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原典講読『啓示された黙示録』 875(訳文[9]〜[17] )

[9] この後、私は階段を通って知恵の神殿を降りた、庭園の中を歩き、月桂樹の下に座って、イチジクの実を食べている者を見た。彼らへと私は去った〔近づいた〕、からイチジクの実を求め、彼らは与えた。
 見よ、私の手の中のイチジクの実はブドウの実になった。

そのことを私が驚いたとき、依然として私とともにいた天使的な霊が私に言った、「あなたの手の中のイチジクの実はブドウの実になったのは、イチジク(の実)は対応から仁愛の善を、またここから自然的なものの中の信仰を、すなわち、外なる人〔の中の〕、そしてブドウ(の実)は、対応から、仁愛の善を、またここから霊的なものの中の信仰を、すなわち、内なる人〔の中の信仰を〕意味するからです。また、あなたが霊的なものを愛するので、それゆえ、そのようにあなたに生じました。というのは、私たちの世界の中で、すべてのものは対応にしたがって生じ、存在するようになり、そしてまた、変化するからです」。
また、その時、私に、どのように人間は神により善を行なうことができるのか、またそれでも自分自身からのように行なうことができるのか知ろうとする願望が出てきた。それゆえ、私はイチジクの実を食べている者に、そのことを彼らがどのように把握しているか質問した。彼らは、そのことを、神がそれを人間の中で内的に、そして人間によって、彼がそのことを知らない時に働くこと以外に異なって把握することができないことを言った。もし、人間がそのことを気づいている、またこのように自分自身からのように行なうなら、単に現われるものでないなら善を行なわないからであり、それは内的に悪である。「というのは、人間から発出するすべてのものは、彼自身からのように、彼のプロプリウムから発出し、またこれは出生から悪であるからである。

どのようにその時、神からの善が、また人間からの悪が結合されること、またこのように結合したものが行動の中に発出することができるのか?

また、救いの事柄の中で人間のプロプリウムは絶えず功績を吹き込んでいる。またどれだけこのことを行なうか〔によって〕それだけ主ご自身の功績を取り去り、それは最大の不正と不敬である。

一言でいえば、もし、神が聖霊を通して人間の中で働き、人間の中で欲することまたここから行なう善が流入するなら、その善はすべての点で不潔にされ、そしてまた冒涜され、そのことをそれでも神は決して許さない。

確かに、人間は、自分自身を通して、そして自分自身からのように行ない、考えることができる善を神からであること、またそれを神の善と呼ぶことができる。しかしそれでも、そのこと〔がそのよう〕である〔ことを〕、私たちは把握しない」。
 [10] しかし、その時、私は心を開き、言った、「あなたがたは、あ外観から考えているので把握していない、外観から確信した思考は欺きである。

あなたがたは、人間が意志し、考え、またここから行ない、話すすべてのものが人間の中にあること、またしたがって自分自身から〔のものであると〕信じているので、外観とここからの欺きがあなたがたにある。そのときそれでも、流入するものを受け入れる状態以外に、それらの中に人間のものは何もない。

人間は自分自身の中にいのちがない、しかし、いのちの受け入れる器官である。
 「ヨハネ福音書」にもまた言われるように、主おひとりが本質的にいのちである―― 

 

 「父がご自分自身の中にいのちを持つように、そのように子もまたご自分自身の中にいのちを持つことを与えた」(5:26、ほかに他の箇所に、例えばヨハネ11:25,14:6, 19)

 
 [11]
いのちをつくる二つのもの、愛と知恵がある。または、愛の善と知恵の真理と同じものである。

これらは神から流入し、また人間により、人間の中に、その中にあるかのように受け入れられる。また彼から、彼の中にかのように感じられるので、人間から発出するものも、彼の〔ものであるか〕のように〔感じられる〕。

