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原典講読『霊界体験記』 155

(1) 原文

De Loquela et intellectu rerum, apud Angelos

 

155.  Cum spiritibus circum me loquutus sum de loquela angelorum, et intellectu rerum, quae spiritus summopere scire cupiebant; ab experientia edoctus dicebam, quod loquela angelorum nobis non perceptibilis esse possit, quia{1} innumerabilia continet quasi simul, quae successive et per plures ambages prolixe explicanda essent, et quod nobis non aliter repraesentata sit, quam per formas fere incomprehensibiles, varie secundum naturam formarum intimiorum, congyratas et circumgyratas, quas describere non possum; de quibus, mihi ostensis, alibi [[191a-92a], 86]; interea forma datur loquelae seu loquentium perplurium simul, quae dum in inferiorem orbem cadit, non apparet similis, sed plane diversa quandoque, utplurimum in repraesentationes tales, quales sunt prophetarum, quae sic continent in suis intimioribus{2} coelestia, et sic arcana: intellectus angelorum datur reciprocus, nempe a talibus repraesentationibus, quae dum sistuntur ideis nostris, transferuntur in coelestia, quae ab angelis intelliguntur, sic utique paradisus terrestris transire potest in coelestem; quod angeli a solis rebus naturalibus rite connexis intellexerint seriem rerum sublimiorum et coelestium, etiam mihi ostensum; quod tamen nusquam existere potest penes angelos, nisi ex misericordia Dei Messiae. 1747, d. 21 Aug. st. v. Circumgyrationes tales quandoque ad vivum super me, per Divinam Dei Messiae misericordiam, sentire potui; exinde concludere potui, quod myriades talium intimiorum potuerunt unam ideam materialem ita dictam concinnare, in qua tam innumerabilia continentur, ut homo nusquam id credere, minus comprehendere possit; similiter in unaquavis idea intimiore, sed indefinite perfectius. Haec forma, proinde influxus a Deo Messia per angelos, et ab his per spiritus in mentes humanas perturbatur, quando contrario ordine degit homo, cumprimis quando homo per scientifica excitata ab amore sui et mundi, et sic a cupiditatibus, inferre se velit in mysteria fidei, inde confusio seu perturbatio qualis Babyloniorum, turrim aedificantium, quum labia eorum confusa sunt [Gen. XI: 4-9]; inde praedicatur absentia Dei Messiae ab homine, tametsi omnia usque ita disponuntur, ut in speciem alicujus formae coelestis, quod indefinitis modis fieri potest, redigatur; nam utcunque abstrusum, intricatum, varium, existit in sphaera inferiori seu mundi, usque in ordinem coelestem a Deo Messia redigi potest, aliter periret homo, nec posset{3} quicquam intelligere, inde influxus usque spiritualis, ut ratiocinari queat; aperiri dicitur janua a Paradiso coelesti in terrestrem, quando a superiori agitur, hoc est, secundum ordinem, quod etiam est, faciem advertere. De confusione Babÿlonica, et Paradisi coelestis aperitione{a}.

@1 sic J.F.I. Tafel; ms. qui

@2 sic J.F.I. Tafel ms. intimiori

@3 ms. potest

@a = apertione (forma antiqua)

◎「原文」について、情報を追加します。本書の欄外には「1. 2.  3.  4.  5.」の番号が付いています。「直訳」では、この番号に該当するであろう箇所の冒頭にその番号を(1)(5)として配置しました。

 さらに欄外の4箇所に「Obs.」がついています。これも該当するであろう文の冒頭に配置しました。

 Obs. observatio「注意・注目」または observa「注せよ」の略語。

 

(2) 直訳

De Loquela et intellectu rerum, apud Angelos 天使たちのもとの、話物事の理解力について

155.  Cum spiritibus circum me loquutus sum de loquela angelorum, et intellectu rerum, quae spiritus summopere scire cupiebant; 私は、私のまわりの霊たちと、天使たちの話し方と物事の理解力について話した、それらを霊たちは最高に知ることを望んだ。

ab experientia edoctus dicebam, (1) quod loquela angelorum nobis non perceptibilis esse possit, quia{1} innumerabilia continet quasi simul, quae successive et per plures ambages prolixe explicanda essent, et quod nobis non aliter repraesentata sit, quam per formas fere incomprehensibiles, varie secundum naturam formarum intimiorum, congyratas et circumgyratas, quas describere non possum; 経験から教育されたものから私は言った、(1) 天使たちの話し方は私たちに知覚できる〔もの〕であることができないこと、無数のものがあたかも一緒に含まれているからである、それらは連続してまた多くの長たらしい(退屈な)回り道で説明されなければならない、また私たちに異なって示されないこと、ほとんど理解できない(不可解な)によってでないなら、さらに最内部の形の性質にしたがってさまざまに、輪になった(巻きついた)のと回転しているもの、それらを記述することはできない。

de quibus, mihi ostensis, alibi [[191a-92a], 86]; それらについて、私に示されて、他の箇所に〔191a-92a, 86〕。

