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原典講読『真のキリスト教』507(訳文)
(3) 訳文
507. 第五のメモラビリア――
 
 私は天使(たち)との会話の中、また最後に、その中にそれぞれの人間は出生からいる悪の欲望についての会話の中にいた。
 ある天使が、世の中でその欲望の中にいる者は、〔次のように〕見られると言った、「私たち天使たちに、愚かな者に、しかし、彼は、自分自身が、その時、最高度に賢明な者〔見られる〕。そのため、自分の愚かさから引き出されるために、時々(交互に)、その中に戻され、また時々(交互に)、彼のもとにある外なるものの中の理性の中に〔戻される〕。また、この状態の中で、自分の狂気を見、認め、告白する――しかし、それでも、自分の理性的な状態から、自分の狂気を激しく欲し、そしてまた、強制と不愉快から自由と快さの中にのように自分自身をこの中に入れる。そのように、欲望は内的に彼らを喜ばせ、知性は喜ばせない。
 [2] 三つの普遍的な愛があり、創造によりそれらからすべての人間はつくり上げられている。隣人愛は、役立ちを行なう愛でもあり、この愛は霊的である。世への愛(世俗愛)は、富を所有する愛でもあり、この愛は物質的である。そして、自己愛は、他の者の上に支配する愛であり、この愛は形体的である。
隣人愛または役立ちを行なう愛が頭をつくり、世俗愛または富を所有する愛が胸と腹をつくり、そして自己愛または支配する愛が足とその足の裏をつくる時、人間は真に人間である――しかし、もし世俗愛が頭をつくるなら、人間はせむしのような人間でしかない。しかし、もし自己愛が頭をつくるなら、足の上に立っている人間のようではない、しかし、頭で下方、また尻で上方に、手の掌の上のように〔立っている〕。
 [3] 役立ちを行なう愛が頭をつり、そして残りの二つの愛が順に身体と足をつくる時、天界の中で、その人間は、頭のまわりの美しい虹とともに天使の顔で見られる。しかし、もし世へのまたは富への愛が頭をつくるなら、天界から、彼は頭のまわりの黄色の輪とともに死人のような青白い顔で見られる。しかし、もし自己愛、すなわち、他の者の上に支配する〔愛〕が頭をつくるなら、天界から、彼は頭のまわりの白い輪とともに黒ずんだ火の顔で見られる」。
 これらへ私は質問した、「頭のまわりの輪は何を表象しているのですか?」
 彼らは答えた、「知性を表象している。黒ずんだ火の顔の頭のまわりの白い輪は、外なるものの中に、あるいはそのまわりにある彼の知性を表象している、しかし、内なるものの中に、またはその中に狂気が〔ある〕。人間もまた、その者はそのようなものである、身体の中にいるとき賢明である、しかし、霊の中に〔いる〕時、狂っている。だれも人間は主からでないなら霊で賢明ではない、それはその方により再び再生させられ、創造されるとき生じる。
 [4] これらが言われて、左に地が開かれ、開口部を通って、頭のまわりに白い輪とともに黒ずんだ火の顔の悪魔が上がって来るのを見た。また、私は尋ねた、「あなたはだれですか?」
 彼は言った、「私は暁の子、明けの明星(魔王)である、また私は私を「至高者」と等しいものにしたので、「イザヤ書」第14章に描かれているように投げ落とされた。 
 しかし、彼は明けの明星(魔王)でなかく、自分自身をそれであるを信じた。
 また私は言った、「あなたが投げ落とされているとき、あなたはどのようにして地獄から上ることができるのですか?」
 また、答えた、「私は、そこの悪魔である、しかし、ここで私は光の天使である――あなたは白い光輪(環)で取り巻かれた私の頭を見ないか? そしてまた、もしあなたが欲するなら、あなたは、私が道徳的な者の間で道徳的な者、そして理性的な者の間で理性的な者、それどころか、霊的な者の間で霊的な者であることを見るであろう。説教することもできた」。
 私は質問した、「あなたはどのように説教したのですか?」
 彼は言った、「欺瞞に反して、姦淫に反して、またすべての地獄の愛に反して〔説教した〕、それどころか、その時、私を、明けの明星(魔王)を、悪魔と呼んだ。ここから、私は暁の子と呼ばれた。また私は自分自身でも驚くのであるが、私が説教壇の上にいたとき、私は適切にまた正しく話しているとしか考えなかった。しかし、私に理由が示された、これらのことは、あなたの外なるものの中で、またこれらのものはその時、私の内なるものから分離されたものであったからである。またそれでも、このことが私に示された、やはり私は私を(悪いものへ)変化することができなかった、私は私を「至高者」の上に高め、またその方に対して私を上げたからである」。
 [5] その後、私は質問した、「あなたがだます者そのもの、また姦淫者そのものであるとき、どのように、そのように話すことができたのですか?」
 彼は答えた、「私は、私が外なるものの中に、すなわち、身体の中にいるとき他の者である、また、内なるものの中に、すなわち、霊の中にいるとき他の者である――身体の中で私は天使である、しかし、霊の中で悪魔である。というのは、身体の中で私は理解力の中にいる、けれども、霊の中で私は意志の中にいる、そして理解力が私を上方へ向ける、しかし、意志が私を下方へ向けるからである。また、私が理解力の中にいる時、私の頭を白い輪がまわりをおおう、しかし、理解力がそれ自体をまったく意志に引き渡す時、また私たちの最後の運命(種類)になる、その時、輪は黒くなる、そして見えなくなる。そのことが起こったので、私はもはやこの光の中に上ることができない」。
 しかし、急に、彼が私のもとの天使を見たために、顔と声で興奮し、さらにまた頭のまわりの輪に関して黒くなった。また開口部を通して現われたが、その開口部を通して地獄の中へ墜落した。
 傍観者たちは見られ、聞かれたそれらのものから、この結論をつくった、人間は彼の意志がどのようなものであるか〔によって〕そのようなものであること、また彼の理解力がどのようなものかによらない、意志は理解力を容易に自分の部分の中に連れ去り、従属させるからである。
 [6] その時、私は天使(たち)に質問した、「どこから、悪魔に推理力があるのですか?」
 彼らは言った、「自己愛の栄光からである。なぜなら、自己愛は栄光取り巻かれているから、というのは、この栄光はその火の輝きであるから、またその栄光が理解力をほとんど天界の光の中に上げる。なぜなら、それぞれの人間のもとの理解力は思考にしたがって上げられることのできるものである、しかし、意志は、教会と理性の真理にしたがった生活によってでないなら上げられないからである。ここから、無神論者ですら、その者は自己愛からの名声の栄光の中に、またここからプロプリウム(自己)の知性の高慢の中にいて、他の多くの者よりも高遠な推理力を授けられている。しかし、その時、理解力の思考の中にいて、意志の愛の中にいない。意志の愛は内なる人を所有する、しかし、理解力の思考は外なる人を所有する」。
 さらに、天使は、なぜ、人間は三つの愛からつくり上げられているいるか、すなわち、役立ちの愛から、世俗愛から、また自己愛からか〔その〕理由を言った――その理由は、人間が神から考える、それでもまったく自分自身からのように考えるからである。
 言った、「人間の心の中の最高のものは神へと上へ向かっている、そこに中間のものは世へと外側へ、そしてそこに最も低いものは身体の中へ下方へ向かっている。またこれが下方へ向きを変えられているので、人間はまったく自分自身からのように考えるが、そのときそれでも神からかんがえている」。
author:yasubee, category:原典講読『真教』第8章, 10:20
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