をあなたがたに」(ヨハネ16:7)

Paracletus est Spiritus Sanctus (Joh. xiv. 26); パラクレートス(助け主)は聖霊である(ヨハネ14:26)

"Nondum erat Spiritus Sanctus, quia Jesus nondum glorificatus erat" (Joh. vii. 39): 「聖霊はまだなかった、イエスはまだ栄化されていなかったので」(ヨハネ7:39)

Post glorificationem, "Jesus inspiravit, et dixit discipulis, Accipite Spiritum Sanctum" (Joh. xx. 22). 栄化の後、「イエスは弟子たちに息を吹き込んだ、また言った、聖霊を受けよ」(ヨハネ22:22)。

[11] Quoniam Divina Operatio Domini et Divina Omnipraesentia Ipsius per "Spiritum Sanctum" intelligitur, ideo cum ad discipulos locutus est de Spiritu Sancto, Quem a Deo Patre missurus est, etiam dicit, 主の神的な遍在からのその方の神的な働きが、「聖霊」によって意味されるので、それゆえ、聖霊について弟子たちに話されたとき、それを父なる神から送ること、さらにまた言った、

"Non relinquam vos orphanos; 「わたしはあなたがた孤児を置き去りにしない。

abeo et venio ad vos: わたしは去る、また、あなたがたにやって来る。

et in die illo cognoscetis quod Ego in Patre Meo, et vos in Me et Ego in vobis" (Joh. xiv. 18, 20, 28). その日に、あなたがたは知る、わたしがわたしの父の中に、また、あなたがたがわたしの中に、また、わたしがあなたがたの中に〔いる〕こと」(ヨハネ14:18, 20, 28)

Et mox antequam abivit a mundo, dixit, また、世から去る直前に、言った、

"Ecce Ego vobiscum sum omnibus diebus usque ad Consummationem saeculi" (Matth. xxviii. 20). 「見よ、わたしはあなたがたとすべての日々いる、世代の完了(時代の完成)までも」(マタイ28:20)

His coram illis lectis, dixit Angelus, "Ex his et pluribus aliis et Verbo, patet quod Divinum quod vocatur Spiritus Sanctus procedat ex Divino in Domino per Divinum Humanum Ipsius." これらが彼らの前で読まれて、天使は言った、「みことばからのそれらと他の多くのものから明らかである、神性は、それは聖霊と呼ばれる、主の中の神性からその方の神的人間性を通して発出すること」。

Ad haec sedentes super soliis, dixerunt, "Hoc est Divina Veritas." これらに、椅子の上に座っている者たちは、言った、「これは神的な狄人瓩任△襦廖

[12] Demum factum est Decretum, hoc:― [12] 最後に、決議がなされた、これ――

"Quod et deliberatis in hoc Concilio clare viderimus, et inde pro Sancta Veritate agnoscamus, quod in Domino nostro Jesu Christo sit Divina Trinitas, quae est, Divinum a Quo Quod vocatur Pater, Divinum Humanum Quod est Filius, et Divinum procedens Quod est Spiritus Sanctus: 「この会議の中の熟考から、私たちははっきりと見る、またここから聖なる狄人瓩箸靴毒Г瓩襦∋笋燭舛亮腑ぅ┘后Εリストの中に、神的な三一性があること、それは、父と呼ばれるその方からの神性、子である神的人間性、また、聖霊である発出する神性である――

ita est Unus Deus in Ecclesia." そのように教会の中にひとつの神がいる」。

[13] Postquam haec in magnifico illo Concilio conclusa sunt, surrexerunt; [13] これらが壮大なその会議が閉じられた後、彼らは立ちあがった。

et venit Angelus custos ex cimeliarchio, et apportabat cuivis ex illis qui super soliis consederunt vestes splendidas, hic et ibi intertextas filis aureis; また宝庫から守護の天使がやって来た、また彼らからのそれぞれの者に持ってきた(携えてきた)、その者は椅子の上に着席していた、光り輝く(みごとな)衣服を、こことそこに金糸が編み込まれた。

et dixit, "Accipite vestes nuptiales." また、言った、「婚礼の衣服を受け取れ」。

Et deducti sunt in gloria in Novum Caelum Christianum, cum quo Ecclesia Domini in terris, quae est Nova Hierosolyma, conjuncta erit. また栄光の中に、新しいキリスト教徒の天界の中に、導かれた、それに、地の中の主の教会は、それは新しいエルサレムである、結合される(未来)

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 23:09
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原典講読『啓示された黙示録』 962(直訳[6]まで)

(2) 直訳

962. SECUNDUM MEMORABILE :― 962.第二のメモラビリア――

Quoniam a Domino datum est mihi videre mirabilia quae in Caelis et sub Caelis sunt, et mandato me oportet memorare quod visum est. 主により私に驚くべきことを見ることが与えられたので、それは天界の中と天界の下にある、命令から、私に記録することが義務である、見られたものを。

Visum est Palatium magnificum, et in ejus intimo templum; 荘厳宮殿られたまたその最内部神殿

in medio hujus erat mensa et auro, super qua erat Verbum, cui adstabant bini angeli. そのでできたがあったそのみことばがあったそれに二人の天使がそばに立った。

Circum illam erant solia in triplici ordine: その椅子(席)があった、三列(三重順序)

solia primi ordinis erant obtecta panno holoserico purpurei coloris, solia secundi ordinis panno holoserico caerulei coloris, et solia tertii ordinis panno albo. 第一列椅子(席)純粋でつくられたわれていた、紫色、第二列椅子(席)純粋でつくられたまた第三列椅子()

Sub tecto alte super mensam apparuit aulaeum expansum, fulgens ex lapidibus pretiosis, ex quorum splendore effulsit sicut iris cum serenatur Caelum post pluviam.  屋根広大がりの幕☆られた、宝石からそれらのきから、雨後、天がしずまったときののように

『レキシコン』にありませんでしたが、ここは「天蓋(てんがい)」がよいです、語彙の追加です。

Subito tunc visi sunt totidem ex Clero sedentes super soliis, omnes induti veste ministerii sacerdotalis. 突然に、その時、椅子(席)の上に座っている聖職者からのそれでだけ多くの者が見られた、すべてのものは祭司の職能の衣服を着ていた。

Ad unum latus erat cimeliarchium, ubi stetit Angelus custos, et inibi in pulchro ordine jacebant vestes splendidae. 一つの側に宝庫があった、そこに守護の天使が立っていた、また内部に美しい順序で光輝く(みごとな)衣服が置かれていた。

[2] Erat Concilium convocatum a Domino; [2] 主により招集された会議であった。

et audivi vocem e Caelo dicentem, "Deliberate." また、私は天界からの声を聞いた、「熟考せよ」と言っている。

Sed dicebant, "De quibus." しかし、彼らは言った、「何について?」

Dictum est, "De Domino et de Spiritu Sancto." 言われた、「主について、また聖霊について」。

At cum de illis cogitabant, non erant in illustratione; しかし、〔彼らが〕それらについて考えたとき、照らしの中にいなかった。

quare supplicabant; それゆえ、懇願した。

et tunc Lux descendit e Caelo, quae primum illuminabat occipitia illorum, et postea tempora, et demum facies illorum; またその時、光が天界から降った、それが最初に彼らの後頭部を照らした、またその後、こめかみを、また最後に、彼らの顔を。

et tunc inchoabant;  また、その時、始まった。

ac ut mandatum est, primum de Domino. そして命令されたように、最初に、「主」について。

Et Propositio et Ventilatio prima fuit, "Quis assumpsit Humanum in Maria Virgine." また、最初の命題と討議であった、「だれが処女マリアの中で人間性を取ったか?」

Et Angelus stans ad mensam super qua erat Verbum, legit coram illis haec apud Lucam: また机〔の脇〕に立っている天使が、その上にみことばがあった、彼らの前で「ルカ(福音書)」のもとのこれらを読んだ――

 

Angelus dixit ad Mariam, "Ecce concipies in utero, et paries Filium; 天使はマリヤに言った、「見よ、あなたは胎の中にみごもっている、また子を産む。

et vocabis nomen Ejus Jesum: またその名前をイエスと呼ぶ(未来)――

Hic erit magnus, et Filius Altissimi vocabitur. この者は偉大な者になる、またいと高き方の子を呼ばれる。

Et Maria dixit ad Angelum, Quomodo fiet hoc, quoniam virum non cognosco. また、マリヤは天使に言った、どのようにこのことが起こるのか、私は男を知らないのに?

Et respondens Angelus dixit, Spiritus Sanctus veniet super te, et Virtus Altissimi obumbrabit te; また、天使は答えて、言った、聖霊があなたの上にやって来る、またいと高き方の力があなたをおおう。

unde quod nascitur ex te Sanctum, vocabitur Filius Dei" (cap. i. vers. 31, 32, 34, 35): そこから(それゆえに)、あなたから聖なる者が生まれる、神の子と呼ばれる」(131, 32, 34, 35)

tum etiam quae apud Matthaeum cap. i. vers. 20-25, et quae ibi in versu 25, legit alte. なおまた、さらにまた「マタイ福音書」のそれら第120-25節、またそれらそこに25節、声高に読んだ。

Praeter haec legit plura ex Evangelistis, ubi Dominus quoad Humanum Suum vocatur "Filius Dei," et ubi Ipse ex Humano Suo Jehovam vocat "Patrem" Suum; ほかにもこれらを読んだ福音書からの多くのものを、その方はご自分の人間性からエホバをご自分の「父」と呼んでいる。

ut et ex Prophetis, ubi praedicitur quod Ipse Jehovah in mundum venturus esset, inter quae etiam haec duo, apud Esajam. そのようにまた、預言者(の書)から、そこに予言されている、エホバご自身が世の中にやって来ること、それらの間に、これらの二つもまた、「イザヤ(書)」のもとに。

"Dicetur in die illo, Ecce Deus noster Hic, Quem exspectavimus ut liberet nos; その日に言われる、見よ、この方は私たちの神、その方を私たちは待ち望んだ、私たちを救うようにと。

Hic Jehovah Quem exspectavimus: この方はエホバ、その方を私たちは待ち望んだこの方はエホバ、その方を私たちは待ち望んだ。

exultemus et laetemur in Salute Ipsius" (xxv. 9). 私たちは小躍りして喜ぶ、また喜ぶ、その方の救いの中で」(25:9)

"Vox clamantis in deserto, Parate viam Jehovae, complanate in solitudine semitam Deo nostro: 「荒野の中で叫ぶ声、エホバの道を備えよ、荒れ地で私たちの神の大路を地ならしせよ――

revelabitur enim Gloria Jehovae, et videbunt omnis caro simul: というのは、エホバの栄光が現わされるから、また、すべての肉が一緒に見る。

ecce Dominus Jehovih in forti venit; 見よ、神エホバが力の中にやって来られる。

sicut Pastor gregem Suum pascet" (cap. xl. 3, 5, 10, 11). ご自分の群れを飼う、羊飼いのように」(403, 5, 10, 11)