191a, 192aは『みことばの講解』5185, 5186番です(そこには天使の全般的な活動が回転によって、特に旋廻によって行なわれる…などが書かれています)

(2) interea forma datur loquelae seu loquentium perplurium simul, quae dum in inferiorem orbem cadit, non apparet similis, sed plane diversa quandoque, utplurimum in repraesentationes tales, quales sunt prophetarum, quae sic continent in suis intimioribus{2} coelestia, et sic arcana: (2) その間に、話し方の、または非常に多くの同時に話しているものの形が与えられる、それらは下の世界に落ち込む時、同様のものに見られない、しかし、時々、まったく異なったものに〔見られる〕、多くの場合(大部分は)のようなものの表象の中へ、預言者のもののようなものである、それらはこのようにそのさらに最内部の中に天界のものを、またこのようにアルカナを含んでいる。

intellectus angelorum datur reciprocus, nempe a talibus repraesentationibus, quae dum sistuntur ideis nostris, transferuntur in coelestia, quae ab angelis intelliguntur, sic utique paradisus terrestris transire potest in coelestem; 天使たちの交互の(往復運動をする)解力が存在する、すなわち、私たちの観念が示される時、天界のものの中に移される、それらは天使たちによって理解される、このように確かに、地上の楽園が天界のもの〔楽園〕の中へ移ることができる。

(3) quod angeli a solis rebus naturalibus rite connexis intellexerint seriem rerum sublimiorum et coelestium, etiam mihi ostensum; (3) 天使たちが単なる自然的な物事から正しく関連を理解したことが、高尚なまた天界のもののまじめな事柄を、さらにまた私に示された。

quod tamen nusquam existere potest penes angelos, nisi ex misericordia Dei Messiae. それでも、天使たちの面前にどこにも存在することができないこと、神メシアの慈悲からでないなら。

1747, d. 21 Aug. st. v. 1747821日、旧暦。

(4) Circumgyrationes tales quandoque ad vivum super me, per Divinam Dei Messiae misericordiam, sentire potui; (4) このような回転が、時々、生き生きと私の上に、神メシアの慈悲によって、感じることができた。

exinde concludere potui, quod myriades talium intimiorum potuerunt unam ideam materialem ita dictam concinnare, in qua tam innumerabilia continentur, ut homo nusquam id credere, minus comprehendere possit; このゆえに、私は結論することができた、最内部の無数のこのようなものが、一つの物質的な、そのように言われる観念をつくること、その中に、このように無数のものが含まれる、人間が決してそのことを信じることが、まして把握することができないような。

similiter in unaquavis idea intimiore, sed indefinite perfectius. それぞれのさらに最内部の観念の中で同様である、しかし無限に完全〔である〕。

(Obs.) Haec forma, proinde influxus a Deo Messia per angelos, et ab his per spiritus in mentes humanas perturbatur, quando contrario ordine degit homo, (注意せよ)、この形は、それで神メシアから天使たちを通して、また彼らから霊たちを通して人間の心の中への流入は、混乱させられる、人間が正反対の秩序に時を過ごす(生活する)時、

(Obs.) cumprimis quando homo per scientifica excitata ab amore sui et mundi, et sic a cupiditatibus, inferre se velit in mysteria fidei, inde confusio seu perturbatio qualis Babyloniorum, turrim aedificantium, quum labia eorum confusa sunt [Gen. XI: 4-9]; (注意せよ)、特に、人間が自己と世の愛によりかきたてられた記憶知によって、またこのように欲望により、自分自身を信仰の奥義(秘密)中に引き入れることを欲する時、ここからバビロンの住民のような混乱または動揺〔がある〕、塔を建てた〔者の〕、そのとき彼らの唇は混乱した〔「創世記」11:4-9〕。

(5) inde praedicatur absentia Dei Messiae ab homine, tametsi omnia usque ita disponuntur, (Obs.) ut in speciem alicujus formae coelestis, quod indefinitis modis fieri potest, redigatur; (5) ここから人間からの神メシアの不在が述べられる、それでもすべてのものはやはりそのように配置されて(整えられて)いる、(注意せよ)、どれもが天界の形の姿の中に、そのことは無限の方法で行なわれることができる、整えられる。

