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原典講読『真のキリスト教』506(直訳[9],[10]と訳文)
[9.] Sed unus cum audivit, quod credatur homo talis in omnibus quae fidei et salutis sunt, dixit, "Audivi quendam dicentem, `Plantavi vineam, nunc bibam vinum usque ad ebrietatem;' [9] しかし、ある者が聞いた時、人間がそのようなものを信じていること、すべてのものの中に、それらは信仰と救いのものである、言った、「私はある者が言っているのを聞いた、『私はブドウ畑を植えた、今や、私はブドウ酒を飲む、酩酊〔する〕にまでも』。
sed quaesivit alter, 'Num bibiturus es vinum ex tuo scypho per tuam dextram?' しかし、他の者が質問した、『あなたはブドウ酒を飲むのか、あなたの酒杯から、あなたの右手によって?』
et dixit, 'Non, sed ex scypho inconspicuo per manum inconspicuam;' また、言った、『いいえ、しかし、目に見えない酒杯から、目に見えない手によって』。
et respondit alter, 'Certe tunc non inebriaberis.'" また、他の者が答えた、『確かに(きっと)、その時、あなたは酔わない』。
Mox idem vir dixit, "Sed me audite quaeso; 間もなく、同じ男が言った、「しかし、私に聞け、どうぞ(お願いします)
ego dico vobis, Bibite vinum ex Verbo intellecto; 私はあなたがたに言う、みことばの理解力からブドウ酒を飲め。
nostisne quod Dominus sit Verbum? 主がみことばであることを(あなたがたは)知っているな(収縮形)
estne Verbum ex Domino? みことばは主からであるな?
estne sic Ipse in illo? そのように(したがって)の方はその中にいるな?
si ergo facitis bonum ex Verbo, facitisne id ex Domino, ex Ipsius ore et voluntate? それゆえに、もし、あなたがたがみことばから善を行なうなら、それをみことばから行なうな? その方の口から、また意志〔から〕。
et si tunc spectatis ad Dominum, etiam Ipse vos ducet et docebit, et vos facietis illud ex vobis a Domino. また、もしその時、あなたがたが主に目を向けるなら、その方もまたあなたがたを導く、また教える、また、あなたがたはそれを主のことばから行なう。
Quis potest dicere, qui facit aliquid a rege, illius ore et mandato, 'Hoc facio ex meo ore seu mandato, et ex mea voluntate.'" だれが言うことができるのか、その者は何らかのことを王から行なう、その〔王の〕口と命令で、「このことを私は、私の口から、または命令〔から〕、また私の意志から」。
[10.] Post haec convertit se ad clerum, et dixit, "Ministri Dei, ne seducite gregem." [10] この後、聖職者へ(自分自身を)きを変えた、また言った、「神の召使いたち(仕える者)、群れを迷わすな」。
His auditis, maxima pars gregis sinistri recessit, et gregi dextro se adunivit. これらで聞いて、左の群れの(最大の)大部分は去った、また右の群れに自分自身を合わせた。
Aliqui tunc ex clero dicebant, "Audivimus quae non prius; その時、聖職者からのある者が言った、「私たちは聞いた、それは以前にない。
sumus pastores, non relinquemus oves;" 私たちは羊飼いである、羊を置き去りにしない」。
et recesserunt una cum illis; また、彼らと一緒に去った。
et dicebant, "Hic vir locutus est verbum verum; また言った、「この男は真理のことばを話した。
quis dicere potest, qui facit ex Verbo, ita ex Domino, Ipsius ore et voluntate, 'Hoc facio ex me?' だれが言うことができるか、その者はみことばから行なう、そのように主から、その方の口と意志で、『このことを私は、私から行なう』と?
Quis dicit, qui facit ex rege, illius ore et voluntate, 'Hoc facio ex me?' だれが言うのか、その者は王から行なう、その〔王の〕口と意志で、『このことを私は、私から行なう』と?
Nos videmus nunc Divinam Providentiam, cur non inventa fuit fidei et bonorum operum conjunctio, quae ab ecclesiastica societate agnita est; 私たちは、今や、神的な摂理〔であったこと〕を見る、なぜ見つからなかったか、信仰と善の働きの結合が、それは教会(聖職者)の社会により認められている。
non potuit inveniri, quia non potuit dari, non enim fuit fides in Dominum, qui est Verbum, et inde nec fuit fides e Verbo." 見つけられることができなかった、存在する(与えられる)ことができなかったからである、というのは、主への信仰がなかったから、それはみことばである、またここからみことばからの信仰もなかった」。
Sed reliqui sacerdotes, qui erant ex grege hircorum, abibant, et vibrabant pileos suos, et clamabant, "Sola Fides, Sola Fides, vivet usque." しかし、残りの聖職者たちは、その者は雄ヤギの群れからであった、立ち去った、また自分の帽子(かぶりもの)を振った、また叫んだ、「信仰のみ、信仰のみ、それでも(やはりそれは)生きる」。
 