[3] Et Angelus dixit, "Quoniam Ipse Jehovah in Mundum venit, et assumpsit Humanum, et per id salvavit et redemit homines, ideo Ipse apud Prophetas vocatur `Salvator' et `Redemptor.' [3] また天使は言った、「エホバご自身が世にやって来て、人間性を取り、またそのことによって人間を救い、あがなったので、それゆえ、その方は預言者(書)もとに、「救い主」と「あがない主」と呼ばれている」。

"Et tunc coram illis legit haec sequentia: また、その時、彼らの前でこれらを読んだ、続きのものを――

 

"Tantummodo inter te Deus, et praeterea non Deus; 「神はただあなたの間にだけ〔おられ〕、また他に神はいない。

profecto Tu Deus occultus, Deus Israelis salvator" (Esaj. xlv. 14, 15); あなたは深く隠された神、イスラエルの神、救い主」(イザヤ545:14, 15)

"Nonne Ego Jehovah, et non amplius Deus praeter Me; 「わたしはエホバでないか、またわたしのほかにもはや神はいない。

Deus justus et Salvator, non praeter Me" (Esaj. xlv. 21, 22); わたしのほかに正義の神、救い主はいない」(イザヤ55:21, 22)

"Ego Jehovah, et non praeter Me Salvator" (Esaj. xliii. 11); 「わたしはエホバ、また、わたしのほかに救い主はいない」(イザヤ43:11)

`Ego Jehovah Deus tuus, et Deum praeter Me non agnosces, et Salvator non praeter Me" (Hosch. xiii. 4); 「わたしは、あなたの神、エホバ、またあなたはわたしのほかに神を認めない、またわたしのほかに救い主はいない」(ホセア13:4)

"Ut sciat omnis caro, quod Ego Jehovah Salvator tuus et Redemptor tuus" (Esaj. xlix. 26; cap. lx. 16); 「すべての肉が、知るように、わたしがエホバ、あなたの救い主、またあなたがあがない主〔である〕ことを」(イザヤ49:26、第6016)

"Quod ad Redemptorem nostrum, Jehovah Zebaoth Nomen Ipsius" (Esaj. xlvii. 4); 「私たちのあがない主に関して、その方の名前は万軍の主」(イザヤ47:4)

"Redemptor eorum fortis, Jehovah Zebaoth Nomen Ipsius" (Jerem. l. 34); 「彼らのあがない主は、強い、その方の名前は万軍の主」(エレミヤ50:34)

"Jehovah, Petra mea et Redemptor meus" (Psalm. xix. 15 [B. A. 14]); 「エホバは、私の岩、また私の贖い主」(詩篇19:14)

"Sic dixit Jehovah Redemptor tuus, Sanctus Israelis, Ego Jehovah Deus tuus" (Esaj. xlviii. 17; cap. xliii. 14; cap. xlix. 7; cap. liv. 8); 「あなたのあがない主エホバ、イスラエルの聖なる者は、このように言った、わたしはエホバ、あなたの神〔である〕」(イザヤ48:17、第4314、第497、第548)

"Tu Jehovah Pater noster, Redemptor noster a saeculo Nomen Tuum" (Esaj. lxiii. 16); 「あなたは、私たちの父、エホバ、あなたの名前は永久から私たちのあがない主」(イザヤ63:16)

"Sic dixit Jehovah Redemptor tuus, Ego Jehovah faciens omnia, et Solus a Me Ipso (Esaj. xliv. 24); 「あなたのあがない主エホバはこのように言った、わたしはすべてのものを造った、わたし自身からひとりで」(イザヤ44:24)

"Sic dixit Jehovah Rex Israelis, et Redemptor ejus Jehovah Zebaoth, Ego Primus et Ultimus, et praeter Me non Deus" (Esaj. xliv. 6); 「イスラエルの王エホバ、またそのあがない主、万軍のエホバがこのように言った、わたしは初めと終わり〔である〕、またわたしのほかに神はいない」(イザヤ44:6)

"Jehovah Zebaoth Nomen Ipsius, et Redemptor tuus Sanctus Israelis, Deus totius terrae vocabitur" (Esaj liv. 5); " 「その方の名前は万軍のエホバ、また、あなたのあがない主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれる」(イザヤ54:5)

Ecce dies venient, cum suscitabo Davidi Germen justum, Qui regnabit Rex: 「見よ〔その〕日が来る、その時、わたしはダビデに正しい若枝を起こす、その方は王〔として〕支配する。

et hoc Nomen Ipsius Jehovah Justitia nostra" (Jerem. xxiii. 5. 6; cap. xxxiii. 15, 16); またこの方の名前は、エホバ、私たちの正義」(エレミヤ23:5, 6、第3315, 16)

"In die illo erit Jehovah in Regem super totam terram:  その日に、エホバは全地の上に王となる。

in die illo erit Jehovah unus, et Nomen Ipsius unum" (Sach. xiv. [8,] 9). その日に、エホバはひとり、またその方の名前は一つとなる」(ゼカリヤ14:9)

[4] Ex his et illis sedentes super soliis confirmati unanimiter dixerunt, quod Ipse Jehovah assumpserit Humanum ad salvandum et redimendum homines. [4] これらやそれらから椅子(席)の上に座っている者は確信して、一致して言った、エホバご自身が人間性を取ったこと、人間をあがない、救うために

Sed tunc audita est vox ex Romano Catholicis, qui occultaverant se in angulo templi, dicens, "Quomodo potest Jehovah Pater Homo fieri; しかし、その時、ローマカトリック教徒からの声が聞こえた、その者は神殿の隅に隠れていた、「どのように神エホバは人間になることができるのか。

estne Creator universi." 全世界の創造者ではないのか?」

Et convertit se unus ex sedentibus super soliis secundi ordinis, et dixit, "Quis tunc."  また、第二列の椅子(席)の上に座っている者からのある者が振り向いた、また言った、「そのとき、だれが?」

Et ille ex angulo respondit, "Filius ab aeterno." また、彼は隅から答えた、「永遠からの子〔である〕」。

Sed responsum tulit, "Estne Filius ab aeterno secundum vestram confessionem etiam Creator universi; しかし、答えを受けた(fero)、「永遠からの子は、あなたがたの告白にしたがって、全世界の創造者でもまたないのか?

et quid Filius aut Deus natus ab aeterno; また、永遠から生まれた子、または神とは何か?

et quomodo apud eundem: またどのようにして、同じもののもとで――

potest Divina Essentia, quae est Una et Individua, separari, ac aliquid Ejus descendere et suscipere Humanum, et non simul tota. 神的な本質ができるのか? それは一つまた分割できないものである、分離されること、そしてその何らかのものが降りてくること、また人間性をまとうこと、また同時に全体〔であること〕」。

[5] Altera Ventilatio de Domino erat, annon sic Deus Pater Ipse unum sunt, sicut anima et corpus unum sunt. [5] もう一つの討議が主についてあった、このように父とその方は一つであるかどうか、霊魂と身体が一つであるように。

Dixerunt, quod hoc consequens sit, quia a Patre est Anima. 彼らは言った、このことは結果である、霊魂は父からであるので。

Et tunc unus ex illis qui sedebant super soliis in tertio ordine, legebant et Symbolica Fide, quae Athanasiana vocatur, haec: また。その時、彼らからの一人が、その者は第三列の椅子(席)の上に座った、「(信仰の)信条」から読んだ、それは『アタナシウスの』と呼ばれる、これら〔である〕――

"`Tametsi noster Dominus Jesus Christus Filius Dei est Deus et Homo, usque non sunt duo, sed est Unus Christus, imo est prorsus Unus, est Una Persona; 「わたしたちの主、イエス・キリスト、神の子は、神と人間であるけれども、それでも二つではない、しかし一つのキリスト、それどころか、完全に一つ、一つのペルソナ(位格)である。

quoniam sicut anima et corpus faciunt unum hominem, ita Deus et Homo est Unus Christus.'" 霊魂と身体が一つの人間をつくるように、そのように神と人間は一つのキリストであるので」。

Dixit legens, quod haec Fides recepta sit in universo Christiano orbe etiam a Romano Catholicis. 読んでいる者は言った、この信仰は、全キリスト教世界の中で受け入れられていること、さらにまたローマカトリック教徒から。

Et dixerunt tunc, "Quid pluribus opus est; また、彼らは言った、「何が、多くの者で、必要とされるか?」

sunt Deus Pater et Ipse Unum, sicut Anima et Corpus unum sunt." 父なる神とその方は一つである、霊魂と身体が一つであるように」。

Et dixerunt, "Quia ita est, videmus quod Humanum Domini sit Divinum, quia est Humanum Jehovae; また、彼らは言った、「そのようであるので、私たちは見る、主の人間性は、エホバの人間性であるので、神的なもの(神性)であること。

tum quod Dominus quoad Divinum Humanum adeundus sit, et quod sic et non aliter adiri possit Divinum quod Pater vocatur." なおまた、主は、神的人間性に関して近づくべきであること、またこのようにまた異なって父と呼ばれる神性に近づくことができないこと」。

[6] Hoc illorum conclusum confirmavit Angelus per plura adhuc ex Verbo, inter quae fuerunt haec; [6] このそれらの結論を天使は補強(確認)した、みことばからの多くのものによて、それらの間に、これらがあった。

apud Esajam: 「イザヤ(書)」のもとに――

"Puer natus est nobis, et Filius datus est nobis, Cujus Nomen Mirabilis, Consiliarius, Deus, Heros, Pater aeternitatis, Princeps pacis" (ix. 5 [B. A. 6]); 「少年が私たちに生まれた、子が私たちに与えられる、その名前は、不思議な者、助言者、神、英雄、永遠の地知、平和の君」(9:6)

apud eundem: 同書のもとに、

"Tu Pater noster; 「あなたは私たちの父。

Abraham non cognovit nos, et Israel non agnoscit nos; アブラハムは私たちを知らない、またイスラエルは私たちを認めない。

Tu Jehovah Pater noster, Redemptor noster a Saeculo Nomen Tuum" (lxiii. 16); あなたは、エホバは私たちの父、あなたの名前は永遠からの私たちのあがない主〔である〕」(63:16)

et apud Johannem: また「ヨハネ(福音書)」のもとに――

"Jesus dixit, Qui credit in Me, credit in Ipsum Qui misit Me; 「イエスは言った、わたしを信じる者は、わたしを遣わした方(そのもの)を信じる。

et qui videt Me, videt Ipsum Qui misit(1) Me" (Joh. xii. 44, 45); また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方(そのもの)を見る」(ヨハネ12:44, 45)