人間に流入し、働きかけ、このように受け入られ、そしてとどまるそのように、人間により感じられることは、主により与えられている。

しかし、すべての悪もまた、神からでなく、しかし、地獄から流入し、これは快さとともに受け入れられる、人間はこのような器官に生まれているからであり、それゆえ、悔い改めによって、また一緒に、主への信仰によって生じ、人間から遠ざけられた悪がどれだけか〔によって〕、それ以上に〔は〕、神から善の多くのものを受け入れない。

 [12] 知恵、仁愛と信仰は、または一般的な言い方で、愛と仁愛の善は、そして知恵と信仰の真理は、流入し、また流入するものは、人間の中で彼の〔もの〕のように、またここから彼からの〔もの〕のように見えることが、聴覚で、嗅覚で、味覚で、また触覚で明らかに見られることができる。それらの感覚器官感じられるすべてのものは、外から流入し、それらの中に、同様、内部感覚器官、単なる相違とともに感じられる、後者は見えないものの流入するけれども前者は見えるものの流入する

 一言でいえば、人間からのいのちのれる器官であるしたがって、悪かられるかぎり流入する器官である

 悪かられることができることは、主がそれぞれの人間えている自分自身からのように意志することと理解することをえているからであるまたそれぞれの人間意志から理解力(知性)にしたがうかのように、自分のものかのようにすなわち、同じことであるが〕、何でも意志自由から、理解力理性にしたがってなうこれが

 そのことによって、主人間自分自身との結合状態こしまたこのことの改心させ、再生させまた

 [13] 流入するいのちは、主から発出するいのちでありそのいのちは霊、みことばの聖霊ともばれ、それについてもまた、照らすまたかすそれどころか、人間の中くとわれるしかしこのいのちは人間愛と見ること(視覚)によって人間こされた組織にしたがって多様にされ、変えられる

さらにまたあなたがたは知ることができる、愛と仁愛のすべての善は、また知恵と信仰のすべての真理は流入すること、そのことから、考える者は、このようなものが人間に創造から内在することを、異なって考えることができない、神がご自分を人間に注いだこと以外に、またこのように人間は部分に関して神になったこと。またそれでも、このことを信念から考える者は、悪魔になり、また死体のように悪臭を放つ。

 [14] 加えて、心が行なうのでなければ人間の行動は何か? というのは、心が欲し、考えるものを、これをその身体の器官によって行なうから。それゆえ、心が主により導かれる時、行動もまた導かれる。そして主が信じられるとき、またここから行動はその方により導かれる。

 そのようでないなら、あなたがたは、もしできるなら、なぜ主はご自分のみことばの中で千また千の箇所の中で、命令したか言え、人間は隣人を愛すべきであること、仁愛の善を働くべきである、そして木のように実を(生み出すべきである)、そして戒めを行なうべきである、またこれやそれを、救われるために。なおまた、人間は自分の行為または働きにしたがって善を行なう者は天界といのちへ、また悪を〔行なう〕ものは地獄と死へと裁かれると、なぜ言われたのか? 

人間から発出するものが功績を求めるものとここから悪であったなら、どのようにして主はこのようなことを話すことができたのか? 。

 それで、あなたがたは、もし心が仁愛であるなら、行動もまた仁愛であることを知らなければならない。けれども、もし心が信仰のみであるなら、それは霊的な仁愛から分離した信仰でもある、行動もまたその信仰である」。またこの信仰功績めるものである、彼仁愛自然的なもので霊的なものでないからである仁愛の信仰は異なる、仁愛は功績を欲しなない、また彼の信仰も〔欲し〕ないからである。

 [15] これらを聞いて、月桂樹の下に座っている者たちが言った、「私たちは、正しく、あなたが話したことを把握する、しかし、それでも、私たちは把握しない」。

 彼らに私は答えた、「あなたがたは、正しく、私が話したことを、全般的な知覚から把握している、その知覚は何らかの真理を聞くとき天界からの光の流入から人間にある。しかし、あなたがたはプロプリウムの知覚から把握しない、それは人間に世からの光の流入からある。