@1 14-16 pro “14, 15” 注1 14, 15」の代わりに14-16
@2 338 (cum exemplo Auctoris,) pro “238” 注2 238」の代わりに338 (著者の写し(本)に)
@3 28 (cum exemplo Auctoris,) pro “8” 注3 8」の代わりに28 (著者の写し(本)に)
@4 vi. pro “vii.” 注4 vii.」の代わりにvi.
@5 37 pro “38” 注5 38」の代わりに37
@6 32 pro “31” 注6 31」の代わりに32
@7 44 (cum exemplo Auctoris,) pro “24” 注7 24」の代わりに44 (著者の写し(本))
@8 sacerdotes:sic Aoc. Rev., n. 417. 注8 sacerdotes:sic Aoc. Rev., n. 417. sacerdotes――このように『啓示された黙示録』417番〔にある〕。
@9 Verba uncis inclusa videantur, Apo. Rev., n. 417. 注9 カッコに囲まれた言葉が『啓示された黙示録』417番に見られる。
 
(3) 訳文
506. 第四のメモラビリア――
 
 私は霊界の中で一つは雄ヤギ、もう一つは羊の二つの群れを見た。
 私はそれが何であるのかいぶかった、確かに、私は、霊界の中で見られる動物は動物ではなく、そこにいるそれらからの情愛とここからの思考の対応であることを知っていた。それゆえ、私はさらに近くへと近づいた、また私が近づくほど、動物に似ているものは消え、それらの代わりに人間が見られた。また、雄ヤギの群れを構成した者は自分自身に信仰のみによる義認の教えを確信した者であったこと、また羊の群れを構成した者は仁愛と信仰が一つである、このように善と真理が一つであることを信じたものであったことが明らかにされた。
 [2] またその時、雄ヤギのように見られた者と話した。私は言った、「なぜ、あなたがたはそのように集まっているのですか?」
 大部分の者は聖職者からであり、その学識から称賛された者であった、信仰のみによる義認のアルカナ(秘義)を知っていたからである。
 彼らは、会議に座るために集まった、と言った、パウロの言ったことを聞いたからである(ローマ3:28)
 
人間は、律法の行ないなしに、信仰で義とされること、
 
そこの「信仰」によって今日の教会の信仰が意味されなかったので、〔これが〕正しく理解されていない、その〔信仰〕は永遠からの三つの位格の神性の中へ〔の信仰である〕、しかし、〔正しいのは〕主なる神、救い主イエス・キリストへの信仰〔である〕。また「律法の行ない」によって十戒の律法の行ないが意味されなかった、しかしユダヤ人のためのモーセの律法の行ないが〔意味され〕、またそれらのわずかな言葉から、二つの憎むべき虚偽が誤まった解釈によって結論した、それらは、〔一つは、そこの信仰は〕今日の教会の信仰を意味したこと、また〔もう一つは、その行ないは〕十戒の律法の行ない〔である〕ことである。
 「パウロはこれらを意味しなかったこと、しかし、ユダヤ人のためのモーセの律法の行ないであったことは、ユダヤ人〔の風習に〕に倣った、とそれを叱責し、それでも〔次のことを〕知っているとき、ペトロへの彼自身の言葉から明らかである、
 
 だれも律法の働き行ないによって義とされず、しかし、イエス・キリストの信仰によって義とされる(ガラテヤ2:14-16)
 
