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原典講読『霊界体験記』 161〜163

原典講読『霊界体験記』 161〜163  (ブログ掲載20191025)

 

(1) 原文

161.  Praeterea edoctus sum, quod spiritus, genii, angeli sint inter se prorsus separati, secundum genera et species, quae innumerabiles sunt, et quod simul sint, et sua felicitate et jucunditate, quae diversissima est, fruantur, et quidem per repraesentationes, inde ad homines transmittuntur secundum omnem voluntatem ac permissionem Dei Messiae, ut iis convenientem operam praestent. Inde in Verbo Dei Messiae aliquoties mentio fit locorum, quae sancta fuerunt, angeli boni in locis delitiosis, lacunis{1}, amaenis pratis, etiam ubi sunt aquae limpidae et fluentes, at vero mali spiritus in stagnis et locis inamaenis.

@1 ms. lucanis

 

(2) 直訳

161.  Praeterea edoctus sum, quod spiritus, genii, angeli sint inter se prorsus separati, secundum genera et species, quae innumerabiles sunt, et quod simul sint, et sua felicitate et jucunditate, quae diversissima est, fruantur, et quidem per repraesentationes, inde ad homines transmittuntur secundum omnem voluntatem ac permissionem Dei Messiae, ut iis convenientem operam praestent. さらに、私は教えられた、霊、悪鬼、天使たちは自分たち自身の間でまったく分離していること、属と種にしたがって、それらは無数である、また一緒であること、また自分の幸福と快さで、それらは最もいろいろである、享受している、また確かに、表象(物)によって、ここから人間に伝えられる、すべての意志(願い)して神メシアの許しにしたがって、彼らに適合する働きを行なうために。

Inde in Verbo Dei Messiae aliquoties mentio fit locorum, quae sancta fuerunt, angeli boni in locis delitiosis, lacunis{1}, amaenis pratis, etiam ubi sunt aquae limpidae et fluentes, at vero mali spiritus in stagnis et locis inamaenis. ここから、神メシアのみことばの中に、数回(ときどき)場所の言及(記載)が生じる、それらは聖なるものであった、善い天使たちは楽しい(快適な)所の中に、しばの☆1、快い草原の、さらにまたそこに澄んだ水と流れがある、しかし、悪霊は池の中に、またいやな(不愉快な)2場所の中に。

1 しかし、おそらくlucanisであり、これをA.W.アクトンは「陽に照らされた杜」と訳しています。

2 inamaenis の正しい綴りは inamoenis です(なので注を付けるべきです)

 

(3) 訳文

161.  さらに、私、霊、悪鬼、天使たちは、自分たち自身無数であるにしたがってまったく分離していることまた〔人間〕一緒であり、極めていろいろである自分幸福さをまたかに、彼らに適合するきをなうために、人間えられる表象(物)によってすべての意志()してメシアのしにしたがって、享受していることをえられた

 ここから、神メシアのみことばのときどき、場所が言及されておりそれらはなるものであった、善天使たちは、陽らされた杜、快草原、さらにまたそこにんだれがある快適所にいる、しかし、悪霊不快場所にいる。

 

(1) 原文

162.  Quod etiam mirabile mihi visum est, erat, quod similia loca mihi nota facta sunt, ubi etiam cum iis loquutus, et quod iterum cum iis, quamvis centum milliaribus distarem loqui potuissem, quasi cum praesentibus, sed tantummodo id concedente Deo Messia, nam distantia nihil facit, de qua re aliquoties cum spiritibus loquutus sum, ac per visum humanum demonstravi, qui similiter ad maximam distantiam videt objecta absque distantia, sicut Solem Lunam, stellas, et quid non communicatio cum spiritibus, qui sunt intra naturam illam crassiorem, in qua est visus? Hoc{1} modo communicatio datur angelorum et spirituum etiam maxime distantium cum homine, praesentia eorum apud me, erat fallacia sensus, nam praesentia simulatur, quum spiritus affines sunt cogitationi hominis, qui nempe mediate et proxime administraturi sunt ea quae Deus Messias vult et permittit. Haec 1747, die 24 Aug. st. vet.

@1 ms. visus. Hoc〔手書き原稿は「visus? Hoc」でなく「visus. Hoc」です〕

 

(2) 直訳

162.  Quod etiam mirabile mihi visum est, erat, quod similia loca mihi nota facta sunt, ubi etiam cum iis loquutus, et quod iterum cum iis, quamvis centum milliaribus distarem loqui potuissem, quasi cum praesentibus, sed tantummodo id concedente Deo Messia, nam distantia nihil facit, さらにまた驚くべきものが私に見られたこと、〔驚くべきもので〕あった、似た(同じ)場所が私によく知られるようになったこと、そこでもまた彼らと話した、また再び彼らと〔話した〕こと、たとえ百マイル☆私が離れていても、私は話すことができた、あたかも(現に)るときのように、しかし、もっぱら(〜だけ)そのことは神メシアの許すことで、なぜなら、距離は何も行なわない(問題とならない)らである。

マイルはmille()に由来します。すなわち、千歩(左右で1歩、その千回分、約1,600mです)

de qua re aliquoties cum spiritibus loquutus sum, ac per visum humanum demonstravi, qui similiter ad maximam distantiam videt objecta absque distantia, sicut Solem Lunam, stellas, その事柄について、数回、私は霊たちと話した、そして、人間の視覚によって私は実証した、それは同様に最大の距離に向けて距離なしに対象を見る、太陽、月、星のように。

et quid non communicatio cum spiritibus, qui sunt intra naturam illam crassiorem, in qua est visus? また何か☆、霊たちとの伝達がない、それはその最も粗野な自然の内にある、その中に視覚がある?