"Dixit Philippus ad Jesum, Monstra nobis Patrem; 「ピリポは言った」イエスに「私たちに父を示せ。

dicit illi Jesus, Qui vidit Me vidit Patrem; イエスは彼に言った、わたしを見た者は、父を見た。

quomodo ergo tu dicis, Monstra nobis Patrem. それゆえに、どのように、あなたは言うのか? 私たちに父を示せ、と。

Nonne credis quod Ego in Patre et Pater in Me; あなたは信じないのか? わたしが父の中に、また父がわたしの中に〔いる〕ことを。

credite Mihi quod Ego in Patre et Pater in Me" (Joh. xiv. 8-11); わたしに信じよ、わたしが父の中に、また父がわたしの中に〔いる〕ことを」(ヨハネ14:8-11)

et demum hoc: また、最後に、このこと――

"Jesus dixit, Ego sum Via, Veritas et Vita;  「イエスは言った、わたしは、道、真理、またいのちである。

nemo venit ad Patrem nisi per Me" (Joh. xiv. 6). わたしを通してでないなら、だれも父へやって来ない」(14:6)

His auditis dixerunt omnes uno ore et corde, quod Humanum Domini sit Divinum, et quod Hoc adeundum sit ut adeatur Pater; これらで聞いて、すべての者は一つの口と心で言った、主の人間性は神的なものであること、またこれは父が近づかれるように近づくべきであること。

quoniam Jehovah Deus, Qui est Dominus ab aeterno, per Illud Se misit in mundum, et Se fecit visibilem oculis hominum, et sic accessibilem; 神エホバは、その方は永遠からの主である、ご自分を世に送ったそのことによって、またご自分を人間の目に見ることができるものにした、またこのように近づくことができるものに。

pariter fecit Se visibilem et sic accessibilem in forma Humana coram antiquis, sed tunc per Angelum. 等しく(同じく)、ご自分を目に見えるものにした、またこのように古代人の前に人間の形の中で近づくことができるものに、しかし、その時、天使を通して〔であった〕。

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 00:04
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原典講読『啓示された黙示録』 962(原文)

(1) 原文

962. SECUNDUM MEMORABILE :

 

Quoniam a Domino datum est mihi videre mirabilia quae in Caelis et sub Caelis sunt, et mandato me oportet memorare quod visum est.

Visum est Palatium magnificum, et in ejus intimo templum; in medio hujus erat mensa et auro, super qua erat Verbum, cui adstabant bini angeli. Circum illam erant solia in triplici ordine: solia primi ordinis erant obtecta panno holoserico purpurei coloris, solia secundi ordinis panno holoserico caerulei coloris, et solia tertii ordinis panno albo.

Sub tecto alte super mensam apparuit aulaeum expansum, fulgens ex lapidibus pretiosis, ex quorum splendore effulsit sicut iris cum serenatur Caelum post pluviam. Subito tunc visi sunt totidem ex Clero sedentes super soliis, omnes induti veste ministerii sacerdotalis. Ad unum latus erat cimeliarchium, ubi stetit Angelus custos, et inibi in pulchro ordine jacebant vestes splendidae.

[2] Erat Concilium convocatum a Domino; et audivi vocem e Caelo dicentem, "Deliberate."

Sed dicebant, "De quibus."

Dictum est, "De Domino et de Spiritu Sancto." At cum de illis cogitabant, non erant in illustratione; quare supplicabant; et tunc Lux descendit e Caelo, quae primum illuminabat occipitia illorum, et postea tempora, et demum facies illorum; et tunc inchoabant; ac ut mandatum est, primum de Domino.

Et Propositio et Ventilatio prima fuit, "Quis assumpsit Humanum in Maria Virgine."

Et Angelus stans ad mensam super qua erat Verbum, legit coram illis haec apud Lucam:

 

Angelus dixit ad Mariam, "Ecce concipies in utero, et paries Filium; et vocabis nomen Ejus Jesum: Hic erit magnus, et Filius Altissimi vocabitur. Et Maria dixit ad Angelum, Quomodo fiet hoc, quoniam virum non cognosco. Et respondens Angelus dixit, Spiritus Sanctus veniet super te, et Virtus Altissimi obumbrabit te; unde quod nascitur ex te Sanctum, vocabitur Filius Dei" (cap. i. vers. 31, 32, 34, 35):

 

tum etiam quae apud Matthaeum cap. i. vers. 20-25, et quae ibi in versu 25, legit alte. Praeter haec legit plura ex Evangelistis, ubi Dominus quoad Humanum Suum vocatur "Filius Dei," et ubi Ipse ex Humano Suo Jehovam vocat "Patrem" Suum; ut et ex Prophetis, ubi praedicitur quod Ipse Jehovah in mundum venturus esset, inter quae etiam haec duo, apud Esajam.

 

"Dicetur in die illo, Ecce Deus noster Hic, Quem exspectavimus ut liberet nos; Hic Jehovah Quem exspectavimus: exultemus et laetemur in Salute Ipsius" (xxv. 9).

"Vox clamantis in deserto, Parate viam Jehovae, complanate in solitudine semitam Deo nostro: revelabitur enim Gloria Jehovae, et videbunt omnis caro simul: ecce Dominus Jehovih in forti venit; sicut Pastor gregem Suum pascet" (cap. xl. 3, 5, 10, 11).

 

[3] Et Angelus dixit, "Quoniam Ipse Jehovah in Mundum venit, et assumpsit Humanum, et per id salvavit et redemit homines, ideo Ipse apud Prophetas vocatur `Salvator' et `Redemptor.' "Et tunc coram illis legit haec sequentia:

 

"Tantummodo inter te Deus, et praeterea non Deus; profecto Tu Deus occultus, Deus Israelis salvator" (Esaj. xlv. 14, 15);

"Nonne Ego Jehovah, et non amplius Deus praeter Me; Deus justus et Salvator, non praeter Me" (Esaj. xlv. 21, 22);

"Ego Jehovah, et non praeter Me Salvator" (Esaj. xliii. 11);

`Ego Jehovah Deus tuus, et Deum praeter Me non agnosces, et Salvator non praeter Me" (Hosch. xiii. 4);

"Ut sciat omnis caro, quod Ego Jehovah Salvator tuus et Redemptor tuus" (Esaj. xlix. 26; cap. lx. 16);

"Quod ad Redemptorem nostrum, Jehovah Zebaoth Nomen Ipsius" (Esaj. xlvii. 4);

"Redemptor eorum fortis, Jehovah Zebaoth Nomen Ipsius" (Jerem. l. 34);

"Jehovah, Petra mea et Redemptor meus" (Psalm. xix. 15 [B. A. 14]);

"Sic dixit Jehovah Redemptor tuus, Sanctus Israelis, Ego Jehovah Deus tuus" (Esaj. xlviii. 17; cap. xliii. 14; cap. xlix. 7; cap. liv. 8);

"Tu Jehovah Pater noster, Redemptor noster a saeculo Nomen Tuum" (Esaj. lxiii. 16);

"Sic dixit Jehovah Redemptor tuus, Ego Jehovah faciens omnia, et Solus a Me Ipso (Esaj. xliv. 24);

"Sic dixit Jehovah Rex Israelis, et Redemptor ejus Jehovah Zebaoth, Ego Primus et Ultimus, et praeter Me non Deus" (Esaj. xliv. 6);

"Jehovah Zebaoth Nomen Ipsius, et Redemptor tuus Sanctus Israelis, Deus totius terrae vocabitur" (Esaj liv. 5); "

Ecce dies venient, cum suscitabo Davidi Germen justum, Qui regnabit Rex: et hoc Nomen Ipsius Jehovah Justitia nostra" (Jerem. xxiii. 5. 6; cap. xxxiii. 15, 16);

"In die illo erit Jehovah in Regem super totam terram: in die illo erit Jehovah unus, et Nomen Ipsius unum" (Sach. xiv. [8,] 9).

 

[4] Ex his et illis sedentes super soliis confirmati unanimiter dixerunt, quod Ipse Jehovah assumpserit Humanum ad salvandum et redimendum homines.

Sed tunc audita est vox ex Romano Catholicis, qui occultaverant se in angulo templi, dicens, "Quomodo potest Jehovah Pater Homo fieri; estne Creator universi."

Et convertit se unus ex sedentibus super soliis secundi ordinis, et dixit, "Quis tunc."

Et ille ex angulo respondit, "Filius ab aeterno."

Sed responsum tulit, "Estne Filius ab aeterno secundum vestram confessionem etiam Creator universi; et quid Filius aut Deus natus ab aeterno; et quomodo apud eundem: potest Divina Essentia, quae est Una et Individua, separari, ac aliquid Ejus descendere et suscipere Humanum, et non simul tota.

[5] Altera Ventilatio de Domino erat, annon sic Deus Pater Ipse unum sunt, sicut anima et corpus unum sunt. Dixerunt, quod hoc consequens sit, quia a Patre est Anima.

Et tunc unus ex illis qui sedebant super soliis in tertio ordine, legebant et Symbolica Fide, quae Athanasiana vocatur, haec: "`Tametsi noster Dominus Jesus Christus Filius Dei est Deus et Homo, usque non sunt duo, sed est Unus Christus, imo est prorsus Unus, est Una Persona; quoniam sicut anima et corpus faciunt unum hominem, ita Deus et Homo est Unus Christus.'"

Dixit legens, quod haec Fides recepta sit in universo Christiano orbe etiam a Romano Catholicis.

Et dixerunt tunc, "Quid pluribus opus est; sunt Deus Pater et Ipse Unum, sicut Anima et Corpus unum sunt." Et dixerunt, "Quia ita est, videmus quod Humanum Domini sit Divinum, quia est Humanum Jehovae; tum quod Dominus quoad Divinum Humanum adeundus sit, et quod sic et non aliter adiri possit Divinum quod Pater vocatur."