 「イエス・キリストの信仰」によって、その方へのまたその方からの信仰であることが前に見られる(338)。また「律法の行ない」によってモーセの律法の行ないが意味されるので、それゆえ、★信仰の律法と働き(行ない)の律法の間を区別した、そしてユダヤ人と異邦人の間を、すなわち、割礼と無割礼者(包皮)、また割礼によってユダヤ教が意味される、他のところどこでものように。〔★以下の訳文が直訳から抜け落ちました、ここは直訳のままとします〕そしてまた、★それらをこれらのことばによって閉じ込めた、〔★以下の訳文が直訳から抜け落ちました、ここは直訳のままとします〕
 
 「それゆえ、律法を私たちは信仰によって廃止するのですか? 〔そんなことは〕ありません、しかし、律法を私たちは確立させます」 (これらのすべては一つの連続の中で言われている)(ローマ3:27-31)
 
 そしてまた、先行する章の中で言っている、
 
 「律法を聞く者が義とされない、神により、しかし、律法を行なう者が義とされる」(ローマ2:13)
 
 なおまた、
 
 神はそれぞれの者を彼の行ないしたがって報いること(ローマ2:6)
 
 またさらに、
 
 「すべての者は……私たちはキリストの厳しい罰の前に現わされなければならない、あるいは善、あるいは悪のそのどんなものでも獲得するために、それは身体によって……行なわれた」(コリント5:10)
 
 そこにほかにも多くのもの。 それらから、パウロはヤコブと等しく善の行ないなしの信仰を退けたことが明らかである(手紙2:17-26)
 [3] パウロによりユダヤ人のためのモーセの律法の行ないが意味されたことは、ほかにも、モーセのもとのユダヤ人のためのすべての法令が「律法」そのように「律法の行ない」と言われたことから私たちは確証される、それを私たちはこれらから見る――
 
 「これは穀物の捧げ物の律法」(ビ記6:14, 18以降)
「これは全焼のいけにえのための、穀物の捧げ物のための、罪と有罪のための、満たすための律法」(レビ記7:37)
 「これは獣(動物)と鳥のための律法」(レビ記11:46以降)
 「これは息子または娘のための産む者の律法」(レビ記12:7)
 「これはらい病のための律法」(レビ記13:5914:2, 32, 54, 57)
 「これは流出を働きかけられた者のための律法」(レビ記15:32)
 「これはねたみの律法」(民数記5:29, 30)
 「これはナジル人の律法」(民数記6:13, 21)
 「これは清めることの律法」(民数記14:14)
 「これは赤い雌牛についての律法」(民数記19:2)
 「王のための律法」(申命記17:15-19)
 
 実に、モーセの全部の書物が「律法の書」と呼ばれている(申命記31:9, 11, 12, 26、そしてまたルカ2:2224:44、ヨハネ1:457:22, 238:5)」。
 [4] これらに、パウロのもとにも見られることを言い足した、〔それは〕十戒の戒めが見られるべきであること、また仁愛により満たされることである(ローマ13:8-11)
 なおまた、〔パウロは〕言っている、
 
 三つのもの、信仰、希望、仁愛があり、これらの最大のものは仁愛であること(コリント13:13)
 