わかりづらくなっていますが「伝達」はあります、それが次の「方法」です。

Hoc{1} modo communicatio datur angelorum et spirituum etiam maxime distantium cum homine, praesentia eorum apud me, erat fallacia sensus, この方法で、天使と霊との伝達が存在する、最大の距離ですら(etiam)、人間と、私のもとの彼らの臨在(居合わせること)は感覚の欺き☆であった。

「感覚の欺き」は通常悪い意味で使われますが、ここでは悪い意味はないようです。

nam praesentia simulatur, quum spiritus affines sunt cogitationi hominis, qui nempe mediate et proxime administraturi sunt ea quae Deus Messias vult et permittit. なぜなら、臨在(居合わせること)が偽り装われるからである、霊たちが人間の思考に似ているとき、すなわち、その者が、間接にまた最も近く、それらに仕える(処理する)ことになる、それらを神メシアが欲するまた許す。

Haec 1747, die 24 Aug. st. vet. これらは、1747924日に〔書かれた〕、旧暦。

 

(3) 訳文

162.  さらにまた驚くべきものが私に見られ、それは〔驚くべきもので〕あった。同じ場所が私によく知られるようになった、そこで彼らと話し、たとえ私が百マイル離れていても、また再び私は彼らと話すことができた、あたかも(現に)るかのように、しかし、そのことはもっぱら神メシアの許すことである、なぜなら、距離は何も問題とならないからである。その事柄について、数回、私は霊たちと話した、そして、私は人間の視覚によって実証した、それ〔人間の視覚〕は最大の距離に向けてと同様に、距離なしに、太陽、月、星のような対象を見る。また、霊たちとの伝達がないのはなぜか? それ〔伝達〕はその最も粗野な自然の内にあり、その中に視覚がある。

 この方法で、天使と霊との伝達が、最大の距離ですら、人間と〔の間に〕存在する、私のもとの彼らの臨在(居合わせること)は感覚の欺き☆であった。なぜなら、霊たちが人間の思考に似ているとき、臨在(居合わせること)が偽り装われるからである、すなわち、その者が、間接にまた最も近く、それらに仕え、それらを神メシアが欲するまた許すからである。

 これらは、1747924日に〔書かれた〕、旧暦。

 

「感覚の欺き」は通常悪い意味で使われますが、ここでは悪い意味はないようです。

 

(1) 原文

163.  De vita communi, qua reguntur bruta animalia, et ii homines, quoad aliquam partem, qui brutis similem vivunt vitam, alibi dictum videas [167]; sed usque nullus homo datur, qui non suos spiritus circum se habet; pauci sunt [cf.l60], quia communicatio non talis{a} est cum iis.

@a intellexerim tanta〔編者は「それほど多くのものtantus」と理解しています、直前に「少数paucus」と述べているので、これと対比して、この解釈はありえます〕

 

(2) 直訳

163.  De vita communi, qua reguntur bruta animalia, et ii homines, quoad aliquam partem, qui brutis similem vivunt vitam, alibi dictum videas [167]; 全般的ないのち(生活)について、それによって獣(bruta animalia)は支配される、またそれは人間を〔支配する〕、ある部分に関して、その者は獣に似た生活を生きる、他の箇所で言われたものをあなたは見る(接続)167番〕。

sed usque nullus homo datur, qui non suos spiritus circum se habet; しかし、何も人間は存在しない、その者が自分の霊たちを自分自身のまわりに持たない。

pauci sunt [cf.l60], quia communicatio non talis{a} est cum iis. わずかである〔160番参照〕、彼ら〔霊たち〕との伝達は「このようなものでない」☆からである。

ここは「私のものと比べて(これ補った方がわかりやすいでしょう)」(注にあるように)「それほど多くのものではない」とするのがよいと思います。

 

(3) 訳文

163.  全般的な生活について、それによって獣は支配され、またそれはある部分に関して獣に似た生活を生きる人間を支配する、〔それについて〕他の箇所で言われたものが見られるであろう167番〕。しかし、自分の霊たちを自分自身のまわりに持たない人間はだれも存在しない。彼ら〔霊たち〕との伝達は、わずかである〔160番参照〕、〔私のものと比べて〕それほど多くないからである。

 

◎『霊界体験記』翻訳上の(独特の)難しさについて 続き

 内容の難しさについて述べました、たとえば160番の「内なる感覚」です、このままでは何のことかわかりません、sensus の意味は「感覚」ですが「意味」という意味もあります。それで柳瀬は「内なる意義」(内意)と訳しています、これなら「わかる」からです。

さて、「外なる感覚」は私たちの身体に付属する視覚など五官と思ってよいでしょう。さて「内なる感覚」とは何でしょうか、書いてないのでわかりませんが、類推すれば、「見えないものを見る」といった視覚でしょう。例として「呉清源」の逸話を取り上げます(なぜかと言えば、私は囲碁に夢中でした)

 呉清源は戦後、一時、ある(新興)宗教に帰依していた(囲碁を打つのもその女教祖からの指示であった)。ところが、ある時、その女教祖が「キツネに見えた」、なので、そこから去った。

 読者の方々も、ある瞬間、ある人の本性を「見た」ような気がする、といった経験がありませんか? 詳しくは言いませんが、私にはあります。このようなとき「内なる視覚」で見たのではないでしょうか。

 霊や天使たちはそのような視覚を持っており、私たちにもときどきあるのでしょう。

 聴覚もそうであり「聞こえないものが聞こえる」または「内なる声が聞こえる」など、そうでしょう。

○結論:このようなことがわかっていないなら、翻訳は無理です。(霊の見える子」について、そのうちに話したい)

author:yasubee, category:霊界体験記, 01:02
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