[6] Hoc illorum conclusum confirmavit Angelus per plura adhuc ex Verbo, inter quae fuerunt haec; apud Esajam:

 

"Puer natus est nobis, et Filius datus est nobis, Cujus Nomen Mirabilis, Consiliarius, Deus, Heros, Pater aeternitatis, Princeps pacis" (ix. 5 [B. A. 6]);

 

apud eundem:

 

"Tu Pater noster; Abraham non cognovit nos, et Israel non agnoscit nos; Tu Jehovah Pater noster, Redemptor noster a Saeculo Nomen Tuum" (lxiii. 16);

 

et apud Johannem:

 

"Jesus dixit, Qui credit in Me, credit in Ipsum Qui misit Me; et qui videt Me, videt Ipsum Qui misit(1) Me" (Joh. xii. 44, 45);

"Dixit Philippus ad Jesum, Monstra nobis Patrem; dicit illi Jesus, Qui vidit Me vidit Patrem; quomodo ergo tu dicis, Monstra nobis Patrem. Nonne credis quod Ego in Patre et Pater in Me; credite Mihi quod Ego in Patre et Pater in Me" (Joh. xiv. 8-11);

 

et demum hoc:

 

"Jesus dixit, Ego sum Via, Veritas et Vita; nemo venit ad Patrem nisi per Me" (Joh. xiv. 6).

 

His auditis dixerunt omnes uno ore et corde, quod Humanum Domini sit Divinum, et quod Hoc adeundum sit ut adeatur Pater; quoniam Jehovah Deus, Qui est Dominus ab aeterno, per Illud Se misit in mundum, et Se fecit visibilem oculis hominum, et sic accessibilem; pariter fecit Se visibilem et sic accessibilem in forma Humana coram antiquis, sed tunc per Angelum.

[7] Post haec sequebatur Deliberatio de Spiritu Sancto. Et primum detecta est plurium idea de Deo Patre, Filio et Spiritu Sancto, quae erat sicut Deus Pater sederet in alto, et Filius ad dextram Ejus, et a Se emitterent Spiritum Sanctum ad illustrandum et docendum homines.

At tunc audita est vox e Caelo, dicens, "Non sustinemus illam cogitationis ideam; quis non scit quod Jehovah Deus sit Omnipraesens: qui hoc scit et agnoscit, etiam agnoscet quod Ipse illustret et doceat, et quod non sit Deus intermedius, distinctus ab Ipso, et minus a duobus, ut persona a persona; quare removeatur prior idea quae est vana, et recipiatur haec quae est justa, et videbitis hoc clare."

[8] Sed tunc iterum audita est vox ex Romano Catholicis, qui se in angulo templi occultaverant, dicens, "Quid tunc est `Spiritus Sanctus,' Qui in Verbo nominatur apud Evangelistas et apud Paulum, a Quo tot docti e Clero, imprimis a nostro, se dicunt duci; quis hodie in Christiano orbe Spiritum Sanctum et Ejus operationem negat."

Ad haec convertit se unus et illis qui super soliis secundi ordinis sedebant, et dixit, "Spiritus Sanctus est Divinum procedens a Jehovah Domino. Vos dicitis quod Spiritus Sanctus sit Persona per se et Deus per se; sed quid est Persona exiens et procedens a Persona, nisi operatio exiens et procedens. Non potest una persona et altera per alteram exire et procedere, sed operatio potest. Aut quid est Deus exiens et procedens a Deo nisi Divinum exiens et procedens. Non potest unus Deus ab altero per alterum exire et procedere, sed Divinum potest. Estne Divina Essentia Una et Individua: et quia Divina Essentia seu Divinum Esse est Deus, estne Deus Unus et Individuus."

[9] His auditis, sedentes super soliis unanimiter concluserunt quod Spiritus Sanctus non sit Persona per se, nec Deus per se, sed quod sit Sanctum Divinum exiens et procedens et Unico Deo Omnipraesente, Qui est Dominus.

Ad haec dixerunt Angeli stantes ad mensam auream, super qua erat Verbum, "Bene; non legitur ullibi in Veteri Foedere quod Prophetae locuti sint Verbum ex Spiritu Sancto, sed ex Jehovah Domino; et ubi in Novo Foedere dicitur `Spiritus Sanctus,' intelligitur Divinum procedens, quod est Divinum illustrans, docens, vivificans, reformans et regenerans."

[10] Post hoc successit altera ventilatio de Spiritu Sancto, quae erat, A Quo procedit Divinum, quod vocatur Spiritus Sanctus; num ex Divino quod Pater vocatur, vel ex Divino Humano quod Filius. Et cum hoc ventilabant, affulsit lux e Caelo, ex qua viderunt, quod Sanctum Divinum, quod intelligitur per Spiritum Sanctum, procedat ex Divino in Domino per Ipsius Humanum glorificatum, quod est Divinum Humanum, comparative sicut omne activum procedit ex anima per corpus apud hominem.

Hoc Angelus stans ad mensam confirmavit ex Verbo per haec:

 

"Quem misit Pater, verba De loquitur: non ex mensura dedit Illi Spiritum; Pater amat Filium, et omnia dedit in manum Ipsius (Joh. iii. 34, 35);

"Exibit Virga de trunco Jischaji; quiescet super Ipso Spiritus Jehovae, Spiritus Sapientiae et Intelligentiae, Spiritus Consilii et Virtutis" (Esaj. xi. 1, 2);

Quod Spiritus Jehovae datus sit super Illum, et quod esset in Illo (Esaj. xlii. 1: cap. lix. 19, 20; cap. lxi. 1; Luc. iv. 18):

"Quando venerit Spiritus Sanctus, Quem Ego missurus sum vobis a Patre" (Joh. xv. 26);

"Ille Me glorificabit, quia ex Meo accipiet, et annuntiabit vobis: omnia quaecunque Pater habet Mea sunt; propter hoc dixi, quod ex Meo accepturus sit et annuntiaturus vobis" (Joh. xvi. 14, 15);

"Si abivero, mittam Paracletum ad vos" (Joh. xvi. 7);

Paracletus est Spiritus Sanctus (Joh. xiv. 26);

"Nondum erat Spiritus Sanctus, quia Jesus nondum glorificatus erat" (Joh. vii. 39):

Post glorificationem, "Jesus inspiravit, et dixit discipulis, Accipite Spiritum Sanctum" (Joh. xx. 22).

 

[11] Quoniam Divina Operatio Domini et Divina Omnipraesentia Ipsius per "Spiritum Sanctum" intelligitur, ideo cum ad discipulos locutus est de Spiritu Sancto, Quem a Deo Patre missurus est, etiam dicit,

 

"Non relinquam vos orphanos; abeo et venio ad vos: et in die illo cognoscetis quod Ego in Patre Meo, et vos in Me et Ego in vobis" (Joh. xiv. 18, 20, 28).

 

Et mox antequam abivit a mundo, dixit,

 

"Ecce Ego vobiscum sum omnibus diebus usque ad Consummationem saeculi" (Matth. xxviii. 20).

 

His coram illis lectis, dixit Angelus, "Ex his et pluribus aliis et Verbo, patet quod Divinum quod vocatur Spiritus Sanctus procedat ex Divino in Domino per Divinum Humanum Ipsius."

Ad haec sedentes super soliis, dixerunt, "Hoc est Divina Veritas."

[12] Demum factum est Decretum, hoc:"Quod et deliberatis in hoc Concilio clare viderimus, et inde pro Sancta Veritate agnoscamus, quod in Domino nostro Jesu Christo sit Divina Trinitas, quae est, Divinum a Quo Quod vocatur Pater, Divinum Humanum Quod est Filius, et Divinum procedens Quod est Spiritus Sanctus: ita est Unus Deus in Ecclesia."

[13] Postquam haec in magnifico illo Concilio conclusa sunt, surrexerunt; et venit Angelus custos ex cimeliarchio, et apportabat cuivis ex illis qui super soliis consederunt vestes splendidas, hic et ibi intertextas filis aureis; et dixit, "Accipite vestes nuptiales." Et deducti sunt in gloria in Novum Caelum Christianum, cum quo Ecclesia Domini in terris, quae est Nova Hierosolyma, conjuncta erit.

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原典講読『啓示された黙示録』 961(訳文)

(3) 訳文

 961.これらに私は二つのメモラビリアを付け加える。最初のものはこれ――

 

 かつて私は眠りから目覚めて、神について深い瞑想に落ちた。また私が見上げた時、私の上の天界の中に、長円形の最も白く輝く光を見た。また私がその光の中を凝視したとき、光は脇へ退き、周辺へ吸収された。またその時、見よ、私に天界が開かれ、ある種の荘厳なものを、また開かれた南の脇に円の形の中に天使たちが立っていて、自分たちの間で話していたのを見た。

 また私は何を話しているか聞きたい願いをかきたてられたので、それゆえ、私に初めて音声を聞くことが与えられ、それは天界の愛に満ちていた、またその後、会話を聞いたが、それはその愛からの知恵に満ちていた。

 自分たちの間で、「一つの神」、「その方との結合」、ここからの「救い」について話していた。ことばにできないものが話され、それらの大部分は何らかの自然的な言語の言葉の中に落ち込むことができなかった。

 しかし、私は天使の天界の中のその交わりの中に数回いたので、またその時、彼らとの似た会話の中に、似た状態の中にいたので、それゆえ、その時、それらを理解すること、また彼らの話から何らかのものを引き出すことができた、それらは自然的な言語で理性的に表現されることができないものであった。

[2] 彼らは、神的エッセは「一つのもの」、「同じもの」、「それ自身」また「不可分なもの」である、そのようにまた、神的本質は、神的エッセ(存在)である神的本質である、そのようにまた神は、神的本質が、それは神的エッセ(存在)でもあるので、神である、と言い、これらを霊的な観念によって説明した――

 神的なエッセはそれらのそれぞれが神的なエッセである多くのものの中に落ち込むことができない、またそれでもそれらは「一つのもの」、「同じもの」、「それ自身」また「不可分なもの」である、と言って。というのは、それぞれの者はそのエッセから、それ自体から、またそれ自体によって考えるからである。もしその時、別のものから、また別のものによってもまた、一致して考えるなら、一つの神でなく、心で一致した多くの神々となったであろう。

 なぜなら、一致は、多くのものの、また同時にそれ自体からまたそれ自体によってそれぞれとの同意であるので、神の同一性と調和しない、しかし、複数性と〔調和する〕からである(彼らは「神々の……」と言わなかった、〔言うことが〕できなかったからである。というのは、天界の光が、それ光から彼らの思考があり、またその中へ彼らの会話が発出する、〔それらの光とオーラが〕逆らったからである)

 さらにまた言った。「神々」と、またそれぞれ別々にそれ自体によって位格として〔の神を〕発声することを欲するとき、直ちに、「一つのもの〔神〕」を、それどころか「唯一の神」を発声しようとする努力に落ち込む。

[3] これらに、神的エッセはそれ自体からでなく本質的に(それ自体の中で)神的エッセであることを言い足した。「それ自体から」は「それ」からである本質的な(それ自体の中の)エッセを前提とするからである。そのように神からの神を前提とするが、それは存在しない。