 そのように信仰ではない。
 彼らは、これらのために呼び集められた、と言った。
 しかし、私は彼らを騒がせないように退いた。またその時、再び、遠方から、雄ヤギのようなものが、ある時には伏せ、またある時には立っているように見られた。しかし、他の羊の群れへ向かった。
熟考したとき伏せているように、結論したとき立っているように見えた。
 しかし、私の視覚を彼らの角に保った。また私は、彼らの額の中に角が、ある時は前方にまた上方へ差し出されたように、ある時には背の方へ後方へ曲げられ、また最後に完全に向きを変えて見られたことを不思議に思った。またその時、急に、羊の群れへ向きを変えた、しかし、それでも雄ヤギのように見えた。
 それゆえ、再び、私は近づき、質問した、「何を、今〔しようとしているのですか〕?」
 彼らは木が実を生み出すように、信仰が仁愛の善を生み出すことを結論した、と言った。
 しかし、その時、雷鳴が聞かれ、上からの稲光が見えた。また間もなく、二つのそれらの群れの間に立っている天使が現われ、羊の群れへ叫んだ、「聞くな。彼らは前の自分の信仰から引き下がっていない、それは、信仰のみが義とし、救う、とし、まったく何も実際の仁愛が〔そうするのでは〕ない。信仰は木でない、しかし、人間が木である。しかし、悔い改めを行なえ、また主へ目を向けよ、すると、あなたがたは信仰を持つ」。そのこと依然の信仰は、その中に何らかのものが生きている信仰ではない」。
 その時、雄ヤギは角の向きを変えて羊に近づくことを欲した。しかし、彼らの間に立っている天使は、羊を二つの群れに分けた。また、左からの彼らに言った、「あなたがたは雄ヤギに加われ、しかし、私はあなたがたに言う、オオカミがやって来ること、それは彼らを、また彼らとともにあなたがたを襲う」。
 [5] しかし、分かれた後、二つの羊の群れは、また左からの彼らは、天使のおどしの言葉を聞き、お互いに眺め合って、言った、「私たちのかつての仲間と会話しよう」。
 またその時、左の群れが右の群れに言って、話した、「なぜ、あなたがたは私たちの羊飼いから去ったのですか?
 信仰と仁愛は木と実が一つであるように一つではありませんか? というのは、木は枝によって実の中に続いているからです。木が連続を通して実の中に流入する何らかのものを枝から引き離しなさい、実は また実と一緒に、再び何らかの木の生まれるすべての種は滅びるのではありませんか? 
 そのようであるかどうか、私たちの聖職者に質問してください」。
 またその時、質問した。聖職者は他の者を見回した、その者は、「よく話した」と言うようにと、まぶたでウインクした。またその後、答えた。
「あなたがたはよく話しました、しかし、善の働きの中への信仰が続くことについては、実の中への木が続くように、私たちは多くのアルカナを知っています、この場所では、それを公けにするしません。信仰と仁愛のひも(きずな)または糸の中に、多くの小さい結び目があり、それを私たち、聖職者たちだけが解くことができます」。
 [6] またその時、右からの羊の間にいた聖職者からのある者が、立ち上がり、言った、「彼らはあなたがたに、そのようであることを答えました、しかし、自分自身にそのようではありません、というのは、異なって考えるからです」。
 それゆえ、彼らは質問した、「その時、どのように考えているのですか? 彼らは教えるように考えないのですか?」
 彼は言った、「いいえ。救いそして永遠のいのちのために人間により行なわれる善の働きと呼ばれるすべての仁愛の善を、最小の部分も善はないと考えます、その理由は、人間は自分自身による働きによって自分自身そのものが救われることを、唯一の救い主の功績を自分自身の義として要求して、欲するからです。またそのようであることを、すべての善の働きに、その中に人間は自分の意志を感じるからです。それゆえ、信仰と仁愛の結合はまったく何もないこと、また、信仰が善の働きによって保持され、また保存されることが決してない、主張たのです。
 [7] しかし、左れからった、「あなたは彼らに反する偽りを言っています。彼らは、仁愛とそのきをそれを信仰きとんで、私たちのらかに説教していませんか?」
 また、彼えた、「あなたがたはらの説教理解していません。〔ここにいる聖職者だけが、留意、理解しています。彼らは道徳的仁愛だけをまたその市民的なまた政治上善行それらを信仰のものとびますがまったくそうでは〕ありません。というのは、人間は、無神論者はそれらを同様に、また同じ形の下に行なうことができるからです。それゆえ、だれも何らかの働きによって救われない、しかし、信仰のみによって救われる、と一致して言っています。けれども、このことを比較(たとえ)によって説明しましょう――リンゴの実を生じる木はリンゴを生み出します、しかし、その木が延長によってリンゴを生み出すように、もし人間が救いのために善行をなすなら、その時、そのリンゴは内部で腐り、虫で満ちます。さらに言いましょう、ブドウの木がブドウを生み出します、しかし、もし人間が霊的な善行をなしたなら、ブドウの木はブドウを野ブドウのようにします」。