それらの二つ、すなわち、内なるものと外なるもの、または、霊的なものと自然的なものの知覚は、賢明な者のもとで一つとなっている。あなたがたもまた、それらを一つにすることができる、もしあなたがたが主へ目を向け、また悪を遠ざけるなら。

 これらもまた彼らは把握したので、私は、その下に私たちが座っていた月桂樹から小枝を選び出し、差し出し、言った、「あなたがたは、このことが私から、あるいは主からであることを信じているのか?」

 また、彼らは言った、私を通して私からのように〔である〕と信じること。すると見よ、その小枝は彼らの手の中で花が咲いた。

しかし、私が去ったとき、私は幹のブドウの木が巻きついていた緑のオリーブの木の下に、杉の机を、その上に本があるのを見た。

 私は見つめた、見よ、私によって書かれた『神の愛と知恵』と『神の摂理』★と呼ばれる本があった。また、私その、人間はいのちのれる器官であり、いのちでないことが十分されていることを言った

 
 [16]
これらの後、喜んで、私は家へ立ち去った。また私ともに天使的な霊はその道中で、「あなたは、信仰と仁愛が何か、そのように、仁愛から分離した信仰が何か、また仁愛と結合した信仰が何か、はっきりと見ることを欲しています。私は目に示しましょう」と言った。
 私は応えた、「示してください」。
 また彼は言った、「信仰と仁愛の代わりに光と熱を考えなさい、するとはっきりとあなたは見まし。信仰はその本質では知恵のものである真理であり、仁愛はその本質では愛のものである情愛です。そして知恵の狄人瓩賄軍Δ涼罎埜であり、愛の情愛は天界の中で熱です。天使たちがその中にいる光と熱は他のものではありません。
 ここから、仁愛から分離した信仰が何か、また仁愛と結合した信仰が何か、あなたははっきりと見ることができます。
 仁愛から分離した信仰は服の光のようであり、そして仁愛と結合した信仰は春の光のようです。
 冬の光は熱から分離した光であり、それは冷たさと結合しているので、木をさらにまた葉からまったく裸にし、草を絶滅させ、地を固くし、そしてまた水を氷結させます。けれども、春の光は熱と結合しているので、木を、最初に葉の中に、なおまた花の中に、また最後に実の中に生長させ、地を開き、やわらかくし、草を、草本を、花と実を生みだすように、そしてまた氷を解き、水が泉から流れるようにします。
 [17] 信仰と仁愛もまったく同様です。仁愛から分離した信仰はすべてのものを死なし、仁愛と結合した信仰はすべてのものを生かします。
 この生き生きとさせることとその死をもたらすことは、私たちの霊界の中で生き生きと見られることができます、ここでは信仰は光、仁愛は熱であるから。というのは、仁愛と結合している信仰があるところに、そこに結合にしたがって楽園のようなその愛らしさの中の花壇と芝地の庭園があるからです。しかし、仁愛と分離している信仰があるところに、そこに決して草はありません。またそこの緑は、茂みとイバラとイラクサからです。太陽としての主から発出している熱と光が、これを天使と霊たちの中に、またここから彼らの外にひき起こしています」。
 その時、私たちから遠くないところに聖職者からのある者がいた、その者を天使的な霊は、信仰のみによって人間の義認と聖化を認める者、そしてまた秘義の専門家と呼んだ。
 これらと同じことを私たちは彼らに言った、また私たちは、そのようであることを見るようにまでも示した。また、私たちが、そのようでないのか、と質問したとき、自分自身を背け、また言った、「私たちは聞かなかった」。
 しかし、私たちは彼らに「聞け、そこで、なおさらに」と言って、叫んだ。しかし、その時、両方の手で耳をふさいで、「私たちは聞きたくない」と叫んだ。
 

★このメモラビリアは『真のキリスト教』461番に再録されており、そこでは「私によって書かれた本」は『天界の秘義』となっています。

author:yasubee, category:原典講読『啓示された黙示録』, 21:25
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