 神からであるものは、神と呼ばれない、しかし、神性と呼ばれる。というのは、神からの神である、そのように永遠から生まれた神からの神、また永遠から生まれた神によって発出する神からの神、ことばは、それらの中に天界からの光が何も内在しないなら、何ものでもないからである。

 主イエス・キリストについて異なって〔いる〕。その方の中にそこ〔起源〕から人間の中の霊魂に対応する神性そのものがあり、人間の中の身体に対応する神的人間性があり、また人間の中の活動に対応する発出している神性がある。この三重の実在は一つである、そこ〔起源〕からの神性神的人間性であり、またここからそこ〔起源〕からの神性は神的人間性を通して発出する神性である。それゆえ、それぞれの天使の中で、またそれぞれの人間の中でもまた、彼らは〔神の〕映像であるので、霊魂、身体、活動が存在し、それらは一つのものとなっている。霊魂から身体が存在し、霊魂から身体を通して活動が存在するからである。

[4] さらに彼らは言った。神的なエッセと、本質的に神であるものは、「同じもの」であること。単純に「同じもの」でなく、しかし、無限に同じもの、すなわち、永遠に「同じもの」である。どこでも「同じもの」、そしてだれにも、だれの中でも「同じもの」である。しかし、すべての多様なものと可変性のものは受け入れるものの中にある。受け入れる状態がこのことをつくる。

 本質的に神である神的エッセが、「それ自身」であることを、このように説明した――

 神は「それ自身」である、愛そのものと知恵そのもの、善そのものと真理そのもの、いのちのそのものであるからである。それらが神の中の「それ自身」でなかったなら、それらは天界と世の中の何らかのものでなかったであろう。それらの何らかのものは「それ自身」に関係しなかったであろうからである。

 すべての性質は、「それ自身」が存在し、〔性質は〕それからであって、またそれへこのようなものであるように関わりがあることから、自分の性質を割り当てられる。

 この「それ自身」は、それは神的なエッセであって場所の中にない、しかし、受け入れにしたがって場所の中にいる彼らのもとに、彼らの中にある。愛と知恵について、すなわち、善と真理について、またここからいのちについて、それらは神の中の「それ自身」、それどころか神そのものであるので、場所は属性とされることができず、場所から場所の中への進行もない。しかし、場所なし〔であり〕、そこから遍在がある。

 それゆえ、主は「〔ご自分が〕彼らの真ん中にいる」、なおまた、「その方(それ自身)は彼らの中に、また彼らはその方の中に〔いる〕」と言われた。

[5] しかし、本質的にどんなものであるかだれからも受け入れられることができないので、本質的にどんなものかは天使の天界の上方の太陽として見られ、その太陽から光として発出しているものが知恵に関するそれ自身であり、そして熱として発出しているものが愛に関するそれ自身である。「それ自身」はその太陽ではない、しかし、それ自身からそれ自身のまわりに最も近くに出ている神的な愛と神的な知恵が、天使の前に太陽として見られる。

 太陽の中の「それ自身」は「人間」であり、「その方からの神性に関しても、神的人間性に関しても」、「私たちの主、イエス・キリスト」である。「それ自身は」、それは愛そのものと知恵そのものであり、父からのそれ自身の霊魂であり、そのように神的ないのちであるので、本質的にいのちである。それぞれの人間の中で異なっている。その中の霊魂はいのちではなく、しかし、いのちの容器である。主もまたこのことを〔次のように〕言って、教えてられいる、

 

 「わたしは道、真理、またいのちである」〔ヨハネ14:6〕。

 

 また他のところに、

 

 「父がいのちをご自分自身の中にもつように、そのようにまた子に自分自身の中にいのちを持つことを与えた」〔ヨハネ5:26〕。

 

 「ご自分自身の中のいのち」は神である。

 これらに付け足した。何らかの霊的な光の中にいる者は、これらから、神的エッセが、それもまた神的本質である、「一つのもの」、「同じもの」、「それ自身」またここから「不可分なもの」、多くのものの中で存在できないことを、受け入れることができるからであること。またもし存在することが言われるなら、矛盾が明らかとなるであろう、と付け加えた。

 

[6] これらを聞いて、天使たちは私の思考の中のキリスト教会に一般的な観念を、単一性の中の位格の三一性について、また神について三一性の中のそれらの単一性について、ほかに、永遠からの神の子の出生についてもまた知覚した。またその時、言った、「何を、あなたは考えていますか? あなたはそれらを自然の光から考えていませんか? その光と私たちの霊的な光は一致しません。それゆえ、あなたがその思考の観念を取り除かないなら、私たちはあなたに天界を閉じます、また立ち去ります」。

 しかし、その時、私は彼らに言った、「どうぞ、私の思考の中に深く入ってください、するとおそらく、あなたがたは一致を見るでしょう」。

また、そのように行なわれ、彼らは見た。私が三つの位格によって発出する三つの神的な属性を理解していること、それらは創造、救い、また改心であり、それらの属性は唯一の神のものであること。また、永遠からの神の子の出生によって、私がその方の出生について、永遠から先見され、また時間の中で備えられたことを理解していること。

 また、その時、私は、位格の三一性と唯一性、また神の子の永遠から出生についての私の教会かの自然的な思考は、アタナシウスから命名された信仰の教えからであった、と語った。また、その教えは、ただ三つの位格の三一性のかわりにそこに一つ位格の三一性が意味されれば、本当であり正しい、それはひとえに主イエス・キリストの中に存在する。また、神の子の出生の代わりに、永遠から先見された、また時間の中で備えられたその方の出生が意味される〔なら〕。時間の中でとられた人間性に関して、公然と「神の子」と呼ばれているからである。

[7] その時、天使たちは言った、「よろしい!」。また彼らは、次のことを私が彼らの口から言うように求めた。もし、だれかが天地の神そのものに近づかないなら、天界はその唯一の神から天界であるので天界の中にやって来ることができないこと、また、その神はイエス・キリストであり、その者は主エホバ、永遠からの創造者、時間の中であがない主、そして永遠に再生者であること。そのように、その方は、同時に、父・子・聖霊である。

これらの後、以前に開かれたものの上方に見られた天界の光が戻った、またここから連続的に降り、そして私の心の内的なものを満たした、そして神の単一性と三一性について私の観念を照らした。またその時、私は始めに獲得したそれらについての観念を見た。それらは単に自然的なものであり、唐箕(とうみ)を動かして、籾殻(もみがら)を小麦から分離し、風で取り除くかのように天界の北の方へ消えた。

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 23:35
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原典講読『啓示された黙示録』 961(直訳)

(2) 直訳

961. His adjiciam duo Memorabilia; 961.これらに私は二つのメモラビリアを付け加える。

PRIMUM hoc:― 最初のものはこれ――

 

Quondam experrectus e somno incidi in profundam meditationem de Deo; かつて眠りから目覚めて(expergiscor)、私は神について深い瞑想の中に落ちた。

et cum suspexi, vidi supra me in Caelo lucem candidissimam in forma ovali; また私が見上げた時、私は私の上に天界の中に、長円形の形の中の最も白く輝く光を見た。

et cum fixi intuitum in luce illa, recedebat lux ad latera, et intrabat in peripherias: また私がその光の中に見ること(注視)を定めた(figo)とき、光は脇へ引っ込んだ、また周辺へ吸収された。

et tunc ecce patuit mihi Caelum, et vidi aliqua magnifica, et angelos stantes in forma circi a latere meridionali aperturae, et loquebantur inter se. またその時、見よ、私に天界が開かれた、また私はある種の荘厳なものを見た、また開かれた南の脇に円の形の中に立っている天使たちを、また自分たちの間で話していた。

Et quia accendebar desiderio audiendi quid loquebantur, ideo dabatur mihi primum audire sonum qui plenus erat amore caelesti, et postea loquelam quae plena erat sapientia ex illo amore. また私は何を話しているか聞きたい願いをかきたてられたので、それゆえ、私に初めて音を聞くことが与えられた、それは天界の愛に満ちていた、またその後、会話を〔聞いた〕、それはその愛からの知恵に満ちていた。

Loquebantur inter se de Deo uno, de Conjunctione cum Ipso, et inde Salvatione; 自分たちの間で話した、「一つの神」について、「その方との結合」について、またここから「救い」。

loquebantur ineffabilia, quorum pleraque non possunt cadere in voces alicujus linguae naturalis. ことばにできないものが話された、それらの大部分は何らかの自然的な言語の言葉の中に落ち込むことができなかった。

Sed quia aliquoties fueram in consortio cum angelis in ipso Caelo, et tunc in simili loquela cum illis, quia in simili statu, ideo potui nunc intelligere illos, et ex sermone illorum desumere aliqua quae possunt expromi vocibus linguae naturalis rationaliter. しかし、私は天使との、その者の天界の中の交わりの中に数回いたので、またその時、似た会話の中に彼らと、似た状態の中に〔いた〕ので、それゆえ、その時、それらを理解することができた、また彼らの話から何らかのものを引き出すこと、それらは表現されることができない、自然的な言語で理性的に(理性によって)

[2] Dicebant quod Divinum Esse sit Unum, Idem, Ipsum, et Individuum; [2] 彼らは言った、「神的エッセ」は「一つのもの」、「同じもの」、「それ自身」また「不可分なもの」であること。

ita quoque Divina Essentia, quia Divinum Esse est Divina Essentia; そのようにまた、神的本質は、神的エッセ(存在)である神的本質である。

ita quoque Deus, quia Divina Essentia, quae etiam est Divinum Esse, est Deus. そのようにまた神は、神的本質が、それは神的エッセ(存在)でもあるので、神である。

Haec illustrabant per ideas spirituales; これらを〔彼らは〕霊的な観念によって説明した。

dicendo, quod Divinum Esse non possit cadere in plures, quorum unicuique sit Divinum Esse, et tamen illud esse Unum, Idem, Ipsum, et Individuum, cogitaret enim quisque et suo Esse et se et per se; 言って、神的なエッセは多くのものの中に落ち込むことができない、それらのそれぞれが神的なエッセである、またそれでもそれらは「一つのもの」、「同じもの」、「それ自身」また「不可分なもの」であること(、) というのは、それぞれの者はそのエッセから、それ自体から、またそれ自体によって考えるから。

si tunc etiam simul et alteris et per alteros unanimiter, forent plures Dii unanimi, et non Deus Unus. もしその時、別のものから、また別のものによってもまた一致して〔考える〕なら、心で一致した多くの神々となったであろう、また一つの神でない。