 [8] しかしその時、質問した、「彼らに、信仰の実であるどのような仁愛の善行または働きがあるのですか?」
 おそらく、信仰の近くに〔あり〕、それでもそれに密着していない目だなない、何らかのものであろう、と答えた。「背後から人間に続く影のようなものであり、自分の向きを変えないなら、太陽に向かって眺める時、その影を認めません。それどころか、私は、馬のしっぽのようである、と言うことができます、それは今日、それらは何も役立たないために何〔になるの〕か? もし馬にくっついているなら、容易に汚れる、と言って、多くの場所の中で切られています」。
 これらを聞いて、羊の左の群れからの憤慨したある者が言った、「確かに、何らかの結合があります。そうでなければ、どのように信仰の働きを呼ぶことができますか?
 おそらく、仁愛の善行は、神により何らかの流入によって人間の自発的なきの中に、何らかの情愛・熱望・霊感・興奮・願いの喚起・思考の中の静かな知覚、またここからの勧告・悔恨、またこのように良心、またここから強制、幼児のようにまたは賢明な者のように十戒とみことばの従順によって、またはそれらと似た何らかのある媒介するものによるかように徐々にしみ込みます、そうでなければ、どのように信仰の実と呼ばれることができるのですか?」
 これに聖職者は答えた、「いいえ。またもし、そのようものによって何かが行なわれた、と言うなら、それでもそれを言葉とともに説教の中ででっちあげています、それらから結果として、信仰からでないことが生じます。それでも、あるものを、このようなものを述べました、しかし、信仰のしるしとしてであり、仁愛とのそのきずな(ひも)としてではありません。
 それでも、ある者は、みことばによる結合を考え出しました」。
 またその時、彼らは言った、「このような結合がありませんか(それを人間は、みことばにしたがって自発的に行なう)?」
 しかし、答えた、「このことを考えません、しかし、単にみことばを聞くことによって〔結合があります〕。というのは、すべての理性的なものは、また信仰の事柄の中の人間のすべての自発的なものは、不潔なまた功績を求めるものであり、人間は霊的なものの中で丸太よりもさらに何らかのものを考えること、意志すること、働くこと、協力することができない、と主張するからです。
[9] しかし、ある者が、人間が、信仰と救いのものであるすべてのものの中に、そのようなものを信じていること聞いた時、言った、「私はある者が、『私はブドウ畑を植えた、今や、私はブドウ酒を飲む、酩酊〔する〕までも』と言っているのを聞きました。しかし、他の者が質問した、「あなたは、あなたの右手によってその酒杯からブドウ酒を飲むのですか?」 また、言った、『いいえ、しかし、目に見えない酒杯から、目に見えない手によってです』。また、他の者が答えた、『確かに、その時、あなたは酔いません』。
 間もなく、同じ男が言った、「しかし、どうが私〔の言うこと〕に聞いてください。私はあなたがたに、みことばの理解力からブドウ酒を飲みなさい、と言いましょう。主がみことばであることを(あなたがたは)知っていませんか? みことばは主からではありませんか? そのように(したがって)の方はその中にいませんか? それゆえ、もし、あなたがたがみことばから善を行なうなら、それをみことばから、その方の口から、意志から行ないませんか? また、もしその時、あなたがたが主に目を向けるなら、その方もまたあなたがたを導き、教えまする、また、あなたがたはそれを主のことばから行ないます。
 何らかのことを王から、その王の口と命令で行なう者が、『このことを私は、私の口から、または命令、また私の意志から行なう』と、だれが言うことができますか」。
[10] この後、聖職者へきを変え、言った、「神に仕える者よ、群れを迷わすな」。
 これらを聞いて、左の群れの大部分は去り、右の群れに合流した。
 その時、聖職者からのある者が言った、「私たちは以前にないものを聞きました。私たちは羊飼いです、羊を置き去りにしません」。また、彼らと一緒に去った。また言った、「この男は真理のことばを話しました。みことばから、そのように主から、その方の口と意志で行なう者が、『このことを私は、私から行なう』とだれが言うことができますか? 王から、その〔王の〕口と意志で行なう者が、『このことを私は、私から行なう』と、だれが言うのですか?
 私たちは、教会の社会により認められている信仰と善の働きの結合が、なぜ見つからなかったか、今や、神的な摂理〔であったこと〕を見ます。見つけられることができなかったのは、存在することができなかったからです、というのは、みことばである主への信仰がなく、またここからみことばからの信仰もなかったからです」。
 しかし、雄ヤギの群れからであった残りの聖職者たちは、立ち去った、また自分の帽子(かぶりもの)を振り、叫んだ、「信仰のみ、信仰のみ、それでも(やはりそれは)生きる」。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第8章, 02:09
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