(Obs.) nam utcunque abstrusum, intricatum, varium, existit in sphaera inferiori seu mundi, usque in ordinem coelestem a Deo Messia redigi potest, aliter periret homo, nec posset{3} quicquam intelligere, inde influxus usque spiritualis, ut ratiocinari queat; (注意せよ)、なぜなら、どれほど深遠な(難解な)、もつれた、いろいろな〔ものであっても〕、低い、すなわち、世のスフェアの中に存在する、それでも神メシアにより天界の秩序の中にもどされることができる、異なって(そうでなければ)間は滅びるであろう、どんなものも理解することもできない、ここから、それでも(やはり)的な流入が、推理することができるように。

aperiri dicitur janua a Paradiso coelesti in terrestrem, quando a superiori agitur, hoc est, secundum ordinem, quod etiam est, faciem advertere. 扉(入り口)天界の楽園から地上の〔楽園〕の中に開けられることが言われる、上から働きかけられる時、すなわち、秩序にしたがって、このこともまた「顔を向けること」である。

De confusione Babÿlonica, et Paradisi coelestis aperitione{a}. 「バビロニアの混乱と天界の楽園の開けることについて」。

 

(3) 訳文

天使たちのもとの物事理解力について

 

155.  、私のまわりのたちと、天使たちの物事理解力についてした、霊たちはそれらを最高ることをんだ。経験から教えられたものからった(1) 天使たちのたちに知覚できできないものであること、無数のものがあたかも一緒まれていそれらは連続してまたくのたらしい説明されなければならずまたたちにほとんど理解できないによってですじかされずさらに最内部性質にしたがって、輪になったのと回転しているさまざまなものでありそれらを記述することはできないからであるそれらについて、私他の箇所された191a-92a, 86〕。

(2) その、話または非常くの同時しているもののえられそれらは世界時、同様ものられないしかし、時々、まったくなったものにられ大部分、預言者のもののような表象られそれらはこのようにそのさらに内的なもの天界のものをこのようにアルカナをんでいる。天使たちの交互解力存在するすなわち、私たちの観念される時、天使たちによって理解される天界のもののされこのようにかに、地上楽園天界楽園ることができる

(3) 天使たちがなる自然的物事から、関連する高尚なまた天界のもののまじめな事柄しく理解したこともまたされたそれでも、天使たちの面前、神メシアの慈悲からでないならどこにも存在することができない1747821日、旧暦。

(4) このような回転を、時々、私の上に生き生きと、神メシアの慈悲によって、感じることができた。このゆえに、私は結論することができた、最内部の無数のこのようなものが、物質的と言われる一つの観念をつくり、その中に、人間が決してそのことを信じ、まして把握することができないような無数のものが含まれることである。さらに内的なそれぞれの観念の中で同様である、しかし無限に完全である。

(注意せよ)この形は、それで神メシアから天使たちを通して、また彼らから霊たちを通して人間の心の中への流入は、人間が正反対の秩序で生活する時、混乱させられる。

(注意せよ)特に、人間が自己愛と世俗愛によりかきたてられた記憶知によって、またこのように欲望により、自分自身を信仰の奥義中へ引き入れることを欲する時、ここからバビロンの住民のような混乱または動揺がある、塔を建てた者は、そのとき彼らの唇は混乱した〔創世記11:4-9〕。

(5) ここから神メシアが人間から不在であることが述べられる、それでもすべてのものはやはりそのように配置されている、(注意せよ)、どれもが天界の形の姿の中に、そのことは無限の方法で行なわれることができき、整えられている。

(注意せよ)、なぜなら、低いスフェア、すなわち、世のスフェアの中に存在する、どれほど難解な、もつれた、いろいろなものであっても、それでも神メシアにより天界の秩序の中にもどされることができる、そうでなければ、どんなものも理解することができないで間は滅びるであろう、ここから、それでも推理することができるように的な流入がある。上から、すなわち、秩序にしたがって働きかけられる時、天界の楽園から地上の楽園へ扉開けられることが言われ、このこともまた「顔を向けること」である。「バビロンの混乱と天界の楽園を開けることについて」。

 

191a, 192aは『みことばの講解』5185, 5186番であり、そこには天使の全般的な活動が回転によって、特に旋廻によって行なわれる…などが書かれています。

author:yasubee, category:霊界体験記, 01:18
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