Nam unanimitas, quia est consensus plurium, et simul cujusvis ex se et per se, non concordat cum unitate Dei, sed cum pluralitate (non dixerunt Deorum, quia non potuerunt, Lux enim Caeli, et qua erat cogitatio illorum, et in qua procedebat sermo illorum, contra nitebatur). なぜなら、一致は、多くのものの同意であるので、また同時にそれ自体からまたそれ自体によってそれぞれとの、神の同一性と調和しないからである、しかし、複数性と(彼らは「神々の……」と言わなかった、〔言うことが〕できなかったからである。というのは、天界の光が、それ〔光〕から彼らの思考があった、またその中へ彼らの会話が発出した、逆らった☆からである)

ここにミスプリがありました contra nitebatur でなく contranitebatur です(綴りを続ける)

Dicebant etiam quod cum vellent enuntiare Deos, ac quemlibet ut Personam per se, cadat conatus enuntiandi illico et se in Unum, imo in Unicum Deum. さらにまた言った、「神々」と発声することを欲するとき、またそれぞれ別々にそれ自体によって位格として〔発声する〕ことは、発声しようとする努力に落ち込む、直ちに、「一つのもの〔神〕」の中に、それどころか唯一の神の中に。

[3] His addebant, quod Divinum Esse sit Divinum Esse in Se, non a Se; [3] これらに言い足した、神的エッセは本質的に(それ自体の中で)神的エッセであること、それ自体からでなく。

quia a Se ponit Esse in Se a Quo; 「それ自体から」は「それ」からである本質的な(それ自体の中の)ッセを前提とするからである。

ita ponit Deum a Deo, quod non datur. そのように神からの神を前提とする、それは存在しない。

Quod a Deo est, non vocatur Deus, sed vocatur Divinum; 神からであるものは、神と呼ばれない

Quod a Deo est, hoc non vocatur Deus sed vocatur Divinum; 神からであるものは、神と呼ばれない、しかし、神性と呼ばれる。

quid enim est Deus a Deo, ita quid Deus a Deo natus ab aeterno, et quid Deus a Deo per Deum natum ab aeterno procedens, nisi voces quibus ne hilum lucis e Caelo inest?  というのは、何が神からの神であるのか? そのように何が永遠から生まれた神からの神〔であるの〕か、また永遠から生まれた神によって発出する神からの神〔であるの〕か、ことば、〜ないなら、それらの中に天界からの光が何も内在しない。

Aliter in Domino Jesu Christo; 主イエス・キリストについて異なって〔いる〕。

in Illo est Ipsum Divinum Esse a Quo, Cui in homine correspondet anima, est Divinum Humanum, Cui in homine correspondet corpus, et est Divinum procedens, Cui in homine correspondet activitas; その方の中にそこ〔起源〕から神性そのものがある、それに人間の中で霊魂に対応する、神的人間性である、それに人間の中で身体に対応する、また発出している神性は、それに人間の中で活動に対応する。

hoc Trinum est unum, quia et Divino a Quo est Divinum Humanum, et inde et Divino a Quo per Divinum Humanum est Divinum procedens. この三重の実在(物)は一つである、そこ〔起源〕からの神性(も)神的人間性である、またここからそこ〔起源〕からの神性(も)神的人間性を通して発出する神性である。

Ideo etiam in unoquovis angelo et in unoquovis homine, quia sunt imagines, est anima, corpus et activitas, quae unum faciunt; それゆえ、それぞれの天使の中でもまた、またそれぞれの人間の中で、彼らは〔神の〕映像であるので、霊魂、身体また活動が存在する、それらは一つのものとなっている。

quoniam ex anima est corpus, et ex anima per corpus est activitas. 霊魂から身体が存在する、また霊魂から身体を通して活動が存在するからである。

[4] Porro dicebant quod Divinum Esse, quod in Se est Deus, sit Idem; [4] さらに彼らは言った、神的エッセ〔と〕、本質的に神であるものは、「同じもの」であること。

non Idem simplex, sed Infinitum, hoc est, Idem ab aeterno in aeternum; 単純な「同じもの」でなく、しかし、無限な〔同じ〕もの、すなわち、永遠から永遠の中へ「同じもの」。

est Idem ubivis, ac Idem apud unumquemvis et in unoquovis: どこでも「同じもの」である、そしてだれにも「同じもの」、まただれの中でも「同じもの」。

sed quod omne varium et variabile sit in recipiente; しかし、すべての多様なものと可変性のものは受け入れるものの中にあること。

status recipientis hoc facit. 受け入れる状態がこのことをつくる。

Quod Divinum Esse, quod est Deus in Se, sit Ipsum, ita illustrabant: ― 神的エッセが、それは本質的に神である、それが「それ自身」である〔ことを〕、このように説明した――

"Deus est Ipsum, quia est Ipse Amor, Ipsa Sapientia, Ipsum Bonum, Ipsum Verum, Ipsa Vita;  神は「それ自身」である、愛そのものと知恵そのもの、善そのものと真理そのもの、いのちのそのものであるからである。

quae nisi forent Ipsum in Deo, illa non forent aliquid in Caelo et in mundo; それらが神の中の「それ自身」でなかったなら、それらは天界と世の中の何らかのものでなかったであろう。

quia non foret aliquod illorum relativum ad Ipsum.  それらの何らかのものは「それ自身」に関係しなかったであろうからである。

Omne quale sortitur suum quale ex eo, quod sit Ipsum ex quo est, et ad quod se refert ut sit tale. すべての性質はそのことから自分の性質を割り当てられる、「それ自身」があって、〔性質は〕それからである、またそれへこのようなものであるように関わりがあること。

Hoc Ipsum, quod est Esse Divinum, non est in loco, sed apud illos et in illis qui sunt in loco, secundum receptionem"; この「それ自身」は、それは神的なエッセである、場所の中にない、しかし、彼らのもとに、また彼らの中に〔ある〕、その者は受け入れにしたがって場所の中にいる。

quoniam de Amore et Sapientia, et de Bono et Vero, quae sunt Ipsum in Deo, imo Ipse Deus, non praedicari potest locus, seu progressio e loco in locum; 愛と知恵について、すなわち、善と真理について、またここからいのち、それらは神の中の「それ自身」であるので、それどころか神そのもの、場所は属性とされることができない、場所から場所の中への進行もない。

sed absque loco, unde Omnipraesentia. しかし、場所なし〔であり〕、そこから遍在〔がある〕。

Quare dicit Dominus, quod `Sit in medio illorum;' それゆえ、主は言われた、「彼らの真ん中にいること」

tum `Ipse in illis et illi in Ipso.' なおまた、「その方(それ自身)彼らの中に、また彼らはその方の中に〔いる〕」。

[5] At quia non recipi ab ullo potest qualis in Se est, apparet qualis in Se est ut Sol supra Caelos angelicos, a quo procedens ut lux est Ipse quoad sapientiam, ac ut calor est Ipse quoad Amorem. [5] しかし、だれからも受け入れられることができないので、本質的にどんなものであるか、本質的にどんなものか見られる、天使の天界の上方の太陽として、それ〔太陽〕から光として発出している〔その光が〕知恵に関するそれ自身である、そして熱として〔発出しているその熱が〕愛に関するそれ自身である。

Ipse non est Sol, sed Divinus Amor et Divina Sapientia exiens ab Ipso proxime, circum circa Ipsum, coram angelis apparent ut Sol. 「それ自身」はその太陽ではない、しかし、それ自身から最も近くに出ている神的な愛と神的な知恵が、それ自身のまわりの、天使の前に太陽として見られる。

Ipse in Sole est Homo; 太陽の中の「それ自身」は「人間」である。

est Dominus noster Jesus Christus, tam quoad Divinum a Quo quam quoad Divinum Humanum: 「私たちの主、イエス・キリスト」である、「その方からの神性に関しても、神的人間性に関しても」。

quoniam Ipsum, quod est Ipse Amor et Ipsa Sapientia, fuit anima Ipsi a Patre, ita Divina Vita, quae est Vita in se. それ自身は〜であるので、それは愛そのものと知恵そのものである、父からのそれ自身の霊魂であった、そのように神的ないのち、それは本質的にいのちである。

Aliter in unoquovis homine; それぞれの人間の中で異なっている。

in illo anima non est vita, sed recipiens vitae. その中の霊魂はいのちではない、しかし、いのちの容器。

Dominus etiam hoc docuit, dicendo 主もまたこのことを教えている、言って

 

`Ego sum Via, Veritas, et Vita:' わたしは道、真理、またいのちである」〔ヨハネ14:6〕。

 

et alibi, また他のところに、

 

`Quemadmodum Pater habet Vitam in Se Ipso, ita dedit etiam Filio Vitam habere in Se Ipso; 「父がいのちをご自分自身の中にもつように、そのようにまた子にいのちを持つことを与えた、ご自分自身の中に」〔ヨハネ5:26〕。

 

`Vita in Se Ipso' est Deus." 「ご自分自身の中のいのち☆」は神である。

これは直前の文脈から離れれば、「本質的ないのちそのもの」は神である、とも訳せます。

His addiderunt, quod qui in aliqua luce spirituali est, ex his possit percipere, quod Divinum Esse, quod etiam est Divina Essentia, quia est Unum, Idem, Ipsum, et inde Individuum, non possit dari in pluribus;  これらに付け足した、彼らは、その者は何らかの霊的な光の中にいる、これらから受け入れることができる、神的エッセが、それもまた神的本質である、「一つのもの」、「同じもの」、「それ自身」またここから「不可分なもの」、多くのものの中で存在できないからであること。

et quod si diceretur dari, forent manifestae contradictiones in adjectis. またもし存在することが言われるなら、明らかに矛盾があったであろう、付け加えて(の中で)

[6] His auditis, perceperunt Angeli in cogitatione mea ideas communes Ecclesiae Christianae de Personarum Trinitate in Unitate et illarum Unitate in Trinitate de Deo; [6] これらで聞いて、天使たちは私の思考の中のキリスト教会に共通の(一般的な)観念を知覚した、単一性(同一性)中の位格の三一性について、また神について三一性の中のそれらの単一性について。

tum etiam de Nativitate Filii Dei ab aeterno: ほかに、永遠からの神の子の出生についてもまた。

et tunc dixerunt, "Quid cogitas; またその時、言った、「何を、あなたは考えていますか?

cogitasne illa ex luce naturali, cum qua Lux nostra spiritualis non concordat; あなたはそれらを自然の光から考えていませんか? その光と私たちの霊的なもの〔光は〕一致しません。

quare nisi removes illius cogitationis ideas, claudimus tibi Caelum et abimus." それゆえ、あなたがその思考の観念を動かさない(取り除かない)なら、私たちはあなたに天界を閉じます、また立ち去ります」。

Sed tunc dixi illis, "Intrate quaeso penitius in cogitationem meam, et forte videbitis concordantiam." しかし、その時、私は彼らに言った、「入れ、どうぞ(お願いします)、私の思考の中に深く、また(すると)そらく、あなたがたは一致を見るでしょう」。

Et fecerunt ita, et viderunt, quod per tres Personas intelligam tria Attributa Divina procedentia, quae sunt Creatio, Salvatio, et Reformatio, et quod illa Attributa sint Unius Dei; また、そのように行なわれた、また、彼らは見た、三つの位格によって私が発出する三つの神的な属性を理解していること、それらは創造、救い、また改心である、また、それらの属性は一つの神のものであること。

et quod per Nativitatem Filii Dei ab aeterno intelligam Nativitatem Ipsius ab aeterno praevisam et in tempore provisam: また、永遠からの神の子の出生によって、私がその方の出生について理解していること、永遠から先見された、また時間の中で備えられた。

et tunc narravi, quod naturalis mea cogitatio de Personarum Trinitate et Unitate, et de Nativitate Filii Dei ab aeterno, fuerit mihi ex Doctrina fidei Ecclesiae, quae ab Athanasio nomen habet; また、その時、私は語った、位格の三一性と唯一性の私の自然的な思考は、また神の子の永遠から出生について、私に教会の信仰の教えからであったこと、それ〔信仰の教え〕はアタナシウスから名前を持つ。

et quod illa Doctrina sit justa et recta, modo pro Trinitate Personarum ibi intelligatur Trinitas Personae, quae unice datur in Domino Jesu Christo; また、その教えは本当であり正しい、複数の位格の三一性のかわりにそこに〔単数の〕位格の三一性が意味されさえすれば、それはひとえに主イエス・キリストの中に存在する

et pro Nativitate Filii Dei intelligatur Nativitas Ipsius ab aeterno praevisa et in tempore provisa; 神の子の出生の代わりに永遠から先見された、また時間の中で備えられたその方の出生が意味される。

quia quoad Humanum, quod in tempore suscepit, aperte vocatur Filius Dei. 人間性に関して、それは時間の中でとられた(まとわれた)、あからさまに「神の子」と呼ばれているからである。

[7] Tunc dixerunt angeli, "Bene;" [7] その時、天使たちは言った、「よろしい!☆」。

beneは、通常は副詞ですが、ここは間投詞です。

et rogaverunt ut ex ore illorum dicam, quod si quis non adit Ipsum Deum Caeli et Terrae, non possit in Caelum venire, quia Caelum est Caelum et Unico Illo Deo, et quod Ille Deus sit Jesus Christus, Qui est Jehovah Dominus ab aeterno Creator, in tempore Salvator, et in aeternum Reformator;  また彼らは求めた、彼らの口から私が言うように、もし、だれかが天地の神そのものに近づかないなら、天界の中にやって来ることができないこと、天界はその唯一の神から天界であるので、また、その神はイエス・キリストであること、その者は主エホバ、永遠からの創造者、時間の中であがない主、そして永遠に再生者である。

ita Qui simul est Pater, Filius, et Spiritus Sanctus. そのように、その方は、同時に、父・子・聖霊である。

Post haec Lux caelestis prius visa super aperturam rediit, et successive se inde demisit, ac implevit interiora mentis meae, ac illustravit ideas meas naturales de Unitate et Trinitate Dei; これらの後、天界の光は〔それは〕以前に開かれたものの上方に見られた、戻った、またここから連続的に降りた、そして私の心の内的なものを満たした、そして私の観念を照らした、神の単一性と三一性について。

et vidi tunc ideas de illis initio captas, quae fuerant mere naturales, separatas sicut separantur paleae a tritico et ventilabro agitato, et ablatus sicut vento in septentrionem Caeli, et disparatas. またその時、私はそれらについての観念を見た、始めに獲得した、それらは単に自然的なものであった、籾殻(もみがら)が小麦から分離されるように、唐箕(とうみ)の揺り動かしから、天界の北の中へ風でのように取り除かれた(aufero)、また消えた。

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 23:33
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原典講読『啓示された黙示録』 961(原文)

(1) 原文

961. His adjiciam duo Memorabilia; PRIMUM hoc:

 

Quondam experrectus e somno incidi in profundam meditationem de Deo; et cum suspexi, vidi supra me in Caelo lucem candidissimam in forma ovali; et cum fixi intuitum in luce illa, recedebat lux ad latera, et intrabat in peripherias: et tunc ecce patuit mihi Caelum, et vidi aliqua magnifica, et angelos stantes in forma circi a latere meridionali aperturae, et loquebantur inter se. Et quia accendebar desiderio audiendi quid loquebantur, ideo dabatur mihi primum audire sonum qui plenus erat amore caelesti, et postea loquelam quae plena erat sapientia ex illo amore.

Loquebantur inter se de Deo uno, de Conjunctione cum Ipso, et inde Salvatione; loquebantur ineffabilia, quorum pleraque non possunt cadere in voces alicujus linguae naturalis. Sed quia aliquoties fueram in consortio cum angelis in ipso Caelo, et tunc in simili loquela cum illis, quia in simili statu, ideo potui nunc intelligere illos, et ex sermone illorum desumere aliqua quae possunt expromi vocibus linguae naturalis rationaliter.

[2]Dicebant quod Divinum Esse sit Unum, Idem, Ipsum, et Individuum; ita quoque Divina Essentia, quia Divinum Esse est Divina Essentia; ita quoque Deus, quia Divina Essentia, quae etiam est Divinum Esse, est Deus. Haec illustrabant per ideas spirituales; dicendo, quod Divinum Esse non possit cadere in plures, quorum unicuique sit Divinum Esse, et tamen illud esse Unum, Idem, Ipsum, et Individuum, cogitaret enim quisque et suo Esse et se et per se; si tunc etiam simul et alteris et per alteros unanimiter, forent plures Dii unanimi, et non Deus Unus. Nam unanimitas, quia est consensus plurium, et simul cujusvis ex se et per se, non concordat cum unitate Dei, sed cum pluralitate (non dixerunt Deorum, quia non potuerunt, Lux enim Caeli, et qua erat cogitatio illorum, et in qua procedebat sermo illorum, contra nitebatur).

Dicebant etiam quod cum vellent enuntiare Deos, ac quemlibet ut Personam per se, cadat conatus enuntiandi illico et se in Unum, imo in Unicum Deum. [3] His addebant, quod Divinum Esse sit Divinum Esse in Se, non a Se; quia a Se ponit Esse in Se a Quo; ita ponit Deum a Deo, quod non datur. Quod a Deo est, hoc non vocatur Deus sed vocatur Divinum; quid enim est Deus a Deo, ita quid Deus a Deo natus ab aeterno, et quid Deus a Deo per Deum natum ab aeterno procedens, nisi voces quibus ne hilum lucis e Caelo inest? Aliter in Domino Jesu Christo; in Illo est Ipsum Divinum Esse a Quo, Cui in homine correspondet anima, est Divinum Humanum, Cui in homine correspondet corpus, et est Divinum procedens, Cui in homine correspondet activitas; hoc Trinum est unum, quia et Divino a Quo est Divinum Humanum, et inde et Divino a Quo per Divinum Humanum est Divinum procedens. Ideo etiam in unoquovis angelo et in unoquovis homine, quia sunt imagines, est anima, corpus et activitas, quae unum faciunt; quoniam ex anima est corpus, et ex anima per corpus est activitas.

[4] Porro dicebant quod Divinum Esse, quod in Se est Deus, sit Idem; non Idem simplex, sed Infinitum, hoc est, Idem ab aeterno in aeternum; est Idem ubivis, ac Idem apud unumquemvis et in unoquovis: sed quod omne varium et variabile sit in recipiente; status recipientis hoc facit.

Quod Divinum Esse, quod est Deus in Se, sit Ipsum, ita illustrabant: -"Deus est Ipsum, quia est Ipse Amor, Ipsa Sapientia, Ipsum Bonum, Ipsum Verum, Ipsa Vita; quae nisi forent Ipsum in Deo, illa non forent aliquid in Caelo et in mundo; quia non foret aliquod illorum relativum ad Ipsum. Omne quale sortitur suum quale ex eo, quod sit Ipsum ex quo est, et ad quod se refert ut sit tale. Hoc Ipsum, quod est Esse Divinum, non est in loco, sed apud illos et in illis qui sunt in loco, secundum receptionem"; quoniam de Amore et Sapientia, et de Bono et Vero, quae sunt Ipsum in Deo, imo Ipse Deus, non praedicari potest locus, seu progressio e loco in locum; sed absque loco, unde Omnipraesentia. Quare dicit Dominus, quod `Sit in medio illorum;' tum `Ipse in illis et illi in Ipso.' [5] At quia non recipi ab ullo potest qualis in Se est, apparet qualis in Se est ut Sol supra Caelos angelicos, a quo procedens ut lux est Ipse quoad sapientiam, ac ut calor est Ipse quoad Amorem. Ipse non est Sol, sed Divinus Amor et Divina Sapientia exiens ab Ipso proxime, circum circa Ipsum, coram angelis apparent ut Sol. Ipse in Sole est Homo; est Dominus noster Jesus Christus, tam quoad Divinum a Quo quam quoad Divinum Humanum: quoniam Ipsum, quod est Ipse Amor et Ipsa Sapientia, fuit anima Ipsi a Patre, ita Divina Vita, quae est Vita in se. Aliter in unoquovis homine; in illo anima non est vita, sed recipiens vitae. Dominus etiam hoc docuit, dicendo

 

`Ego sum Via, Veritas, et Vita:'

 

et alibi,

 

`Quemadmodum Pater habet Vitam in Se Ipso, ita dedit etiam Filio Vitam habere in Se Ipso;

 

`Vita in Se Ipso' est Deus."

His addiderunt, quod qui in aliqua luce spirituali est, ex his possit percipere, quod Divinum Esse, quod etiam est Divina Essentia, quia est Unum, Idem, Ipsum, et inde Individuum, non possit dari in pluribus; et quod si diceretur dari, forent manifestae contradictiones in adjectis.

[6] His auditis, perceperunt Angeli in cogitatione mea ideas communes Ecclesiae Christianae de Personarum Trinitate in Unitate et illarum Unitate in Trinitate de Deo; tum etiam de Nativitate Filii Dei ab aeterno: et tunc dixerunt, "Quid cogitas; cogitasne illa ex luce naturali, cum qua Lux nostra spiritualis non concordat; quare nisi removes illius cogitationis ideas, claudimus tibi Caelum et abimus."

"Sed tunc dixi illis, "Intrate quaeso penitius in cogitationem meam, et forte videbitis concordantiam." Et fecerunt ita, et viderunt, quod per tres Personas intelligam tria Attributa Divina procedentia, quae sunt Creatio, Salvatio, et Reformatio, et quod illa Attributa sint Unius Dei; et quod per Nativitatem Filii Dei ab aeterno intelligam Nativitatem Ipsius ab aeterno praevisam et in tempore provisam: et tunc narravi, quod naturalis mea cogitatio de Personarum Trinitate et Unitate, et de Nativitate Filii Dei ab aeterno, fuerit mihi ex Doctrina fidei Ecclesiae, quae ab Athanasio nomen habet; et quod illa Doctrina sit justa et recta, modo pro Trinitate Personarum ibi intelligatur Trinitas Personae, quae unice datur in Domino Jesu Christo; et pro Nativitate Filii Dei intelligatur Nativitas Ipsius ab aeterno praevisa et in tempore provisa; quia quoad Humanum, quod in tempore suscepit, aperte vocatur Filius Dei.

[7] Tunc dixerunt angeli, "Bene;" et rogaverunt ut ex ore illorum dicam, quod si quis non adit Ipsum Deum Caeli et Terrae, non possit in Caelum venire, quia Caelum est Caelum et Unico Illo Deo, et quod Ille Deus sit Jesus Christus, Qui est Jehovah Dominus ab aeterno Creator, in tempore Salvator, et in aeternum Reformator; ita Qui simul est Pater, Filius, et Spiritus Sanctus.

Post haec Lux caelestis prius visa super aperturam rediit, et successive se inde demisit, ac implevit interiora mentis meae, ac illustravit ideas meas naturales de Unitate et Trinitate Dei; et vidi tunc ideas de illis initio captas, quae fuerant mere naturales, separatas sicut separantur paleae a tritico et ventilabro agitato, et ablatus sicut vento in septentrionem Caeli, et disparatas.

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 23:31
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原典講読『啓示された黙示録』 960

(1) 原文

960. [Vers. 20.] " Dicit{1} Testans haec, Etiam venio cito; amen. Etiam veni, Domine Jesu," significat Dominum, Qui revelavit Apocalypsin et nunc aperuit illam, testificantem hoc Evangelium, quod in Divino Humano Suo quod suscepit in mundo et glorificavit, veniat ut Sponsus et Maritus, et quod Ecclesia Ipsum desideret ut Sponsa et Uxor.Supra dicit Dominus "Ego Jesus misi angelum Meum testari vobis haec in Ecclesiis" (vers. 16 hujus capitis); per quae quod significetur testificatio a Domino coram toto Christiano orbe quod verum sit quod solus Dominus manifestaverit illa quae in hoc Libro scripta sunt, et quae nunc aperta sunt, videatur supra (n. 953). Inde patet, quod per " Dicit{2} Testans haec" intelligatur Dominus, Qui revelavit Apocalypsin et nunc aperuit illam, testificans. Quod sit testificans hoc Evangelium, est quia hic declarat Adventum Suum, Regnum Suum, et spirituale Conjugium Suum cum Ecclesia; dicit enim, "Etiam venio cito; amen. Etiam veni, Domine Jesu," et per Evangelium significatur Adventus Domini ad Regnum Ipsius (videatur n. 478, 553, 626,{3} 664); quod hic ad Conjugium spirituale cum Ecclesia, est quia nova haec Ecclesia vocatur Sponsa et Uxor, et Dominus Sponsus et Maritus ejus (supra cap. xix. 7-9; cap. xxi.{4} 2, 9, 10; cap. xxii.{5} 17): et hic in fine Libri, loquitur Dominus et loquitur Ecclesia, sicut Sponsus et Sponsa; loquitur Dominus haec, "Etiam venio cito; amen," et loquitur Ecclesia haec, "Etiam veni, Domine Jesu," quae sunt verba Desponsationis ad Conjugium spirituale. Quod Dominus venturus sit in Divino Humano, quod suscepit in mundo et glorificavit, constat ex eo, quod Se nominet Jesum, et dicat quod sit "Radix et Genus Davidis" (vers. 16); et quod Ecclesia hic dicat, "Veni, Domine Jesu," videatur supra (n. 953, 954).

@1 Dicit pro "Dixit" @2 Dicit pro "Dixit" @3 626 pro "625" @4 xxi. pro "xx." @5 xxii. pro "xxi."

 

(2) 直訳

960. [Vers. 20.] " Dicit{1} Testans haec, Etiam venio cito; amen. Etiam veni, Domine Jesu," significat Dominum, Qui revelavit Apocalypsin et nunc aperuit illam, testificantem hoc Evangelium, quod in Divino Humano Suo quod suscepit in mundo et glorificavit, veniat ut Sponsus et Maritus, et quod Ecclesia Ipsum desideret ut Sponsa et Uxor.− 960(20)これらを証言しているわれる、「しかりわたしはすぐに」。アーメン。しかり、来てください、主、イエスよ」は、主を意味する、その方は「黙示録」を啓示した、またその時、それを開いた,この福音を証言する〔ために〕、ご自分の神的人間性の中に、それを世の中でとられた、また栄化した、花婿と夫としてやって来ること、またその方の教会が花嫁と妻として降ること――

Supra dicit Dominus "Ego Jesus misi angelum Meum testari vobis haec in Ecclesiis" (vers. 16 hujus capitis); 上に主は言った、「わたし、イエスは、わたしの天使を遣わし、教会の中に、あなたがたにこれらのことを証言した」(この章の16)

per quae quod significetur testificatio a Domino coram toto Christiano orbe quod verum sit quod solus Dominus manifestaverit illa quae in hoc Libro scripta sunt, et quae nunc aperta sunt, videatur supra (n. 953). それらによって、全キリスト教世界の前に主による証明が意味されること、真理であること、主おひとりがそれらを示した(明らかにした)こと、それらはこの書の中に書かれた、またそれらが今や開かれた、上に見られる(953)

Inde patet, quod per " Dicit{2} Testans haec" intelligatur Dominus, Qui revelavit Apocalypsin et nunc aperuit illam, testificans. ここから明らかである、「これらを証言している言う」によって、その者が「黙示録」を啓示した、また今やそれを開いた、証明している。

Quod sit testificans hoc Evangelium, est quia hic declarat Adventum Suum, Regnum Suum, et spirituale Conjugium Suum cum Ecclesia; この福音を証明している者であることは、ここにご自分の来臨を宣言しているからである、ご自分の王国を、また教会とのご自分の結婚を。

dicit enim, "Etiam venio cito; amen. というのは、言うから、「『しかりわたしはすぐに』。アーメン。

Etiam veni, Domine Jesu," et per Evangelium significatur Adventus Domini ad Regnum Ipsius (videatur n. 478, 553, 626,{3} 664);  しかり、来てください、主、イエスよ」、また、「福音」によっての方の王国への主の来臨が意味される(478, 553, 626, 664番に見られる)

quod hic ad Conjugium spirituale cum Ecclesia, est quia nova haec Ecclesia vocatur Sponsa et Uxor, et Dominus Sponsus et Maritus ejus (supra cap. xix. 7-9; cap. xxi.{4} 2, 9, 10; cap. xxii.{5} 17): ここに、教会との霊的な結婚へ〔やって来る〕ことは、この新しい教会が花嫁と妻と呼ばれるからである、また、主はその花婿と夫と(上の、第197-9、第212, 9, 10、第2217)

et hic in fine Libri, loquitur Dominus et loquitur Ecclesia, sicut Sponsus et Sponsa; またここに、書の終わりに、主は話し、また教会は話している、花婿と花嫁のように。

loquitur Dominus haec, "Etiam venio cito; amen," et loquitur Ecclesia haec, "Etiam veni, Domine Jesu," quae sunt verba Desponsationis ad Conjugium spirituale. 主はこれらを話している、「しかりわたしはすぐにアーメン」、また教会はこれらを話している、「しかり、来てください、主、イエスよ」、それらは霊的な結婚への婚約のことばである。。

Quod Dominus venturus sit in Divino Humano, quod suscepit in mundo et glorificavit, constat ex eo, quod Se nominet Jesum, et dicat quod sit "Radix et Genus Davidis" (vers. 16); 主が神的人間性の中にやって来ることは、それを世の中でまとった、また栄化した、そのことから明らかである、ご自分をイエスと名づける(呼ぶ)、また「ダビデの根と子孫」と言っていること(16)

et quod Ecclesia hic dicat, "Veni, Domine Jesu," videatur supra (n. 953, 954). また教会はここに言っていることが、「来てください、主、イエスよ」、上られる(953, 954)

@1 Dicit pro "Dixit" 注1 Dixit」の代わりに Dicit

@2 Dicit pro "Dixit" 注2 Dixit」の代わりに Dicit

@3 626 pro "625" 注3 625」の代わりに 626

@4 xxi. pro "xx."  4 xx.」の代わりに xxi.

@5 xxii. pro "xxi."  5 xxi.」の代わりに xxii.

 

(3) 訳文

 960(20)「これらを証言している者が言われる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アーメン。しかり、来てください、主、イエスよ」は、「黙示録」を啓示し、その時、世でまとい、栄化した、ご自分の神的人間性の中に花婿、夫としてやって来られる、またその方の教会が花嫁、妻として降る、という福音を証言するためにそれを開かれた主を意味する。

 前に主は、「わたし、イエスは、わたしの天使を遣わし、教会の中に、あなたがたにこれらのことを証言した」と言われた(本章の第16)それらによって、全キリスト教世界の前に、主おひとりが、この書の中に書かれ、またそれらが今や開かれ、それらを明らかにしたことが真理であること、主によるその証明が意味されることが前に見られる(953)

 ここから、「これらを証言している言う」によって、その者が「黙示録」を啓示し、また今やそれを開き、証明していることが明らかである。

 この福音を証明している者であることは、ここにご自分の来臨を、ご自分の王国を、また教会とのご自分の結婚を宣言しているからである。というのは、「『しかりわたしはすぐに』。アーメン。しかり、来てください、主、イエスよ」と言っており、また、「福音」によっての方の王国への主の来臨が意味されるからである(478, 553, 626, 664番に見られる)。ここに、教会との霊的な結婚へ〔やって来る〕ことは、この新しい教会が花嫁と妻、また、主がその花婿と夫と呼ばれるからである(前の、19:7-921:2, 9, 1022:17)。またここに、書の終わりに、主と教会が、花婿と花嫁のように話しているからである。主はこれらを話している、「しかりわたしはすぐにアーメン」、また教会はこれらを話している、「しかり、来てください、主、イエスよ」、それらは霊的な結婚への婚約のことばである。。

 主が、世の中でまとい、栄化した神的人間性の中にやって来ることは、ご自分をイエスと名づけ、また「ダビデの根と子孫」と言っていることから明らかである(16)また教会はここに「来てください、主、イエスよ」と言っていることが、前られる(953, 954)

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 00:19
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